「私的教育論」スーパー30 アーナンド先生の教室 シューテツさんの映画レビュー(感想・評価)
私的教育論
まず、今回は本作よりもタイトルの“私的教育論”の話に終始すると思います。
とりあえず本作の感想を手短に書いておくと、さすがインド映画でありエンタテイメントと社会問題との融合が相変わらず巧く、映画を楽しみながら社会の仕組みや問題点を考えさせてくれるという、大衆映画の最も重要な役割に対して非常に優れた映画作りをしている様に思えました。
本作は教育問題がテーマであり、教育に貧富の差を持ち込まないという現代社会の基本的な問題点を取り上げていましたが、国家としての成熟度を測る要素でもあり、この問題が解決されていない国こそ、本当の意味での後進国なのでしょうね。
そういう意味で本作のメッセージは非常に心に響きましたが、私も昔から“教育”という事柄に対して色々な疑問があり、常々関心を寄せるテーマの一つでもあります。
で、ここからは映画とはかけ離れた内容になってしまいますが、そもそも教育とは何ぞやという話から考えなければ話が進まない様な気がします。
まあ、そんなに壮大な話をする気もないのですが、時代や国によって意味も異なってくるので日本だけに絞って考えると江戸時代位から“寺子屋”なんてあったようですが、国家として国民に対して行われたのは明治に入ってからだと思います。その当時は“富国強兵”という国家的指針があったので教育=国の兵隊を作るのが目的だったのでしょう。それは昭和の世界大戦が終わるまで続いていたので、ついこの前まではこんな感じだったと思います。
終戦後の敗戦国である日本の教育の目的はアメリカの資本主義の影響で、教育=労働者&消費者を生み出すのに目的が変わりました。私世代はその渦中の教育で育てられました。
本当は今現在までの変化を続けて書きたいのですが、いったん中断して私世代の教育がどんなものだったのか?を簡単にまとめておくと、基本的に国家のビジョンとしては経済成長することを目標としていたので、この時点で目標達成後の予測などは全くしていなかった様に思われます。(というか無かったから今現在の病が発症している訳です)
経済成長の為の教育とは=受験教育という形となり、教育を受ける者は全て義務教育だけでなく最終学歴までを目標にさせられたのです。終戦後78年が経過しますが、社会自体は大きく変化したにも関わらず、人々の教育に関しての観念がまだ当時の教育目的のままで、大きな変化が見られないところに国家の衰退が見えてしまいます。
ちょっと話を映画に戻すと、このアーナンド先生が貧しい子供を無作為に30人選び最高学府・インド工科大学に受かった訳ではなく、当然ながらその30人は恐らくIQ125以上位の子供たちを何らかの方法で人選していたハズです。本作の核になるメッセージは、貧富によって才能がある子供に教育を受けるチャンスが閉ざされることに対しての抗議であって、人間の資質に対しての適性を探り出すことが真の教育機関の役割だということを言ってるのです。
知能指数(IQ)の出現比率というものがあり、綺麗なベル状分布図となるのですが、それは時代や国や教育に関係ない人間の生まれ持った特性であって、教育することによって多少は度数は上がるかも知れませんが、この分布を完全に無視して全員が同じ目標に向かって目指す教育なんて馬鹿げているし無謀でもある筈なのですが、約80年間そのことに目隠しして同じ様なシステムをし続けている無能さは何なのでしょう。
しかし、知能指数というのもあくまでも人間の資質の一つの要素であり、人間にはそれだけではなく他にも様々な特性(体質、運動能力、芸術的感性等々)があり、個別に何の能力があるのかを探り、社会生活にその特性を適応させることが、今の時代の教育目標でなければならないのですが、現実は全くそうなってはいませんよね。
本来は、上記した私世代の教育=労働者&消費者を生み出す目的はバブルがはじけた30年前にとっくに終了させ、新しい目標の教育に変換しなければならなかったのに、それをしなかったツケが今爆発しかけているのでしょう。
60年前にあった人間の仕事の8割は今は機械化やAI化によってなくなっています。新しい仕事(若しくは社会的役割り)を新しい教育で考え直さなければならない時代は何十年前から始まっているのに何も変えなかった罪と罰が今の日本の厳しい状況なのでしょうね。
私がこんなことを語っても老害でしかないのかも知れませんが、まだ現役の人達はもっと先見性を磨いて頑張って欲しいです。