「文句なしの仕上がり! 恋愛頭脳戦の極限で問われる「どこまで自分をさらけ出すか」問題。」かぐや様は告らせたい ファーストキッスは終わらない じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5文句なしの仕上がり! 恋愛頭脳戦の極限で問われる「どこまで自分をさらけ出すか」問題。

2022年12月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

なんかまあ、ほぼほぼ完璧な出来なんじゃないかな?
恋愛映画としては。
オッサンだけど、めっちゃキュンキュンしましたわ。

原作未読。TVアニメシリーズは3期までリアルタイム視聴済み。
原作既読者が某まとめサイトとかで、さんざん「氷かぐや」編をボロカスにけなしているのを見てきて、今回の映画化に若干の不安がなかったといえば、噓になる。
しかし、いざ実見したそれは、じつに深いところまで「恋愛」の本質に踏み込んだ、とても納得のいく内容の物語だったし、深刻な展開の中にも常に笑いをまぶしてきて、絶妙のバランスで「シリアス」と「コメディ」を両立させていた。
TVシリーズでもずっと思ってたことだけど、
バリバリに優秀だよなあ。原作者も、スタッフも。

たしかにTVシリーズで、この鬱々としたノリで「次回に続く」とやられた日にはイラっときたかもしれない。あるいは、三期ラストのキスから地続きで、いきなり「氷かぐや」や「うじうじ会長」を見せられたら、唐突感や後出し感がハンパなかったかもしれない。
その意味では、「告白」と「再告白」のはざまに置かれた、「葛藤と再確認」の物語として、1時間半の映画(特別編)として敢えて「切り出して」みせたのは、スタッフの英断だったというしかない。

『かぐや様』は、恋愛における「マウント」に焦点を合わせた作品だ。
頭もよく、スペックも高い者同士の二人が、どちらがイニシアティブをとるか、あるいはとらせるかを延々測りあう(諮りあう)物語――すなわち、最終的にどちらが優位に立てるか(マウントをとれるか)をめぐって、「恋愛コン・ゲーム」を延々繰り広げるお話である。
この「勝負」を際限なく続けていくなかで、表裏一体で存在する重大事案。
それこそが、今回の映画で扱われている、「相手にどこまで自分をさらすか」という究極の問題だ。

相手の高みに追いつきたい。
相手からは、よく思われたい。
そのなかで「つくられていく」よそ行きのペルソナ。
でも、背伸びした「見せかけ」の姿のままで付き合って、それで本当にうまくいくのか?
「相手に見せたい自分」だけを見せている状態を、本当の恋愛といえるのか?
ある意味、これは永遠のテーマである。

見せたい自分、なりたい自分に向けて、努力すること、高みを目指すこと自体は、とても重要な営為だ。その努力は相手への「愛情の証」にもなるし、相手の受け入れやすい形に寄り添うことで、歩み寄って「譲歩」していることにもなるからだ。
一方で、自分の本質や負の側面を隠していて、ろくなことにならないのも、また真実だ。
だいたいの別れや離婚の原因というのは結局、付き合うまでは見せてもらえなかった「嫌な部分」「合わない部分」「相手の負の部分」に気づいてしまったからってのが大きいだろう。
それに、自分を偽って「振るまって」ばかりいると、だんだんと心と身体にストレスをためることにもなるわけで、そいつがいつか爆発するってのもまた、よくあることだ。

どこまで見せたい自分を目指すか。
どこまで見せたくない自分をさらけだすか。
これは、恋愛におけるマウント合戦と不可分の、究極の選択である。

初キスを交わし、いよいよ「交際」が喫緊の課題として近づいた二人は、まさにこの問題に直面する。それを通り一遍の葛藤として描かずに、きちんと「図式化」して呈示してくるのが、本作の原作者・赤坂アカの頭のいいところだ。
すなわち、「氷かぐや」というペルソナは、決していきなり呈示された「新設定」ではない。
これまで自分の描いてきたヒロインの多面性を、作者自らが改めて「プロファイリング」して、わかりやすく整理してみせたのが、この「氷かぐや」「アホかぐや」「リボンかぐや」のペルソナなのだ。
もともとかぶっていたペルソナが「氷」。
最初に会長のことを好きになったペルソナも「氷」。
恋をするなかで、相手に愛されたくて生まれた宥和的な「リボン」のペルソナ。
でも、虚勢を張って背伸びをした「氷」と、別の形で背伸びをした「リボン」の背後には、精神的に未成熟なままの無垢な「少女」が潜んでいる。
そして、彼女の極端な性格の分離を生んだのは、厳しすぎる四宮家の帝王教育である、と。
これまでの3期分のTVアニメでも散々描かれてきた、かぐやの冷徹さとテンパりやすさの「ギャップ」を、原作者は二人を付き合わせるに当たって、改めて徹底的に分析し、深掘りし、わかりやすく図式化してみせたのだ。

さらに原作者は、かぐやに相対する白銀会長の心の闇にも、メスを入れる。
映画の前半で、白銀は、ペルソナを掛け替えたかぐやにただひたすら困惑し、振り回される、という受動的な役回りを担っている。
だがやがて、風向きが変わる。
当初は単に「防御本能」から氷の仮面を被ったかぐやだったが、やがて自分がなぜそんなことをしたのかを自覚するに至り、「負の自分」を会長に見せることに積極的に意義を見出すようになる。
そのうち、「勇気を出して踏み込んできた」かぐやに対して、頑なに「今付けているペルソナを外そうとしない」のは、むしろ白銀のほうだ、という逆転の構図が明確になってくるわけだ。
白銀の囚われている、あの気持ち悪い『セブン』のジョン・ドゥのような付箋だらけの部屋は、彼の妄執とこだわりと劣等感が生み出した、「誇り」と「呪い」の巣ともいえる。

好き同士の二人。
お互いの抱える「負の自分」。
それを見せる勇気。見る勇気。
本作は、この深遠なテーマに挑んだ、原作者・赤坂アカによる徹底した「セルフ自作分析」「セルフ自作解釈」の研究発表でもある。
ラブコメとして始まった物語において、いざ主役二人の関係性が深まってくるにつれて、作者自身がキャラ分析のドツボにはまり、異様にディープなトラウマとペルソナの物語へと深入りしていくという意味では、津田雅美の『彼氏彼女の事情』を強く想起する向きも多いだろう。
もともと、『かぐや様』と『カレカノ』は、進学校の生徒会を舞台に「仮面優等生」の二人がマウント合戦をするという意味で、きわめて同質性の強い作品だ。
それはもう、『かぐや様』が男性視点版の『カレカノ』といっていいくらいに。
その両作が、二人の関係性が煮詰まってきた終盤で、きわめてよく似た展開を示すのは、むしろ必然だったかもしれない。
とにかく、津田も赤坂も地頭のよい人なので、恋愛の不安や駆け引き、生育に起因するトラウマや認知の歪みについて、ネチネチと分析し、深掘りし、図式化し、玉ねぎを剥くように核心へと迫っていかないと本人の気が済まないのだ。この「恋愛」にまつわる思考回路の徹底した考察&言語化こそが、作者が称するところの「恋愛頭脳戦」の本質に他ならない。
その意味で、両作はすこぶる「文学的」「文藝的」な漫画(アニメ)でもある。
まあ、終盤読むのが辛くなるくらいにダウナーな展開を見せる『カレカノ』に比べれば、ちゃんと笑いを交えてバランスよく進めてくれる『かぐや様』のほうが、よほど読者には優しい気はするけど。

それと最初に言ったとおり、本作はアニメスタッフも、シリーズを通じてずっと超優秀。
たぶんならそのままアニメ化すると、ある程度過不足のあるだろう原作を、いつも最適の間合いで巧くまとめてきている。
今回も、OPを各キャラの回想形式にして、なんとなくこれまでの話で何があったかを思い出せるようにしてあるとか、本当に丁寧なつくりで感心。コメディとしてのキレも抜群で、会場は終始吹きだす笑い声であふれていた。

あとは、石上とつばめとミコのお話が残ってるんだな。
これはどうするつもりなんだろう?
また、映画仕立てでまとめてくるんだろうか。
いわゆる「ヒーロー/ヒロイン」の話じゃないと、こういう「切り出し」はちょっとやりにくい気もするけど。でも、今回の仕上がりを見る限り、出来には大いに期待できるので、楽しみに続編を待ちたい。

なお、個人的な経験から言うと、付き合いだした時点からちゃんと「素の自分」をさらけ出して、そんな自分でもいいかどうか相手に見てもらっておいたほうが、あとあと結婚してからの夫婦関係がうまくいくのは確かだと思う。
もちろん僕は物語のような熱い恋愛をしたわけでは全然なかったけど、大学時代の出逢いから、初キス、プロポーズなど、いろいろ妻との交際時代を思い出させる部分もあり、オッサンながら、十分ときめかせてもらいました。
高学歴同士でマウント取り合ったり、「どっちが先に好きになったか」なすりつけ合いしたり、なんか、やってることにすげえ共感できるんだよねえ、この二人(笑)。いやー、こそばゆいわ。

帰りに館内を見渡すと、自分から見れば子供のような齢の高校生や大学生が客の大半を占めていて、なんだか申し訳ない気持ちになったものの、一組、僕より10は上くらいのカップルもいらっしゃって、おふたりはとても自然に手をつないで帰っていかれたのだった。
そうさ、ラブコメ愉しむのに年齢制限なんて、ないのさ。

じゃい