「戦争は人間の本質なのか?」イニシェリン島の精霊 f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
戦争は人間の本質なのか?
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平和…二つの戦争の時期の間に介在する、だまし合いの時期
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作家アンブローズ・ビアスは、有名な著作『悪魔の辞典』のなかで、「平和」という単語に対してこのような独特な定義を与えた。
愚かにも戦争を繰り返し、せっかくの平和を維持することのできない人間たちを皮肉る言葉である。
このようなビアスによる「平和」の定義は、「人間は、本質的に闘争する生き物である」かのような示唆を与える。
平和の恩恵も、戦争のあとであるからこそ感じられるもの…なのだろうか?
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映画『イニシェリン島の精霊』の主人公もまた、島での平和な生活を台無しにしてまで、隣人との”戦争”をせざるを得ない。
彼にとって、隣人との闘争を続けることこそが、隣人との関係を継続し、退屈な暮らしに興奮をもたらす唯一の娯楽になってしまうのである。
わざわざ戦争を行うことは、彼の生きがいと化す。
それはまた、平和な島の対岸、本土で行われている内戦の様相にも似ている。
大英帝国からの独立を勝ち取り、アイルランドの国土を自らのものとしてもなお、分裂し、争わざるを得ない。
「最近は本土で銃声も聞こえない」と言う主人公に対し、隣人は「どうせまたすぐ再開するさ」と述べる。
「ロバ」と「知恵遅れ」が象徴するものは、「愚鈍さ」や「無知」「のろま」「正直さ」「白痴」…そして「優しさ」や「牧歌性」。
不吉なバンシーの予言通りに、これら2つに死が訪れる時、男は優しさ・良心を捨て、抗争の日々へと向かっていく。
作品内において「女性性」を代表する妹が去ってしまったことも、島における文化性・男性内部の文化性が去ってしまったことを象徴している。
“女性的”な生き方、文化的な生き方も、彼にはあり得たはずである…けれども愚かな男の本質には、闘争を求める欲求があるのかもしれない。
「戦争は人類の本質」と書いたが、より正確にはそうではない。
「戦争は、愚かな男性たちの生きがい」なのかもしれない。(もちろん、戦争には紛争の解決手段という側面もある。その良し悪しは別にして)
読書、音楽、そういった文化的な趣味を持たない男が、退屈な日々に楽しみを見出せないとき…その退屈な暮らしこそが平和であることに気づかないとき、闘争に楽しみを見出してしまうのかもしれない。そういう寓話だろうか。
人生は死ぬまでの暇潰しにすぎないのか? 闘争にこそ人間の本質的な喜びがあるのだろうか?
平和な日々に、あなたは生きがいを持っているだろうか。
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※戦争に至る過程は、共同体内・異なる共同体間の複雑なプロセスを経ており、1つの共同体の内部においても、そこに関わる人は支配者・被支配者などにそれぞれの心理がある。したがって「闘争は生きがいである」というように、単純化して語れるものではない。けれども本作に対する考察を、1つの寓話として聞いて欲しい。
※現代においては、例えばスポーツが、国家間・共同体間の代理戦争的役割を担うこともある。戦争は興奮をもたらすけれども、決して、興奮をもたらす唯一の手段ではない。過去の歴史においては戦争、暴力が短絡的な方法であったかもしれないが、娯楽が複雑で豊かになるにつれ、人間に興奮をもたらす活動は多様化し、文化的なレベルにまで達している。(心拍数を高めることは、確かに興奮する。)
必ずしも戦争・紛争・抗争が、日々に生きがいをもたらす唯一の手段たる必然性はない。確かに、他者を打ちのめし、下であることを確認して、自分は上だ、と気持ちよくなりたい気持ちが人間にはあるのかもしれないが、そういった心理を利用して、経済不況の時期などに戦争に持ち込もうとする支配者も歴史上存在した。現代はどうなのか、わからないが。
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あなたは、理不尽で暴力的な警官が制裁を加えられた瞬間、興奮しただろうか?
そこに快感を覚えただろうか?
映画の中ではしばしば、暴力の発動が観客に快感をもたらす。
本作においてこのシーンは、あなたの中にある「暴力によって興奮し、快感を覚える衝動」を確認する効果を持つものであり、通常の映画同様に、娯楽性を与える役割もある…のではないか。
「この映画は、あなたの中にもある暴力衝動について描いていますよ。今あなたが快感を覚えたようにね」と。
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性の多様性の観点からすると不適切な語用があるかも知れません。
また、差別的とされる単語が含まれるかも知れません。
推敲が完全ではありませんが、とりあえず投稿します。
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※劇中、十字架やマリア像が何度も登場し、宗教色を醸し出している。
主人公もまた、自宅の壁に十字架をかけ、経験なカトリック(アイルランド人なのでおそらく。劇中では住民がプロテスタントを揶揄するような会話もある)であることが示唆されている。一方で友人宅に飾ってるのは、異国文化が満載の調度品の数々だ。そこにはアフリカ風?の人形や、日本の能面・般若面などが存在し、友人はカトリックとは異なる思考様式を有していることが示唆される。
このような対比もまたアイルランド内戦に関係あるのかもしれないが、その可能性を掘り下げるにも、否定するにも個人的に知見が不足している。
ちなみに、アイルランドの独立を推進し、現代でも北アイルランドの英国からの独立、そしてアイルランドとの併合を求めているというIRAは、その誕生からカトリックを核としているという。
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物語の最後に、抗争を経て、まるで仲の良さを取り戻したかのようにも見える2人だが、そこには「抗争の継続(暴力)」と「関係の維持(友好)」という相反した2つの感情・概念が共存しており、好戦的な姿勢で国内の支持率を得ながらも、国家間では事なかれ・現状維持を貫く昨今の指導者たちを暗喩しているようにも思えた。
このことがまた、争い・暴力を好む人間の衝動を見据える本作のテーマ性へと導いてくれるようにも思う。
丁寧な返信ありがとうございます。
とても分かりやすく書いて頂き感謝しています。
確かに「退屈な男」と決めつけられ、疎遠にされたパードリックは、
コルムの「話しかけたら一本づつ指を切る」との挑発(?)に乗り、
結果として、コルムの家に放火してしまいます。
善良で退屈な男パードリックが、内なる凶暴性に目覚めるような結果になりました。
確かに仰るように結果として、2人は戦争のような状況に進んでしまいました。
戦争の原因は様々あるかと思いますが、暇すぎたのはコルムも同じですから、
寓話のようにはじまり、諍いの火蓋が切られる。
ちょっとfunctionさんとはニュアンスが違うかも知れませんが、
それがテーマと言われれば、そうかも知れません。
親子関係も友人関係もちょっとしたキッカケで破綻する。
その大きな事例が戦争なのかも知れません。
2人の中年男の絶交が、こんなドラマティックな映画になる。
すごい技をマクドナー監督に見せて貰いました。
退屈は日常、それが私たちの世界・・・なのでしょうか。
ありがとうございました。
勉強になりました。楽しかったです。
観客や映画好きの中にあるかもしれない暴力への欲求の存在に気づかせることによって、「娯楽としての暴力・争い」という側面に気づかせ、「暇だから戦争をせざるを得ない、それを生きがいにせざるを得ない」というような魂の貧困さを指摘することが作品のテーマの1つとしてあるかもしれないなあと感じました。
②の補足
人間は理由なくむやみやたらに暴力を振るっても罪悪感を抱くと思うのですが、映画に出てきた悪徳警官に対して震われる暴力は「正当」だと感じ、快感を覚える傾向があるのではないでしょうか?
これは相手が「悪」だからですが、ここに相手を「悪」とみなして自己正当化し戦争を開始する国際情勢だとか、あるいは映画の中におけるアイルランド内戦だとか、戦争や暴力の性質が反映されているように思えます。
自分は相手を悪だとみなすから戦争を開始する(暴力を振るう)ことによって気持ち良くなろうとしているのですが、戦争・紛争(だとか市井で発生する喧嘩や言い争いでもいいですが)においてはお互いにそのように考えていることがしばしばです。お互い「相手が悪い」と考えています。
② 警官の暴力に興奮することはなかった。好戦的な部分もあまり感じない。
ざっくり言ってしまうと、警官はこの映画における悪役のような立ち位置にいます。子供を虐待し、理不尽にパードリックを殴る。権力を利用して一般市民を虐げています。
このような悪をどう始末するのか、ということが映画に対してはしばしば期待されます。観客は悪役にむかつき主人公に対して「始末してほしい」と期待します。そこで暴力によって解決を見るのが、典型的なアクション映画であったり、ヒーロー映画であったりします。
悪を暴力によって倒す需要に応えたり、悪を暴力によって倒すことの快感を提供するのが、アクション映画という娯楽だと考えます。
このようなアクション映画への需要には、個人差があるでしょう。おそらく女性よりも男性にとっての需要が高いでしょうね。
『イニシェリン島の精霊』という映画は、このような「アクション(映画)への需要」を感じ取り、「戦争を求める心」との共通点を見出しているのではないか?と考えるのが私のレビューです。
戦争を開始したり参加したり、あるいは応援したりする人間の心には、「戦争が必要だから」という必然性を超えて、勝利への欲求だとか、功名心、名誉、単に「気持ちいいから」と言った、まるで娯楽のような側面もあるのではないか、と。
戦争の実態は、『西部戦線異常なし』のようにただただ過酷なものかもしれません。しかし戦争を求める心理のどこかに、スポーツをしたり、アクション映画を観戦したりするような娯楽的感覚があるのではないでしょうか?
先述のように、ここには統計的な傾向としての性差があるかと思われます。そこには人体の構造、脳の構造や脳内で分泌される化学物質の量の差も由来していると思われます。
以上で述べたような、「娯楽のように暴力を求める心」「暴力によって気持ち良くなる心」が人間、観客の中にあるということを、悪徳警官に対してコルムが暴力を振るったシーン(正義を振るった瞬間?)で、作家は確認したのではないでしょうか。
このように「娯楽のようにして戦いを求めるのか?」それとも芸術を求めるように平和に生きるのか?と、この退屈な島を舞台に問うのがテーマに感じられます。
① パードリックの存在は愚鈍の象徴なのか?
確かに、パードリックには愚鈍な部分がありますね。
どこか情報に疎く、島の住人から蚊帳の外に置かれている印象があります。
そのことを妹も気を使っていましたし、どこかとぼけたような性格も「愚鈍」に当てはまるかもしれません。
しかしながら本レビューの中で「愚鈍」を最も象徴する存在として挙げたいのは、パードリックの飼うロバと、バリー・コーガンの演ずるドミニクです。
ロバやドミニクは「田舎の暮らし」を象徴する存在であると考えますが、同時に、「牧歌性」や「平和」といった尊ぶべきものを示唆するものでもあります。
パードリックの中にある「のどかな心」が、ロバとドミニクの死と同時に失われ、争いの日々へと向かっていく、というのが本作の終盤の展開だと考えています。
「愚鈍さ」と「牧歌性」「平和」はイコールではありませんが、ロバやドミニク(ステレオタイプな田舎の人間)が登場し、失われることはメタファーであると感じられました。
琥珀糖 さま
コメントありがとうございます!
私のレビューを読んでくださったこと、疑問点について質問をくださったこと、とても嬉しいです。
私のレビューに不足もあるでしょうから、補足として、質問に回答させていただきますね。
お邪魔します。
貴レビュー読ませていただきました。
とても目を開かされる記述に驚きました。
パードリックの存在は愚鈍の象徴・・・なのですか?
「優しさ」はすぐに忘れ去られると、コルムは言ってました。
そしてコルムの精神生活は豊かで、蓄音機のクリシック音楽を楽しみ、
部屋にはおっしゃる通り、般若面やら能面など広い世界観を感じました。
ただ私は女だからなのか、警官の暴力に興奮する・・・ことはまったくなかったです。
好戦的な部分もあまり感じなくて、
パードリックもコルムにも好戦的な描写は感じませるでしたが、
内戦の影響は当然強く受けているでしょうね。
分からなかった事が、理解できるレビュー読ませていただき
ありがとうございました。