TAR ターのレビュー・感想・評価
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緩やかに崩れ壊れていくリディア・ターの世界
権力は身に纏う者と同時に関係も変えてしまう。
ターが権力を纏うようになったのは、自らの能力による結果としての側面がある一方、「ベルリン・フィルで女性初の首席指揮者に就任したい」「公私ともに完璧でありたい」「名声を手に入れたい」といった欲望のために策略を働かせた結果と言っても過言ではない。つまり一つの大きな出来事が権力を生み出すのではなく、このような多面的な事態によって行われる日常の行為一つ一つが彼女に権力を纏わせ、関係する人々との権力構造をつくり上げる。だから本作では、ドラマを極力排し、彼女の日常が淡淡と描かれる。彼女が頂点にいる世界-日常。しかしそんな世界でも、他者は権力から逃れようとしたり、把持しようとしたりと欲望を働かせ行動する。オーケストラのコンサートマスターで恋人でもあるシャロンやアシスタントで副指揮者を目指しているフランチェスカ、新たなチェロ奏者のオルガなど。ターが指導していた若手指揮者が自殺をしてしまう〈出来事〉はあるのだが、彼女らのリアリズムに徹した権力への行動が、緩やかにターの世界を壊していくのである。
むしろター自身が世界を崩しているのかもしれない。講義の一場面で行われるハラスメントは権力の誇示に見えるから反発が予見される。交響曲第5番の録音や新曲の制作が上手くいかないこと、変わってしまう人間関係は、積み上げてきた世界が崩れてしまうことの不安へと転じてしまう。そして不安は権力のさらなる発揮といった狂気に変わり、予言の自己成就のように、世界が崩れていく。
このような世界-日常に狂気が侵入し、崩れていく様はフィクションとして描かれる。深夜にメトロノームが鳴り出すことや、オルガの住んでいる場所が廃墟であること、ターの隣部屋は老人が糞尿にまみれて介護されている悲惨な状況であるといったように。
本作は、権力を纏う者と彼らの関係はリアリズムで描くと共に、権力把持への不安が狂気に転じ、世界が自壊する様はフィクションに描く物語なのである。
ターの未来はモンスターハンターの冒険へと駆り出されるのだが、それはよいことなのだろうか。西洋の伝統的なオーケストラの世界からの失墜ととるか、アジアの未熟な世界への挑戦ととるか。少なくともターは、権力闘争への俎上にたっており、再び世界を築き上げる可能性があることは言えるのかもしれない。
先にパンフを読んでから鑑賞した方がわかりやすいかも
天才指揮者の話だが、物語の描かれ方もある意味アーティスティックで、一筋縄ではいかない。
一般的な映画なら物語が進むにつれて真実が明示されたり解決されるであろう謎が、本作の中ではほぼ解決しない。冒頭、メッセージアプリでやりとりしているのは誰なのか、リディアと彼女のプログラムの元生徒(だったか?)クリスタとの間に具体的に何があったのか。リディアの部屋に入って真夜中に戸棚の中のメトロノームを動かしたのは、娘が気配を感じていた存在は誰なのか。
多分こうなのかな、と観ていて思える程度のヒントはあるが、種明かしもすっきりした解決もなされない(幽霊だってことにしないと説明のつかない部分も?)。
リディアの指揮者としての意識高い日常描写が淡々と重ねられていく中で、彼女の才能だけでなく、その横暴さもだんだんと浮かび上がってくる。
娘をいじめた子供に静かな脅しをかけたり、年配の副指揮者を独断で追い出したり、若いチェロ奏者オルガへの依怙贔屓をしたりといった行動だ。
パンフレットの前島秀国氏によるレビューを読んだところ、リディアとコンサートマスターであるシャロンの関係は、もし女性指揮者と男性コンマスだったなら公私混同と非難され、公的な性格が強く世論に敏感にならざるを得ないベルリンフィルにおいては醜聞となっただろうとのことだ。ところが、全く同じ理由のために、レズビアンカップルであるリディアとシャロンの関係は黙認されていた。LGBTQコミュニティからの非難を恐れたということだ。彼女が指揮者として実力者であることもあいまって、リディアの身勝手なふるまいを止めるものはいなかった。
自殺したクリスタの両親から訴えられたり、ジュリアードの授業で男子学生を論破する動画をスキャンダラスに拡散されたりしたのち、リディアは常任指揮者の座を降ろされ、カプランのコンサートに乱入して、ベルリンフィルを去る。
最後にリディアは活動の場をフィリピン(とパンフの町山氏のレビューに書かれているが、地獄の黙示録がどうとか言っていたのでベトナム?よく分からなかった)に移し、モンスターハンターのサウンドトラックコンサートの指揮をとるところで物語は終わる。コスプレをした聴衆が、そこまで見てきたクラシック業界の高尚な雰囲気とかけ離れていて、ちょっとシュールなラストだった。
過去のLGBTQ映画を全て観たわけではないが、同性愛者である主人公の生き様について美化も言い訳もしない描き方をする作品は珍しい、という印象を受けた。
一昔前なら、これは完全に男性の主人公で描かれていた話だ。リディアの職場には元恋人(フランチェスカ)、現パートナー、彼女が新たにロックオンした若い女性がいてドロドロ、登場しないクリスタも恋愛絡みのトラブルだったのかと思わせる。マッサージ店を紹介してもらったら性的マッサージ店だった、というくだりも、昔の感覚で言えば男性の登場人物にありそうなエピソードだ。
リディアというキャラクターがバーンスタインとカラヤンをモデルにして創造されたためでもあるが、こういう役を女性が演じても特段不自然に感じない時代になったんだなあと思った。
そしてやはりケイト・ブランシェットは圧巻だ。
リディアの日常を描きつつも、その中で薄紙を重ねるように彼女のフラストレーションが堆積してゆく、それを学生の貧乏ゆすりや遠くで聞こえるチャイム音、悲鳴などの音で表す脚本も巧みだが、ケイト・ブランシェットだから160分持ったという気もする。
クリスタにまつわる謎がずっとチラ見せされながらスッキリ全貌がわかることなく話が進み、主にリディアの反応が描写されるばかりなので、これで物語の緊張感をずっと保つのは、実はなかなか技量がいることだと思う。
彼女の明らかに異常な行動は、終盤に自宅で騒音おばさんになったり(高級そうな住居なのに、向かいにああいう家族が住んでるのは違和感)、コンサート中のカプランをどつき飛ばしたりすることくらいなのだが、そこまでのいわゆるキチゲが溜まる描写や演技が丁寧なおかげで唐突感がない。
それを、抜群に美しくてカッコいい彼女が演じ切るので、クラシック業界のことがよく分からなくても見ていられた。
ただ、バックボーンを知った方がいろいろ腑に落ちるのは間違いない。マーラーの人生や実在の指揮者の実名からヴィスコンティの小ネタ(ドイツ語で字幕なし)まで、埋め込まれた蘊蓄が満載だ。業界事情に詳しい人以外は、多少のネタバレをいとわなければ、本作に関しては事前にパンフレットを読んでから鑑賞した方がすんなりと観られるかもしれない。
観る側の欲望を反映する映画?
これは何を描いた映画だったのか、よくわからない。いや、色々と描かれているのだが。例えば、キャンセルカルチャーの問題などが描かれている。しかし、キャンセルカルチャーの危険性を伝えようとしている映画で、それが一番の主題かというとそうではない気がする。傲慢なアーティストの実像が描かれているとも言えるが、それが伝えたいことだろうか。同性愛を主題にしているわけでもないし、白人階級の傲慢さを主題にしたのかどうか、それもよくわからない。何が主題であったのか、それは見る側の嗜好でいかようにも変わっていく、そんな映画なのかもしれない。だとしたら、この映画を見るというのは、それは自分自身の鏡を覗くような、そんな行為と言えるのかもしれない。自分が観たものは映画か、それとも自分自身か。
ただ一つ確実なことはケイト・ブランシェットのパフォーマンスはとてつもなく素晴らしいということだ。
クラシック界による異例のサポート体制は、配信時代への危機意識の表れか
世界最高峰とも称されるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が名義を使わせていることにまず驚かされる。何しろ、名門楽団の首席指揮者となった女性主人公が、その絶大な権力を使ってお気に入りの新人演奏家を大抜擢したり、後進の音楽家や学生へのパワハラがスキャンダルになったりするなど、ネガティブな要素を少なからず含む話なのだ。しかも、カラヤンがベルリンフィルの音楽監督を務めていた時期に、若手女性奏者を独断で抜擢しようとして問題になったことが実際にあったと聞く。過去の醜聞をほじくり返されるようで協力を拒んだとしてもおかしくないのに、その懐の深さに恐れ入る。
劇中で“ベルリンフィル”として出演している楽団は、実際は同じドイツのドレスデン・フィルで、主演ケイト・ブランシェットが指揮するシーンの演奏は撮影と同時に録音もされ、その音源がそのままドイツの名門レーベルであるグラモフォンからサントラ盤としてリリースされている。クラシック界の暗部をえぐり出すような問題作に対する業界挙げての積極サポートは異例にも思えるが、配信全盛の時代にクラシック界が抱く危機意識の表れだろうか。音楽配信はもちろん、短尺動画のダンスなどのBGMとしても、短い時間に効率よく楽しめる曲が好まれる傾向が強まる中、クラシックは明らかに不利。それならば、伝統にあぐらをかかず、また従来の常識にとらわれず、ファン以外にも本物のクラシック音楽が届く機会を積極的に活用していこう、という気運が高まっているのではと想像する。
ケイト・ブランシェットの演技は、指揮のパフォーマンスや後半の追い詰められていく状況も含めて、キャリア最高のレベル。今年のアカデミー賞では最多7部門受賞の「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」と競って巡り合わせが悪かったが、「TAR ター」が別の年のノミネートだったら、ブランシェットが「ブルージャスミン」以来2度目のアカデミー主演女優賞を獲ってもおかしくない名演技だ。
人は一旦頂点に上り詰めると後は転落しかない!?
冒頭、指揮者として頂点を極めたヒロインのターは名だたる男性指揮者たちがタクトを振るクラシック・レコードを床に並べて、その中の1枚を何と足で物色する。男性主導の指揮者界を女性が制覇したことを物語る強烈なショットだ。
レズビアンを公言しているターには同性のパートナーがいるが、家事はその彼女に任せ切りだし、養子縁組で迎え入れた子供の子育ても同じくである。つまり、ターは男性のような日常を送っているのである。
そんなターがあるきっかけにより転落していくプロセスを、まるで観客を幻惑するようなホラー映画的演出を絡めて描く本作には、至るところに実在の人物や出来事が散りばめられているらしいが、それらをすべて理解するのは難しい。ターがかつてベルリン・フィルハーモニーを率いた伝説のコンダクター、ヘルベルト・フォン・カラヤンにインスパイアされたキャラクターだと聞くと、なるほど、と思うくらいだろうか。
しかし、確実に理解できるのは、性別に関係なく、人は一旦頂点に上り詰めてしまうと後は転落しかないと言うことだ。それを描く上で需要な要素となるキャンセル・カルチャー(ソーチャルメディア上でターゲットにされた特定の人物が排斥されていく形態の一つ、いわゆる炎上)も他人事ではない。
ターを演じるケイト・ブランシェットが本物の指揮者みたいに男前でかっこいい。ドイツ語も話すし、指揮棒を振る姿が板に付いている。そこが時々過剰に感じる場面もある。ラストについても解釈が分かれるところだ。一方で、ターが持つ天性のセンサーが実在する音は勿論、もしかしてあるはずのない音を察知してビリビリする感じを観る側にも味合わせてくれる音響が、随所で奏でられるクラシック音楽と共に耳を楽しませてくれる。
全神経が研ぎ澄まされたブランシェットの演技に感服
異色の存在感を放つ映画だ。大きな感動が仰々しく押し寄せるわけではなく、ある意味、観客を少し突き放しながら、世界で注目を集める最高峰の指揮者の日常が淡々と描かれゆく。何よりもケイト・ブランシェットの立ち振る舞いを見ているだけで圧倒されるし、音楽家としてのカリスマ性をはじめ、演奏に入る際の鋭い目線の変化から指先一本の表現性に至るまで、”演じること”の執念と途方のなさには頭がクラクラするばかり。また、主人公が音楽界や集団内で発言力や権力を維持し続ける姿にも、静かなる力学作用を観察しているかのような興味深さがある。かくも足場が完璧に組み上げられているからこそ、キャリアに亀裂が生じてからの顛末がまた際立つ。運命とは偶然か必然か。彼女はどこでボタンを掛け違えたのか。相変わらず説明を排した流れゆえ解釈や受け取り方は観客それぞれ違うだろうが、ひとりの人間に関する人物研究として非常に見応えのある作品である。
感想メモ
作品と作者の価値、という話かな
バッハは差別主義者だから好きでないという生徒をけちょんけちょんにする授業シーンは鳥肌モノ
作曲者の人格と曲の良さを切り離して考えるべきかどうか
最近よく聞くよねこの問題
昔の事が今更取り上げられて非難されたり、噂が本当でなくても評判に傷がついて活動が少なくなったり
リディアも本当に生徒にセクハラをしていたのかどうか分からないが、クリスタのメールを削除させたり、かなり怪しい
女性指揮者として名声を築き上げてきて、レズビアンを公言している、しかし国際女性デーが何日かは知らない
家庭での役割は父親、仕事最優先で家事や子育てはパートナーに丸投げしていそうな雰囲気
妻の扱いも雑、電話も無視
違和感を覚える所は多々ある
最後は東南アジアで指揮、伝統的なクラシックの舞台からは遠のいてしまったが、音楽は諦めたくないということかな
モンハンワールドのop 新大陸に辿り着いた5期団と新たな地でスタートを切るターを重ねたラストで良いと思う、ガシャブーのお面クオリティー高い
ブルータス、お前もか…。 なかなか見どころはあるのだが、この予告編は誇大広告にも程がある😅
世界的な女性指揮者、リディア・ターの受難を描いた音楽ドラマ。
世界最高峰のオーケストラとして知られるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者、リディア・ターを演じるのは『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズや『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の、レジェンド女優ケイト・ブランシェット,AC。
ターの支援者でもある銀行投資家兼アマチュア指揮者、エリオット・カプランを演じるのは『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』や『キングスマン』シリーズの、名優マーク・ストロング。
👑受賞歴👑
第80回 ゴールデングローブ賞…主演女優賞(ドラマ部門)!
第79回 ヴェネチア国際映画祭…ヴォルピ杯(最優秀女優賞)!
第76回 英国アカデミー賞…主演女優賞!
第88回 ニューヨーク映画批評家協会賞…作品賞!
第48回 ロサンゼルス映画批評家協会賞…作品賞/脚本賞!✨
第28回 放送映画批評家協会賞…主演女優賞!
ケイト・ブランシェットの怪演に世界中が賛辞を送った話題作。第95回アカデミー賞では作品賞を含む6部門でノミネートされたが、この年は『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2022)が7部門を制覇するという大旋風を巻き起こしており、その煽りをモロに喰らった結果、まさかの無冠で終わってしまった。『エブエブ』と同じ年でなければ、確実にケイト様は主演女優賞を獲得していた事だろう。巡り合わせが悪かったといえばそれまでだが、なんとも気の毒なお話である。
ケイト様の演技は確かに凄まじい。
冒頭から30分以上に渡り繰り広げられるセリフ・セリフ・セリフの嵐にはただただ感服させられた。その情報量も相まって、まるで本当にリディア・ターという人物が存在しているのではないかという錯覚を起こすほどのリアリティが映画を包む。
その後も、カメラは常にターの後を追うようにして彼女の姿を映し続ける。158分のランタイムのうち、150分は彼女が画面に居座り続けていたのではないか?
観客は延々と彼女の姿を見続ける事になるのだが、そうしている内に段々と彼女の一挙手一投足から目が離せなくなってしまう。ターの存在感、そしてそのリアリティに、現実と映画の境目はボヤけ、終いにはそこに境界がある事すら忘れてしまう。
キャラクターに本物と見紛うほどの肉と魂を与えてしまうケイト様の演技力はもはや魔法な魔術の類いといっても良い。ケイト=ターの支配力は、観客すら縛り付けてしまうのだ。
ただ、意地悪な言い方になるが、彼女の演技以上のワンダーがこの作品にあるのかと問われればその答えはNO。
予告編で「ケイト・ブランシェット史上最高傑作」だの「映画史に残る衝撃のラスト」だのと煽りに煽っていたので、すわ『ブラック・スワン』(2010)系のサイコ・サスペンスかっ!?…なんて期待していたのだが、全然そんな映画じゃないじゃんっ!!
お話のスジだけ追えば、傲慢な天才芸術家の栄光と転落が描かれた至って普通のヒューマン・ドラマ。予告編から期待するようなサイコな展開にはならないので、そこには正直ガッカリしてしまった。まぁ中盤くらいで「これそういう映画じゃないのかも…」となんとなく気付いてはいたんだけど。
「映画史に残る衝撃のラスト」との事だったが…。いやっどこがやねんっ!!!💦
まぁ確かに、「いやモンハンかいっ!」という驚きはあったが、だからと言ってそれがどうしたと。そこの驚きは別に映画の評価には繋がらんだろう。
あと、何やらこの映画のエンディングはその意味を巡って色々と解釈が分かれているらしい。うーん、普通に一つの意味にしか読み取れないと思うのだが…。
彼女が演奏していたのは「モンスターハンター:ワールド」(2018)のサウンドトラック。主人公が調査団の一員として新大陸へと派遣されるところからスタートするこのゲームは、新天地で新たな挑戦を始めた彼女の立場とシンクロしています。
また、フィリピンという西欧文化圏とは異なる地でキャリアをリスタートしたことは、南米の民族音楽を研究するために現地で生活していたという彼女のオリジンとも重なります。
そして、コンサートに集まった観客たち。彼らは基本的にはゲームファン。クラシック音楽のクの字も知らない人たちな訳です。ベルリン・フィルを聴きにくる客のように、やれマーラーがどうだのバッハがこうだの、ストリングスの強さがうんちゃらかんちゃらといった知識は持ち合わせていない。この映画はとにかくぺダンティックで、どの人物も音楽的雑学をペラペラと曰う。まるで音楽よりもディベートを楽しんでいるかのようだ。ターもそういった人物だったのだが、色々あった後に見直したレナード・バーンスタインのVHSで、音楽それ自体の持つ楽しみや喜びを思い出す。知識の有無など、音楽鑑賞にはなんの関係もないということに気がついた彼女が迎えるのが、ただ純粋にゲーム音楽を楽しむためにやってきたコスプレイヤーたちだというのは、彼女の新たな門出にとって、これ以上ないほどに相応しいと言えるのではないでしょうか。
世界一のオーケストラを率いていた指揮者が、ゲーム音楽イベントでタクトを振るう。確かにこれは、彼女の没落を象徴しているようにも見える。しかし、その裏にあるのは全てを失っても音楽だけは守り通した彼女に対する慈しみとエール。再出発を切ったターへのアンセムなのである。
この作品に込められているもの。それはキャンセル・カルチャーに対する批判的な視線である。
性加害やSNSでの失言など、「正しくない」行いをした人物を半強制的に社会から抹殺してしまうこの現象は近年ますます盛んになってきている。例えばハリウッドではケヴィン・スペイシー、ジョニー・デップ、アンセル・エルゴート、アーミー・ハマーなど、日本でも松本人志やフワちゃん、古谷徹などがキャンセル・カルチャーによって業界内での活動を制限された。
権力や財力を笠に来て好き勝手やってた奴が痛い目に遭うのは気持ちが良いし、被害者の事を考えるとそれもやむなしな事だと思う。
ただ、正義感や義憤は往々にして人を凶暴にしてしまう。疑惑の人物への非難はすぐに攻撃へと変わり、ついにはただのネットリンチになってしまう事も少なくはない。こうなってしまっては、どちらが善でどちらが悪なのか、その境界線はもはや存在しないのも同じである。
このキャンセル・カルチャーについて考えなくてはならないのは、仮にそれが冤罪だったとしても、一度燃え上がった炎はそう簡単には消えてくれないという事実。例えば、ケヴィン・スペイシーやジョニー・デップは裁判で無罪を勝ち取ったが、彼らにかつての輝きは戻らない。もちろん、「無罪」=「無実」ではない訳で、結局真実は闇の中ではある。だが、「疑わしきは罰せず」という法諺もあるように、無実の可能性のある人間を社会的に無理やり排除してしまうというのはちょっとどうなの…?と言わざるを得ない。
この映画内でも、ターが性的虐待を行っていたのかという点については曖昧模糊な形でしか描かれていないし、流出した動画も悪意的に編集されたものだった。自殺したクリスタとのメールを削除するよう愛弟子のフランチェスカに指示するなど、限りなくアウトな行動は取るものの、決定的な証拠は映し出されない。キャンセル・カルチャーにより糾弾され、愛する子供すら奪われたター。果たしてこの仕打ちは本当に彼女に相応しいものだったのか、この点を観客はしっかりと考えなければならないだろう。
まぁ何にせよ、ユリウス・カエサルがブルータスに、織田信長が明智光秀に、朴正煕が金載圭に弑せられたように、独裁者は信を置いていた側近に裏切られるというのがこの世の常というもの。
昨今のワイドショーは兵庫県の独裁知事の件でもちきりだが、地位と権力を手にした人間にはこの映画でも観て、今一度己を顧みて頂きたいものである。
ケイト・ブランシェットありき
ケイト・ブランシェットの演技は神がかっていて、近年比肩するパフォーマンスがちょっと見当たらないほど圧倒的。各方面から絶賛も「そりゃそうですよね」の納得感(アカデミー賞はノミネートで受賞には至らずでしたか。ミシェル・ヨーが受賞。。。ふーん)。
でも、それだけなんですよね。彼女の名演を披露したいというモチベーションの下、ストーリーが組み立てられている印象(そんなこと無いんでしょうけど)で伝えたいものが見えてこない。
トーンやディテールは全く違えど、アプローチはCG技術を極めたいがために創られたアクション大作のそれに変わりないと思ってしまいました。
劇場で観たら音への拘りとかもっと感じれたかも知れませんが、うーん・・・端的に面白くはなかったですね。
それにしても、ケイト・ブランシェットはもう誰も追いつけないほどの高みにまで来てる気がしました。
自業自得
カリスマ女性指揮者の化けの皮が剥がれていく話。
冒頭の「この人かっこいいなあ」からの
転落ぶりがすごい。
自分のためにやってきたことが
自分を苦しめていく様はまさに自業自得。
最後はハッピーエンド?だったからよかったけど
正直この作品の良さは分からなかったです。
1番印象深かったのは序盤の学校のシーン長回し。
ケイトさんの演技力の高さが光る作品でした。
才能とは…
エンドロールから始まる形式でマーラーの第五番、死から始まる内容に沿った作り。
女性指揮者の苦悩を中心に描いている為、オケの演奏シーンは控えめ。
重圧から徐々に闇堕ち。
最終的にリディアにとって落ち目か幸運かは観る側の解釈次第。権力構造についてもはっきりと描かれている作品。
好みではない
数々の賞を受賞しているからといって、自分に合っているとは限らない。
そんなことは百も承知だったのに、またしても失敗してしまった。
最近、伝説の音楽家を映画化しているパターンが多い気がして、ボヘミアンラプソディから始まったのではないだろうか。
その映画は映画館で見たし、結構面白く感じることができた。
その少し前にも、セッションという映画化あったけど、なんとなく今作と雰囲気も似てる気がしたが、それも楽しく見れた。
しかし今作はダメだった。
開始30分で、見切るか判断を迫られたけど、信じて最後まで見たが、やはり面白く感じられなかった。
偉大な音楽家の名前が飛び交うのだが、カタカナばかりで知らない名前ばっかりなので、ついていけない。
募り募った不満が最後に爆発するカタルシスがあるかと思いきや、それもない。
感性の問題であって、この作品自体の価値を問うわけではない。自分には合わなかっただけなのだ。
なにを迷うことなく、単純なエンタメ映画を見た方が満足度が高いということが、今回の教訓である。
自分を貫く姿がかっこいい
ドイツで初めて女性首席指揮者に任命されたリディア・ター。天才的な才能でその地位を手に入れ、周りからは常に機嫌を推し量られ、まるで最高指揮者はそういうものだと言わんばかりに、仕事も恋も感情の赴くままに手にする。
話しはそんな類いまれなる女性首席指揮者が、過去に指導したことのある若手指揮者が自殺したことで、彼女への辛辣な振舞いが明るみに出ることを恐れ、何とか取り繕うとする。そしてこれまでの言動が、ハラスメントと問題視され、精神的に追い詰められていく。
ケイト・ブランシェットのすがすがしい演技に魅了されました。
レズビアンで妻もいて子供もいて、夫、父として、天才的な指揮者として、かっこよく完璧なまでに演じていて、私は今までになく魅力を感じた。
女性として見るのか、いや、もう男でも女でもないが、天才的な才能で指揮をする姿も凄くかっこいい。イケメンにも見えるし、新しいチェロ奏者に翻弄される姿はちょっと可哀想だが、ちょっと可愛くも見えた。
そんな才気煥発な彼女が、どんどん負の連鎖に陥り苦悩する姿はどうなっていくのだろうと心配になったが、どこまで行っても才能は才能なのだ。誰も知らないところで1からやり直す姿。やっぱり根っからの最高な指揮者なのだ。不死身なリディアに感服。
そして見事に返り咲いた姿を見たいと思った。
☆☆☆★★★ いや〜なかなか手強い映画だった。 作品中に描かれない...
☆☆☆★★★
いや〜なかなか手強い映画だった。
作品中に描かれない部分が多すぎて全然画面から得られるPEACEが埋まらない。
観ながら「これ全盛期の鈴木清順の映画か?」…と思った程。
…とは言え、スクリーンで縦横無尽に涼しい顔して独裁者振りを発揮するケイト・ブランシェットを堪能出来る喜びに浸り続ける幸せを味わう映画でもあった。
指揮者の彼女は作曲もするのだが、「模倣になってしまい…」と語るが。師匠には「ベートーベンもだ!」と慰めらる。
現在進めている企画がマーラーの5番のライブ録音。
その為にジャケットにはアバドのジャケットを模倣する彼女。
「いや!それ模倣じゃん!」とは思うが、彼女にはそんな事は百も承知なのだろう。
最早レジェンドのバーンスタインよりも、現在の絶対君主アバドを越えるのが今の彼女の目標なのだから。
それだけの自信も充分に持ち合わせている。
今準備中のマーラの5番は、トランペットのソロで始まる葬送曲の出だしが有名。
作曲中に隣人の家から聞こえる謎のチャイムから、そのトランペットソロ直後へと繋がるリハーサルの指揮場面にはゾクゾクした。
次から次へと傍若無人な振る舞いをし始める彼女。
そんな彼女が、それまでの振る舞いがブーメランとなって自身に降りかかり。決定的に転落するのが、5番のオープニングにあたるトランペットソロの葬送部なのが楽し、、、ゴホっ!象徴的。
自分のお気に入りを手に入れる為ならばもうやりたい放題。
そんな彼女の仕掛けた罠も、長年に渡る彼女に周りに張り巡らせていた【罠】に彼女自体が嵌ってしまうのだが、、、
主演がケイト・ブランシェットだけにウディ・アレンの『ブルージャスミン』との比較で語られる事が多い気がするのですが。実はこの作品ってオリビア・アサイアスの『アクトレス 彼女たちの舞台』の模倣、、、とは言わないまでも、かなり構造上で重なっている箇所が多い気が個人的にはします。
勿論、模倣などとはこれっぽっちも思ってはいませんが。
ラストは、今後も彼女(モンスター)はハンターとして活躍し続けて行くのを感じさせて終わる。
後半はある意味での人間ホラー映画にもなっていた。
2023年 6月15日 TOHOシネマズ/シャンテ・シネ1
成功者は聖人君主では無い、人間的である
この作品にのところどころに
ドキュメンタリーの空気を感じる。
実際、そこに生きる人の感情は
生活をし、上を目指している。
演じてはいるが、生の風景が見える。
主人公のリディア・ターには
強く燃える鎧のような強さと
風に吹き飛ぶほどの繊細さを感じた。
夢を、栄光を掴んだ者には
欲望は無い、と言えば嘘になる。
映画は、その人を描いている。
彼女の選んだ人生の行方は
純粋な音楽への愛を感じた。
ケイト・ブランシェットの指揮は
プロと比べても見劣りしない。
※
作家の人格と作品の価値。
主人公ターが教鞭をとる大学での講義の長回しのシーンが圧巻だった。そしてこのシーンが本作のネックだったと思う。
女性蔑視のバッハを嫌い、その曲まで否定する生徒に対してターはむきになり講義のレベルを超えてしまう。
リディア・ターは自他ともに認める天才マエストロ。彼女はレズビアンを公言し、自分が指揮するオーケストラの女性団員と婚姻関係にある。
そんな彼女が作家の性的嗜好や人格をその作品の評価基準とされることに反発するのは当然だが、若い生徒に対しての彼女の攻撃は少々度が過ぎていた。それは娘のいじめっ子に対する態度も同様に。
作家の人格と作品の価値。作家の人格や言動がその作品を評価するにおいて基準の一つとされるべきであろうか。
特に最近の映画業界ではこの話題で持ちきりだ。監督が演技指導と称して女優に性的暴行、出演俳優が性的暴行あるいは薬物犯罪を犯した等々。それが原因で作品がお蔵入りに。
作品自体に罪があるのかとこういった事件が起きるたびに議論されてきた。当然スポンサーのついてる作品ならば公開は難しくなるだろう、スポンサーはイメージを大事にしたいから。しかし、作品の価値がそれによって下がるだろうか。
極端な話、死刑囚が作った芸術作品が高い評価を得ることだってあるかもしれない。そもそも人間の心の中なんて誰にもわからない。心が汚いから作品も汚いなんて言える人間がいるなら逆にその人の心の中を見せてほしいと思う。
人間の心の中は見えないが作品は見える。結局は目に見えるもので判断するしかない。
劇中でソリストを選ぶオーディションのシーン、演奏者が誰か見えないように壁が立てかけてあった。先入観なしに演奏の良し悪しだけで選ぶためだ。作家の人格で選ぶとしたならたとえ素晴らしい作品でも作家の顔が見えていてはその作品は選ばれないかもしれない。
ちなみに私は今でもロマン・ポランスキーやケビン・スペイシーの作品は好きだ。
天才マエストロのリディア・ターは仕事も私生活も順風満帆のように見えた。しかし頂点に上り詰めた彼女も御多分に漏れず権威におぼれ、自らの欲望を満たすために周りの人間を傷つけていく。自分の意に添わなかったレベッカを貶めて死に追いやったことから彼女は糾弾されその地位を失う。
女性指揮者として逆境の中築きあげた地位が崩れていくのは一瞬だった。彼女が普段感じていた視線、何らかの音に悩まされていたのは彼女の罪悪感からくるものだったのだろうか。
表舞台を追われて落ち着いたフィリピンの地でマッサージ嬢を選ぶ際、思わず嘔吐してしまったのは自分の今までの行いを思い知ったからだろうか。
主人公は女性だが、男性と同じく権威を手にした人間がその地位におぼれて道を踏み外していく様を性差なく描いた点、ジェンダーレス映画としてもよくできた作品だったと思う。
また誰もが羨望の目で見つめる完璧な存在だった主人公が徐々に追い詰められて狂気を帯びていく様はスリラーとしても実に見ごたえがあった。
ちなみにクライマックスでオーケストラに乱入して相手の指揮者を突き飛ばす際の掛け声はやはり「ター!」だったな。これが主人公の名前の由来だと思う。(噓)
ベルリンフィルの常任指揮者の地位を追われてフィリピンの場末のオーケストラを率いる彼女。あれだけの不祥事を起こしたのなら業界から永久追放でもおかしくない。しかし、人格に関係なく彼女の作り出す作品は本物だったからこそ、リスタートの機会を与えられたんだろう。
送られた本の意味や生徒の貧乏ゆすり、ラストのコスプレコンサート等々わからないシーンが多いので、レビュー書き終えたら解説動画見てみよう。
上滑りの映画
2回観てしまった。
1回目、何か惹かれるものがあり、それが何なのかを知りたくてもう一度観た。
2回目、何に惹かれていたのか、それが、クラシック音楽のインテリジェンスに過ぎないことが分かってしまうと、底の浅さばかりが見えてきて、主演女優も魅力に欠ける。
不親切な映画
クラシック音楽に興味がないのに見た私がいけなかったのか?でもこれだけ評価されてるってとはその知識は必ずしも必要じゃないんだよね。でも音楽の話のシーンが多すぎ、きっとストーリーに関わることを言ってるんだろうけど興味なさすぎて全然頭に入ってこない。ケイト・ブランシェットの力の入り過ぎた演技も苦手だし、何しろ長いよなー。150分はもう今後の映画のスタンダードになっちゃうのかな、90分で十分素晴らしい映画つくる監督は山ほどいるけどね。
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