TAR ターのレビュー・感想・評価
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まさかのモ○ハ○エンド
何だろう?一言でいうと中途半端。
孤高の女性指揮者リディアが冒頭トークショーで何言ってるか全然わからん高尚な音楽理論?思想?を足組んでダラダラお喋りになりーの、娘を虐めてたガキンチョに圧をかけーの、指導先音大で意識高い系貧乏ユスリ音大生ニキの鼻先をボリッとへし折りーのと、まー此処まではヤリ手女の(意地悪)充実ライフだったんですが、若手女性指揮者を自殺に追い込んだ事を切っ掛けに、信頼していた助手の裏切りやらパートナーに愛想付かされ娘とも会えなくなりーの、追い詰められて知り合いオッサン指揮者に突如殴りかかってベルリンを去る事に。
途中メトロノームの音が気になったり、ロシア女の後追って地下廃墟で襲われたりするのって何かの伏線かと思いきや何もなし、、、。
挙げ句、どこぞの東南アジアでモンハンコスのコンサートで終わるって何ですかコレ?
ハッキリ言って、しょーもない映画だったが、隣人に騒音の苦情言われてヤケクソになりアコーディオン掻き鳴らして隣人の悪口歌うシーンだけは涙が出る程笑ってしまったw。
行ったタイミングが悪かった(タイムリー過ぎた…)
まったく予習無しでいったのだが、観続けるにつてれ歌舞伎の猿之助さんスキャンダル&事件が頭の中で巡り続けて、いまいち作品に没頭できなかった(笑)
前半のセリフも長くて字幕追いきれなかったし、有料パンフレットも欲しいしのでもう一回観に行くしかないな
ケイトが全身全霊で魅せる
ダイナミックで繊細なひとつの芸術品のように、タクトの先から広がりホールを駆け巡る音のきらめき
作り手と受け手のその場の空気を一体化させ束ね織りなす天才的カリスマ指揮者のストイックさが産む技
それは脚光の裏にある妬み嫉みを跳ね除ける類稀な集中力と努力の賜物でもある
反面、孤高の闇が本人も知らないうちに疲弊させる心
現実と妄想が入り混じる緊迫感あふれる場面が重なり暗雲が立ち込める
加えて消えないイメージは肥大し続け形のない凶器となり突き刺さる
それでも止まない精神力はそれすら燃料にして走る
積もる灰にうもれていくのはあどけなき夢の跡
あのときTARがこぼす涙
その穴は誰が掘ったのか
その影は何がつくったのか
自分を離れ勝手に育っていくオーラに、見失わないものを保つのがいかに難しいことなのかを感じる
そして、そんな荒波をも超え遂げていく稀有なひとびとの存在も頭をかすめる
すうっと一呼吸おくとそこには讃えるべき同じにおいがすることに気がつく
純粋なものに触れて再生するはじまりの記憶
TARは確かにチャンスの前にいる
私たちは、他を傷つける愚かさに呑まれやすい人間だ
知らぬ間に加害者になっていないか
前を向き過去から進もうとする人を見守ることを忘れてはいないか
身近なことにも置き換え、そんなことも問われている気がした
リアリティのあるクラシック映画だが、あまりにネタが生臭くてくたびれました……
先に観に行った会社の後輩に「まさに●●さんのための映画ですよ」とか言われて、じゃあなるべく早く観るよ、と慌てて行ってきた。
たしかに、僕はマーラーをこよなく愛している。
年間100回を超えるクラシック鑑賞のうち、10%はマーラーの演奏会だ。
1980年代までのマーラー演奏のCD音源も、90%くらいは蒐集できたと自負している。
交響曲第5番は、第9番ほどではないにせよ、とても好きな交響曲だ。
しかも、主人公のリディア・ターは、レナード・バーンスタイン(愛称レニー)の弟子という触れ込みらしい。
さて、あの若い男が大好きだったレニーが女の弟子なんかとるもんかしらん、と思わないでもなかったが、いざ観てみたら、思っていた以上に「そっち方面」の話に深く食い込んだスキャンダラスな映画だった。
結論からいうと、さすがにちょっと生臭かったかな?(笑)
あまりにセクシャリティとMeTooの問題にのめり込み過ぎてて、音楽家としての苦悩とかの「ぜひ観てみたかった」話が3、同性愛やら告発絡みの「僕にとっては関心の薄い」話が7くらいの割合になってしまっている。
このバランスが逆くらいの仕上がりなら、もっと素直に楽しめたんだろうけど。
なんか、よりによって猿之助があんなことになっちゃった日に、
よもやこんな内容の映画を観るはめになるとはなあ、と
ちょっともやもやした気分に。
単なる同時性ってやつかもしれないし、ジャニーズ、歌舞伎、クラシックなど、旧弊な芸事における「支配者による性的搾取/表面化しにくい同性愛の性被害」に世界的にメスが入り始めた時代のただ中にいるということかもしれないが、現実ですでに猛烈にいたたまれない、報われない気分になってるのに、さらに追い打ちをかけるように映画でまでおんなじような話を観させられるとね……。
この映画の前提として、
●クラシック業界には星の数ほど同性愛者がいて、無視できない勢力を形成していること。
●レニーもバイセクシャルで、自ら「芸術家はホミンテルンじゃないとな」(ホモ+コミンテルン)とか言ってたこと(弟子も大植英次とか佐渡裕とか……)。
●近年、女性指揮者の進出が目覚ましく、ようやく女性の常任指揮者も増えてきたこと(昔はシモーネ・ヤングくらいしかいなかった)。
●ベルリン・フィルの常任指揮者は、大戦中のフルトヴェングラーから、カラヤン→アバド→ラトル→ペトレンコと引き継がれていて(映画で出てくるリディア・ターの前任者は架空の人物)、フルトヴェングラーは戦争協力者として訴追されたこと。
●カラヤンは1982年にクラリネット奏者のザビーネ・マイヤーを強引にベルリン・フィルに入団させようとして、当時100年近く「男性だけのオケ」でやってきた楽団員と対立し、マイヤーは入団できず、カラヤンとオケの蜜月も終わったという事件があったこと。
●ベルリン・フィルは自主運営の団体で、指揮者の選定から広報まですべてを楽団員自身が民主的に決定し、自ら業務にあたっていること。
●MeTooの流れはクラシック界でも席捲して、アメリカではドミンゴ、デュトワ、レヴァインなどの追放者が出て、コンセルトヘボウでもガッティが追い出されるなどしたこと。
といった、業界基礎知識がないと、なんでこんな話になっているのかよくわからないんじゃないか。ちなみに、目覚まし代わりに流れるショスタコーヴィチの交響曲第5番「革命」のオーラスで、リタルダンドをかけてリディア・ターに「性行為の喘ぎ声じゃないんだから」みたいなネタをかまされているマイケル・ティルソン・トーマスも、バーンスタインの弟子であり、かつカミングアウトゲイである。
全体に、実在の演奏家に対して、ずいぶんと「失礼」な映画ではある。
「失礼」だという言い方が耳障りならば、えらく「攻めてる」映画だなあと。
リディア・ターが脚でマーラー5番のレコード盤を「仕分け」していく印象的な冒頭のシーン(最後に残されているのは、レニーとアバド)や、実名で性犯罪者呼ばわりされるドミンゴ、デュトワ、レヴァイン、明らかに男色ネタを匂わせながら名前を引き合いに出されるレニーやMTTなど、個人的な印象でいえば、存命者もいるのに「よくこんな失礼な取り上げ方、実名出しながらできるな」と思わざるを得ない。
ベルリン・フィルも(映画内でモロの実名が出てたかは定かではないが)よくこんな映画で自分のオケが使われること許可したよなあ、と。たぶん、逆に長年女人禁制でやってきたことへの贖罪とか、ちゃんと近年のポリコレ機運には対応してるよとアピールしたかったんだろうけど(ちなみに実際に演奏したりしているのはドレスデン・フィル。マーラーだとケーゲルとの第1番のセッション盤と第3番のライブ盤がつとに名高い)。
なんにせよ、ニューロティックだとかひりひりするだとか、サスペンス的要素を評価する以前のところで、とにかく監督の「底意地の悪さ」がじゅくじゅくとにじみ出てるんだよね(笑)。
なんで、この文脈で実名出さないといけないの、みたいなのもそうだけど、
話のつくりにしても、全体にわたってかなり嫌~な話で、出てくるやつはみんな勝手なうえに精神不安定のメンヘラばっかり、どいつもこいつもターへの依存度が高いわりに、簡単に裏切るし、寝返る。「情」を感じさせる人間がどこにもでてこない。
あまりに同性愛絡みの話にねちねちと執着しているのも観ていてしんどいし、ちょっとでも問題が明るみに出たら寄ってたかって引きずりおろしにかかるキャンセルカルチャーも十分気持ち悪く描かれていて、このノリを150分の長きにわたって観ていると、だんだん心がうんざりしてくる。
観る前はダーレン・アロノフスキーの『ブラック・スワン』(2010)みたいな映画なのかな、と思ってたんだけど、あの作品ほどヒロインに感情移入させてから揺さぶって来る作りじゃないから、超優秀だけど高圧的なオバちゃんが、はめられてボロボロになってくのを観てても、そこまではまれないんだよなあ。いや、ケイト・ブランシェットはマジで凄いけど。
とはいえ、声高に性的虐待やLGBTQやMeTooを主張する側の論理と、それによってキャンセルカルチャーに攻撃される側の論理については、どちらも相応にバランスよく配されていた気はする。
たとえば、ジュリアード音楽院のレクチャーで、バッハが20人子供を作ったドイツ人男性だから受け入れられないと主張する黒人のゲイは、明らかに「ばか」で「くだらないやつ」として描かれていて、リディア・ターにこてんぱんにいじり倒されて留飲がさがる(あとあとここにも落とし穴が待っているのだが)。
また、フルトヴェングラーのナチ協力者疑惑についても、それなりに擁護者側からの反論が紹介されていて、視聴者に最終判断を預ける形をとっている。
とはいえ、「こんな話ばっかり頭から終わりまでしつづけている」こと自体が、観ていてしんどくなる理由だともいえる。
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肝心のマーラー交響曲第5番のリハーサル・シーンは、なかなか見ごたえがあった。
大学生時代、学内オケに所属していた先ほどの会社の後輩も、「リハーサルシーンはすごい臨場感で、ほんとのリハの現場に居るみたいでした!!」と言っていた。
マーラー5番のリハについては、レニーがウィーン・フィルとの映像全集を作ったときのものが残っているので、たぶん映画製作者も結構参考にしていると思う。
あのレニーのリハ映像で、第一楽章冒頭のトランペットソロの12小節目、一般に「吹き癖」で直前の付点につられて「タッタタター↗」と節をつけがちなのを、ここは三連符だからちゃんと「タタタター↗」と吹くようにとレニーが指示する印象的なシーンがあるのだが、一応リディア・ターの演奏でもちゃんと「タタタター↗]となっていた気がする(少し怪しいけど)。
終盤出てくる「別の指揮者」の演奏だと、思い切り「タッタタター↗」になって聴こえるので、そこはやはり「わざと」差異を強調してあるのかもしれない。
ただ、冒頭のトランペットを下手袖のバンダ(別動隊)にするアイディアは、スコアや演奏効果を考えるかぎり、個人的にはあまりいいアイディアとは思えないけど……(最初のffのところでやっぱりTpの音は壇上から客席に突き刺さらないとダメでしょう)。これまでに誰か、こういう趣向やったことがあるんだろうか? たぶん、交響曲第1番の第1楽章のバンダに発想を得ているのかもしれないが。
ターのアプローチは、フレーズが引き伸ばされていてアタックも激烈で(とくに2楽章の入り)、アバドやラトル以降の趨勢から比べるとかなり主情的だ。師匠とされるレニーのスーパーロマンティシズムを引き継いでいるといえるだろう。
ライブの前半で演奏するエルガーのチェロ協奏曲は、劇中でロシア人チェリストが憧れていると言及してきたジャクリーヌ・デュ・プレの得意曲。彼女は難病に犯され早逝したが、リディア・ターが名前を挙げた、当時の夫ダニエル・バレンボイムとフィラデルフィア管がバックを支えたライブが残っている(バルビローリとのスタジオ録音もある)。
いずれにせよ、クラシックを題材とした作品だと、なんでこんな設定にするのだろう? という映画もたくさんあるなか(なぜかコンサートのメインが協奏曲になってる『オーケストラ!』とか、指揮者の勝負曲が「マタイ受難曲」の『ポンポさん』とか)、ちゃんとリアルな演奏シーンを緊迫感をもって仕上げてくれたのは素晴らしいと思う。
また、オケが崩壊したり指揮者が退任するのが、たいてい「人間関係」か「性的なもめごと」だという「クラシックあるある」をきちんと踏まえた内容になっているのも良い感じだ。基本、クラシック業界ネタ映画としては、今までないくらいの完成度だと思う。
その他、気づいた細かなことなどを。パンフを買い損ねたのでよくわからないことも多いんですが。
●会社の後輩から「TAR」が「ART」のアナグラムじゃないか、という話は事前に聞いていたが、作中で何度も実際に、ターや助手がアナグラムで人名を綴り変えるシーンが出てくるのね。これ、レニー由来で、ユダヤのカバラと関係あるんだろうか?
●冒頭からしきりにターが手を洗う描写や、おまじないの九字みたいなのを切るしぐさ、不眠、薬漬け、冷蔵庫の音が気になる描写などがあって、彼女の潔癖症ぶりや虚勢、神経質な部分、支配欲などが端々の描き方でうまく出るように作られている。
●音響はいろいろすごかった。とくに異音やノックの音、咳などが、映画館の右後方から飛んでくるので、最初ほんとに観客のノイズかと。今はこんなことできるんだね。
●各シーンのつながりをぶつっとした感じにして不安を煽る編集や、廃墟の怪しげな描写、奇怪な隣人など、アロノフスキーやデイヴィッド・リンチぽい部分も含めて、雰囲気は良く出ていたと思う。ただ、いまいち意味のとりにくいショットが多いんだよな。
●最終盤に、ターが自宅の隠し部屋みたいなところで、レニーの「ヤング・ピープルズ・コンサート」のビデオを見て涙を流すシーンがあるが、あれ再現だよね?(声も顔もレニーとちがう気が) 総じて、ターがレニーの弟子っていうのも「眉唾」というつくりに映画はなってて、もしかするとこの録画テープを何度も何度も見ただけかもという疑念も……。
あと、家族の呼びかけで「リディア」が本名ではないふうな描写があって(それとも綽名で呼ぶのをやめただけ?)、リディア・ターというミューズが、片田舎の少女が背伸びをしてつくりあげた「虚像」であることがよく伝わる。
●ラストは最初虚をつかれてトンデモエンドかと思ったが、そのままエンドロールを見ていて「どういうコンサートで客が誰なのか」は理解した。なるほどその手のをやるところまで……って話なのね。そんな曲でも「作曲家の意図は?」とか言ってるのがまた切ない。でも、ポリコレの重要な本作で『地獄の黙示録』みたいな流れになるのっていいの?(笑) レズ性風俗も含めて、70年代映画の東洋見下してるトンデモ感がプンプンするけど。
強い者イジメ
今回は一部ネタバレしていますが、元々ネタバレという概念が意味を成さない作品でした。
いやぁ~、中々の曲者映画でしたねぇ。
なんか、鑑賞者(社会)をかなり挑発している様にも思える作品で、まるで映画鑑賞偏差値を測られている様にも感じられ、映画ファンにとっては下手な感想は書けないというプレッシャーまで感じてしまう作品でした。
なので、そこそこ映画好きを自称している人たちは褒めるしかない様な構造の作品でもあって、私も観終わって思わず唸ってしまった一人です(苦笑)
本作の主人公であるターという人物像は、映画の情報でちゃんと見せていてそこに嘘はないが、それはあくまでも断片的なピースであって、観客はその情報を繋げて全体像を想像するのであって、下手に断定的な解釈の感想になると「こいつ、なにを見ているんだよ」って話になってしまう怖さがある作品なのです。
そこで、今回は何故こんなにも観客にとって意地悪な作品を撮ったのか?を、私なりに考えてみました。ちょっと長くなるかも知れませんので悪しからず。
それはけっこう単純に、今のマスメディアやネット社会の全世界的に共通した問題に対する問題提起であり、異議申し立てだったように思えるのです。
まず、その問題点を箇条書きで挙げると
・信憑性のない情報
・情報の漏洩
・プライバシーの侵害
・匿名性の悪用
・依存症の問題
などが代表的な問題点ですが、本作でも上の4項目でターの精神は壊されてしまいました。
ネット社会ではこれを“キャンセルカルチャー”と表現している様で、意味合いとしては「特定の著名人などを糾弾し社会から排除しようとする動き」のことで、現実社会でも下種な芸能不倫ネタから“ミートゥー運動”まで様々な事例で溢れています。
ターは人格的に見るとかなり問題はありそうだし、全面的に応援したくなるようなタイプでもないが、ここまでやられなければならないのか?を考えると、やはりやられる側よりもやる側の方が病み(闇)が大きいと思います。
本作ではターの仕事とプライベートが交互に映し出され、仕事に於いては才能を遺憾なく発揮し大きな問題はなく、むしろ周辺の愚鈍さが目立つほどで、プライベートの方は曖昧な情報しか映画では得られないが、彼女に関わって不幸になったとしてもその責任は五分五分の筈。
それでも普通の(才能)の人々は、特別な(才能)にヤッカミ、嫉妬し抹殺しようとする。
私は彼女の様な人間に好意は持てないかも知れないが、才能は才能として認めたい方の人間なので、例えば冒頭の生徒への指導のエピソードも真っ当な指導だと思えたし、逆に生徒の方が何百年前の大作曲家に対し、その当時の文化や世相や常識を無視し、今現在の己の価値観だけで作品までも全否定する姿こそ、上記の問題点を象徴するようなネット民寄りに感じてしまいました。音楽偏差値の低い私でもそう思ってしまいましたよ。でも、あのシーンを見てあの子が可哀想と思った(映画偏差値の低い)観客も結構いるのでしょうね。
正論に対して“クソ女”としか返せない幼稚さや、周囲の学生もあとで盗み撮りの編集動画をUPする矮小さなど、音楽の超名門校の生徒ですら、特別な才能との違いにはこの程度の行動を起こしてしまう情けなさに加えて憐憫まで描かれていました。
まあ、刺さるか刺さらないか別にして、とにかく今を描いた傑作であることは間違いないのでしょうね。
とりあえず、私はケイト・ブランシェットのファンなので、彼女の演技を堪能できただけでも満足でした。
ラストシーンは意味が分からなかったのですが、後で別の人のレビューを読んで理解しました。どうせなら、あのシーンは日本で撮って貰いたかったですねぇ。
158分はそれにしても長い
「衝撃のラスト」に誘われて公開前から期待していた映画だったのですが、自分の中でハードルを上げすぎたのかそこまでといった感じ。
やっぱり158分は長くて、序盤が少し冗長に感じた。後半面白くなってくるところでトイレ我慢しなきゃいけない。
勿論ケイトブランシェットの演技は凄くて、キャラクターなのに実際にいるんじゃないかと思わせるようなリアリティ。
この映画の面白いところは、断片的な情報しか与えられていないので結局のところ真偽は分からない。そこを補完するパズルのような映画だと思った。
圧倒的なカリスマが権力による搾取や横暴を振りかざしていたら、告発により瓦解して全てを失うといった構図に取れる。
しかし、ベルリンフィルで客演から首席指揮者まで登り詰めたのも妻シャロンの手引きであったり、インタビューの回答もフランチェスカによるものだったり、実際は周りによって造られたのが正しいのかもしれない。
ラストのモンハンコンサートは追放された果てに辿り着いた転落の終着点に取れるし、実家に戻って涙した音楽番組のように、「音を楽しむ」と書いて音楽の原点に立ち返った新たな出発点にも取れる。
圧巻のケイト・ブランシェット
作品のテイストがとても新しい。クラッシック界を舞台に伝統や歴史を重んじる要素もありつつ、実際はいかにも今っぽい、多様性、LGBTについてが自然と絡みつつ、人間の欲望、妬み、嫉妬、虚栄心が状況を複雑にしていく。SNSのチャットや切り取り合成動画などで、一方的に叩かれるが、その中で、何よりも音楽のことを考え、音楽の高みを目指すことがPriority1st。だがそれを理解してくれる人は、いない。
とにかくケイト・ブランシェットが圧巻で、Tarそのもの。狂気と見るか、情熱と見るか。是非スクリーンで見ることをお勧めしたい。
完全に架空の設定なのにこれは無い。
いつもは賞レースの主要部門に絡む作品は一歩引いて見るのだが、あまりにも印象的な予告編の指揮振りに興味を持ってしまった。クラシックは最近あんまり聴いていないけど、CD1000枚位持ってるし。(勿論正規版、最近輸入盤のBOXは異常に安いのであります)
でも、現実の団体・人名を出して、ドキュメンタリーならともかく。ベルリン・フィルはどう思っているのだろうか。カラヤンやアバドのアルバムを足で扱うとは😠
ストーリーもさっぱりわからない。パワハラなのかなジェンダーなのか。
序盤から中盤もラストも。イライラ・なになにの連続。
自分基準からするとアカデミー賞受賞総ナメでいいんじゃないかな?
でも、主演のケイトの演技は素晴らしかったと思ったのは本当です。
すっきりしないが引き込まれる
難しい。まさに難解な作品。
『セッション』の先生側視点で描かれ、生徒が耐え切れずに逃げ出した……みたいな印象。
ターの行いは、およそ過去にあったであろう様々な人々の行ってきたセクハラ、パワハラを体現したもののよう。
噂に聞く、カラヤンのエピソードとかに似たものもあれば、ネットの動画(複数の発言を編集したものが)炎上まであり、古今東西の「成り上がり頂点に立った人間の思い上がった態度」を全て実行。
また、『砂の器』のごとき、クラシック音楽界の権威主義と足の引っ張り合い、罠にかける人間関係なども描かれ。
「これただ不快なだけじゃない?」とか「スリラーホラーの文脈で見ればいいの?」とか「新手の嫌がらせ?」とか思い悩みつつ観ていました。
謎が謎のまま終わった部分も多く。
公園の叫び声はなんだったのか?
結局メトロノームは誰が鳴らしたの?
なくなった楽譜は誰が持って行ったの?
などなどすっきりしないままでした。
その解明・説明は物語上には不要だということなのか?
いろいろ謎解きがしたくて2回目を…と一瞬思うが、それにしちゃ長すぎる158分なんすよね。
ラストはどん底からの再生であり、彼女にとっての救済だと思うのですが……
すっきりしない。
それでいて、画面から目が離せない。
引き込まれた。
面白かった。
十分な睡眠をとったうえでの鑑賞をお勧めします。
ケイトブランシェット主演、しかも彼女の最高傑作というふれこみもあり、気合を入れて朝イチ鑑賞。
予告で、超一流指揮者の転落劇ということは分かってたけど、そこまでの話が私には高尚過ぎて、もともと敷居が高いクラッシック界が余計に縁遠い存在に感じた。
映画が始まってすぐ、民族音楽とともにあれ?これってエンドロール?という画面が続き、その後、ターのインタビュー場面が続くので、睡眠たっぷりとった朝イチ鑑賞で良かった。
もしこれがレイトショーなら完全にここで寝落ちしてた気がする。。。
そこを乗り越えてから転落劇が始まるまで、あまりストーリーの起伏無く淡々と進んでいくので、クラッシック界と縁遠い自分としてはかなり長い時間に感じた。
が、転落劇が始まったら終わりまであっという間で、最後のシーン観てもう終わり?何これ???っていう感じ。私以外の人はこの映画理解できたのか?と周りを見回してしまった。
まぁ、その世界を突き詰めた超一流ゆえの慢心が引き起こした転落劇なんだろうけど、その超一流として生きていたターよりも、転落して最後モンハンのオーケストラの指揮者の時の方が案外幸せでは?と思えたりもした。
クラッシックというだけでも重いのに、そこに同性愛や、立場の特権利用など、現代におけるテーマを盛り込み、ケイトブランシェットという深みのある演技の女優さんを主演に据えたことで本当に重厚な映画になっているとは思うけれど、もう少しストーリーに起伏が欲しかったし、専門用語も多いので、観る人を選ぶ作品かもしれない。
アイロニーとサポート
Tar
冒頭のインタビューでも、ターは熟考し雰囲気に調和する形で答える。一歩自分と線を隔ててはいても、同業者と師匠のことを立てている。音楽に対しては、誠実に向き合い、文化を維持しようとしている
ケイトの演技によって、流れるように見せられる生き方だが、水面下では過去と現在の爆弾が近づいている。
口演の練習のためただ音声を流している、生家に戻った時に行われる会話、生きづらさを垣間見る。関係性も互いに複雑だが、それぞれに愛情を抱いているようにも思える。基本静寂の映画なのに(音楽も含めた)雑音が話題に上ったり、アートも大衆の評価から逃れられなかったり、振り返り思うことは多いが、最後のシーン、演者達を紹介するターの所作が希望を写している。
人間の欲望は尽きない!
この映画は気持ちのいい内容だったとは言えない。ベルリンフィル(実際はドレスデン交響楽団)の常任指揮者までになったターの人を蹴落としていく、おぞましき悪行とその結果であって、最後はフィリピンで娯楽のオーケストラの指揮をして、人生を再発見しようとしている。悪行といってもこうやって出世していって平気な顔をしている人びとは山ほどいると思う。また、フィリピンに行って、ビデオゲーム?モンスター・ハンターの音楽の指揮を
め、出直しているが、やり直していても似たような失敗を繰り返すような気がした。欲というのは永遠に続くと思わせている。
この映画の出だしはテックスト・チャットからで、何か不穏な雰囲気をすでに漂わせていた。読むことができないなと思っているうちに、ニューヨーカー ・フェスティバルでのアダム・ ゴプニック(Adam Gopnik)本人のター(ケイト・ブランシェット)へのインタビューに入る。そこで、ベルリン・フィルと。ええ!ベルリン・フィルに女のコンサートマスターはいるけど、指揮者はいない。おかしいなあと思いウィッキーで調べたら、本当の話じゃないと。(私はこの女優ケイト・ブランシェットを全く知らなかった)ちょっとがっかりしたが、私はクラシックが好きなので観てみた。
そのうち、ドラマだとわかったが、インタビューの前のアダムの略歴紹介で驚いた。東ペルーのウカヤリ川に住んでいるシピボ・コニボ民族(Shipibo-Conibo)の音楽まで研究していて、世界的に経歴のある女性指揮者でなんでもできる人なんだと感心して見ていた。ターはマーラに親和性があって、ベルルンフルで第五だけを残して全て演奏している。これを指揮すれば、マーラが完結するのだ。それに、第五のアダージオ(Mahler: Symphony No. 5 Fourth Movement (Adagietto))はロバートケネディーの葬儀の時、バーンスタインが指揮をしたと。バーンスタインはターの師匠なのであると。この結末はターにとって口惜しいだろうね。
ターはジュリアードでマスタークラスを持っていて教鞭をとっているがこのシーンは結構複雑で理解に苦しむ。彼女は指揮者の青年に音楽に挑戦させている。青年はバッハのような白人の男のクラッシックに拒否反応を示し彼女はその性別のステレオタイプに反論を示しているようだ。
ターは挑戦的な人で、その後ニューヨークで食事をした時、クリスタ・ テーラーの小説の初版本を受け取るが破り捨てる。自分も『ター オン ター 』という本を出版する予定だから。先を越された?というような、競争心のある、攻撃的な態度に出る。
この映画はターの芸術に対する狂気が丸見えで薄気味悪く、好感が持てなかった。ベルリンフィルを指揮をしている時も、完全主義と言おうか自分の思っている音楽を作れないから、時々は冗談も言ってるが、きみ悪く、ターの敬服しているレナードバーンスタインのような雰囲気は全く持ち合わせていなかった。
ターはベルリンに帰ったが、指揮者を解雇され、シャロンも疑惑だらけのターを信じることができなく、娘から離した。
ターはベルリンフィルが新しい指揮者でマーラーの第5番をライブ録音するところに入り込み、後任の指揮者エリオットに殴りかかる。おぞましい狂った姿のター。
最後の方で、一番好きなシーンだが、ターは故郷に戻り、レナード・バーンスタインが音楽の意味について語るコンサートの古いDVDを涙ながらに見ている。初心、忘れるべからずのいいシーンだ。ターはバーンスタインの言葉に共感して、この道に進んだはずだ。
TAR=汚名を着せる
主人公の栄光と転落を描くのだが、ハッキリ言って非常に分かりづらい。
結局どれを誰がどういう意図で行っていて、何が現実で何が幻覚や妄想だったのか。
メトロノームは誰が?フランチェスカがメールを消さなかったのは故意?動画を撮影してアップしたのは?
オルガを追った先も人が住む場所には見えなかったが。。
ドイツ語のところで字幕が出ないことが多いのも不満。
物語として支障はないのかもしれないが、オケに指示を出すところなどは絶対に出すべきだった。
その内容や語調にリディアの人柄も、音楽や人との向き合い方も出てたハズだから。
全編通してだが、終盤は特に断片的なカットが細切れにされて意味不明。
「あれはモンスターハンターが云々」というのも見かけましたが。。
クラシック音楽を題材とした映画に特定のゲームを予備知識として求めるのは不誠実と感じます。
こちらも曖昧に描いているとは思うが、リディアが傲慢だとは自分は思わない。
音楽にも人にも彼女なりに真摯に向き合っていたのに、些細な行き違いと、嫉妬や逆恨みの連鎖があの結果を招いたように思えます。
古いビデオを見るリディアの目に光が消えていないところは救いか。
23-069
ケイトブランシェットの演技に終始圧倒された。冒頭のインタビューから引き込まれる。
男性社会の中で女性が頂点を極めるのは、
並大抵なことではないと思うが、
残念ながら転落の要因には男も女もない。
傲慢、羨望、嫉妬、色恋、浮気
やってる事が男と同じ😭
まぁ娘のパパだから仕方ないか😫
サスペンスでもミステリーでもない
クラシック音楽はあまり得意ではない。好きな曲もあるが、幅の広さと奥深さに尻込みしてしまう。そもそもポップスやロック、ジャズの感覚で考えるとクラシック音楽はすべてカバーなんだよ。指揮者の解釈・演出で曲の聴こえ方も変わってくる(らしい)が、それも細かいディテールの話。素人には誰の指揮したバージョンがこう違う!なんてことはわかりもしない。
本作でもリディアがもっとこう!なんて指導して演奏を変えてもその違いはよくわからない。でも指揮者がオーケストラの中でどれだけ力を持っているのかがわかれば十分。スキャンダル的なものに巻き込まれて、精神が不安定になっていく様は緊迫感があってよかった。
ただ、最終的にモヤモヤが残る。それもかなり。あの人がやってたのか!とか、実はそうだったの?なんてことが明らかになるわけではない。成功者の転落が淡々と描かれるだけだ。え?これで終わりなの?と思ったのは私だけではないはず。映画ってそういうもんだよな。整合性があるものだけが面白いというわけではない。
そして主人公が女性指揮者で、レズビアンで、パワハラセクハラの疑惑があるという設定が現代的だと感じた。今までなら男の指揮者でパワハラセクハラしまくる主人公になっていた気がする。セクハラやパワハラについては真相がはっきりしなかったこともあるが、リディアがそんなに悪いやつだとも思えないでいる。人が落ちていくのはなんと些細な理由なんだろうという気持ちになってしまう。それが監督が伝えたかったことなのか?
難しい話で冒頭が長い。 28点⇒56点
最初が長すぎて寝てしまった。他のお客も寝ていて、いびきかいてました。。
なんだろうね、、、最後の結末とは?
あまり指揮しないし、なんなんだろ?
よく分からないです。難しい映画!
ただただ長い映画拷問。
指揮している主人公は輝いてカッコよかった!
自分みたいな人はアクション映画で頭空っぽで見れる映画が好きかもしれないことに気づかせてくれた映画。
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