「『リディア』、もっと音楽に没頭しなさい」TAR ター ジュン一さんの映画レビュー(感想・評価)
『リディア』、もっと音楽に没頭しなさい
『リディア・ター(ケイト・ブランシェット)』は時代が産んだマエストロ。
「ベルリン・フィル」初の女性首席指揮者であり
作曲もこなし、アマゾン原住民の音楽にも造詣が深い。
冒頭、対談形式のセッションでは
彼女の経歴が延々と語られ
『レナード・バーンスタイン』の弟子ともされている。
劇中名前が挙げられる多くの人物は実在。
それを巧く絡めているため、
架空の主人公があたかも現実に存在するように錯覚してしまう脚本の妙。
彼女の楽曲に対する解釈は
同業者が教えを乞うほど独創的。
自己プロデュースも完璧で、
自伝を出し、
出資を募り女性指揮者を育て上げるプロジェクトを立ち上げ、と
次第に自身の権威を高めて行く。
私生活ではレズビアンを公言。
現在のパートナーは楽団のコンサートミストレスであり
また、養女の溺愛ぶりも膏肓に入っている。
その一方で、得た権勢を自身の欲望の為に行使、
意にそぐわぬ時は容赦なく切り捨てる非情さを持つ。
そんな彼女が、
新曲の作曲の行き詰まりと、
〔マーラー 交響曲第5番〕のLIVE録音へのプレッシャーから精神の均衡を崩し、
加えて私生活の、とりわけ性的嗜好の絡むスキャンダルから次第に追い詰められていく。
嘗ての音楽家と「ナチス」との関係性が
『フルトヴェングラー』や『カラヤン』の名を示し語られる。
〔マーラー 交響曲第5番〕は〔ベニスに死す(1971年)〕でも使われ、
そこからは撮影時の『ルキノ・ヴィスコンティ』による男優の扱いを思い出させる。
力は「セクハラ」や「パワハラ」と
どれだけ結びつき易いかの暗喩が次々と提示され、
それは『ター』とて例外ではない。
権力者が次第に腐敗する世の常を非情な眼差しで描く。
『ター』が堕ちて行く過程は、
あくまでもスキャンダルによる部分が大きく、
〔ブラック・スワン(2010年)〕のように芸術に惑わされた末による純粋な悲劇とは異なり
もやもや感は残る。
また『ケイト・ブランシェット』からは
〔ブルージャスミン(2013年)〕での演技に通底するエキセントリックな印象を受け、
新たな境地とは言えぬうらみがあり。
その一方で、同作の監督『ウディ・アレン』による性的虐待を想起させる
副次効果もあるのだが。