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岡本太郎の沖縄に、出てくるイザイホーの祭り、久高ノロさん。貴重な1978年のイザイホーの記録、多くのメディアや研究者が久高島を訪れ記録が取られたがその時は奇祭と認識あれど最後のイザイホーとはかんがえてなかった。
他にも時々眼にする白い着物を着た女性たちが祈り走り踊る写真、今はない祭り、伝習、興味を惹かれないわけがない。
岡本太郎の沖縄では、女性が司る女性の祭り事、と強く感じたが、この映画では男性の役割も多く、そもそも土地の痩せた島の経済、島民の暮らしのため海に出る男たちを守りその間の島を守る女たちの宗教ということなので、目的からして男性が祭りで役割を担うこともそうだろう。
この映画をみたりお話を聞いたところ、イザイホーは岡本太郎の沖縄で感じた自発的自助互助的、自然発生的、自然必然的な祭祀宗教システムというものとは違うようだ(岡本太郎映画を勝手に解釈しているかもしれないが)
琉球王朝、王府との関わりがある、より政治的なものであるようだ。ニライカナイの神がおりたつ聖なる久高島、王府にニライカナイの神を繋ぐ役割のような。
イザイホー神女集団は島で生まれた女性。30歳になり、12年に一度のイザイホー祭りでナンチューとなることで神女と認められ、年齢や神事の経験により年齢位階制度のようなものに組み込まれるようだし、70歳を過ぎるとイザイホー卒業引退となるようだ。祭りで白い着物をきていない、神女じゃない女性も多くいるのは、年齢が未達か卒業済みか島の生まれではない方もいるのかもしれない。
イザイホーの祭りをするため、雑草を全て抜いて浜辺から砂を運んで場を作りそこにイザイホーのための小屋を作り一週間ほどの祭り。手が込んでおり型がしっかりあり、年中行事を通し世代間(ナンチュ、新しい神女は、祖母から孫への継承)で伝えられ身体が覚えていかれたもののようた。
イザイホーはできなくても、毎年残った神女たちが行事をしていたが最後は行事に歌も踊りもなく、2008年には皆退役となり2008年には神女がいなくなったそうだ。
神の使いである海蛇イラブーの燻製作りも、イザイホー同様に失われてしまったが、有志の尽力で復活しているという。
岡本太郎の沖縄で、イラブーの捕獲と加工はノロの家の特権であったこと、手でイラブーを掴んで捕まえていたことが印象的だったが、イラブーがもたらす経済的利益というより祭礼、神との関わりをもつノロの、宗教的(王朝への献上など政治的な物も含む)関与に係る事なのかもしれない。
この映画でイザイホーを初日から時系列に追うと、女性主導の祭り、宗教、集団という最初の印象からかなり違う、もっと権威的なものが象徴されているようにも感じた。
外間、久高両ノロさんが高齢となり、亡くなり、後継のノロはなく、いずれにしても生活習慣、日々の暮らしの中で継承は難しく今に至ることはできなかっただろう。(子どもたちが島から出て教育受けたり仕事をしたり出会いを得たりで、祖母から孫への島民の継承が途切れる。そこに抵抗も頓着もなさそうなところもよい、これは岡本太郎の沖縄の方で知り感じたこと。
久高島の海の向こうはニライカナイ。
今、この島の人、沖縄の人に心にはニライカナイはあるのだりうか。ニライカナイも所詮真の心の信仰、心の中の神ではなく、王権、王政、王府、支配と制度の中のものなのかもと思うと部外者が変な期待やノスタルジーや憧れを持つことも慎むべきか。
失われたものを愛しむ気持ちは変わらない。残れば今ふうにいえば人の自由と権利の問題にもなり、そうもならず観光のための消費対象にならなかったこともまた良いことと思う。
紀伊國屋ホールで解説、パネル付きの回を拝見したので、映画で得たものと、その後聞いた話もあわせて記録。古いフィルムと音声(当時は別々の機械で収録とのこと)を美しく鮮明にデジタル化。このような映像をしっかり観ることができるのは感謝しかない。