「さまざまなムラ」裸のムラ コージィ日本犬さんの映画レビュー(感想・評価)
さまざまなムラ
パンフ掲載の解説にも書いてあったのですが、「内容がとっ散らかっている」印象は強いので、同じ監督の作品だった『はりぼて』ほどお薦めしません。
・為政者(主に石川県与党の自民)
・日本のイスラム教徒一家
・バンライファー(仕事すら車中の暮らし)
3組の「ムラ」または「家庭」を描いているのだが、何を対比しているのかが分かりにくかった。
これはわざと計算ずくでやっていそうで、その意図はおそらく「分かりやすく誘導するTVドキュメンタリーへのアンチテーゼ」なのだろうとは思った。
好意的に見て解釈すれば、おそらくコロナ禍で浮き彫りになったそれぞれのムラの特徴の対比だったのではないか?
・失言の数々を繰り返しながら擁護しあう、もっとも忖度と男性ルールで成り立つ醜悪な石川県政治村
・コロナ禍で皆が引きこもった結果、在来の人々からの差別や攻撃を受けなくなったイスラム教徒家庭
・何にもしがらみなく自由に生きたがっている男が、自分の娘に課題を強制して不自由に縛り付けていた
などと分析はしましたが、それが制作者の意図と合っているかどうかはわかりません。
ただ、この複数のドキュメントを難解にまとめた作品は、受け手それぞれの感想が大きく異なる「不確かな」フィルムになっていると思いました。
そして、この不確かさからは、「テレビでは流せない面白さ、おかしな状況を映画なら伝えられる、伝えたい」という意欲は、あまり感じられなかったです。
それがあったのは、せいぜい水受けを拭う女性のシーンくらいか。
人は、目的と手段が入れ替わりがち。
彼ら記者が取材している政治家に多いのですが。
地元の人々のため、国民のために政治家を目指したはずのかつての若者が、いつのまにか「選挙に当選する」「権力を手にする」「党内で評価される」「特定の支持者のためだけの政策を進める」「金になることが優先」ことが目的の、頭のおかしな政治屋になることは、たびたび目にします。
同様に「真実を伝えたい」「世の中の役に立ちたい」、と新聞やテレビの記者になった方が、「評価されたい」「ちやほやされたい」とばかりに、違うものに変質していくことも多いのではという疑問も抱きました。
党派性を帯びて、支持されたり。
政治家・政策は全て悪と断じることそのものが目的になったり。
補助金には難癖つけて悦にいったり。
自説を発表して、自分が正しいと主張することが目的になったり。
挙句は、黒子である記者ではないものになりたがったりしてないか。
作家、監督という賞賛と栄誉を欲しがったりしてないか?
文化人枠に収まりたくなってないか?
(中には「これじゃ記者じゃなくて、活動家じゃね?」みたいな奴もいますし)
この映画からは、「俺、こんなに小難しいことを、独自の目で表現してんだぜ、監督さまとして認められたいんだ!」みたいな腐臭も感じたりして。
それぞれの「ムラ」を見せる事ではなく、「監督の自分」を見せることが目的の映画ではなかったか?という疑念が拭えず。
監督が、そんな「文化人ムラ」に囚われたようにも見えたのでした。