エゴイストのレビュー・感想・評価
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温度
「帰らないで」
じぶんの望み(〝エゴ〟)を口にした龍太の母・妙子
病室の機械に繋がれる命の灯りをゆらしながら出た声は
はっきりと浩輔の背中を押した
かつて妙子が浩輔に話した「受け取る側が愛と感じたなら愛なんです。」という言葉が私の頭の中にかえってくる
妙子は最後にその意味を確かめさせたのだろう
〝エゴ〟を貫いた結果が龍太の死と妙子の病を招いてしまったと自分を責め詫び続けた浩輔を救うために、そこに〝あなたの本心で、そのままを生きればいい〟というメッセージをこめたのだと思う
帰り支度をしようとしていた浩輔は、妙子の言葉の意味するところに気付き向き直る
それが同時に、亡き息子(龍太)の人生に対する母の抱擁でもあることを充分に感じとりながら、浩輔は妙子の手の温もりに自分と龍太の温もりを重ねた
限りなく優しいその温度は視覚からわたしの心をも柔らかく包むと
「エゴイスト」のロゴをふたたびふわりとスクリーンに浮かびあがらせてみせたのだ
そして、世の中に溢れるすべては、エゴでありエゴイストでありエゴイズムなのかもしれない
けれど、その本質、変貌の自由さを知っている?
どんなことも、一括りにして捉えることは安直で不自然だと気付いてる?
そんなふうに問いかけてきたのだ
………………
出会ってすぐに惹かれあった浩輔と龍太
浩輔が龍太に自分なりの(〝エゴ〟)愛情を示せば示すほど、自分の状況に負い目を感じ会うことを躊躇するようになる龍太
手離したくない龍太を思いとどまらせるべく、浩輔の思い(〝エゴ〟)は龍太に経済的支援を始め解決の道を探る
龍太は戸惑いながらも受け入れ、職を変え自分も状況を立て直す努力をする
歩み寄るような形でお互いの正直な気持ちを尊重し、押し寄せる波を越えようとしたのだ
やがて闇を抜け、眩い朝日を受け浮かぶ舟にいるようにゆったりとした安らぎが訪れるのを感じながら
以前、浩輔がこどもの時の旅の思い出を語る姿がよほど忘れられなかったのか、龍太から誘った海へ行く約束の日の朝
龍太は目覚めることなく亡くなってしまった
突然の死に、慟哭する浩輔と気丈に振る舞う妙子の姿
龍太を介して親しくなった浩輔に、妙子の裏側に隠した苦悩がわからないはずはなく、ついには〝エゴ〟を承知で龍太の代わりに経済的に生活を支えたいと申し出る
戸惑いながらも妙子は浩輔のその深いわけを理解し受け入れた
浩輔の母が病に倒れた当時は自分は子どもで、母にしてやれることは限られていたはず
ましてやセクシャルマイノリティのためにいじめを受け、理解をされにくい環境は母の死によってさらに逃げ出したい場所となっていったのだろう
そんな浩輔は命日のたび帰省するものの、玄関を開けるまでの故郷の道は居心地が悪そうに見えて仕方なかった
未だに彼にとっての故郷は虚無ともいえる場所であり、忘れたい時間なのだ
上京し自分の居心地を選べる大人になり、精神的にも経済的にもゆとりを得た現在の浩輔が、愛した龍太の母を支援することは、実母には果たせなかった孝行の代わりでもあり、過去の辛い空白の時を埋めて満たすような意味があったのではないか
そんな妙子が、病に侵され余命わずかと知ったのだ
龍太を失い、妙子までも…
本人の前で浩輔はぎりぎりの冷静を保つのがやっとだっただろう
押さえ込んだ動揺を抱える帰り道、自動販売機で小銭を撒いてしまったときにそれは噴出した
初めて龍太に誘われたカフェのレジ、小銭をばら撒き、慌てて拾いながら頭をぶつけた彼の愛しい姿が蘇ってしまったから…
どんなにはがゆくとも手立てがない現実がある
再びそれを突き付けられた浩輔の嗚咽が響く
それほどにつらく背負うのも〝エゴ〟を通した代償なのか?
彼らが互いを思いやり交わす優しく温かなやりとりを振り返るとある答えがみえてくるのだ
3人でアパートの小な食卓を囲む楽しそうな様子、妙子を挟んだ記念写真、街中で手をつなぎたい気持ち、たわいのない寛ぎの空気、素直に感情を寄せ合う二人、枯れた寄せ植えを一緒に新しくととのえる姿、妙子の体調への労わり、病室に飾る花、あたたかい風呂、龍太の部屋に泊めてくれる妙子、手土産に高い方の梨を選びなおす様子(→なぜ高い方を?というレビューを拝見しましたが、ここには、愛する人たちの死を通し、無意識に人生の時間の限りを読み取った瞬間にうまれる価値観みたいなものがよくあらわれていたように思うのです)などの数々だ
私がそのなかでも印象的だったのは、病院から帰宅した浩輔が、妙子が土産に持たせたおかずを温めようとするシーン
浩輔がテーブルに置いたその容器を大事そうに手のひらで包んだ姿があった
これは浩輔の〝エゴ〟が、相手を本当に大切に思う気持ちを積み重ね相手に伝わる温度をもった証し
与えるだけの愛がいつしか龍太と妙子からも与えられる愛になって通じてたことがわかる、自然と溢れるような所作が心を打つ
誰にでもいつか訪れる死
そこへ向かう途中、愛する人に出会う
心が震えるような愛を覚え、相手の現実に寄り添いたいと心底考えるようになる
それは、自分の時間、自分の収入、自分への利益やみかえり…そういったものを天秤にかけずに、まっすぐに相手に差し出したい気持ち
単なる好きだという気持ちを越えて大切におもうことだとおもう
それが通じ合ったとき〝エゴ〟は
もはや〝エゴ〟と呼べない
そしてそこから先にある結果がどうであれ〝代償〟ではなくなるのだ
それどころか、その経験は得たことはかけがえのない意義を人生にもたらすのだと思う
浩輔の〝エゴ〟で始まった関係も、光を遺し、温かい記憶の中できっと生き続けることが、あの時重ねた手や、気心の知れた親友に囲まれる姿から伝わってきてなんだかとても嬉しかった
もう一つ、さりげなく見守り、弱ってるときにはあったかい夕飯を作って泊まっていけと言ってくれる浩輔の父さんの存在の大切さがあることも私たちは知っている
余韻のこる帰路、小学校の教室に先生の習字で「思いやり」って書いてあったのを思い出した
そうだ 世の中を嘆く前に一人一人ができること
家庭、地域、学校…まずは小さな単位に目をむけること
2度目のタイトルがもたらしたように、そこにはかならず〝エゴ〟を越えた温度が伝わる
そして社会は、誰もが平等に自分らしく生きていける権利を、
誰かの生きづらさにさらりと手を差しのべ、目を配れる環境と教育への取り組みを、と切に願う
素晴らしい演技力に魅了された
自伝的小説を映画化したヒューマンドラマ。地味なストーリーで共感できるような内容では無いが、主演の鈴木亮平を中心に出演キャストの演技力が素晴らしくスクリーンに引き込まれた。さらにドキュメンタリータッチの映像による描写が、繊細な心の葛藤をより一層引き立てているように感じた。
2023-25
「君の名前で僕を呼んで」と比べるなら・・・
自分をエゴイストと思っている人は決してエゴイストではない
物語は単純なのに心揺さぶられる圧倒的な展開に思わず涙してしまいました。
以下は、エゴイストのタイトルについての一つの解釈です。
まず結論。利己(我欲)を顧みない全き利他(愛)などありえない。だから、普通それをエゴとは呼ばない。それなのに自らのエゴ(だと思っているもの)を責め続ける浩輔の真摯で痛々しい姿に観るものは心動かし、我々に愛につての観念を揺るがして深い感動を生む。
エゴイストとは誰なのか。まず、思いつくのは、主人公浩輔のエゴ、龍太を引き留めたが故に、結果として無理をさせて彼を死へと追いやってしまったことや、果たせなかった母への償いとしての龍太の母妙子への援助も、自分勝手な思いの押し付けと言えないことはない
しかし、観客にはその思いはあまり共感されないし、映画はそのようには描かれていないと思う。
実際、龍太は浩輔と短くても、これまでになかった幸せな日々を過ごしたのであり、妙子も浩輔によって、(龍太の遺品を処分出来る迄)息子の死を克服出来たかのように見える。
ただひとり物語の中で自分のエゴを一番意識しているのは一人称で語られる浩輔本人なのだ。 だからエゴイストは客観的なものではなく、浩輔の内面にある主観的なものとなる。
劇中何度も浩輔は、 ごめんなさい と謝罪する。
そして亡き母親にストレートに生まれてこなかった事を(龍太が母親に自分がゲイである事を悟られた時と同様に)常に詫びている。
周囲に合わせる事も出来ず、愛する人達からの期待にもこたえられない、その責めは全て自分がゲイであることに帰する。ゲイである自分は自分勝手なエゴイストだという思い。しかし、自分は変えられない。ブランド物の服を鎧と称して自嘲的に強がる姿は、自分をしてさらにその思いを強くさせる。 その悲しみ。
冷静に自分の内面を見つめながらも、浩輔の屈折した思い込みこそがエゴイストでした。
でも作者(或いは監督)の意図は、それを否定することにあった。
今回すでに故人である原作者高山真氏のブログを読んでみた。
お姉言葉の独特の感性で軽快にしかも鋭く日常を語る中に、自己愛についての言及があった。
作者は自己愛に溺れる自分を卑しいと軽蔑しながらも、それをいとおしむ感性を持ち合わせた真摯で内省の人だった。
物語は後半、浩輔は自分の母を妙子に重ね合わせ世話をすることで亡き母への償いをする。
だが、その後ろめたさを感じているからこそ、浩輔は他人から息子かと尋ねられても否定し続けるのだが、最後の最後で妙子に、 えぇ自慢の息子です と答えてもらえる。
この瞬間、浩輔は救われエゴイストではなくなり、物語は終わる。
(2/26 一部加筆しました)
愛とエゴは表裏一体
エゴイスト、そのタイトルがついた意味を鑑賞後考え続けている。
恋人が死んだ後もそのお母さんの世話を焼くなど、なかなかできることではないのだ。
享受する側が、息子も私も愛してくれてありがとうと、思うのであればそれは愛だと思うのだが、与えている側が愛だと思っていない。愛が分からないのだ。
あくまでも自分のエゴとしての行動であると自覚しているから、与えても与えてもごめんなさいと謝るのだ。
なるほどなあ。やられたな。
愛もエゴも表裏一体なんだ。
好きな人の誕生日にプレゼントをあげることを想像してみてほしい。
多分、予算を告げてなんでも好きな物買っていいよとお店に連れて行って買ってあげれば間違いなくその相手は喜んではくれるだろう。
でも相手には何も聞かず、自分がその人に似合うだろう、その人が思いついてもいないけど絶対使えば便利だろうといったものをプレゼントしたくなるし、サプライズであげたくなる、それがエゴなんだと思う。
どちらも同じ金額だとしたら、一体どちらが自分にとって満足なんだろう。
実は人に自分のプレゼントしたいものを与えることもエゴイストな行為なんだないと思い至る。
車に乗ってドライブに行かせてあげたかった。
そんなシーンはこの映画のどこにもないのに、宮沢氷魚のみずみずしさ、鈴木亮平の七変化な演技力生々しいラブシーンを前半でみていることで、あたかも二人があの軽自動車で海へドライブしたシーンが目に浮かぶのだ。
見てもいないのにね。
そんな不思議な突き刺さる作品であったのは間違いない。
いち当事者として
最近界隈で話題だったし、ドリアン・ロロブリジーダさんが出演することもあって鑑賞。
劇場は9割方女性客ばかりで、逆に浮いてるくらいの状況だった。
ゲイの立場から言えば、本当にリアルというか、日常というか。
子どもも持てない、結婚もできない、
身体の関係とお金の関係が中心だからこそ、
心のどこかで諦めてるし、心のどこかで縋ろうともしてる。
実家との繋がりもどこかギクシャクしたままで、縁談の話になると、仕事が忙しいだの言ってはぐらかすところなんて、自分を見ているかのようだった。
気持ちを繋ぎ止める方法が、お金とかお土産っていう即物的なものになりがちだったり、
体の関係が恋愛に先立ちやすかったり、
「愛がわからないんです。」って台詞は、多くの当事者にとって共感できるものなんだと思う。
エゴイストってタイトルがこんなにも腑に落ちるのはやっぱりいい映画だったからだろう。
見終わった直後は、「愛とは」という命題の答えが与えられたような気がして暖かい気持ちにもなったけれど、色々考えていくとまた違った感情にもなる。
一人称の視点だし、主人公の浩輔のエゴが最終的に「受け取る側が愛だと思えばそれは愛である」という答えに辿り着く物語であることは疑いない。
一方で、恋人の龍太もやっぱりエゴイストで、受け取れないとは言うものの、やっぱり浩輔の資金援助を当てにしていたわけだし、一見過労と思わせる死因だって、本当のところはわからない。もしかしたら病気を隠していたかもしれないし、そういう意味では自分の死期にも気づいていたんじゃないだろうか。母親に浩輔を紹介したのだって、パートナーという事を隠していたわけで、そうなると「何のための紹介なの?」と思えて、自分の死後、母親を助けて欲しいっていう願望が透けているようにも感じる。目論見通り浩輔は母親に資金援助するわけだし。
そして、龍太の母妙子。この人もまごうことなきエゴイストだと思う。本人に全く悪気はないけれども、自分の息子と恋人という2人の青年の人生を搾取し続けた。浩輔にとっては救いであり、自分の行動を肯定してくれる愛に溢れた人物なのは間違いない。でもその一方で嫌な言い方をすれば、他者の善意を当てにして自らの生活を成り立たせてしまう人。病弱で、という設定はあるものの、公的支援するなり、大人としてすべきことを放棄してしまった人に感じる。でもそれは龍太も浩輔も自ら進んで行なっているわけで、それを受け入れるのだって当事者が納得してるんなら周りがとやかく言うことじゃない。それこそゲイバーでの友人の反応のとおり。
登場人物全員がエゴイストで、決して誰かが悪いわけじゃない。各々のエゴが生々しく描かれていくのね。と。
モデルになった人々はもしかしたらもっと純粋なのかもしれない。でも確かに「自伝的小説」ではあるけれど、「自伝」ではないからこそ実在の人物とは切り離して考えるべきなんでしょうね。
それに、作中に現れるチャイコフスキーの悲愴。チャイコフスキー自身も同性愛者という噂もあったこともあり、観終わった今考えるとこの交響曲と構造が一緒なのかも、とも思い始めた。
ともかく、こうやって見終わった後も色々と考えたり気づいたりすることが多く、それだけ「良い映画」だった。
鈴木亮平はさすがだった
ゲイの浩輔は東京でファッション誌の編集者として働き、1人で自由気ままな生活を送っていた。そんなある日、浩輔は母を支えながら暮らしているトレーナーの龍太と出会った。浩輔と龍太はひかれ合い、セックスするような関係となり、時には龍太の母も交えて食事したりして、満ち足りた時間を過ごしていた。龍太の母に、自分の亡き母への思いを重ねてた浩輔は、中古の軽を購入し、龍太と2人でドライブの約束をしていた日、龍太は現れず・・・という話。
BLやゲイは苦手なんだけど、浩輔役の鈴木亮平が素晴らしく、そんなに違和感なく観れた。
セックスシーンは「窮鼠はチーズの夢を見る」ほど過激じゃなくて良かった。
ゲイとか関係なく、母親思いの2人の息子の話として観ればウルウルすると思う。
題名のエゴイスト、って誰のことなんだろうと考えてたが、イマイチよくわからなかった。浩輔なのかな?
いい意味で、「思ってたんとちゃう」
「同性愛者」を描いたってもんじゃない。ただ単純に「愛」って一体なんなのかもう一度考えてみてと問われた映画だった。
「愛」と聞けば恋や結婚を思い浮かべるが、この映画では親子の間にある「愛」というものを常に軸にして進行する。
自分はこういう映画こそ差別や偏見のない世界を目指すにあたってスタンダードになるべき映画だと思う。
差別を受けた側の人間に焦点を当てて世間からの認知を少しでも得ようとする動きは決してダメではない。むしろ発展において大事なことである。
しかし、ここ最近あまりにも過剰な配慮をしている作品(主にハリウッド)が見かけられる。例を出すと、『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』の中で女性同士のキスシーンが導入されていた。このシーンについてアメリカでは様々な議論が巻き起こった。
私が「度を越している」と思った理由は、このキスシーンを男女のキスと同等の扱いをせず、むしろ強調していた点だ。もうこの時点で無意識に差別しているのと変わらないのだ。
この『エゴイスト』においては、同性愛はただの恋愛であり、その恋愛を通して鈴木亮平さん演じる浩輔がどういう人間として生きていくかを見届ける作品だと思いました。
最後に一言。鈴木亮平さんはいま日本で最高の俳優だと確信できた。
セックスシーンはいらない
エゴイストの意味
私は漫画や小説ならBLとか同性愛表現は読むのですが、実写のものはあんまり免疫がありません。正直私が観ていいものなのかな…?と思いつつ、鈴木亮平さんの演技がすごい!と聞いて観てみました。
最初のあたりからガッツリ絡みシーンがあるのでビックリしましたが、鈴木亮平さんも宮沢氷魚さんも、完全に恋人同士としてその場に存在していて、とても自然。恋人関係になった2人が幸せそうで、特に浩輔さんの、好きでたまらないのがあふれてる感じが素敵で2人のシーンをずっと観ていたくなるくらい。
タイトルは「エゴイスト」。
浩輔さんの、恋人を自分だけのものにしたくてお金を払ってでも手元に置いたこと。お母さんに自分の母親を重ねて、断られてもお金を渡すこと。それはある意味で利己主義と言われればそうなのかもしれない。
でもお母さんが言ったように、受け取る側が「愛だ」と感じたなら、それは愛なんだと思います。
その言葉が、浩輔さんに届いてよかったと思いました。
幕切れも秀逸。エンドロールで涙が止まらず、喪失感がすごい。けど2人が出会えてよかったんじゃないかと、ある意味幸せを感じます。
鈴木亮平さんがどこかのインタビューで語っていましたが、最初と最後に出てくる「エゴイスト」の印象がまったく変わります。
こういう作品に出会えるから、映画館に行くのはやっぱりやめられない。
日本映画がまた好きになりました。
【SEX描写に注目がいきがちだが…】
あの愛の続け方は自分にはできない
恋人そして息子を亡くした二人は互いに支え合っていなければこの先は無かったから?そしていつかはどちらからか手を離す時が来るような⁉︎これをエゴイストと表現したのかなぁ
しかし突然死から回想シーンも無くエンドロールへ何でしょう帰り道でのこの喪失感。
誰もエゴイストではなかったような?
最初の一歩
見所は主役2人のセックスシーン
序盤に主役2人のセックスシーンがある。
そのシーンを観て感じた事は、居心地の悪さと微かな違和感。
それは濃厚な性描写を見たから、という理由じゃなくセックス中の2人の「熱」が映像から伝わってこなかったから。
行為自体はかなりしっかりと描写されているのに、そこに相手を心から求める欲情は映されず、美しいんだけどマニュアルを一通りこなしましたって印象だった。特に龍太の方は。
その違和感は作中で浩輔自身も「なんか丁寧すぎるんだよね」と口にしていた気がする。
映画を観ている自分も龍太がどうゆう人間なのか掴めず、途中で浩輔の金を持ち逃げして消えるって展開になるんじゃないかと思ってた。
でも、終盤に突然龍太の死が告げられ、その後龍太がどれほど浩輔を愛していたかが分かる。龍太にとって浩輔がどれだけ大切な存在だったかが。
そこで、序盤のセックスシーンの意味合いが色付けされる。
ウリを生業にしている龍太にとってセックスは「義務」の意味合いが強かったんじゃないか。相手を喜ばせなければならない、満足させなければならない。でも義務感から行うセックスほど虚しい物はない。
龍太は浩輔の事を愛してた。本当に大切に思ってる人とのセックスですら、相手を知る驚きや、繋がれる喜びよりも、こうすれば満足するはずという「仕事」のようなモノになってしまう。
2人のセックスシーンから感じた違和感は、そうゆう龍太の哀しみも監督がそのシーンに折り込み、役者2人がそれを表現したからじゃないかと思う。
いわゆるBLモノの消費されるための性描写ではなく、人物の背景をセリフ以外で伝える映画的なセックスシーンが最近の邦画でどれだけあっただろうと思うと、それを見るだけでも充分鑑賞の価値のある作品だと感じた。
(もし監督に尋ね事ができたら、そんな演出意図は全くないですって言われるかもしれないけど笑)
それはエゴか
映画エゴイスト
観終わってまともに立てなくなったの
久しぶり。
何でだろう。
私は自身の目から見た
現代に生きるゲイの2人。
勿論実際にこのような経験を
されている知人もいる。
映画が終わった後のこの“喪失感”は何だろうか。
実の母
愛した人
愛した人の母
「あら、息子さん?」
でも否定しなかった
それほど愛や気持ちがあったのでしょう
家族は血の繋がりで成り立つものですか?
現在の法律上同性での婚姻は認められていない
13人に1人はLGBTQの人とも言われている日本
もう既に私たちの職場や近所
あらゆる所でその場所で普通に生きている人達がいる
ただ愛したい人がいて
共に過ごす時間が愛しい
当事者である私は
共感と心の中で共鳴していた
尽くすことは自己満足なのか
あの愛はエゴだったのか
でも
彼の笑顔や過ごした時間はずっと
変わらないし
彼が生き続ける限り
それは大切な愛の記憶である
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