ブルーを笑えるその日までのレビュー・感想・評価
全3件を表示
木漏れ日銀河
雰囲気は好きだけど、色々勿体ないかな。
主人公のアンは孤立してるとのことだが、ユリと一緒にいる2人以外からそれを感じない。
クマのマスコットをわざわざ届けてくれる子までいるし。
ってか、あれを失くしたことが原因だとアンは言ってたけど、バスケ部の部室から出てきたということは…?
抱かせる必要のない違和感も散見された。
アイナと“銀河”を見た帰りにアンが鞄を持ってなかったり、2人が制服で下校してる時にユリたちが私服だったり。
終盤、ダイナマイトを何故か屋上で起爆しようとしたり、3mくらいしか離れなかったり。
演出やカット割も冗長さが目立つ。
特に川で何度も潜るところと、教室で万華鏡が割れてアンが(アイナが消えて?)呆然とするところ。
アイナ=愛奈=マナは中盤くらいで察しがつく。
ただ、それを本編では曖昧にしたままエンドクレジットで確定させる塩梅は好み。
キャストをそれなりの年齢で揃えたところも拍手。
ただ、逃げること自体が悪いこととは言わないが、逃げっぱなしで終わるのはスッキリしない。
何ひとつ好転してないし、愛奈のように好きなものを見つけたワケでもないし…一生逃げ続けそう。
とりあえず坂田くんは色々最低だったので、後で職員室まで来るように。
細部まで本当によく考えられた作品です!
①鳴き声の効果
RCサクセション『君が僕を知ってる』はすばらしいですが、それだけではありません。虫等の鳴き声も効果的に入れられています。外のシーン(昼)ではセミの鳴き声が入っていますが、ミンミンゼミの鳴き声は特に大事に使っているようです。ミンミンゼミの鳴き声は特に強く耳に響くということで、オープニングでは、出だしで「夏」を印象付ける目的で使われていると思います。またアンとアイナが出会うシーンでも重要なシーンでも季節(夏休みが近いこと)を示唆し、トイレのシーンではずっと聞こえていたミンミンゼミが、アイナの登場とともに消え、空間(次元)が変わったかのような印象を受けます。そしてアンが川に飛び込む決心をする瞬間は「飛び込む」「本心を打ち明ける」という気持ちの高まりを表現しているのでしょう。ちなみに川に飛び込んだ直後にはクマゼミの「シーシー」という声が大きく入り、少し緊張感や集中力を高めているように感じますし、セリフが始まるときには邪魔にならない程度に他のいろいろなセミや虫の声を入れて、大自然の中で心を開放している感を強めているのではないでしょうか。
また鶴亀商店が「休業中」の張り紙をしているシーンでは、カラスの鳴き声が入っていて、虚しさや空っぽ感を表現しているように感じます。そしてアイナの「また明日ね。」のシーンでは鳥のさえずりを入れ、温かな雰囲気が感じられます。
②アンと金魚
1匹だけ残った金魚を、アンはとても大切にしていますが、アンのセリフによると、以前は水槽がコケだらけだったそうなので、2匹いた時には関心がなく、世話をしていなかったのでしょう。1匹になってから急に世話をしだしたのは、そこに自分と同じものを感じたから。そもそも金魚(生き物)が特別好きなわけでもないように感じます。だから金魚のお墓に供花もお参りもしません(「死んでお花もらったって何になるの?」にも通じます)。国語の時間の後、アンがユリナが供花したお墓をやや冷たい目で見るシーンがありますが、「花なんて無意味」ということの他に、この死んでしまった金魚に対して、カムパネルラと同じように「友達をひとりぼっちにさせてしまった人(魚)」という捉え方をしていたのかもしれません。
作品冒頭のセリフにあるように、アンは生死を迷っているようですが、自分に見立てた金魚の世話をしだしたということは、やはり生きたいという気持ちの方が強かったのだと思います。そうやって金魚助けていると、自分にも救いとなる存在・アイナが現れたわけです。
➂矛盾するセリフとアンの決意
A:「夏休みが終わっても、アイナはここにいるよね。」
B:「これで学校がなくなったら、明日もアイナに会える?」
どちらも屋上でアンがアイナに言ったセリフです。Aは山田先生との会話により、アイナはこの世にいない存在(幽霊か何かはわからないが)と確信し(お菓子を持って階段を上っていく時、後ろからアイナを見るアンの目がこれまでになく険しい)、不安げなトーンで確認したセリフ。「ここ」とはアイナがいる場所=屋上(教材室)を指しています。しかし、このあとアイナが9月1日に飛び降りると聞き、夏休みを伸ばす方向にシフトチェンジ。夏休みが終わらなければ、アンは飛び降りず、引き続き会うことができると考え、ダイナマイトを用意し、Bのセリフ―というのが一般的な解釈としてまずあります。
ただ、本当にそれだけでしょうか。Aのセリフから、アンはアイナに会うには屋上(教材室)に来なくてはならないとわかっていたはずです。にもかかわらず、Bにあるように学校をなくしてしまったら、屋上も教材室もなくなるのですから、アイナの居場所はなくなり、もう会えなくなると考えるのが普通ではないでしょうか(カーブミラーのところで会うシーンもありますが、あれは学校が休みの場合のみの会い方だと思います)。「学校をなくしたいがアンにも会いたい」というのは、矛盾した願望であり、おそらくそれはアンもわかっています。
「このまま放っておいてもアンは飛び降りて会えなくなってしまう」、「学校をなくしてもアンの居場所がなくなり、会えなくなってしまう」。八方ふさがりになったアンは「自分も一緒にアンと死ぬ」ことを決意したのではないでしょうか。Bのセリフを言うときのアンは、目に涙をいっぱい貯めて、泣くのをこらえています。なぜでしょうか。本来、学校がなくなることも、アイナにまた会えることも嬉しいはずなのに。前述のように、アンは金魚を助けることで、「生」と「死」の間で迷いながらも、まだ生きる意志を示していました。しかし今、死を選んだことで、「本当にこれでいいのか」、「本当にまたアイナに会うことができるのか」という不安や「死=この世とお別れすること」への怖さ、悲しさ、寂しさなどがあふれてきたからではないでしょうか。つまり「明日も会える?」と言いつつも、実際には生きて明日を迎えることはなく、また会うにしても、死後の世界で会うことになります。アイナに「何?」と聞き返されたとき、首を振って言い直さなかったのも、このセリフ自体がナンセンスであると感じているからでしょう。
最後に屋上に上がった時、「夢みたいだった。」とこれまでの2人の交流を振り返っていること(学校を壊してあと、今後も引き続き生きて、同様に会うつもりなら、ここで今までのことを振り返る必要はありません)や、ダイナマイトに点火後、大して遠くまで逃げないことも、「死」を覚悟していると考えれば合点がいきます。耳をふさぎながら、もともと飛び降りるつもりだったアイナは、いつものように屈託なく笑みを浮かべます。それを見てアンは、複雑な笑みを浮かべます。印象的なシーンです。2人で飛び降りる方法を選ばなかったのは、アイナの夢を現実のものにすることで、最後まで2人で楽しく過ごそうとしたのではないでしょうか。
ただ、この場合、ババのメッセージ「生きてさえいればいいの。」は全くアンに届いていないことになります。武田監督は、「学生時代、大人に言われたことは、全く刺さらなかった。」とおっしゃっていました。そういうことなのかな、と私は解釈しています。
武田監督は昔自殺未遂をされたものの、今まで生きてきてよかったとおっしゃっていました。この作品の主人公にも1度「死」を意識させ、「未遂」に終わらせることで(監督は「誰も死なない物語を作りたかった。」とおっしゃっていました)、自身の経験をなぞりつつ、「生きていればいつかきっと」、「逃げるということは、死ぬということではない」というメッセージを、より強く伝えようとしたのではないかと思います。
④マナについて
マナ=アイナなのですが、ここでは大人になったマナの視点から考えます。中学生の頃、アンと出会っている時間、マナはおそらく「自分は未来に来ている」と分かっていたのではないかと思います(だからあの8月31日の夜、マナはどこで何があるかも分かっていて、箱を届けに来ました)。そしてあの図書館の司書となり、ずっとアンがやってくるのを待っていました。ユリナにくっついて図書館にアンがやってきた時、アイナは何度も見て確認しています。そして乱れた本を直しながら、なんだかとても嬉しそうです。
アンが図鑑を借りに来た時、マナは「万華鏡って、2度と同じ柄は見れないの。だからきれいなのかな。」と語りかけます。これは「今、楽しい毎日を過ごしているが、2度と同じ日はやってこない。そしていつか万華鏡を手放す時が来る。大切に過ごしてほしい。」というメッセージなのではないでしょうか。またベンチでの「2人はこれからもずっと一緒に旅を続けていく」という言葉も、当然万華鏡が壊れてアイナに会えず、落ち込んでいるアンを承知のうえで贈ったものでしょう。
ちなみに、図鑑を借りていったアンが席に戻るのを、マナは微笑みながら見ていますが、私はアイナ(昔の自分)も見えていたのではないかと思います。アンといる時のアイナは、ナツミ、ナオ、ユリナなど、敵対するような人にだけは見えていない(無視しているのではなく本当に見えていない)というのが私の解釈です。
ここまで書いてきて今さらですが、本当はアイナの存在の仕方については、深く考えすぎなず、ただ「不思議な存在」と捉えておいた方がいいのかもしれません。アイナのいる教材室の壁にも貼ってあります。「Don't think, feel.(考えるな、感じろ!)」と。
➄ババと万華鏡、魔法の呪文
万華鏡+「きらきらくるくる」の効果は「自分にとって1番必要な人に逢う」だと思います。店内のババが座っているところにある狸の置物。よく見ると「開運」と見せかけて「開逢と書かれています。実際にはこのような熟語はありませんが、新しい出会いが切り開かれることを暗示しているのでしょう。
魔法の呪文は、もしかしたら他にもあるのかもしれません。他の呪文を唱えると、違う効果が現れるのだとしたらちょっと面白いです。ババは、アイナやアンの状況から、「きらきらくるくる」の呪文が最適だと判断して教えたことになりますね。違う時期に万華鏡をもらった2人がつながったのは、ババの意図ではなく、本当にお互いがお互いにとって
必要な存在だったから結びついたのだと私は思います。
万華鏡を壊したアンが、「生きてさえいればまた会える」という自分の言葉を信じられずに、絶望して命を絶とうとすることもババは想定内。だからダイナマイトではなく花火を渡しました。そうすることでもう1度「生きろ」というメッセージを贈ったのでしょう。そういえば、ダイナマイトが入っている袋、なんだかプレゼントのラッピングのように見えませんか?
ダイナマイトの代金については、「老い先短いババアの店よ。」の理由で、またもらっていないのではないかと思います。そもそも、お客様の要望する品物を入れていないのですからね。
万華鏡が壊れてからアンが鶴亀商店にやってきたとき、初めて自分で扉を開けて入ってきています。「ここからは自分の力で人生を、運命を切り開かなくてはいけない」ということを象徴しているのではないでしょうか。
⑥ファミリークマ
鶴亀商店で少女たちが買ったクマのぬいぐるみです。色が関係性等を表しています。
〇ナツミ・・・赤(グループのリーダーであることを象徴)
〇ナオ・・・黄(色相環で赤と緑の間の色。つまりナツミとユリナの間にいる。)
〇ユリナ・・・緑(赤の対象色であり、アンに一番近い色。)
〇アン・・・青(まさに「ブルー」)
⑦アンの家族
現在公開されているバージョンでは削られていますが、アンの姉は成績優秀な医者の卵で両親にかわいがられ、アンは比較されて家にも居場所がないことが以前描かれていました。現在のバージョンでは牛乳を出すシーンが出てきますが、牛乳の量が姉に比べて少ないです。これは母が牛乳嫌いなアンのことを考えて少なくしているのか、それとも姉との差別なのか判断に迷うところです。ただ、勉強をするようプレッシャーをかけることは忘れていませんね。ちなみに母もパートの話から察するに、職場で弱い立場にいるようで、アンはこの母の方に似ているのかもしれませんね。
⑦その他
〇先輩図書館司書役である川隅奈保子さんの演技と存在感、素晴らしいです。彼女のセリフで、この図書館の雰囲気がとても温かく、マナが皆と協力しながら(中学時代とは全く反対ですね)楽しく働いてることが伝わってきます。
〇照明助手の松永太郎邦継さん、ご本名でいらっしゃるのでしょうが、エンドロールでとても目を引きます(木漏れ日の照明、素晴らしかったです。勝手にお名前を出してしまい、申し訳ありません)。
以上、今思い当たることを書いてみましたが、まだ書き洩らしがあるかもしれません。その場合はまた後日加筆したいと思います。この作品は見れば見るほど新しい気づきがあり、新たな感情が沸き上がってきます。ぜひ何度でもご覧ください。最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。BD販売、熱烈に希望します!
青が嫌いな少女の物語。ひとりぼっちで苦しんでいる中学生、高校生に見てほしい。
「死ねばこの苦しみが無くなる。わたしはひとりぼっちだ。誰も助けに来てはくれない。青なんて大っ嫌いだ」と思ってた監督自身の体験からのメッセージ。
◆アンがアイナの手をとって教室から走り去る場面が感動的だった。
◆以下、上映後の監督の舞台挨拶より。
生きていれば、嫌いだったブルーを笑える日が君にも必ず来る。今、君を取り巻く世界の外には、また別の世界があって、そこには君を受け入れてくれる人達が必ずいる。この2つのことを君にもを知ってほしい。
さらに監督は言う。もしあのとき助からずに死んでしまっていたら、ブルーを笑える日が来ることも、自分を受け入れてくれる世界があることも知らないままだった。だから生きていてほしい。今の自分はタイムマシンで戻って過去の自分に手を差しのべることは出来ない、だけど苦しんでいる今の君にこの物語を届けることが出来る。
その他もろもろ有ったが省略。
以上。
◆この映画がネットで見られれば、より多くの中学生、高校生に見てもらえるかもしれない。あと、武田監督が映画監督として有名になって ”あの大監督武田かりん” の過去作として評判になるのも有りだ。大監督になったあかつきには、このテーマで新作を作るのも良いかもしれない。健闘を祈る。
◆『愛にイナズマ』の終盤、映画監督役の松岡茉優が「映画撮る理由なんて分からない。とにかくこの心の中のモヤモヤを映画にしたかったのよ」というセリフにナゼか妙に納得して感動してしまったのを思い出した。
『ブルーを笑えるその日まで』には武田監督が映画を撮った明確な理由がある。しかし理由の有無に関係なく、映画が劇場で公開された現在は、心のモヤモヤを吐き出して少しスッキリしたという気持ちが有るかもしれない。
◆中学2年14才とか50年前で、遥か忘却の彼方の そのまたずう~っと向こう。断片的な記憶しかない。
あと、女子って面倒クセーと思った。僕が男子(という年齢ではないが)、男子だからそう思うのかもしれない。中学生の頃は女子のほうが大人だと思う。作家の花形みつる氏によると小学生男子は猿らしい。まあ、いじめに女子も男子も大人も子供も(猿も)関係ないが。
全3件を表示