「沖縄のリアル、ステレオタイプ強化の懸念」遠いところ tinginさんの映画レビュー(感想・評価)
沖縄のリアル、ステレオタイプ強化の懸念
「青い空、青い海、白い砂浜」と「基地問題」に集約されがちな沖縄。これらはイメージであり、リアルでもある。ただ、この映画は「それ以上のリアル」に迫ろうとしている。この「それ以上のリアル」は、貧困(特に、女性と子ども)、暴力、風俗、自死、酒、薬などなど、ウチナンチュたちもナイチャーたちも見たくないリアルでもあるだけに、劇場公開を通して直視するという社会的な意味は十分にあると思う。
気になるのは、「沖縄の男(人)は働かない」「安い風俗」といったステレオタイプが強化されかねない点である。もう一つの懸念は、このレビューにもみられるように、この現実が沖縄だけでなく現代日本の問題として一般化されている点。確かに日本国内(国外)でも同様のことが起きている。このことが、沖縄(本島)の歴史を薄めてしまい、矮小化されてしまうことに繋がりかねない。
この映画がみせる「沖縄のリアル」の背景には、日本への再帰属(「祖国復帰」)と、結果として起きた構造的問題があることを忘れるべきではない。「働かない男(沖縄人)」は、サービス業が集中し、低賃金・不安定雇用が生活を脅かし、その圧力から「稼ぐ男」として機能できない人の一部が暴力や逃避行動(酒や薬)に走り、「家庭を守る女」が小さな子どもを抱え、時に10代半ばで母となった義務教育すらまともに受けられなかった少女たちが、物理的、性的、社会経済的暴力を受け、それでも生活費を稼ぐために夜の街で稼働することになる。まさに、社会学者・上間陽子の著書『裸足で逃げる』ようなリアルである。
日本の米軍基地の7割以上が集結している不平等と、「産業振興」(基地を受け入れたうえでの経済生活)か「アイデンティティか」と沖縄世論を分断させ、「本土復帰」からはじまった沖縄の観光化によるサービス業の集中と他産業の相対的な不在(薄さ)は、「青い空、青い海、白い砂浜」と「基地問題」、そしてこの映画が描く貧困や暴力が個別のものではなく、連続性の中にあることを意味している。だからこそ、本映画が示すものは、日本の現代問題としてのみ捉えるのではなく、沖縄の特殊性とそれによって何らかのメリットを享受しているナイチャーの問題として考えるべき問題提起なのである。
では、映画としてそれができているのか。確かに、2時間20分という長編の中で何度か米軍基地やその危険性(暴力性)を象徴するようにオスプレイが映し出されている。コザのゲート通りや鉄条網を冠した(嘉手納?)のフェンスなど、他の基地の象徴も現れる。しかし、どれだけの人がそれをオスプレイや基地の存在とその影響として理解しただろうか。なぜ、アオイやマサヤは祖母との家庭や母子家庭で育った(ように描かれている)のか(アオイの父はいやいや金をアオイに渡すが)。アオイの母は九州に住み、何か問題をおこしたように語られるが(ここは聞き漏らした)、なぜ娘をおいて本土に住み、問題をおこしたのか。貧困の連鎖が起きているのではないのか。
このような現代社会の問題と沖縄独特の(抑圧の)歴史などを網羅することは不可能である。しかし、長編の一部を割愛しても、入れるべき政治経済と社会背景があったはずである。この提示を怠ったことが、こうした問題とは無関係あるいは距離がある、まさに「遠いところ」にいるナイチャーや沖縄人々の中にあるステレオタイプの強化するのでは、という懸念を生んでいる。次回の作品に期待したい。