「銀の滴(しずく)降る降るまわりに」カムイのうた 大岸弦さんの映画レビュー(感想・評価)
銀の滴(しずく)降る降るまわりに
カムイのうた
大阪十三にある映画館「第七芸術劇場」にて鑑賞 2024年1月28日(日)
パンフレット入手
アイヌ人女性 知里幸恵(ちりゆきえ)(1903年(明治36年)6月8日-1922年(大正11年)9月18日)19歳)のドキュメンタリー
ユーカラ(英雄叙事詩)などの口承文芸作品を記録し、その日本語訳をアイヌ民族として初めて行った。
当作品では「北里テル(吉田美月宮)」
和人(わじん)によってアイヌ人差別と迫害の日々を余儀なくされていた。
生活の糧であった狩猟、サケ漁が禁止され、住んでいた土地が奪われたり、アイヌ語が禁止されていたのです。
同じ民族ではないという理由だけであった。
幼いころから和人と同じ学校に通うことを禁止され、土人学校と呼称される学校でアイヌ語を禁止され日本人として同化教育をうけてきたテル。
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学業が優秀であり女学校を受験し優秀な成績となるがアイヌということだけで不合格となる。
1917年(大正6年)、アイヌとして初めて和人と同じ女子職業学校に入学。しかし学校での日常は理不尽な差別といじめの日々であった。
幼い時から共に育ったアイヌの青年一三四(ひさし)(望月歩)は、テルの苦しみを自分のことのように感じ苛立ちを隠せない
「なんで俺たちが差別されなきゃいけないんだ。アイヌに生まれただけで」 テル「同じ人間なのにね」
テルの伯母(イヌイエマツ)はアイヌの口承文芸ユーカラを歌い聞かせ語った「お前の身体ん中にあるユーカラは、なんぴとも奪うことは出来んのだあ。みんなカムイが見てて下すってんだ」
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ある日東京からアイヌ語研究の第一人者である兼田教授(加藤雅也)がユーカラを聴きに伯母を訪ねてきた。
テルに兼田は「ユーカラはアイヌ文化の雄大な叙事詩で、優れた伝承文学です」と言った。差別と迫害の中で育ってきたテルにとってその言葉がテルに気づきをもたらす。
「アイヌであることを誇りに思っていいのですか?」兼田は大きく頷きながら、アイヌ語と日本語が流暢なテルに、ユーカラを文字で残す事を進めるのだった。
「あなたが書けば、アイヌの心を伝ええることができる」
兼田から送られてきたノートにアイヌ語をローマ字でつづり、テルの感性で日本語に翻訳していく作業が始まった。
その出来栄えは、兼田が想像していたものを遥かに超えていた。本格的に出版物にしようと、テルを東京に呼び寄せる。
そんなテルを励ましながら心配そうに見つめる一三四は自分の将来をテルに打ち明けるのだった
「俺は差別されないアイヌになる。そしてアイヌの誇りを取り戻す」そして東京から戻ってきたら、一緒になろう想いを伝えた。
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ユーカラの翻訳は順調に進むが、19歳になったテルの心臓に病魔が襲い掛かる。
医師からは「結婚はできない」と言われ、涙を流しながら一三四に手紙を書く。
一三四は東京へ向かう。だが到着したときは、すでにテルは他界していた・・・
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追加情報 2024-5-21
この作品に登場する[兼田教授]は「金田一 京助」(1882-1949)です
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上映は終了となるが拍手喝采となっていて、舞台挨拶まで続いた
これは異例のことである!
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舞台挨拶
望月歩さん、菅原浩志監督、佐藤文泰さん(東川町副町長)
この作品は、3年かかったそうです。
北海道の風景や野生動物は、すべて撮影したものを使用しているとのこと
ユーカラの翻訳は今もやっている。
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映画館は満員となり「立ち見」まで
アイヌの話でここまで観客が集まるとは。
おそらくですが大反響の「ゴールデンカムイ」の漫画や映画に登場するアイヌの女の子「アシリパ」の影響かと(笑)
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じつは30年くらい前に、大学生だった頃に北海道へよく一人旅をしていました。最初の目的は登山でしたが、先住民族「アイヌ」に興味を抱くようになりました。
旭川郊外にある「アイヌコタン」へ訪問したことがございます。
50歳くらいの男性で、白いひげを蓄えておられて、やや堀の深い姿でした。笑い上戸な人。
予約せず、初対面なのに、とってもフレンドリーでびっくりしました。相手がどこのだれかがわからないのに。
気が付いたらアイヌの民族衣装を着ていて、記念写真!
知里幸恵著「アイヌ民謡集」読んだことがあります。
「銀の滴(しずく)降る降るまわりに 金の滴(しずく)降る降るまに」ではじまる・・・あまりにもその美しさといったら!