美しい都市(まち)のレビュー・感想・評価
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刑とは何のためにあるのか
『別離』などで知られるイランのアスガー・ファルハディ監督の長編映画第2作。イランの司法制度の矛盾を赤裸々に描く作品で、緊張感ある展開で法とはなんのためにあるのかを問いかける作品だ。
16歳の時に罪を犯し、少年院に入れられているアクバルが18歳の誕生日を迎える。院の仲間がお祝いを開くが、アクバルは絶望している。なぜなら、イランでは18歳になると死刑執行が可能になるからだ。アクバルの親友アーラは出所し、アクバルの死刑を回避するため、育児で大変なアクバルの姉フィルゼーと一緒に、被害者の父親に許してもらうように頼みに行く。
量刑が被害者感情によって大きく左右されるらしいイランの刑法ならではのストーリーで、法制度と応報感情について非常に考えさせられる作品だ。法は厳格であるべきだが、イランでは被害者の感情1つで刑の執行を取りやめることができるらしい。日本人としては驚きだが、刑の本質は「目には目を」による応報で満足することであるのなら、ある意味では適切なのかもしれない。「赦し」の境地に人は簡単にはいたれない。ではどうするべきなのか。複雑な人間心理を社会システムの課題とともに、見事に描き切っている。
オフ・ビートなドロドロ愛憎劇。
背筋がゾッとする映画だった。
“人の思い“は、『法律』も『宗教』も『道徳』も、そして『金銭』もどうにもならないと言っている。
『罪と罰』の『ラスコーリニコフの贖罪』をオマージュしている。しかし、イスラム教なのでオマージュとは言わないか。
そして、小津安二郎監督からのオマージュも映像の何処かに見え隠れしている。
ネタバレあり
鑑賞後読んで貰いたい。
そして、俗っぽい言い方をすれば、男系社会に翻弄される女性たちなのかなぁ?主人公以外全て髭面。男の思いや行動に翻弄され、女性達は誰一人救われず。そして、静かに終わる。
『I always get what I want. 』とアーリー。でも、そうは問屋がおろさなかった。
あまりにも心理描写が深いので、どこかで一息をついて、この映画の続きをまたみよう。果たして、誰が監督なんだろうと。調べたらアスガー・ファルハディ。なるほど。
観賞後:
アーリ(バーバック・アンサーリ)が出所し、アクバーの姉フィルゼー(タラネ・アリドゥスティ)とアクバーの死刑を回避するために奔走するが、これが二人の恋物語のように描かれている。しかし、主旨はそこにあらずと思いきや、結局、アクバーの死刑 への決定権は二人にかかってきている。
アクバーに殺された娘を持つ父親、アボルガセム(ファラマルズ・ガリビアン)とアーリとの関係に興味がある。娘がアクバーに殺されたことにより、アクバーの死刑を望んでいる。18歳の誕生日を迎えたアクバーは鑑別所が移される。出所した友アーリはアクバーの赦免復権を願いにアボルガセムの家を何度も訪問する。アボルガセムはこの執拗さに疲れ、裁判所を再び訪問する。ここでのシーンに興味がある。アクバーが死刑になるのはいつになるかわからないわけだが、アボルガセムはそれをはやめたい。そうするには裁判所はYou have to deposit the blood money.と言っているのである。つまり、死刑に支払われる金をアボルガセムは支払わなければならないのである。それに、娘が殺されたのであるから、息子が殺されたのとは同じ金額ではないのである。私の理解では死刑に払われる金(blood money)は加害者と被害者は半々に払うということだ。アボルガセムは最愛の娘が殺されたのに、加害者が全て払うべき金の半分をアボルガセムが払うことに納得が行かないようだ。それに、娘と息子とでは『女は男の半分』になることも。裁判者ではこれはモスリムの法律で決められているとアボルガセムに改めて公言する。加害者も被害者も両方に責任があるようにモスリムは判断するようだ。日本の伝統的な喧嘩両成敗のような思想であるが、男と女の価値への理解がアボルガセムばかりでなく、最愛の娘を持ったなら、彼と同じく不平が残るだろう。
アボルガセムはアラーの神との信頼関係が崩れていく。娘を殺したアクバーを許すことができない。イマンが『神が死刑を取り下げるための嘆願書をあげよ』と言ったらどうすると、アボルガセムに尋ねるシーンがあるが、アボルガセムは『I am upset with God』と。自分の気持ちはアラーへの信仰が崩れていくのを感じている。
アーリの言葉は私の心に響いた。例えば、アクバーが死刑になっても、アボルガセムの心は救われないとよというシーンがある。私も娘がいるが、彼女に何かあって、加害者が死刑になったら、私の心は落ち着くだろうか。前のように心の平安が来るだろうか、救われるだろうか?疑問である。
それに、Instead of executing him, アーリーはアボルガセムにそのblood moneyをもう一人の身体障害の娘の手術のために病院の費用に使いなさいと。その方がずうっとこの努力・善い行いなどに対する報いが高いと。死刑に使う費用を助けに使うわけだから、私もそう思う。しかし、アボルガセムは後世のモスリム社会がこの行為によって、苦しむと。そして、抑圧者である(アクバー)一人が死んだ方が、他の人の役になると。アーリは『私の友はいい奴だ』とアクバーのことをアボルガセムに伝える。そして、アクバーの伝言をアボルガセムに。...........アボルガセムはとうとう赦免復権を願いを書くことに決心を。
しかし、ここからが、監督のパターンで、そうは問屋が降ろさない。あちこち付箋を敷いているので、もしかして、こういう結論になるのではないかと途中から想像がついた。しかし、映画の最後の方でそれが明確になった。
アーリーは美しい都市(Shahare-Ziba)へと言って、彼がいた少年鑑別所の理解のある看守Ghafooriに相談に行く。そして、『I always get what I want. 』とアーリーは看守にいうがここは付箋を引けないところになってしまう。アーリーはアクバーを助け出すことができるが、アボルガセムの身体障害の娘と愛のない結婚が代償となる。アクバーの姉であるフィルゼーへの愛を諦めなければならないのである。看守も、アボルガセムに説得に行くが良い返事はもらえず、その足で、フィルゼーの自宅へ。アーリーが何度もベルを鳴らしても、フィルゼーは出てこない。カーテンが開いているから、アーリーも看守もフィルゼーがいることを知っている。その間電車が通過するが、電車の隙間からアーリーがあきらめて戻ってくるのを見せて映画は終わりになる。監督はわざわざアーリが断念して戻ってくるのを撮影しなくてもいいと思った。結論は私たち視聴者に任せて欲しかった。私たち視聴者はアーリーが友達をフィルゼーが弟を見捨てることはできないと知っているのに、残酷な終わり方にしたと思う。
生殺与奪の権を握られている罪人、アクバーに情けをあげて、アーリーとフィルゼーに慈悲をあげることができない作品にしてしまった。
秀作です
友人アクバルを死刑から救うためには、アクバルに娘を殺された父親である原告から死刑を取り下げてもらうしかない。主人公アーラはアクバルの姉フィルぜーと原告の元へ説得に向かうのだが...
死刑制度、宗教、恋愛、障害者医療...いろいろな要素の詰まった完成度の高い映画です。いろんな人が登場しますが、みんなそれなりの(笑)人情があって、ところどころにちょっとしたユーモアも入っている。ファルハディ監督さすが。
題名の美しい都市(شهر زیباシェーレジバ)とは少年院のある場所の地名であります。ちょっとした皮肉。
フィルゼー役のタラネ・アリドゥスティ、監督の作品の準常連ですが美しいですねえ。
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