沖縄久高島のイザイホーのレビュー・感想・評価
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完全に打ちのめされた
イザイホーについては様々な想いがあるわたしとしても、この映像に出会えたチャンスを与えてくれたカミさまに感謝したい。 岡田一男監督と、この16ミリフィルムでの1979年の作品を今まで知らずにいたのだから。 それが40年以上経ってデジタルリメイクされ、しかも昨日、名古屋で上映の情報をキャッチ。 しかも、この冬至祭のある旧暦十一月(今現在)に、地元の古い祭祀にも関わってて身体も心も魂も同じような時空に居る中で。 この映像を地元映画館で観れ、しかも初日の監督舞台挨拶まで、その後に直接お話まできくことができた。 今日は朝から、地元の冬至祭の準備をしていた流れで移動し、そのまま真っ暗な映画館のシートに座ったのだ。 わたしは、記録映像として客観的に観れないくらい、30年近く前に訪れた旧正月の久高島の時空を思い出しながら、あたかも現場に居るようなつもりで魅入った。 ナレーションもいいし、字幕でさらに素晴らしい情報が流れてきたのだが。 解説としてとても勉強になるけど、それを追いかけると集中できないので適当に聞き流した。 今まで見てきたイザイホーの映像が表面的だったのか、丁寧に大切な儀礼のひとつひとつをとらえて、意味のある編集が効いている。 リアルタイムの1990年というチャンスに行きたかったイザイホーは中止。 祭りの現場に立ち会えなかったわたしが久高島へ行ったのはその3年後。 その後も比嘉康雄の写真集から長らく影響を受けていた。 現場でないと何もわからない。 それが祭りだと思うけど、この映画では何かを確実に感じることができたのはなぜなんだろう。 終了後の待合ロビーで岡田監督と語り合える貴重な時間をいただけた。 当時のイザイホーを経験した方はもうすでに3名しか残ってない。 この記録映像が、いつかの復活に必ず役立つだろうと。 今作は当時のリメイク版だけど、もう一作の「沖縄久高島のイラブー」は当時の貴重な映像プラス、そこで記録に残せなかった部分を新たに取材したという現在の映像を織り交ぜ、イザイホーと深く関わるこの伝統文化の映像もぜひ合わせて見てほしいと。 それから、イザイホーの4日目の儀礼がとても重要で、映画では時間の関係でほとんど省略されてると。 それくらいまだまだ記録映像がたくさん残ってて、その4日目だけで次は1本の映画にしたいと仰った。 さらに、いつかすべてをまとめた完全版も作りたいと。 それまではなんとか生きてるだろうと。 いやいや、生きててくださいよ、絶対観たいし、監督じゃ無きゃできない仕事なんだからお願いしますよ。 と、たのんでおきました。 岡田監督、36歳の時の作品が40年以上経ってその全記録をデジタルアーカイブ化に成功したんだから、なんとしても、ゆたさるぐとぅうにげぇさびら(よろしくお願い申し上げます)。
1978年を最後に
行われなくなった祭 のドキュメント作品 何があり何が理由で途絶えたのか? それを知りたく舞台挨拶ありの上映へと参加 無事、その疑問を解決できた。 が、一度途絶えると再開が難しい。 その理由も理解できた。 それもこれも、人間ならではが持つ信仰に起因するため ある意味映像として残ったことに安堵を覚えた◎ 2024年。コロナ以降の急速な社会のレジュームの中 これまでなんとか繋がってきた諸々が灰塵となる 可能性が高い。 本作に見る諸々を参考に 消えて無くならない民俗の足跡を残したい🐾
美しいデジタル映像で失われた離島の祭りを観る
岡本太郎の沖縄に、出てくるイザイホーの祭り、久高ノロさん。貴重な1978年のイザイホーの記録、多くのメディアや研究者が久高島を訪れ記録が取られたがその時は奇祭と認識あれど最後のイザイホーとはかんがえてなかった。
他にも時々眼にする白い着物を着た女性たちが祈り走り踊る写真、今はない祭り、伝習、興味を惹かれないわけがない。
岡本太郎の沖縄では、女性が司る女性の祭り事、と強く感じたが、この映画では男性の役割も多く、そもそも土地の痩せた島の経済、島民の暮らしのため海に出る男たちを守りその間の島を守る女たちの宗教ということなので、目的からして男性が祭りで役割を担うこともそうだろう。
この映画をみたりお話を聞いたところ、イザイホーは岡本太郎の沖縄で感じた自発的自助互助的、自然発生的、自然必然的な祭祀宗教システムというものとは違うようだ(岡本太郎映画を勝手に解釈しているかもしれないが)
琉球王朝、王府との関わりがある、より政治的なものであるようだ。ニライカナイの神がおりたつ聖なる久高島、王府にニライカナイの神を繋ぐ役割のような。
イザイホー神女集団は島で生まれた女性。30歳になり、12年に一度のイザイホー祭りでナンチューとなることで神女と認められ、年齢や神事の経験により年齢位階制度のようなものに組み込まれるようだし、70歳を過ぎるとイザイホー卒業引退となるようだ。祭りで白い着物をきていない、神女じゃない女性も多くいるのは、年齢が未達か卒業済みか島の生まれではない方もいるのかもしれない。
イザイホーの祭りをするため、雑草を全て抜いて浜辺から砂を運んで場を作りそこにイザイホーのための小屋を作り一週間ほどの祭り。手が込んでおり型がしっかりあり、年中行事を通し世代間(ナンチュ、新しい神女は、祖母から孫への継承)で伝えられ身体が覚えていかれたもののようた。
イザイホーはできなくても、毎年残った神女たちが行事をしていたが最後は行事に歌も踊りもなく、2008年には皆退役となり2008年には神女がいなくなったそうだ。
神の使いである海蛇イラブーの燻製作りも、イザイホー同様に失われてしまったが、有志の尽力で復活しているという。
岡本太郎の沖縄で、イラブーの捕獲と加工はノロの家の特権であったこと、手でイラブーを掴んで捕まえていたことが印象的だったが、イラブーがもたらす経済的利益というより祭礼、神との関わりをもつノロの、宗教的(王朝への献上など政治的な物も含む)関与に係る事なのかもしれない。
この映画でイザイホーを初日から時系列に追うと、女性主導の祭り、宗教、集団という最初の印象からかなり違う、もっと権威的なものが象徴されているようにも感じた。
外間、久高両ノロさんが高齢となり、亡くなり、後継のノロはなく、いずれにしても生活習慣、日々の暮らしの中で継承は難しく今に至ることはできなかっただろう。(子どもたちが島から出て教育受けたり仕事をしたり出会いを得たりで、祖母から孫への島民の継承が途切れる。そこに抵抗も頓着もなさそうなところもよい、これは岡本太郎の沖縄の方で知り感じたこと。
久高島の海の向こうはニライカナイ。
今、この島の人、沖縄の人に心にはニライカナイはあるのだりうか。ニライカナイも所詮真の心の信仰、心の中の神ではなく、王権、王政、王府、支配と制度の中のものなのかもと思うと部外者が変な期待やノスタルジーや憧れを持つことも慎むべきか。
失われたものを愛しむ気持ちは変わらない。残れば今ふうにいえば人の自由と権利の問題にもなり、そうもならず観光のための消費対象にならなかったこともまた良いことと思う。
紀伊國屋ホールで解説、パネル付きの回を拝見したので、映画で得たものと、その後聞いた話もあわせて記録。古いフィルムと音声(当時は別々の機械で収録とのこと)を美しく鮮明にデジタル化。このような映像をしっかり観ることができるのは感謝しかない。
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