TAR ターのレビュー・感想・評価
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Japan appeared twice!
I really enjoyed watching ‘Tár’ in a small theater in Tokyo, that was called as a mini theater in Japan. This review may contain "spoiler" information, so I will write the review in English. When I saw this film, I immediately understood why historical, but one of the most challenging company, DG and the most brilliant orchestra, Berliner Philharmoniker, cooperated with this movie.
I think Todd Field, who wrote and directed it, moved the main character from a male conductor in the early 2000s to a female conductor in 2022. We know that two very famous conductors were socially excluded because of the "Me too" movement, and it was even mentioned in the movie. They had undoubtedly great talent and outstanding ability. There are some objections to this kind of cancellation culture. We also noticed that we had already lost one of conductors.
Lydia Tár, played by Cate Blanchett in this film, cannot be forgiven for what she did. I think that was probably related with why this movie didn't get an Academy Award. In fact, her behavior towards the other child was harsh, especially when her adopted daughter was being bullied in kindergarten. When she taught at the Juilliard School, she criticized Max, an apparently nervous BIPOC student, and was too harsh to force him to face the music of Bach. Perhaps Lydia's words and deeds towards Krista, who was her former student, should have been as we expected. It was never enough revealed how much Lydia's assistant, Francesca, was involved in the process.
The salvation of this film is that Lydia later got the chance to conduct in Philippine, even if it's an opportunity that's far from what she's done so far. When she met a massage parlor, she recognized what kind of country she finally got her chance.
Finally, I would mention one more thing. Another European stigmatized conductor has frequently visited our country and has given excellent performances, mostly with the understanding of some of the eminent figures in the Japanese classical music world. This seems to reflect Japan's tolerance of sexuality in old days, but we are experiencing a little excess-criticism these days about the matter. I wonder what the people who were strict about this issue think, although Japan appeared twice in the story.
天才カリスマTAR・・・神秘と名声の海に泳ぐ
この映画は実に巧妙に罠が幾重にも仕掛けられています。
ひとつは、
リディア・ターの性別。
ケイト・ブランシェットの容姿から、女性であると確信して
私は観ていました。
それは間違いではなくTARは女性指揮者として描かれますが、
TARは女性にして両生を併せ持つ多性な存在なのか?!
(後に子供と妻のシャロンの存在が明かされます)
妻と子供を持つカリスマ・指揮者?
そしてTARの能力が如何にずば抜けていて、
ベートーヴェンやリストなどの楽聖と
同じかそれ以上であると観客は思い込まされてしまいます。
バーンスタインの弟子で、EGAT・・・
(エミー賞、グラミー賞、アカデミー賞、トニー賞)を受賞した
15人のうち1人・・・などの経歴に目が眩みます。
半分以上を占めるTARのインタビューの受け答え、
会食中の会話、指揮や作曲を勉強する学生へのアドバイスなどなど。
監督・脚本のトッド・フィールドが音楽、特にクラシック界の博識や
見識が散りばめられて、
特に既に亡くなった指揮者や生きている音楽家の実名がバンバン
挙げられて興味は尽きませんでした。
(この辺りあまりに高尚な話について行けない部分もあり、
・・・寝落ちして首が何度か落ちました)
でもこの音楽界への提言がトッド・フィールド監督の一番言いたかったこと
なのだと思います。
指揮者であるTARのリハーサル風景。
このリハーサルは実に本格的で、ケイト・ブランシェットの手の動き、
指示の出し方など本物の指揮者にしか見えない程成りきっています。
そして流されれ名曲の20秒程のフレーズの断片が震える程美しい。
「もっと聴きたい、もうちょっとイエ永遠に聴いていたい」
その飢えと渇き。
それが更にTARの神秘性を盛り上げていくのです。
(でもエルガーのチェロ協奏曲はせめて1楽章ぜんぶ聴きたかった)
そして持ち上げるにいいだけ、持ち上げて、
今度は落としにかかります。
TARはパンデミックのため【マーラーの9つの交響曲の全曲録音】を
4曲完成したところで中断していました。
1人の指揮者がマーラーの交響曲9曲全てを録音した例は未だかつて1人も
いないのです。
TARですら、畏れと不安に慄いており、ナーバスになり周囲に
キツく当たります。
まず高齢のセバスチャンを解任し、
ソロのチェリストを楽員の中からオーディションで選ぶと言って
総スカンを喰らいます。
美人女性チェリストへのへのエコ贔屓。
(全ては天才の我儘・・・そう言って許されれ時代ではないのです)
悪いことは更に更にエスカレートしていきます。
絶望的な出来事。
若手指揮者のブリスタが自殺してしまうのです。
今までの追い風は猛烈な逆風になってTARを襲います。
多くの女性にセクハラをしていた。
もともとからのパワハラに加えての複数のセクハラ行為。
TARは妻のシャロンに嵌められたのでしょうか?
告発の動画やメール。
TARへのデモ行進・・・仕事を降ろされ・・・
暴漢に襲われて負傷、
住むマンションも体よく追い出されて住処も失い、
行く先はベトナム?
(幽玄の滝と川の流れ・・)
本当にセクハラがあったか?なかったか?
それは真実か?捏造か?罠か?
具体的な描写が殆ど無く、伝聞証拠のようなもの。
SNS社会の怖さとも重なります。
もう真実は私には分からない。
TARは奇跡の天才・楽聖であり続けてほしかったです。
(それでは映画は面白くない?)
この映画を観て、
この映画の主人公TAR。
存在しない筈の架空人物の哀しいまでの才能に
戦慄と羨望を覚えました。
この映画を制作したスタッフ・監督・脚本家・音楽とクレジットされている
チェリストで作曲家のヒドゥル・グドナドッテル、
そして誰よりこの難役を軽々とこなした異才
ケイト・ブランシェトに敬意と感謝を捧げます。
(ところで、ラストの意味は?)
《地球なTARには狭い?》
主人公の独善と、芸術表現の根本を描いた秀作
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい)
この映画『TAR ター』を、結論から言うと個人的には面白く見て、秀作だなと思われました。
特に主人公のリディア・ターを演じたケイト・ブランシェットさんの演技は説得力が図抜けていて、ベネチア国際映画祭の最優秀女優賞やゴールデングローブ賞の主演女優賞を受賞したのも納得だと思われました。
この映画『TAR ター』のストーリーを超絶、雑にまとめると、
【優れた指揮者である主人公リディア・ターが、自身の高度な表現レベルを周りに求めることによって、不適格発言をした副指揮者をパワハラ的に辞職させ、かつての教え子を自殺に追い込み、地位の利用によってセクハラまがいの登用や扱いをある楽団員に行い、それらの問題が表面化すると楽団を孤独に追われ没落するストーリー】
になると思われます。
すると、本来は全く共感性の薄い主人公なのです。
しかしこの映画は一方で、芸術表現の根本を描いており、そこに(大切な部分で)到達している主人公によって、観客は主人公に説得力を感じて映画を最後まで観ることになるのです。
ところで私的な興味に引き付けると、芸術表現とは
A.的確に表現する
B.的確表現への過程が美しい表現である
の2点が重要になって来ると思われます。
すると、<A.的確な表現>において、この映画の主人公リディア・ター(ケイト・ブランシェットさん)は特に優れているということになります。
<A.的確な表現>とは、タイミングやトーンなどが的確だ、ということです。
主人公リディア・ターはこの映画の冒頭のインタビューで、指揮者が刻む「時間」の重要性を語っています。
<A.的確な表現>とは、作品や人々や自身が求めるタイミングやトーンを、ピタリと「時間」を刻んで当て続ける、いわば生理的本能的なセンスだと思われます。
そして、主人公リディア・ターは、このタイミングやトーンをピタリと当て続ける<A.的確な表現>の能力が図抜けていて、的確さでズレてしまう他の人々を支配することが可能になるのです。
ところが、芸術表現には(個人的には)《B.的確表現への過程の美しさ》も必要とされると思われます。
この《B.的確表現への過程の美しさ》とは、<A.的確な表現>をする過程で、その表現が広く世界や人々に開かれている必要があることを指していると思われます。
私達が(音楽にしろ映画にしろスポーツにしろ)あらゆる表現で感動や感銘を受けるのは、それらの表現が、私達の経験や歴史つまり[様々な関係性の集積]との分厚い接点を持っているからだと思われます。
つまり、芸術表現での《B.的確表現への過程の美しさ》とは、([様々な関係性の集積]である)私達の経験や歴史に対して開かれ通じている、とのことなのです。
映画の中で、学生の1人が、主人公リディア・ターに対して、バッハは白人男性優位の時代の作曲家でマイノリティに差別的で好きではない旨の発言をします。
するとリディア・ターは、このバッハ嫌いの学生に対して、SNS的にカテゴライズ分類された場所からの批判の浅はかさを否定し、バッハの表現がいかに人々に開かれているのかを説明します。
しかし、このバッハ嫌いの学生の苛立ちは逆に頂点に達し、リディア・ターに罵声を浴びせて教室を出て行きます。
このバッハ嫌いの学生の問題は、貧乏ゆすりを繰り返すばかりで、リディア・ターに説得力ある<A.的確な表現>でバッハの問題を説明することが出来ていなかった点です。
しかし、バッハが、(マイノリティ含めた様々な立場の人々に開かれている必要の)現在においては《B.的確表現への過程の美しさ》(=[様々な関係性の集積]である、私達の経験や歴史に対して開かれ通じている必要)で問題があるのではないか?に関するこの学生の指摘は、当たっている面もあると思われるのです。
つまり、バッハ(あるいはクラシック音楽)は、クラシックの狭い世界でのみ現在における《B.的確表現への過程の美しさ》が保たれているに過ぎないのではないか?という疑義です。
主人公リディア・ターは、かつての教え子だった指揮者のクリスタ・テイラー(シルヴィア・フローテさん)を痴情のもつれなどから、(彼女は精神的に不安定で指揮者に向かないなどと各方面にメールし再就職をはばむなどし)クリスタ・テイラーを自殺に追い込みます。
そして、その前後にリディア・ターは、幻聴や幻覚を見ることになるのです。
このリディア・ターの幻聴や幻覚は、直接的には後に自殺するクリスタ・テイラーが発端と言えると思われます。
しかし、リディア・ターの幻聴や幻覚は、本質的には、(バッハはクラシックの狭い世界でのみ《B.的確表現への過程の美しさ》が保たれているに過ぎないのではないか?‥などの)リディア・ター自身の基盤であるクラシックの世界に対して、外の世界から発生している疑義の現われだと思われるのです。
リディア・ターは結局、外の世界から発生している彼女に対する疑義の嵐によって、楽団を追われ、実家に帰って師のレナード・バーンスタイン氏のビデオを見て音楽家を志した原点を思い出し涙するも(それは一方でこれまでの姿勢を変えることがないという再びの宣言とも言え)、最後はコスプレに身をまとう観客相手のゲーム音楽の指揮者として、クラシック音楽の指揮者としては没落して映画は終了します。
この映画『TAR ター』は、以上のように共感し辛い主人公であるにもかかわらず、あらゆる芸術表現の深い本質を描いているとも言え、静かな感銘を受ける作品になっていたと思われました。
ただ一方で、バッハ嫌いの学生や自殺したクリスタ・テイラーなどの視点は、現在の様々な人々に開かれた《B.的確表現への過程の美しさ》の重要さを指摘しているとは思われましたが、逆に彼ら彼女らからの<A.的確な表現>があったわけではありませんでした。
なぜなら、現在において、様々な立場の人々に開かれた《B.的確表現への過程の美しさ》を引き受けた表現をしようとすればするほど、<A.的確な表現>はその多様性の波に飲み込まれてぼんやり漠然とし続け、<A.的確な表現>から遠く離れた【凡庸な表現】に陥って行くと思われるからです。
私達は、この映画でバッハ嫌いの学生や自殺したクリスタ・テイラーなどの【凡庸な表現】に一方で出会っていたともいえるのです。
そこを明確に描かず、あくまで主人公リディア・ター中心に描いたところに、この映画の長所と短所が表裏一体に存在していたとも思われました。
映画の最後のクラシックの音楽とは真逆の歪んだ電子音が流れる中で、現在の表現のどん詰まりをこの映画は表現していたのだろうなとも思われました。
【男前‼︎】
男前ケイト・ブランシェットがぴったりハマり役。天才肌故の自惚れと脇の甘さから、周囲との軋轢と孤立に堕ちていく様を素晴らしい演技力で魅せてくれる。
旧態依然とした男社会のクラシック音楽業界に、レズビアン設定他も、不寛容な社会へのアンチテーゼとして描かれている。底辺からの再出発で新たな境地を見出すラストも◎。
158分ある上映時間のほぼ全てがケイト・ブランシェットにフォーカスしたカメラ、些細な生活音に過剰に反応する演出も、作品展開上キーポイントになっていて、ホラー的サイコパス的で面白い。オーケストラの演奏含め音響の良い映画館で観るのが正解の作品。
THEATER
本作の舞台はドイツ。ドイツは欧州の一部であり、欧州と言えば植民地時代から今に至るまで、あらゆる分野で権威の座にいます。特に芸術の分野は突出していて、例えば映画好きな方は「パルムドール」と「アカデミー」だったら、「パルムドール」の方が何となく芸術性が高く高尚に感じませんか?
この芸術に宿る権力の象徴がTARでした。作品そのものは普遍的なテーマでしたが、本作がユニークだと思ったのは、
・権力の象徴であるTARをレズビアンにしたところ
・ラストシーンで劇場で演奏されたのがクラッシック音楽ではなくゲーム音楽だったところ
・後半の舞台がドイツから東南アジアに移ったところ
でした。
つまり逆を返せば、欧州の白人男性がクラッシック音楽を欧州の舞台で演奏することは、時代遅れなのかなと。もう、主役(男性・音楽・地域)は変わった。そして、時代も確実に変わった。
THEATER(劇場)は、実に創造的で変化に富み、独裁的、権威主義的なものでない。THEATERは、ある一部の特権階級のものではなく、民主的。観客がお上品であろうが、コスプレしてようが良いんです。
TARはTHEATERの3文字から取ったのかな?と思いました。
YouTubeで、とある映画関係者が、本作は「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」に凄く影響を受けていると思うと話していて、偶然にも同じ日に、本作と「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」を鑑賞できて良かったです。舞台は両作ともドイツですしね。
ケイトブランシェットは良かった
ケイトブランシェットの演技は良かった。これは文句のつけようがない。
単に自分が早起き+二本目の鑑賞で冒頭のクレジットで半分寝てしまうくらいのコンディションだったのが悪いのかも知れないけど人物と名前が覚えられずやや着いていけなくなった挙句に予告で「映画史に残るラストシーン」とまで煽られてたのがあの終わり方で?????となった
よほど自分にはわからない高尚な意味づけだったのだろうとレビュー観たらモンハンが元ネタ?
いっそ腹が立ってきました
安直な倫理観に揺さぶりをかける怪作
名誉男性とキャンセルカルチャーの話。ちなみに私は男です。
私がクラシックの知識が全然なく、交わされる会話への理解が乏しいので、退屈しそうだったが、終始引き込まれた。
ストーリーは単純だが、倫理的にはかなり入り組んでいる。
・オープンリーレズビアン
・男性優位の歴史を持つクラシック音楽界で、世界的な頂点に立った女性
・女性の登用や育成に熱心
と主人公のターを紹介すれば、フェミニストであるかのような偏見を抱いてしまうだろう。
ところが、そこに
・女性への加害者性
というこの映画の最大の要素が積み上がる。そのことで、オセロで白が黒にひっくり返されるように、すべての見方が変わる。
ターは乱暴に言うなれば「名誉男性」とフェミニストから批判されるような人物なのだ。彼女は決して男性に高圧的なわけではなく、むしろ才能には等しく敬意を払うし、傲慢な人間ではない。
だが、権力者だし、その力をはっきりと自分のエゴのために利用する。そのことが世間に発覚するや否や、彼女の輝かしい人生は暗転していく。
ターをヘテロのシス男性に設定したら、ただのマチズモ批判映画だし、(メッセージとしては良くても)正直面白みはあまりない。その点、実はターはマッチョな「レズビアン」なのだ。
劇中、たびたびターが自説を語る場面が描かれるが、非常に論理的で理知的、個人的にさほど違和感を抱くことはなかった。だからこそ、次第にターのマチズモが明かされていくにつれ、いろいろと考えさせられてしまった。
かなり詳しくは語られない映画で、いろいろとわからないことも多かった。見方はいろいろある。むしろ反フェミニズム映画という見方すらある。
・人道的見地からバッハを否定する学生を論破するシーン。正直、私はターの説教にうなづいてしまったが、どうだったのか?
・副指揮者候補の秘書は、ロシア人チェリスト同様に、権威を利用したいだけの人だったのか?
・ターが怪我を負う場面で、男性のせいにするウソは、なんだったのだろうか?
わからないが、ターは人の意見やアドバイスを、実は聞こうとしない。唯一絶対的にピュアな愛情を注ぐ養子のいじめ問題にさえ、本人の意志を聞いたうえで行動するわけではない姿勢に、「聞かない」ということが、何より権威主義やマチズモの象徴的な行為なのだなと感じた。
近年、やたら増えたぶん、固定化したジェンダーメッセージを受けて食傷気味だったなかで、かなり揺さぶりをかけている映画であることは間違いない。
当たり前のことだが、フェミニストだの、ゲイだの言っても、一枚岩で同じ考えのわけではない。まったく劇中では描かれないが、ターの悪業が炎上し、キャンセルカルチャーの渦に沈んでも、なお擁護するフェミニストやジェンダーマイノリティの支持者は、この映画の世界にいたのではないだろうか。いろいろな感想を聞いてみたくなる映画だ。
アクアリウムシネマ(癒し無し)
前半戦、眠気にやられたので再度観直さないとならない。んームズい、というか自分のアタマが色々理解に追いつかない。
家で観るべきでは無いかも? 自分なら途中で止めてしまうから。映画館でひたすら集中して鑑賞することが得策。
ケイト・ブランシェットは本当に美しいです。ケイト・ブランシェットをただひたすら眺め続けた、癒しの無いアクアリウム映画でした
ターよ、めげるな!
リディアターの落城なのか?
クラシック界の女性指揮者は、男性社会や、妬み、そらみ、恨みとの世界。すごいね。ジュリアードでのシーン。隣のおばちゃん。リディアのトレーニング。
えっ!Jゴールドスミスの猿の惑星は、盗作?
ベトナムの川は、地獄の黙示録でワニがいるから、泳げない。笑いますね。ケイトブランシェットの演技は160分を長くさせない。
5回観た
「TAR」に魅入られ、5回も観てしまいました。
繰り返し観て、あっ、そういうことかと納得した箇所、何回観ても心を動かされるシーンをいくつか。
●赤のボールペン
副指揮者のセバスチャンを“急襲”したTAR。TARがデスクから素早くポケットに入れたのはセバスチャンがいつもカチャカチャやってTARをいらつかせていた赤のボールペン。自分のペースを乱す“リズム”を何よりも忌み嫌う彼女は、先んじてボールペンを奪うことにより、自身のペースでセバスチャンを退任に追い込むことにまんまと成功したのでした。
●クリスタの幽霊
冒頭から赤毛の後頭部が映っていたクリスタ。その後もストーカーのようにTARにまとわりついていましたが、TARの自宅にも居ましたよね!時系列的にはたぶん既に自死したあと。ということは…。
あの幾度も出てくる模様を、メトロノームに描いたりペトラの部屋の粘土で造ったりしたのもきっとクリスタなのでしょう。
夜中に「リディア!」と叫び、TARにしがみついて何かに怯えるペトラ。彼女にはクリスタが見えていた?
●指揮するTAR
自宅のピアノでマーラーを弾くシーンからいきなりリハの現場に突入。流暢なドイツ語や身振り手振りでオケに指示したり、コーヒーブレイクしたり、いろんな動きがとにかくカッコイイ。TARが指揮するところだけ何時間でも観ていたい。
●№5
アジアの某国に流れ着いたTAR。気持ちも新たに音楽に向き合います。「時差ボケがひどくて」
とホテルのフロント?に相談したところ、紹介されたのは風俗っぽいお店。“水槽”の中にまるでオーケストラのように配置され、俯いている女性たちの中から指名するよう促され戸惑うTARに、ひとり目を見開き射るような視線を向けた女性の胸には№5と書かれたプレートが。たまらず店を飛び出し、通りで嘔吐するTAR。
権力の座から引きずり降ろされ、ニューヨーク郊外の実家?に戻り、レニーのビデオを観ながら涙していたあたりから、TARの気持ちは変化し始めていたんだろうけど、№5(=道半ばで挫折した交響曲第5番)に眼差しを向けられ、自分が犯してきた数々の醜悪な罪に初めて気付いた瞬間でした。ここは何度観ても泣けます。
●再生
指揮台からオーケストラの子どもたちに、作曲者の意図について考えてみましょうと語りかけるTAR。きっと自分の姿を恩師レニーに重ねているはず。
そしてラストのコンサートシーン。これから旅に出発するぞ、覚悟はいいかといった意味のナレーションが流れ、モンハンの正装をした観客に見守られる中、TARは再生に向けて新たな一歩を踏み出しました。泣ける。
ゲーム弱者にとっては、まさに???
やはり、ケイト・ブランシェットは凄い。
彼女以外では本当に有り得ない。
またマーラーの5番というチョイスが、まさにグーの音も出ないというべき見事な設定。
意表を突く構成も面白い。
本来であれば、エンディングの後に流れるはずの長いクレジットが、なぜか?冒頭から延々と始まる。
そして、その意味が、観終わった後になって「な・る・ほ・ど〜」となる、あのラスト!
しかし、ゲーム弱者にとっては…
まさに???となってしまう…
さらに言うと、ストーリーの脇の甘さが気になる。
メールの削除が出来てない事を知りつつ、そのまま放置というのは、全く現実的でない。
あのシーンは、もっと強権的にアシスタントを追い詰め、確実に削除させないと。
まあ、そもそも、各オーケストラ団体に届いていた着信メールが明らかになれば、削除の意味もないのだが…
そういった意味でも、もっと自身の保身を盤石にさせる老獪な策は練らないと…
また、その一方、投資家であるエリオットが、裏から法曹界に働きかけ、強力な弁護士は使えないように指図していたとか…(そうなれば、より一層あの乱入シーンも際立つ)
そのくらいもないとねえ…
まあ、別に本作は権謀術数のサスペンス映画でも無いのだが…
リディア・ターなる人物が、実際本当にいるんでは?と思えるほど、非常に現実感の強い演出と芝居で引き込まれる展開だったので、やはりプロットの方もリアルに徹してくれないとねえ…
結果どうしても手抜きに見えてしまう。
監督自身も語っていたが、この映画のテーマの肝は決して表面的なキャンセル・カルチャーの歪みなどでなく、権力それ自体の腐敗にあるのだから。
権力を持ってしまった者の腐った足掻きは、もっとリアルに見せて欲しかった。
そこは、ちょっと物足りなかった。
あと、ドイツ語の台詞は全て字幕を入れないと!
元の英語版に英語の字幕が入っていないシーンは、そのまま殆どスルーしてしまったのだろうが、やはりヴィスコンティの件は入れるべき。
たぶん「ヴィスコンティの事は忘れるように」と言ってるのだろうが、まさにその『ヴェニスに死す』が、その後の彼女の行先を暗示してるのだから。
そして、そのマーラーの第5番のライブ録音がリディアにとって一世一代ともいえる大仕事であることは、劇中もっと繰り返し伝えた方が、いろんな意味で効果的であったと思うが…
しつこいのは野暮と思ったかねえ。
まあ、それにしてもケイト・ブランシェットの圧巻の演技!100年経っても語り継がれるのは間違いないと思う。
リスペクトの対象
なんだろ、コレは?
作中のクラシック同様に監督の意図を読み取れとでもいうのだろうか?まるで作中にあるクラシックの楽譜のような構成だった。
この作品の見方が分からない。
後半などはエラく駆け足だったようにも思う。
冒頭から語られるのは「ター」という指揮者の紹介だけだ。こんな事してこんな性癖があってこんな考え方で…なのだけど、彼女の素顔は見えてこないようにも思う。肩書を維持する為の立ち居振る舞いを延々と見せられてるような。
彼女には指揮者という権力があり、それに見合う実績もある。それ故に生殺与奪の権限までも有してるかのようだ。後半になりその一部が発覚し、彼女は落ちぶれていきのだけれど…その件の早いこと早いこと。
まるでブツギレのように事象だけが繋がれていく。
ほいで、崇高なクラシックとはかけ離れた、ゲームのイベントのような会場で幕は下りる。
は???
問題は、何も核心を描かないというか…観客達が共有するものが極端に少ないという事だ。
物語に色々と転機は訪れる。それなりの材料は提示もされる。でも、そこの詳細な感情などは描かれない。主人公にも脇役達にも。
だから、冒頭の書き出しになった。
「映画の詳細な物語をどうぞ皆様で構築してください。まるで指揮者が楽譜や楽団と対峙するかの如く」
…いや、知らんがな。
だから、この映画を何に分類していいかも分からない。
大筋は提示されるも解釈は無限に広がるのだ。
メッセージ的なのはいくつはあって。
スキャンダルによる才能の消失だとかはわかりやすい。
権威を振り翳す者の末路とか。彼女自身も虎の威を借る狐に見えなくもない。
彼女に優秀な才能があるのは確かなのだろう。でも真にリスペクトされるべきはバッハでありベートーヴェンのはずである。そのリスペクトの対象を本人も周囲も世界さえも間違えてるみたいな。
ターをそのまま映画に置き換えるのならば、監督も主演俳優も作品を構成するパーツでしかないのだから、踏ん反り帰って偉そうにする資格などなく…作品以外をリスペクトするような事は滑稽でしかないのだ。
現に彼女は落ちぶれていったけど、バッハやベートーヴェンが落ちぶれるような事はないのだ。
分からないけど、ハリウッドの現体制への警鐘も含んでるのかもしれない。
まぁ…拡大解釈ではあるけれど。
主演ケイト・ブランシェットは流石であった。
何ヶ国語を喋るんだとも思うし、学生に講義してたあの1カットは…エゲツない。
ほぼ1人で喋ってる。莫大な情報量の台詞だし、ピアノを弾けば歌まで歌う。
そこにいる他の役者陣は相当なプレッシャーだったんじゃなかろうか…。
謎、ではないが、余白に満ち満ちた作品だった。
クラシックの業界に明るかったり楽曲の知識があったりする人はまた違う観点もあるだと思われる。
毛糸・ブランケット
ケイト・ブランシェット目当て
低めの声が魅力的な、気品とエロスのフランス貴婦人
フランス女優陣は、変わらぬ美貌の持ち主多し
月刊ロードショーの、ソフィー・マルソー特大全裸ポスターは国宝レベルです
3冊買っとくんだったと今も後悔
昔、古本屋で見つけたけどポスターガビガビ…
昔 懐かし おぞましい記憶
前日にラストエンペラー4Kレストア版を劇場鑑賞したので、3時間ダラダラ映画にはバッチリ耐性が出来てました
この映画(ター)は終始、厳しい芸術世界のピリピリとした緊張感に包まれて引き込まれます
緊張感を生み出してるのはケイト1人
いつもと違う、つぶらな瞳
特殊メイクか、瞳だけノーメイク風なのか…?
厳しい世界の頂点に長年君臨する女性って、眼力が凄いハズなのに、瞳だけは少し穏やかな印象
こういう人が1番ヤヴァイ
喋って動けば圧が凄い
緊張感ハンパない
本当に怖い人だった…
芸術界のピラミッドの頂点に立つ者は、1度でもつまずくと、地上まで転げ堕ちるのか…?
身から出たサビ…?
他のレビューにも書いたけど、昔 勤めてた会社に、鬼の様に綺麗で、鬼の様な性格の鬼女上司が居ました
鬼美人なら全てが許されるのだと、この時学びました
リディア・ターの振る舞いは、この鬼に少し似てました
鬼はビアンではなかったが…
思い出すと、今でも少しだけ過呼吸になります
歳のせい? 涙
この監督のリトル・チルドレンは大好き
物凄いエロスと物凄い大号泣だった
ポルシェ タイカンと、(たぶん)マイバッハ?が効果的だった
終盤は人生を物語る様に、5の型落ちタクシーへ…
(5も好きですが)
特にタイカンはプロモ映像みたいだった
タイカンを体感的な…
スポンサーなのか?
昔の日産みたいなエグい契約じゃなきゃいいけど…
映画冒頭でスタッフテロップ数分…少し嫌な予感
そしてレコードジャケットを素足で踏みつけるシーン
僕も踏まれたい
嫌な予感を払拭する、序盤から圧巻の台詞劇スタート
ワンカット?
ケイト劇場開幕ナリ
本物より本物に見えるインタビューシーン
指揮シーンの、字幕なしの流暢なドイツ語
インディジョーンズ4の、ゴリゴリのドイツ語も良かった
あれはハリソンを食ってた…
張りのないハリソンをゲシュタポ?ケイトが捕食
軍服もイイネ!
ハキュン
でも、コスプレならソーのヘラが1番
たしか、あの映画もケイトが全部持ってった記憶が…
そして走る姿が美しい
熟女系ターミネーター
なぶり殺されたい
銃殺は嫌
伏線が多いけど、結局は観客の集中力を持続させる為の、効果的なダミーだった
高級アパートに不釣り合いな、介護に苦労してる怪しい隣人
ダミーキャラなり
含みを持たせた人物ばかりだが、ほぼ全員美人なので見入っちゃう
ハニートラップ
ハニーフラッシュ
ハニーアントワネット
網にかかってマイっちんぐ劇場
珍しく毛の生えたマーク・ストロングマシン
バーコード・ストロングマシンに進化
退化?
芸術家的キモさは男の憧れ
人の事 言えない…
結局、損な役回り
ラストで見事に芸術的にボコられる…涙
このシーンが、かなり持ってく♪
貧乏ゆすりが止まらない人間バイブな黒人生徒
医者に行け…涙
中盤から現れる実力派美人チェロ奏者
童貞殺しのセーター(ワンピース?)に芸術を感じる
感汁?爆
こういう無自覚に主張の強い芸術家は本当に居そう
高嶋ちさ子?
サイコパス
チサコはパス
ケイトの演技に引き込まれるけど、あまり話が進展しない…
演技力に魅了されるけど、内容は薄味の芸能界あるある
徐々にホラー要素が増していく…ジョーカーみたいな展開だが、真相は明かされず
あまり長くは感じなかったが、3時間弱の割には、しれっと地味なラスト
でも現実味があって、これはこれで良かった
ラストのジャングルブックな観客は何者?
特に気にならなかったが…
後で調べたらモンハンのコスプレだった
モンハン知らない
ひたすらずーっと走ってるイメージ
ミラ様の映画は観たけど、相変わらずの夫婦イチャイチャ映画だった
たしか、まぁまぁ面白かった記憶が(爆)
ゲームはネオジオで止まってる…
龍虎の拳2がネオジオ ミニに入ってないのが残念である
そしてオーケストラと無関係な、サスペンスチックでややB級なED曲
劇中のコンコン ノック音は、隣の劇場からのこもれ音だと思ってたら、違った!
まさにダミーノイズ
集中力が少し削れた
意外とわずらわしい…
(ジャロに連絡)
映画鑑賞後に色々調べたら、殆ど全てが意味深い演出だったみたい
知らんけど
ケイトの独走演技に、終始ずっと包まれる
まるで高級ブランケットの様…では無いけれど
毛糸の様な?…絶対違う
圧巻の、ザ・ケイト劇場でした
芸術作品と人格、キャンセルカルチャー
芸術作品と人格のギャップを極端なまでにカリカチュアしたのは映画アマデウスであった。神に召されたかのような至上の音楽と、下品な若者モーツァルトのふるまいとの対比は、多くの人に芸術の理不尽で、気紛れな一面を鮮やかに知らしめた。リディアの芸術は、未だそこまで至高でもないし、振る舞いも概ね至って常識的。チェリストのオーディションはブラインドで満場一致の結果だし、副指揮者選定への一連の動きも至極真っ当に感じた。芸術家のステイタスは受賞歴やプライベートジェット、住処等で記号的に表現されていて、そこからの転落がサイコスリラーぽく曰く有りげにサブリミナルも交えて描かれているのだけど、そこはいまいち小粒でコントラストに欠けるきらいがあった。
権力とステイタスを手中にした者への厳しい姿勢は、SNSとスマホの発達によりますます苛烈になり、盗撮や意図的な編集により、何かあれば一瞬で引きずり下ろされて血祭りにされる。「でる杭は打たれる」のは小澤征爾のN響事件のように昔もあった。でもその後、作品まで封印されかねないのが現代の習いになりつつある。恐ろしい世の中だと思う。キャンセルカルチャーと言うらしい。殺人を犯したカラヴァッジョの絵は見てはいけないのか? 出演者に1人犯罪者が出ただけで映画やドラマが見れなくなるのはそれで良いのだろうか?
バッハが子沢山であったことから女性虐待と断罪して彼の作品は聴かないという男子学生のエピソードは、シナリオ上の極端な設定と言うだけでは済まなくなってきている。ジュリアードの学生がバッハのロ短調ミサやグールドのことを知らない訳もなく、あれは政治的な虚勢かもしれないが、リディアは真面目なのでガチで学生をやりこめてその一連のやりとりが盗撮アップされてパワハラとして晒されてしまう。実に立場逆転なのだ。
リディアがロボットと呼んで忌み嫌うSNSとスマホによる小さな正義を行使する人々は、一方で身近な神を生み、一方で振幅の小さな平準化されて清潔な世界を生み出していく。
一連のクラシックをめぐる蘊蓄の羅列やアナグラム(TAR→RAT→ART等)は、わからなくても余り問題は無い。むしろそれらを十ぱ一絡げに葬り去らんとする意図すら透かし見える。教養はマウンティングのためにあるのではなく「遊びの材料」ってのはタモリの名言。ドイツ語の字幕が無いのも敢えてだ。ヴィスコンティよさようならって。クラシック界も大きな変革の波の中にあり、レコードやCD等のパッケージメディアの終焉というかニッチ化に伴って、名門DGドイッチェグラモフォンも青息吐息だからこそ実名でのタイアップに応じたのだし、専制君主のような指揮者も、積り重なった玉石混淆の教条主義的な蘊蓄も最早既にオールドファッションだ。
だからこそラストのアジアの若々しい新興国での再生が意味を持ってくる。コンクールの覇者が近年殆どアジア勢であることが示すように新しいクラシックの可能性は確実にアジアにある。それは今までと異なる風変わりな、見慣れない外見を纏っているかもしれないが、音楽の本質は意外に変わらない。リディアが真摯なスコアリーディングから作曲家の意図を探っていく姿勢は、マーラーだろうがモンハンだろうが全く同じだった。この姿勢がある限り、明るい未来が確信できるラストが呆気ないけど良かった。
最後に一点、どんな音楽も根本には歌があり、同じ空間で空気の震えを共有するという原初体験は、異議噴出の冒頭エンドクレジットで流れる民俗音楽の歌で強制的に実現されていたし、リディアとオルガ(名前ヤバっ)の音楽による邂逅(作曲中の曲をピアノで試し弾き&チェロコン練習)は、息の合った合奏が高次の愉悦をもたらし、何よりもセクシーである音楽の秘密を示していた。てんこ盛りの映画だが、音楽の喜び、音楽への真摯な姿勢といった根本はきちんと表現されていたと思う。
映画にする必要はなかった。
ひとり芝居で充分だった。
ケイト・ブランシェットは良かった。
シャロン、フランチェスカ、
ペトラ、そしてオルガ。
脇が全く機能していない。
それぞれ芝居は上手で、
なんとなくリディアの事を、
それぞれ考えているのであろうことは伝わってくるが、
リディアの崩壊に(または、
それを食い止める役含め)、
どう機能させるかを、演出できていないのは致命的。
素晴らしいキャストが集まっているのにもったいない。
シナリオというより、
演出というか、
リディアに頼りすぎ。
もともと、シナリオには、
オーケストラのシーンが、
多かったのかもしれない。
それぞれとの関係を、
コンタクトを振るターで、
魅せることはできたかもしれない。
コロナ禍での大人数での、
撮影の大変さは身に沁みて共感できる。
シナリオの流れを考えると、
ラストの意味を多様に解釈することは困難。
クライマックスは超長回しで渾身の指揮!
と思ったら
クビになってわざわざ正装して、
晴れ姿を捉えるカメラアングルで
後任の指揮者にここはワタシの居場所よー、
と浴びせ倒すんかい!
最初の自己紹介、そして学生を追い詰める
この長回しには恐れ入りました。
それだけに上の描写には参った。
全体の演出としては、
更迭されたところもハッキリ説明してないし
わざと曖昧にしているが
ケイトブランシェットの熱演なら
明確に状況を表してもよかったんでは
ないでしょうかね。
70点
4
イオンシネマ草津 20230531
鏡
オープニングの演出に驚いた。一気に、ケイトが演じる役の世界観に引き込まれた!。鏡の演出、カメラワーク、音、全てを失った主人公が再び決意を固めたシーンなど、とても魅力的な女性で、この作品が10年後、15年後に再評価されると確信している。
てっきりジョーカーの監督だと
いつもの映画館②で
平日になかなか時間が合わず日曜日の昼の回に
ちょっと難解な文芸作品を想像していたら
想像以上にそんな感じだった
前半は睡魔に苦戦気味 ここまで長い必要はあるか
長台詞の応酬みたいなのを観るのが超苦行
最後の方は結構展開がポンポンポンと楽しめた
ラストはオラはユーモアと受け取ったのだが
どうなんだろう そもそも実話なんだっけか
何かモヤモヤシーンが多かったがそれはそれでまぁいいかと
・スマホのチャットのやりとりは誰と誰だ
・自殺したひとって画面に出てきたっけ
・隣人が新聞がどうとか聞いてくる
・公園の悲鳴
・冷蔵庫の音
・廃墟で誰に追われた
他の人のレビューが読みたくてしょうがない
こう思えるのはよかったということなのだ
自分の解釈は合っているのか…
同じようにとらえた人がいて嬉しかったり
別の解釈を知ってあぁと感心したりする
通常エンドロールで流れる情報がオープニングで出る
なのでエンドロールは短かめだった
ちょっとひねくれた監督なのか 実験的というか
巨匠的なひとなのか まぁそうなんだろうな
てっきりジョーカーの監督だと思って
観たいリストに入れていた
それはトッド・フィリップス 予約してから知った
ジェンダーというより「人間の業」をエグる作品
今年のアカデミー賞作品ノミネートで気になっていた作品。権力・クリエイターって何?と考えさせられるテーマ。
ベルリン・フィルの主席指揮者で女性のリディア・ターが主人公。マーラーの全交響曲をベルリンで振ってCDにするぐらいの第一人者。そのリディアが欲しいままにした権力と、指揮者としての才能が徐々に崩壊していく様を描くヒューマンドラマ。
映画的には、まずは音でしょうね〜。クラシックをテーマにしているので、当然に演奏シーンの迫力があるのですが、リディアがだんだんと堕ちていき、精神が蝕まれていくのを、色々な「雑音」で表現している。隣人の呼び鈴、人の叫び声、メトロノーム、冷蔵庫の音(お〜、ハチクロじゃん!)、様々な雑音が彼女を追い込んでいく。もうドラマではなく、ホラーですわ。
で、主演のケイト・ブランシェットは凄いの一言です。ピアノでバッハを弾くは、マーラーを振るは、ドイツ語とアメリカ英語(確か彼女はオーストラリア人)はペラペラだわ。何よりも、この主席指揮者様の不遜で堂々とした態度を強烈に示しています。
物語的な妙も素晴らしいですね。これ、高名な指揮者がセクハラとパワハラしまくる話で、実際のカラヤンやバーンスタインの逸話が元ネタ。でも、それに1つ決定的な嘘を入れるだけで、そんなゲスな話が深い話になる。それは「高名な指揮者」を女性にしたこと、です。
ただその1つの嘘で価値観がひっくり返るんです。指揮者とコンマスが付き合って、エコ贔屓でソリストを決めるなんて、男性の指揮者を主役にしたら、いまのポリコレ世界では作品になりませんよね?でも女性なら、立派なジェンダーもの、になる。これも痛烈な皮肉ですよね〜。
やりたい事を成し遂げるためには、名前すら偽り(リンダ→リディア)、あるべき姿を演じて嘘を重ねる。そうして築きあげた権力の前には男も女もない。何かを得るためには、何か失わねばならない。で、全てを失っても、フィリピンでモンハンのゲーム音楽の指揮をしてでも、クリエイターはやめられない。
決して面白い作品でも分かりやすい作品でもないので、おすすめはしませんね。
ただ、恐ろしい人間の業を描いた傑作なのは間違えないです。
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