イニシェリン島の精霊のレビュー・感想・評価
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コリン・ファレルは眉毛で語る
アラン諸島は、地の果てという言葉がぴったりくる場所だ。石灰質の岩盤で土がほとんどない。貴重な土が強風に飛ばされないよう、あのような低い石垣を延々と築いている。そこで生きていくことの大変さや、ろくな娯楽もない集落の閉塞感が容易に想像できる。
いろいろヤバい警官、退屈を持て余して人の手紙まで開封する雑貨屋店主、「地獄に堕ちろ」と叫んでしまう神父……濃すぎる住人たちが田舎の集落の息苦しさを倍加させる。
そんな場所で、生きた証を何も残さず死んでゆくことに、壮年のコルムはにわかに危機感を覚えたのかもしれない。
ここまでは、共感の余地があるドラマだ。
ところが、彼がパードリックの家に指を投げつけた瞬間から、俄然サイコホラー味が増してくる。約束を破られたからといって自分の指を切っても、困るのはフィドル奏者のコルム自身だ。不条理な行動の恐怖。
また、本土での内戦を遠景に架空の島イニシェリン島で起こる二人の男の諍いは、争いがこじれる理由を示す寓話のようにも見える。
最初は単なる意見の違いでも、伝え方を間違えたり意固地になったり、手違いで相手の大事なものを傷つけたりすると、それは果てなき怨恨へと変わってゆく。感情がそのように変質すると、決着のため始めたはずの争いが復讐に変わる。
万華鏡のようにさまざまな角度の見どころを持った作品だ。
アイルランドの風景の荒涼とした美しさが目に心地よく、ユーモアと皮肉の込められた台詞が楽しい。田舎の人間関係は息苦しいが万国共通のものを感じて退屈しない。物語がだんだん重くなる中、かわいい動物たちが癒しをもたらしてこちらの心を支えてくれる。
そして、何と言ってもコリン・ファレルとブレンダン・グリーソンの表情が素晴らしい。コルムの静かな狂気とパードリックが見舞われる不安、孤独。コリンの眉毛の表現力よ。二人の仲がこじれるほどに、ただのいい奴だったパードリックが歪んでゆく。その流れの自然さ、リアリティがすごかった。
ちなみに、とても愛らしく物語のキーパーソンならぬキーアニマルにもなったロバのジェニーは、動物プロダクションの社員かと思いきや、輸送などの都合で現地調達したキャストだそうだ。なかなかの演技達者だったのでびっくり。
オッサンの痴話喧嘩が教えてくれるもの。
オッサン同士のかなりシュールな痴話喧嘩を通じて浮かび上がるのは、個人と個人のすれ違いだけじゃない。ひとつの社会の中で起きる分断、それぞれが常識だと思っていたものの相違とぶつかり合い、そしてこじれ始めると留まることのない社会不和。騒動の当事者であるパードリックとコルムは、知性に欠けた愚か者と、どこかで相手を見下している教養人として登場するが、それもパードリックの妹シボーンによって、所詮は五十歩百歩だと暴かれてしまう。果たして本物の知識や教養があれば、バカげた諍いは避けられたのか。変化を求めない島の住民たちは、緩やかに滅んでいくのを待つだけなのか。明るい未来を求めるなら、シボーンのように、故郷を捨てて新天地を目指すしかないのか。経済的にも世相としても停滞感が色濃い現在の日本と、いかに似ていることかと悄然とした。そしてこういう複雑でヘビーなテーマをコメディの枠で作ってしまえるマクナドーの知性とユーモアには今後も注目していきたい。
終始全編ト-ンが暗く、パンチがスゲ-弱い感じ、何でこんなのノミネ-トかと思う。
雪が降ったり止んだり。
映画終わって劇場出たら 外の世界が真っ白だったら
やだな~と思いながらも 今日も劇場へ。
今日は「イニシェリン島の精霊」ですね。
※初日に観に行ってたけど 遅れてコメントです。(^_^;)
真っ先に感想言うと、何でこんな作品がノミネ-トの思い。
(他にも良い作品一杯あるやろと感じるけども)
オィオィまた意識高い系の奴らの仕業かいな~と思うわ。
資金回収がままならないのを見越して
先手で関係者に手を打ったんではと勘ぐってしまう・・・なぁ。
(闇パワ-な仕掛けを感じるぞ)
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追記:
イニシェリン島の精霊:THE BANSHEES OF INISHERIN(原題)
イニシェリン島:架空の島とのこと。
BANSHEES:精霊ではなく 妖精が正解らしい。
監督マーティン・マクドナー:映画より舞台演劇がメインで
アイルランド出身で活躍。
THE BANSHEES OF INISHERINの元となる 舞台劇作は、
本国では人気が全く無かった出し物。
それがこの映画ベースになっている様です。
アイルランドの内戦当時、離れた孤島内でも本島と同様に
小競り合いがあった事を表現しているのだという事。
背景は昨日まで親友であった者同士が、内戦により
引き裂かれて対立していくことを表しているそうです。
価値観、思考違いを根拠に 急によそ者扱い、疎外感を創って
この内戦に乗じていく話(意味不明的に)がベースなのでしょう。
問題は、こういった説明や、背景を一切映画内に示していないことが
問題と思います。
事細かに説明しない事が 新しい芸術性??とか
勘違いして評価しているのが事の発端かもしれません。
解り切っているだろうと解釈なく制作してしまって
結局、映画関係者等が事細かく説明しに
各SNS通じて投稿しているのが現状でしょう。
結局そのやってる行為自体を この映画内に求めないと
誰からも評価されないと感じますが。いかかですかね。
最近思う この人変わってしまったなぁ~と思える人
ウラジーミル・プーチン氏 でしょうか。
彼を指して揶揄してるとしたら それは面白いかもですね。
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MC:
パードリック(兄):コリン・ファレルさん
シボーン(妹):ケリー・コンドンさん
コルム(友人):ブレンダン・グリーソンさん
ドミニク(隣人、のろま):バリー・コーガンさん
久しぶりにコリンを観たな。相変わらず元気そうで良い演技を
感じました。
話筋----
1923年頃、アイルランドの小さな孤島・イニシェリン島が舞台。
パードリックはある日、親友と思っていた音楽家のコルムから
突然避けられて 絶縁を告げられる。
長年の友だと信じていたが、何故彼が突然そんなことを
言い出したのか理解出来ないパードリックだった。
なんとか取り入れられ様とするがコルムから一方的に
「これ以上自分に無駄話をして関わってきたらオレは
自分の指を1本づつ切り落とす」と怖い脅しの宣言を
されてしまう。それは 意味不明なヤツ同士のけんかの
始まりだった~。
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まあ、あれだね、この作品は観ても観なくても
自分の人生に何のプラスにも成らない内容でしたね。
島に警官がいて(ドミニクの父) 虐げられたドミニクを
かばって一晩 主が泊めたら
息子を帰せと 何故か理不尽に暴力的に殴られたところが、
何でヤネン・・・の思いはしたかな。
観てても ハリが無く全編暗いわぁ。
田舎の海辺で景色は良さそうなのだが、
いかんぜん天気悪ぅぅぅぅぅぅい。
どんよりし過ぎ。
それが この映画を物語っている。
急にオレに近づくな~話かけるな~ みたいなヤツ
居るかもだけど、話しかけたら自らの指を切り落として
相手の家のドアに投げる~
そんな事する どアホは普通いねぇよ。
そんな奇行シ-ンで ノミネ-トしたんじゃ無いだろうね~
家を出て行くシボーン。
店のおばはんも異常者的で、 手紙読む?勝手に?
怖すぎな島の住人で、誰でも引っ越しするよね
本島の方へね。
隣人や住人と 心通って暮らしていたかと思えば
突然180度変わって 避けられる この展開。
本描いた人の体験が元の様に感じますね。
昨今、スマホ携帯ばっかりで 会話がメッキリ減ると
こんな友人関係になるんかな。
最後は、指食べた主の飼ってたロバが死んで
怒り心頭で絶交友人宅を事前宣言し放火。
(なんやそりゃ(=_=))
犬は出しとけって言ってたから 逃げてて、
本人は中に居たけど、最終的に海辺に居て助かってて
友人宅は 全焼!
そして 微妙に仲直り ・・・なんだろうか~この展開。
”疑心暗鬼” その言葉そのまま的な内容でした。
もうちょっと脚本をしっかりさせて欲しい願いかな。
お金と時間ある方は
劇場にどうぞ!
忘れないように
譲らないとか、
許さないとか、
変わらないとか、
なんかよく分からない価値観決めて生きるの馬鹿みたい。
そうゆうこと忘れないようにしようと思った。
死神が見てる
これは反面教師にしなきゃ。
犬とロバの迫真の演技
静かな映画やなあ。大自然が美しい。
内容としてはこれは解説を読みたい。ドミニク一番気の毒。島の中で一番性格がよかったでしょう。
それにしてもなぜあそこまでしなければいけなかったのか…宗教的ななにかなのか?よく分からなかった。指痛すぎるし、ジェニーがかわいそすぎて…
家を燃やす時の犬とロバの演技すごかったなあ。え!そんなことしたらあかんのちゃうん!?っていう顔をしてるのがなんとも。
破局から始まる、深淵なる愛の物語
上映が終わって、なんだか涙が止まらなかった。多分劇場で泣いているのは私ぐらいだったと思う。
自分でも、なんでこんなに涙が止まらないのか、悲しいのか、嬉しいのか、辛いのか、泣いている理由さえわからないまま、ただ猛烈に心が揺さぶられていることだけは確かだった。
BGMのように、本土で繰り広げられるアイルランド内戦は、この映画の表層的なストーリーが戦争の暗喩であることを明確に訴える。
絶縁宣言という宣戦布告をきっかけに、手を打つ場所を探りながらも互いの感情が擦りあわず、泥沼の諍いに突入していく様は当に内戦だ。
元々友達だったから、尚更タチが悪い。
「昔は単純だった。敵と言えばイギリス人だったから」と警官は言うが、コルムとパードリックの訣別も同様である。
敵でもあり同胞でもある。相手の大切なものは自分にとっても大切で、相手が傷つけば自分も傷つき、どんどん取り返しがつかなくなっていく。
パードリックにとにかく黙っていて欲しいんだ、というコルムの主張を聞いて、パードリックの妹・シボーンは「イニシェリン島に無口な男を量産する気なの?!」と突っ込むが、ある意味それは当たっている。
中身のない与太話と下世話な世間話、退屈な会話しかないイニシェリン島に文化をもたらす。
音楽を愛し、考えることを愛し、思想について語り合う。その為に本土から来た音大生とパブで生演奏を行い、その為に一番の親友を絶縁するところから始めたのだ。気が良くて優しいだけの、馬の糞の話を2時間平気で続ける男だから。
これはコルムの革命で、コルムの独立戦争なのである。
パードリックが「優しくすること」の価値を猛烈に主張し、コルムの態度を批判し、「モーツァルトなんて俺は知らねぇ!」と啖呵を切ったとき、初めてイニシェリン島に信念を競う議論が生まれた。互いの信ずる道標を賭けて主張をぶつけ合った。
はっきり言って主張の論拠はメチャメチャだったが、「今までで一番面白かった」とコルムが認めるほど、対等な意見のぶつかり合いが萌した瞬間だったが、それはほんの一瞬垣間見えた奇跡だった。
根本的な土壌のないこの島で、議論は萌芽しても育たない。
舞台は1923年、「自分らしく生きること」より社会通念や世間の「そういうもんだから」の方が強い時代。
無口で愛想がなく、世間話をしないコルム。いい歳で結婚していない女のシボーン。島の中で浮いている2人のうち、コルムは己の生き方を貫くために革命という戦争を選び、シボーンは本土へと「亡命」した。
戦争(おっさん2人の絶縁)の中で、パードリックに失望しシボーンを失い、失意の中でドミニクは若い人生の幕を閉じた。
息子を失って初めて、警官は人の死は娯楽として消費されるような軽いものではないと知った。
コルムは音楽という文化を失い、家を焼かれ、パードリックはかけがえのない家族を失った。
革命から始まった内戦の後、休戦の海辺にコルムのハミング、イニシェリン島の精霊のメロディが流れる。
死を予告する精霊だけが、この戦争の意味を知っているかのように。
アイルランド内戦のメタファーとしてのストーリーはこんな感じだ。
一方で、「イニシェリン島の精霊」は破局の物語だと、監督マーティン・マクドナーは語っている。これが裏に隠されたこの映画のテーマだ。破局は愛のない場所には生まれない。
愛しているからこそ、愛だけではどうにもならなくなった時に、破局は訪れる。この破局の物語を理解するためには、コルムを理解することが必要なのだ。
コルム曰く、パードリックと絶縁する理由は「ヤツのくだらないお喋りに時間を取られて、人生を浪費したくないから」だ。
コルムは自分の芸術性を、思考の時間を、共に分かち合うことを求めている。それは即ち「自分を理解して欲しい」という欲求だ。
対して、パードリックが求めるのは「ただ側にいて優しく接して欲しい」という欲求である。
「悲しい時はロバを家に入れるんだ」と、ジェニー(ロバ)に寄り添われながらパードリックは言い訳する。言葉なんて、意思なんて通じる必要を求めていないのだ。
長年の友人でありながら、コルムとパードリックは求めるものが全く違う。コルムは大勢の人に囲まれていても、誰も自分を理解してくれないなら孤独を感じる。パードリックは例え動物でも側に居てさえくれれば孤独を感じなくて済む。
親友として、ずっと一緒に過ごしてきたからこそ、大切な人であるからこそ、その存在が自分の孤独を深めてしまうなら、それはコルムにとって絶望的なことなのである。
寄り添うことは出来ても、相互理解することは既に諦めている。だから、いっそ構わないでくれというコルムの願いは、信念を違えるパードリックには届かない。
よせば良いのに性懲りもなくコルムに近づき、結果コルムは宣言通り指を切り落とし、二人の諍いは温度差を保ったまま決定的となった。
この二人の関係性は、色んな人物の関係にスライドすることが出来る。パードリックとシボーンにも当てはまる。妹さえ側にいてくれれば孤独を感じないパードリックと、両親を失った孤独感や本の内容を分かち合えないシボーン。
ドミニクとシボーンもそうだ。ドミニクは優しくしてくれたシボーンに「付き合って欲しい」と告白するが、シボーンは「それは無理だと思う」と断る。
助けたり、親切にすることは出来る。だが、シボーンが求めているものもコルムと同じ、自分の気持ちや考えを理解してくれることだ。
兄やドミニクに「ただ側にいること」だけを求められる人生は、コルムが「退屈なお喋りで時間を無駄にする」ことを拒否したように、彼女にとってももう限界なのである。
この映画のストーリーが巧妙で素晴らしいのは、この救いようのない拒絶を生み出したのが、深い愛情である点だ。
思えば、コルムは「俺に構うなら、俺の指を切り落とすぞ」と脅す。普通は「お前の指を切り落とす」のハズ。なのに、自分の指なのだ。
パードリックを傷つけたくない、それはコルムの本心なのだろう。それと同時に、この脅しはこう言い換えることも出来る。
「俺に構うなら、お前の親友の指を切り落とす」
コルムとパードリックの間に、深い結びつきがあることは、本人たち自身が良くわかっている。口をきかないままでも、殴られたパードリックを馬車に乗せ、帰路の手助けをする。
話さないと決めたままでも、手綱を握らせ、その手を包んで励まし、そして別々の道へと別れていく。
側にいる孤独、誰も残らない孤独、どちらが悲しいのだろう。
愛する人と理解し合えない絶望、愛する人と一緒に居られない絶望、どちらが深いのだろう。
突き放すのもつきまとうのも愛で、コルムの愛情はパードリックがジェニー(何度も言うけどロバ)を失って絶望の淵に墜ちた時、暴力という形を取りながらも、最も強く現れていた。
パードリックの愛情は、全てを失い憎しみに燃え、諍う相手となってもなお、側にいて優しく親切にするのが自分の道なのだと訴えていた。
破局から始まり、どうしようもなく相容れなくて、どうしようもなく愛おしい。
そのあまりに大きな愛のうねりが、色んな感情をごちゃ混ぜにして、ただ涙となって溢れたのだと、今は思う。
皮肉な笑いを散りばめながら、葛藤と反復を詰め込んだ脚本は精巧で緻密で野心的。全編キッツいアイルランド訛りの英語も味わい深い。
原題は「THE BANSHEES OF INISHERIN」。死を予告する精霊は複数形だ。ひょっとするとイニシェリン島の島民は皆バンシィで、彼らが予告した魂の死に抗い続ける為に、コルムは生き延びたのかもしれない。
中年男二人の喧嘩だろうと、国同士の争いだろうと
突然、親友から絶交を。
思い当たる節ナシ。俺、何かした…?
似たような経験ある人もいるだろう。
若い時や子供だったら、絶交して仲直り。
でも、これが中年だったら…? 私情や相手の感情が複雑に絡んで、拗れに拗れ…。
1920年代のアイルランド。小さな島・イニシェリン島。島民誰もが顔馴染みで、これと言ってニュースも無い平和だが退屈な毎日。
牧羊家のパードリックの唯一の楽しみは、親友で演奏家のコルムとパブで酒を飲みながらお喋りする事。
だがその日突然、コルムから絶交を言い渡され…。
昨日まではいつも通りだったのに…。
それが、今日いきなり突然。
身に覚えないけど、何か気に障る事したっけ…?
ああ、そうか。これ、何かの悪戯か。
ところが、マジ絶交。
一体突然どうして…?
理由も分からなきゃ腑に落ちない。
理由らしい理由は言わないが、強いて言うなら、
お前が嫌いになった。
馬だかロバだかの糞の話で2時間。お前の退屈で下らない話にうんざり。
人生は限られている。老い先も長くはない。自分の思想や音楽に時間を費やしたい。
だから俺に近寄るな。話し掛けるな。
もし話し掛けたら、自分で自分の指を一本切り落とすとまで…。
幾ら何でもそんな異常な事しないだろう、ただの脅しだろうと思っていたら…((( ;゚Д゚)))
それくらい決心は変わらない。
理由は一応分かるような、分からないような。納得いくような、いかないような。
自分の貴重な時間、自分の好きな事やりたい事に捧ぐのはいい。私も日々の生活の中で、もっと映画鑑賞出来る時間が設けられたら…。
でも、友人らと会食して他愛ないお喋りするのも好き。
だから、どっちの言い分も…。
なので尚更、う~~~~~ん……………。
主にパードリックの視点から語られる。
突然親友に絶交を言い渡された彼の情けなさや哀愁と言ったら!
それがコリン・ファレルの八文字眉毛にドンピシャ!
何か同情もするけど、滑稽に見えてくる。それとちょっと鬱陶しさも。
色々言われたのに、その都度その都度コルムの前に現れたり、話し掛ける。
未練たらたら。元カレか!
コルムが他の人と親しげに話しているのを見たパードリックの何とも言えぬ表情(八文字眉毛がますます絶好調!)とその哀しい背中。
親友が自分じゃない誰かと楽しげに話しているのを見たら、誰だってジェラっちゃうわな。
情けなさ、滑稽さ、男のジェラシー、哀愁…コリン・ファレルにこんなにもだめんず役がハマるとは!
冷たく感じるコルムだが、一概にそうとも言い切れない。
彼の側から見れば…、確かにパードリックってちと面倒臭そう。馬だかロバだかの糞の話を2時間なんて、そりゃあコルムでなくとも聞きたくない。
自身のオリジナル曲“イニシェリン島の精霊”を奏でている時の安らぎ。
パードリックは気のいい男かもしれないが、コルムは思慮深い大人なのだ。
一切何もかも拒絶という訳じゃない。
あっちがしつこく話し掛けてきたら、仕方なく話してやる。勿論その後は…((( ;゚Д゚)))
パードリックが暴力クソ警官に殴られる。その場を助ける。
絶交を言い渡したけど、相手が困ってたら手を差し伸べる。
近寄りがたいような、情滲み出すような…。ブレンダン・グリーソンの名演。
何だよ、やっぱ友達じゃねぇか!
でも、それはその時だけで、変わらず絶交。
もう、訳が分かんねぇよ!
パブでコルムが他の人と話している所へ、酔った勢いに任せて…。
しっかり者の妹シボーン(ケリー・コンドンが印象的)や“新しい友達”のドミニク(バリー・コーガンが巧演)の手助けを借りて、丸く収めようとするのだけれど…。
突然拗れ、さらに複雑に拗れた人間関係ほど修復難しいものではない。
中年男二人の絶交ブラック・コメディが、ヒリヒリするような展開へ…。
未だ『スリー・ビルボード』が強烈インパクト残るマーティン・マクドノー監督。
『スリー・ビルボード』ほどの強烈インパクトは無く、ましてやメチャ地味な内容だが、視点や人物描写などハッとさせられるものも多く、語り口も不思議と引き込まれ、またまたその手腕に唸らされる。
島の風景が美しい。だが絶景というより、何処か寒々として、主人公二人の関係性を表しているかのよう。
作品のモチーフに、アイルランドの精霊・バンシーがあるという。人の死を泣いて叫んで予告する。
次第にその影が忍び寄るのは、うっすら肌で感じる。
が、日本人からすればいまいち分かり難く…。
結局絶交の理由も曖昧なままで、ちとモヤモヤ感が…。
きっと本作は、それを求める話じゃない。
てっきりドミニクがキーパーソンとなり、島でバカ扱いされるドミニク。パードリックもちとバカ思考があり、彼と友達になりたいドミニクが、仲を引き裂いて…。
なんて退屈で下らない話を予想した私こそバカの骨頂。
終盤にもなって、ようやく本作の真意が分かった気がする。
島から自由になりたいシボーンは本土へ。
ドミニクとは親友になれなかった。
親友を失った事をきっかけに、どんどんどんどん身の周りが寂しく…。
極め付けは、愛ロバの死。その死因は…。
もうそこに気のいいパードリックは居なかった。
コルムに言い渡す。明日の2時、お前の家に火を付ける…。
端から見れば中年男二人の些細な痴話喧嘩かもしれない。
が、当人たちにとっては大問題。突然の不和から、修復不可能な諍いへ…。
それは暗示されている。作品内でも何度も挿入。この島にも砲撃音聞こえてくる本土の内戦。
諍いや争いなどは、何がきっかけで起こるか分からない。
あっちには是でもこっちには否で、その逆も。
世の中、当人たちにとっては信念基づくが、不毛な争い続く。
絶え間なく続く国と国の争いだろうと、内戦だろうと、男二人の喧嘩だろうと。
分かり合う事は出来ないのだろうか…?
話し合う事は出来ないのだろうか…?
ラストシーンの二人の会話が、それら問題を提起する。
もうすでに遅かったこと。
美しいが、どんよりと雲の下で、そして閉鎖的でとても退屈なイニシェリン島。
突然付き合いを断れれた男、付き合いを断った方はとてもかたくなで友だちと口を聞かないために多大な犠牲を生み出し続ける。
対岸のイギリス本島では戦争、内戦。
雰囲気は伝播して、なにかに加担させられる。
退屈な日常、ずっと単調で退屈だったが急に音楽を、曲を残そうとする男。彼はそこに留まりなにかを成し遂げることを口実に友達をかたくなにこばむ。
これまでの自分の人生を否定するために友達を拒むように見える。
純朴で2時にパブに行く以外さして用事もない毎日に疑いも不満もなく朗らかに暮らす男。友達に拒まれはてと考えたりするがそこには問題は見られない。
島で最下層のバカ扱いされてる若い男も親父に虐げられているが二人の男の諍いに自我や自意識が生まれてくる。
ファンタジーなのか。大きな世界の縮図を小さな島に小さなサークルに置き換えるとこのくらい馬鹿馬鹿しいということか。
妹は本を読み本から外界、島の外、海を渡ったその先と繋がりを持っており、この流血の事態の中兄をおいて爽やかに毅然と島を出る。船を見送る兄も迷いもなく淡々と。ちょっと寂しいけど。
自由も未来も自分で行動し勝ち取るもの。妹は誰も非難せずに我が道を行く。
そしてこれからも男たちはパブに集まり善意も悪意もない噂話をするだろう。
自分も「考える人」になって観ないと気づけない
2人の争いは同時に起こっている内戦の比喩なのでしょう。
指を切り落とすのは明らかに異常な行動だけど、あれほど拒絶されているのにしつこくつきまとう方もまた異常。
彼らの行動は異常なのに、そこに至るまでの彼らの気持ちには共感してしまう部分もあって、状況によっては誰しも異常な行動をとってしまう可能性があるのかな…?と考えてしまった。戦争の始まりも、最初はこういう感じなのだろうか。
パブの店主の「彼(コルム)は考える人だ。彼女(パードリックの妹)も考える人だ。お前(パードリック)は違う。いい奴だが、考えない人だ。」というセリフはあまりに的確で、スッキリした。
考える人は、考えない人と一緒にいるとフラストレーションが溜まり、いつか耐えきれなくなる。いい奴だけど「考えない人」であるパードリックは、相手の苛立ちや悲しみに気づけないから、本当の意味では「いい奴」ですらない。(可哀想だけど)
美しいけど閉鎖的で退屈なあの島で、倫理観のイカれた暴力警官や、不気味な老婆、嫌味な売店の店主に囲まれながら死ぬまで暮らしていかなければならない。
そんな中でこれからの人生について考えた時、パードリックから距離を置きたいと思ってしまう妹やコルムの気持ちにも共感できた。
気を抜くと気付けないような些細な描写が実はそれぞれ意味を持つ、繊細さがとても良い映画だった。
きっと自分も見逃している事が多いだろうから鑑賞した人達の色んな考察が聞きたくなる内容でした。
私には向いてませんでした。
戦争の不条理さや人間の愚かさを表現したいのだと思いますが、それっきり丸投げで救いが描かれてなく、伝わってくるのは人間に対する絶望感だけでした。この作品を高く評価する人を否定するつもりはありませんが、私は映画に救いや希望や感動などを求めるタイプなので、問題提起や批判だけしてオチもなく終わってしまう類の作品は好みではありません。あと、ストーリーの奇抜さが私の許容範囲を超えていました。
今までに見たことない復讐エンターテインメント!
東京国際映画祭にて鑑賞。
やられたらやり返すのではなく
やられても、相手にぶつけない
今まで見た復讐エンターテインメントを
大きく外してくる、
報復について深く考えさせられる映画でした。
ウクライナ情勢が叫ばれた2022年の公開に
相応しい時代を象徴する映画だったと思います。
アイルランドのイニシェリン島という
田舎や離島ならではの人間関係の煩わしさ
狭いコミュニティで起こる悪意と連鎖が、
非常によく描かれていました。
この鬱屈とした状況に辟易して島を出る
主人公の妹の気持ちが痛いほどわかります。
日本でも共感する人は多いのではないでしょうか。
日々の鬱憤を他人にぶつけてしまった
自分の中で消化できない
そんな自分と映画の人物を対比させてしまい、
エンドロールのタイミングで、自然と涙が出ました。
アイルランドでは大変評価が高いとのことですが、
派手な演出がなく淡々と展開されるため、
日本では賛否が分かれると思います。
1923年のアイルランド内戦時代を描いたとのことで、
100周年という意味でも今作られるべき映画だと思いました。
むしろホラー映画
(部分ネタバレ)
民話の宝庫アイルランド。
想像力が豊かなケルト人。
マーティンマクドナー監督の映画を見るとそれが納得できる。
劇作家だったが映画業へ乗り出すと寡作ながら高品質で注目されスリービルボードで時の人になった。
不条理なブラックユーモアと紹介されていて、生ぬるい共鳴をはじき返すようなストーリーをつくりだす。
たとえばスリービルボードで言うと、さいしょ観衆は娘を失ったヘイズ(マクドーマンド)に同情を寄せる。だけど露命のウィロビー署長(ハレルソン)にも同情の余地がある。
生ぬるい共鳴をはじき返す──とは、観衆がシンパシーを寄せる人物が変転したり複合したりするような両義性をもつという意味だ。同様に一元な憎まれ役も存在しない。
そんな善悪の定まらない人物配置を寓話の気配が覆う。
非情であったり残酷であったとしても人の営みを高みから眺めているような滑稽さがある。
イニシェリン島の精霊もそんな話だった。
日本語で精霊というとおとなしい印象だがBansheeは恐ろしい存在らしい。
旧世代で洋楽をかじった人ならSiouxsie And The Bansheesをごぞんじだろう。奇矯な格好で奇声をあげるイメージが残っている。
Bansheeで検索すると、どの画像でも邪教のようなマントを羽織りフードをかぶった女が絶叫している。
『バンシー(英語: banshee、アイルランド語: bean sidhe)は、アイルランドおよびスコットランドに伝わる妖精である。人の死を叫び声で予告するという。』
(ウィキペディア:バンシーより)
映画にもBansheeとおぼしいお婆さんが出てきた。マント姿で水死体を引き寄せる鉤のついた杖を持っている。町民の命運をつかさどる、ありがたくない案内人だった。
イニシェリンには美しい自然が広がっているが、娯楽と言えばパブくらいで、見知った者どうしがぎすぎす生きている。遠くで内戦をやっていて風向きによっては音が聞こえる。島生活は平和だが退屈だ。眺望がよくのんびりムードなので、安楽な気分で見始めると、苛烈な表現に度肝をぬかれる。
パードリック(ファレル)は長年の友人であるはずのコルム(ブレンダングリーソン)から突然絶縁されてしまう。理由も分からず動揺を隠せないパードリックは妹のシボーンや隣人ドミニクの助けも借りて何とかしようとするも、コルムから「これ以上自分に関わると自分の指を切り落とす」と言い渡される。
コルムは器用で才能がある。パードリックは善人だが退屈だ。
コルムはパードリックと馬鹿話をしながら無為に過ごすことで、後世に名が残らない人生に嫌気がさし、友人関係を絶つことにした──とパードリックに説明する。・・・。
海外評からは悲劇と喜劇/ユーモア/ウィット/哀愁/ほろ苦さなどなどの言葉が多数見られたが、個人的にはアスターのようなホラー映画と言って過言ではなく、たいへんなストレスをおぼえた。
そもそも“指を切り落とす”というのがはったりでも比喩でも言い回しでもない。
むろんそれがはなはだしく誇張されたユーモアだというのはわかる。全体として滑稽な寓話になっているのもわかる。
ただ、わたしは片手全指を切り落とすコルムの極端な思い込みにある程度の現実味を感じた。やるやつはどこまでもやっちまうもんだし、人間関係だって脆いもんだ。良好にみえる人と人どうしが、ふだん互いにどんな気持ちで接しているのかなんて解らないもんだ。
──と同時に、友人から絶縁され妹にも出ていかれ島にとりのこされたパードリックの気分を共有して暗澹たる気分にもなった。
退屈なわたしはパードリックと同様に、唯一の友だったロバにも先立たれ、ひとりぼっちで毎日黒ビールを飲んでくだまいて孤独死する──ようなもんだろう。わかりきった将来とはいえ気持ちが落ち込んだ。転じてたいへん見ごたえがあった。
現実ではグリーソンよりファレルのほうが器用だろう。ファレルはイケメンもマッチョもランティモスもKogonadaも何でもこなせる。本作では、あの太眉が八の字を描き、困り顔が真に迫った。マクドナー作品やロブスターなどでも感じたが華やかなスターが完全に庶民の顔になれるのがコリンファレルのすごさだと思う。
またバリーコーガンがえぐいほど上手だった。ゴールデングローブとアカデミーにノミネートされた他、幾つかは受賞したそうだ。
なおイニシェリン島の精霊は絶賛され、多数の賞をとった。
英語のウィキにはList of accolades received by The Banshees of Inisherinというサイトがあり56のアワードや団体での選出やプライズが列挙されている。
芸術家のエゴ:コルムが監督の言いたいことを代弁していると思う。
これだけ深くて幅広い見解の映画は久しぶりだ。監督が我々に幾重にも問題意識を与え、監督の見解がコルム(ブレンダン・グリーソン)を通して現れているように思う。なぜこの三人三様の登場人物が必要だったんだろう。この三人がどう監督の主題に結びついていくのだろう。監督の言いたいことはなんなんだろう?と考えてみた。芸術(コルムは音楽、監督は映画)は批判、爆発的なもの、悲劇、不確かなもの、奇妙なこと(ここではバンシー)など
を加えて、一つの作品に仕上げることができ、それがコルムの言葉を借りると、50年よりも先まで賛美されるようなものを作り上げることできるようになるということだ。それは例えば、指を切り、それらをパードリック(コリン・ファレル)の家のドアに叩きつけたり、気の弱そうな無知なパードリックに意味もなく絶交をしたりする。そして、それにパードリックのドンキー、ジェニーがコルムの指を食べて死ぬようなブラック・ジョークも加える。芸術家の仕事の出来具合は、賞を取ったという形だけでなく、人々が作品にどんな形で感動して覚えていてくれるかによると監督もコルムも思っているようだ。それが名作として歴史に残り、名をなす。それに、コルムや監督からしてみると、ここでの主役パードリックの存在は重要で、芸術上『言い訳』のように利用していると思う。パードリックを主役にして同情が集まるようにすることも、登場人物を複雑に噛み合わせる手法ではないか。つまり、芸術に対する創造力を見せるためパードリックをコルムと比較する存在として利用したということだ。確かに、音楽、詩、絵画などの芸術は永遠のものだ。今だって18世紀のモーツアルトを奏でているからね。パードリックの無知や戦争は全ての芸術を破壊する。コルムが「私のことは50年経っても誰も覚えていない。でも、芸術は50年経っても人々に残るもの」と。監督もそういう作品を作りたいのではないか。ここに監督の主題があるのではないか?
主題に付属するように副題として、島国の小心者、パードリックと芸術家で教養のあるコルムとパードリックの妹で、島でのやっかいに見切りをつけるシボーン(ケリー・コンドン)の三人はそれぞれの生き方を選択肢として我々に提示してくれている。それに、コルムとパードリック(敵対する同じ民族を象徴)の二人の状態はあたかもアイルランド内戦を象徴するかのように。タイトルのバンシーは大声を出して死を予告するアラーム(ドミニックの死)だ。二人はこの死(内戦)を避けているように映画でセットされているこれは死(内戦)を免れているが、犠牲になった人はドミニックである。アイルランドの内戦、また戦争における犠牲者は一般市民ドミニックのような人。
テーマの多い作品だね。ーー(レビューのまとめ)
余録
下記は私の心の動きを書いたまでだ。
パードリック(コリン・ファレル)がコルム(ブレンダン・グリーソン)に何かしたならしたって言ってくれ、子供のようだよと問いつめているのを見ながら、なぜコルムが急激に変化して行ったのかが気になった。昨日まで友達だったんじゃないの?パードリックは何もしてなさそうじゃないか?今までのように話せよと思った。真面目そうなパードリックを見ていると友達を失ってしまったことを悩んでいるので気の毒になった。
隣人ドミニク(バリー・コーガン)がパードリックに妹シボーン(ケリー・コンドン)の裸を見たことがあるか聞くシーンがあるが、パードリックはないと言い、妹は本を読んでいると言った。この辺から、ドミニックは読書は別世界と思っていそうだし、パードリックもコルムのこともあるが、妹の趣味にも噛み合わなさをみせる。
1923年、4月....
妹がパードリックに「一人で寂しくなったことがあるか」とか、「今悲しい本を読んでいるんだ」とか言うとパードリックの答えは妹の感性と噛み合わないのがよくわかる。パードリックは妹のレベルで物事を考えられない。でも、優しくて人が良くて誰にでも声をかけるんだよ。
私は何か合点がいかず、変だな変だなと思っているうちに、コルムも妹が感じているフラストレーションを持っているとわかる。妹の場合は無知な兄のことをよく理解しているようだ。しかし、コルムがパードリックのことを『dull』 といって、「わかるだろう?」というがパードリックの妹、は返事をせずバーを飛び出す。賢い妹のシボーンはこれで何が起きたかを理解する。
コルムの部屋はパードリックの部屋の内装とは違って、蓄音機、マスク、能面のようなものが飾ってある。当時としては芸術のセンスがあるようだ。音楽の才能もあるし作曲もする。バーで歌ったり、演奏することにより、村の人々を楽しませることができる。芸術家で、彼は自分の才能を謳歌させたいようだし、内戦状態でいつ自分の住んでいる島にも波及するかもしれないという緊迫感から、老い先短い、今を生きようとしているのかもしれないと思った。
コルムとパードリックの会話は、目的のない会話(aimless chatting)と普通の会話(normal chatting) と説明されてる。これはコルムの言葉だと記憶する。才能がある人は自分の人生で毎日お茶飲み友達がするような『目的のない会話』を楽しむ気持ちがないんだね。二人の価値観は全く違う。二人の人間性をそれぞれに動物を使って例えている。
パードリックはジェニー(ドンキー)とコルムはサミー(いぬ)、この比喩表現で二人の違いを表しているのは明らかだ。
しかし、狭い島国での世界で何を言ってるのと、納得して初めは見ていた。ケン・ローチの「ジミー、野を駆ける伝説(2014)」のようで、島国の人々の人間性を変えるのは難しいなとも思った。それに、徐々にパードリックの執拗さにもうんざりしてきた。あの多弁なコリン・ファレルが太い眉を上げ下げして真剣に悩んでいる演技が本当に上手に見えた。
また、コルムが指を切ってドアに投げつけるなどと衝撃的で、話が異様な展開になっていく。冗談っぽくも聞こえたが、真剣そのもののようにも思えた。また、ジェニーがコルムの指を食べて死ぬなんていう冗談にも疲れてきた。それに,老女、マコーミック(バンシー:シーラ・フリットン)が現れて、人に死を予告するし、薄気味悪くて興醒めした。
自問自答だが、あくまでも私感である。
1)このストーリーが2023年代のアイルランドとどう関わってくるか?
最後、海辺でアイルランド本土を見ながらコルムがパードリックのジェニーに同情する言葉。また友達になろうというような言葉の自己満足さ。これをアイルランドの内戦に例えていると思った。コルム「戦争は終わるだろう」パードリック「また、すぐ始まるよ。でも、何か先に進んでいることがあるよ。それはいいことだね。」二人は停戦のようだが、個人の喧嘩はいつまた起きてもおかしくない、戦争のように。この二人の喧嘩はアイルランド内戦と同じで少しはよくなるが続くだろう(北アイルランド[UK}とアイルランドの問題はずうっと続くわけだから)とパードリックが二人をアイルランドとの関係に例えている。このシーンはパードリック考えているので賢そうに見えた。(You don't thinkじゃない)
2)閉鎖的な島国で生きてきた人間、パードリック、コルム、シボーンという三人を登場させた監督の意図は何?島国で生きていく代表的な人々の縮図かもしれない。
パードリックのように人間、自然、動物との交わりに感謝して生きてきた人間。退屈そうだけど、この島で生きている(しか生きていけない)人。
コルムのように島に生きていても、何かを学び取ることができる人。芸術一般を愛し、作曲、指揮などまでして、自分の教養を高める(高めたい)人間。意固地になり、自分に満足がいくまで突き進む人間。許容はなく、すべての指を切り落とし、満足感に浸るまで、自己を追い詰め表現する。そして、一番最後のシーンでもわかるように、彼にはまだ声が残っているというのを見せるかのようにコルムは歌い出す。これでこの映画の話は終わる。複雑で狂気的な心境はまさに理解できないが、奇行、モーツアルトや聴覚障害者、ベートーベンなどと同じようだ。ベートーベンは耳が聞こえなくても作曲し指揮をした。モーツアルトの人間性も異常なところがあった。またはゴッホが片耳を切り落としたというように究極にむかっていくおそろしさ。それに、コルムの指を切り落とす言動や行為から村人に衝撃や不快感を与えるという、薄気味の悪さ。例えば、モーツァルトの狂気状態をコルムが代弁していると思わせる。これは芸術家の究極的な満足感?指がなくても、指揮ができる。歌える。
シボーンのように問題意識があり、島国での生き方や、関わり方に嫌気がさして新天地に向かう人間。Island Fever (Cabin Fever)のようなもので、閉鎖的な環境では窒息しそうになるから出ていく。
余録:バンシーという悲劇的な伝説との関わり。私の生徒にアイルランド人がいたので、バンシーの昔話を聞いてみた。色いろな説があるらしいが、黒か緑のような服を着て髪を長くした老女。そして、大声で叫び人の死を予告する。
神話では戦争の神でもあるらしい。老女、マコーミック(バンシー:シーラ・フリットン)はここでその役をする。
不思議な映画でした。
爺さんたちの仲違いを描いた映画で、ボーっと観てたらほんとによく分からない映画だと思います。
説明も少く、特にコルムの行動(指切ったり)などがさっぱり分かりませんでした。
寝る前に観たので、もやっとしながら寝ててら明け方に、おーっと突然気が付きました。パードリックも知的障害者だったんですね。
コルムの行動が全て納得行きました。すごく良い人だったんですね。
こう言うじわっと後からくる作品が賞を取るんでしょうね。
すごい重かったし辛かった
タイトルでちょっとしたファンタジーかと思って鑑賞w
でも、おっさん同士の喧嘩からの仲直り感動映画かな?あー、ヒューマンドラマねー、ってなってからの〜終わってみたらアイルランドの内戦描いた映画やん!
結局のところ自分のことしか考えてない結果が招いた争いなのかなと。
コルムも合わないなと感じても言い方とか距離の取り方を間違えなければ芸術に費やす時間だってとれたし、パードリックも嫌がらせやコルムが指を切ることなんてなかった。それに周りの人達もただ傍観せず仲裁に入ったりしていれば、結果は全然変わっていた。
そしてやられたらやり返す。どちらかが死ぬまで終わらない。
永遠に続く復讐劇。
相手を思いやる気持ちを常に持って行動すれば戦争は起こらないのかな。
とにかく終わってからも、なんかずっとモヤモヤ考えさせられる映画やった。
ってか、ジェニーが可哀想やった😭😭😭
面白かった
後味の悪さをゴールとして作られた作品だが、この内容なら勧善懲悪の方が私はスッキリした。
それはおそらくブレンダングリーソン演じるコルムの役どころが、作中の騒動の大半の原因を占めているところにある。
劇中でもコルムに対して「12歳のガキ」「イカれてる」などと冗談めかして揶揄している場面があったが、残念ながら揶揄でもなんでもなく、その両方とも正しい評価であることがまたなんとも言えない。
正直この映画の好ましくなかった点は、ほとんどコルムというキャラが一人出しゃばってしまっているところにある。
それ以外は全体的に良かった。
以下、好ましかった点と好ましくなかった点。
好ましい点
・ケリーコンドン、コリンファレルの演技
ケリーコンドン演じるシボーンは、小さな島で狭量な兄や島民に囲まれる、孤独感の強い女性である。
ややヒステリックで感情の振れ幅が大きいケリーコンドンの演技は、如何にも「田舎の独り者の女性」といった雰囲気で、シボーンというキャラクター性に非常に説得力と存在感があった。
コリンファレルの演技もまた素晴らしい。
顔立ちがやや精悍過ぎるせいか、あまりアホっぽく見えないのが残念だが、持ち前の演技力で、朴訥で脳みそが足らない中年男性を見事に演じきっている。
中盤で警官から殴られた帰り道、情けなさが急に湧き上がるように涙を流す場面は、あまりにも痛々しくて最高だった。
・舞台背景に沿った脚本
本土で内戦中のアイルランドと、島での小さな諍いという対比が、劇中において皮肉の効いたスパイスとなっている。
内戦が終わると同時に、パードリックとコルムの諍いが殺し合いに発展する事を匂わせるオチも、非常にアイロニーに満ちている。
「俺たちの戦いはこれからだ^^」と、打ち切り少年漫画のテロップを貼っても違和感がないくらいには、後味の悪さを残せたのではないか。
好ましくない点
・バンシーという存在を活かしきれてない
この映画はバンシーという人の死を予告する精霊をモチーフに描いた作品のはずだが、肝心の死の予告という設定がイマイチ弱い気がする。
カルトじみたBBAが、「今夜二人死ぬお^^」と根拠のない妄言を吐くだけで、誰も以後その事について触れない上に、肝心の予告も当然の如くハズレ。
「何故外れたか明日までに考えてきてください^^」と言わんばかりのオチだが、正直考察して作品の見方がガラリと変わるほどの設定でもないと感じる。
劇中で「誰が死ぬんだろう?」の疑問を観客に植え付ける以上の働きをしていないのが、とても残念だった。
・コルムの言動の破綻
この作品における騒動の原因の8割が、ブレンダングリーソン演じるコルムという男にある。
おそらく製作陣は騒動の原因をコルムとパードリックで5:5くらいの割合にして、どっちもどっち論に持ち込むつもりだったのだろうが、あまりにもコルムのキャラがぶっ飛び過ぎていて、どう見てもパードリックに同じだけの責任があるように見えない。
創作の為に人を遠ざける…ここまでは理解できるが、何故か彼は島を出ていくという選択肢を取らない…これが最大の疑問であった。
内戦で本土に行き辛いというのもあるだろうが、シボーンが最終的に島を出ている以上、指を切り落とすほどの覚悟(笑)を見せたコルムが、島を出ていかないというのはおかしい。
本土には島に来ていた音大生のような、芸術的な人間(笑)が大勢いるだろう。
何故本土に出向かないのか。
フィドルの為にフィドル奏者の命である手の指を切り落とすというのも、もはやギャグにしか見えない。
あまりにも気狂いなコルムの言動が、製作陣が意図した物語の方向性を、ブラしているように感じ取れてしまった。
「意味」と「退屈」の終わりのない内戦
この映画がここまで私の心に触れるとは思っていなかった。最近、人生の意味について考えることが多いからであろう。恐ろしい映画である。
冒頭の見たこともないような美しい景色。「こんなところで住んでみたいな〜」って思うのも束の間、現代人には死ぬほど「退屈」な生活であることが分かる。
自分の「人生の意味」を求めて友人は別の道を歩もうとする。それはかつての友との絶交という過激なものであった。人生についての「意味」「向上」「変化」という新たな思想が、ときに退屈かも知れないが「良き人であれ」という旧い価値観と対立する。
観ていると、我々の住む情報化社会がいかに「退屈」から遠ざかっているか、むしろ「退屈」を悪しき価値としているか、そして人生に「意味」を求めずにはいられないものであるかに気付く。これには「新規さ」「変化」「向上」という変革に付随する価値も含まれている。郵便局を営む中年女性が求めるのはニュース(新しいもの)という刺激である。中身は問わない。むしろ悲惨であるほどいい。姉は「変化」を求め、コルムは「向上」と「意味」の追求に囚われている。
それに対して数少ない村に残っている若者としての主人公パードリックは、愚鈍極まりないキャラクターとして描かれている。彼は砲弾の音を聞いても興味を示さない。ほとんど取り柄のない男に見え、私はコルムの理屈にいつも納得してしまう。しかしパードリックの執拗とも思える執着心を見るにつけ、彼についてもまた考えさせられるのである。「友情」こそが生きる意味である彼は自身の存在をかけてコルムに迫る。もうストーカーであるマジで。
しかし、これらを観ながら何となくどちらにも共感してくるから不思議である。何故なら私もかつては退屈に耐えられない衝動を抑えられずにそのような(と私が認識した)人を軽んじたこともあった。ときにパードリックは「人間に大切なのは人間関係ではないのか?」と訴えているようにも思える。そのせいか私も誰かとの大切な時間を削っている気がするのも確かである。
鑑賞中に様々な思考が駆け巡る。
唯一パードリックに見せ場があるとすればラストしかない。彼がコルムへの復讐を果たそうとしている時の、彼の表情は凛々しく、その姿を頼もしく思ったのは私だけだろうか?
じゃあ、どうすればいいのだろう……
話はつまらないが気のいいパードリック(コリン・ファレル)と、芸術家肌で気難しいコルム(ブレンダン・グリーソン)。私はどちらかというとパードリックに近いのかなと思う。しかしこれはもちろん寓話であり、どの登場人物にも普遍性がある。誰の中にもパードリックがいて、コルムがいて、シボーン(ケリー・コンドン)、ドミニク(バリー・コーガン)がいる。
個々の人間関係の中で、これほど理不尽に関係が崩れることはあまりないだろう。しかしそれが国同士の対立、地域紛争レベルにまで広がると、もはや何が原因でここまでこじれたのか、からんだ結び目をほどくことが困難な事例は山ほどある。舞台となったアイルランドも、複雑な政治情勢の上に立っている。
この作品は「いかんともしがたい環境の中で、それでも生きていくにはどうすればいいのか」考えさせられる映画であった。シボーンのように、しがらみを捨てて自分のために新たな場を探すことも正解だが、なかなか今いる環境を変えることは難しい。ドミニクのような選択をすることはもっと難しい。本作のラストシーン、完全に関係性の崩れたパードリックとコルムの二人が、同じ地平に、同じ方向を向いて立っているという描写は、そのまま現実世界の構図そのものだと感じた。
この作品の中で正解は示されない。二人がこれからどうなっていくのか、それもわからない。しかし一つ正解があるとすれば、警官に殴られたパードリックを何も言わずに抱き上げ、何も言わずに馬車でともに帰ったコルムの行動ではないか。たとえ拒絶した存在であっても、救わなければならない状況であれば助ける。関係性が悪くても、なくても、窮地に立たされた人を救うことはできる。
ここ数年、ますます正解のない世の中になったように感じる。自分のこだわりを通して他者を傷つけることも、他者に依存しすぎて己をなくすこともしたくない。しかしコルムがパードリックを助けたシーンに最も共感した私は、他者依存的な存在なのかなと思う。普遍性が高いだけに分かりにくいが、それだけに自分の様々な場面に当てはまる作品だと感じた。
マーティン・マクドナー監督は、もともとは演劇畑のひと。 なるほどね...
マーティン・マクドナー監督は、もともとは演劇畑のひと。
なるほどね、というのが感想なのですが・・・
いまから100年ほど昔、1923年のアイルランド本島から離れたイニシェリン島。
第一次大戦は終結したものの、本島では内戦が勃発。
とはいえ、島ではそれは対岸の火事。
そんなある日、妹と暮らす独身中年のパードリック(コリン・ファレル)は長年パブで飲み仲間だった年長の友人コルム(ブレンダン・グリーソン)から、「俺にかかわるな」と言い渡される。
理由がわからないパードリックは、聡明で教養のあるオールドミスの妹シボーン(ケリー・コンドン)や知恵遅れで島の皆からバカにされている青年ドミニク(バリー・コーガン)の助力を借りて、以前のようにコルムと仲良く付き合いたいと努めたのだが、コルムは「これ以上、俺に関わるな。さもないと、俺は俺の指を切り落として、お前に送り付けてやる」と宣言した・・・
といったところから始まる物語。
コルムの宣言を「これ以上、俺に関わるな。さもないと、お前を足腰立たないほど殴りつけてやる」ならば、まぁ、普通の話。
そうなのよ。ちょっと言い換えれば普通の話。
コルムにとって重要なのは「俺に関わるな」であり、そこんところをパードリックが理解していないので、どんどん泥沼化してしまう。
無理解から泥沼にはまってしまうのはキリスト教的社会のお約束のようなもので、他の島民から「いいやつだが愚鈍」と評されるパードリックは、友だちであることが最重要であり、それ以外には頓着せず、コルム宅への無断侵入やコルムの新たな友人に嘘を告げて追い払うなど、良心を欠いていくような行為に出ていく。
(ここいらあたりは『スリー・ビルボード』に似ている)
最終的には、火付けにまで発展するわけだが、パードリックの行為は、見ていて不愉快になってきます。
で、コルムの方の言い分なのだが、
1.俺は、もう老いさき短い
2.子どももいないし、なにかを残したい
3.お前とのパブでのバカばなしに時間を費やしたくない
4.わかってるだろ? わかってくれるだろ?
5.だから、これ以上、俺に関わるな
6.さもないと、お前を足腰立たないほど殴りつけてやる、と言いたいところだが、クリスチャンの俺には、他人を殴るなんてできない。
7.かわりに、俺の指を切り落とす。その痛みをわかってくれ
これは結構、映画の早い段階でわかるので、これがわからないパードリックは愚鈍としかいいようがない。
で、こんなわかりきったふたりを行動をみつづけるのは些か苦痛で、興味は脇役へ。
パードリックの妹シボーンと青年ドミニク。
シボーンは、コルムの裏面みたいな存在で、他人のあらさがし、噂話、秘密の暴露で人生つぶしをしているような島民に嫌気が差し、結句、島を出てしまう。
一方、島いちばんの愚か者と呼ばれるドミニクは、愚かかもしれないが、何かを残したいという欲望に忠実。
何か、とは幸せな子孫であり、「当たって砕けろ」の精神でシボーンに告白する。
個人的には、このふたりの挿話を膨らませてほしかったところ。
なお、そこそこ教養もあるコルムだけれど、それほどでないことが今回の事態を重くしたかもしれず、
シボーンに指摘されるようにモーツアルトの生きていた時代を誤ったり、そもそも他傷は罪だが、自傷は罪だと思っていなかったあたりが、欧米の観客には「まぁ、結局、どっちもどっちだねぇ」と思わせているのかもしれません。
原題「THE BANSHEES OF INISHERIN」の「バンシー」は、「人間の死を予告する老女の妖精」で、映画では、黒装束の老女がその役回り。
日本タイトルの「精霊」は間違いでないが、ややミスリード。
『イニシェリン島のふたつの死体』あたりが適切かもね。
風景描写もよく、アイリッシュ音楽もよいですね。
後者、コルムの演奏は、ブレンダン・グリーソン自らの演奏ということがエンドクレジットでわかります。
雨降って地固まる?
昨日まで仲良かった友人が急に意識高い系になって、もうおまえとつるむのやめるわと言われる冒頭。
大学生にありがちだなと思った。
パードリックとコルムを通して、幼い頃友人とけんかしたときの居心地の悪い空気感がひしひしと伝わってきて、終始居たたまれなかった。
コルムが頑なにパードリックを拒絶するのには重い病気に患ったとか罪を犯してしまったとか誰にも言えない理由があり、最後は分かち合い仲直りする結末だろうなと思って観ていたら、新しい自分になりたい、それにはおまえと付き合っている時間はないという理由で、最後も関係は完全には修復しなかった。
人間関係もっと上手くやれやと言いたくなる。
序盤から始まったパードリックとコルムの内戦だがコルムの自傷行為をはじめ段々とエスカレートしていき、パードリックが可愛がっていたロバが亡くなったことをきっかけに一線を越えてしまう。
だが一線を越えたことにより二人の新たな関係性が生まれたような終わり方だった。
今作は内戦について描かれており、身内でも分かり合えない人や国は時には衝突し、新たな関係性を築いて歩んでいくという希望を持たせたラストだと感じた。
キリッとしている印象があるコリン・ファレルだが今作ではハの字になる眉で物語る冴えない演技が愛おしくて良かった。
また『グリーン・ナイト』や『ザ・バットマン』でも感じたが、風変わりな役を演じるバリー・コーガンは他の俳優よりも一際輝いていると今作でも感じた。
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