帰れない山のレビュー・感想・評価
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同じ場所に止まるか、動くか。人生の二種択一
都会育ちの少年、ピエトロが、山を愛する両親と共に過ごした北イタリアのモンテ・ローザ山麓で出会った牛飼いの少年、ブルーノとの交流を振り返る形で物語は進む。2人は同い年で性格もまるで違うが、各々が歩んだ人生には誰もが思い当たる根本的な生き方の違いが反映されていて、思わず胸を突かれる。 ピエトロが山麓を離れてから世界中の山々を制覇し、作家としての地位も固めていくのに対して、ブルーノは故郷の山に止まって貧しいながら牧畜業に専念する決意を固めるのだ。 人生には大まかに言うと2つの選択肢がある。止まるか、動くか、そのどちらかだ。 北イタリアをメインに、大自然の美しさと残酷さ、そして、時の流れに翻弄され、それでも旧友を思いやる男たちの変わらぬ友情を描いた本作は、果たして、自分の人生はどうだったかと言う問いを我々に投げかけてくる。でも、後悔したところで時間は戻らない。鑑賞後に残る複雑な余韻は格別なものだ。
雄大な自然映像と普遍的な人間ドラマが胸を揺さぶる
ベストセラー小説の映画化だが、大自然をめぐる雄大な映像に触れた時、これは「映画化されるべくしてされた物語」だと確信した。北イタリアのモンテローザ山麓で交錯するのは、二人の幼なじみの人生だ。都会育ちのピエトロはいつしか自分の居場所を探して世界中を旅して回り、自然の中で生きてきたブルーノは「ここでしか生きられない」と村から一切動くことはない。そこに亡くなった父をめぐる記憶がノスタルジックに重なり、さながらこの映画は過去と現在が溶け合わさるかのように、有機的な感慨となってゆっくり流れていく。荒々しくも神秘的な輝きに満ちた山々。土の匂い、木々の香り。対照的ながら共感せずにいられない二人の生き様・・・。監督は本作について「コロナ後における地球との再接続の意味を込めた」と語っているが、なるほど、映像と人間ドラマによって意識がみるみる覚醒するかのようで、その言葉の意味するところが身に染みてよく分かった。
亡き後も続く「刎頸の交わり」
<映画のことば> その時、屋根に穴を開けられた山の家を思い出した。 あの家はすでに役割を終え、長くはもたないだろう。 人生には、ときに帰れない山がある。 他の峰々の中央にそびえ立つ山に帰ることはできないのだ。 いちばん高い最初の山で友を亡くした者は、八つの山を永遠にさ迷い続ける。 堅実に生活を組み立て、ラーラという伴侶を得て、子供にも恵まれて「山の民」として生きることが、ひとつの生き方であることは、疑いがありません。 しかし、その一方で、せっかく進学した大学で学識を修めることにも疑問を感じ、これといったあてどもなく旅を続け、あたかも浮き雲のような地に足のつかない生活(作中では「いつまでも学生気分の抜けない生活」)を送るピエトロが、無軌道、放縦な生活に明け暮れているとも、断言できないようにも思います。 ピエトロのそういう「人生の彷徨(さまよい)」が、彼の人格を形づくり、小説家としての人となりを練磨していることも、否定しきれないとも思います。評論子は。 「心に降り積もった雪は、融けて人生になる。」とは、本作の予告編でのキャッチフレーズも、たぶん、その謂(い)いなのだとは思います。 とどのつまり、「人の人生のあり様は、人それぞれ」とでも言ったところでしょうか。 いみじくも「少しずつ冷める愛もあれば、急に冷める愛もある」という作中のラーラのセリフのように、時には唯一無二の親友のように友情が燃え上がることもあれば、まるで他人同士のように関係性が気息奄奄とすることもあるー。 そんな関係のピエトロとブルーノとの親友としての関係が、本作には通底しているとも言えそうです。 (ピエトロが、密かに想いを寄せていたラーラを、何の蟠(わだかま)りもなく、ブルーノに譲ることもできていたのは、やはり根底では、ピエトロとブルーノとの友情関係は、すっかり枯渇してしまっていた訳ではない、根底には、むしろ静かに、厚く存続し続けてはいたのだろうとも思います。) 実際のところ、なかなか評釈の難しい作品ではありましたけれども。評論子には、本作は。 しかし、上記のような評論子の評がもし当たっているとすれば、二人の間の、時代を経ても続いていた友情の温かさを、じんわりと味わうことのできる佳作だったと思います。 これこそが、本当の親友…刎頸の交わりというものなのでしょうか。 山を降りて、都会で教員(?)となったピエトロでしたが、地理的に離れてしまっても、亡き後でも、心の中ではブルーノとの友情は生き続けていたことは、疑いがありません。 本作のタイトルは『帰れない山』であって『帰らない山』ではないということも、そのへんに意図があるのかも知れないとも思います。 そのことに思いが至った一本として、十二分に佳作としての評価に価する一本でもあったと思います。 評論子は。 (追記) ピエトロのお父さん・ジョヴァンニは、いつかピエトロが登山技術で自分を超える日を、実は楽しみにしていたのですね。 どうかすると、当のピエトロは、ジョヴァンニは子供(自分)に無関心だと考えていたようなフシもありましたけれども。 ブルーノが楽々とこなす登山を、同じょうな年齢の自分が(高山病になってしまって)こなせなかったという「負い目」を、長じてもピエトロは、ずっと引きずっていたのかも知れません。 ジョヴァンニがブルーノに山小屋の再建(?)を託したのも、そんな動機があってのことのようでした。 (追記) 寡聞にして、本作で初めて「鳥葬」ということを知りました。評論子は。 大雪に遭って、山小屋に帰り着くことができなかったブルーノの亡骸(なきがら)は、おそらく、鳥によって懇(ねんご)ろに葬られたということなのでしょう。 「山の民」を自称し、山を愛したブルーノとしては。 いかにも「山の民」らしい最期と言えそうです。 (追記) 本作も山が舞台に生っているという点では、「山岳映画」と呼んで差し支えないものと思いますけれども。 それだけに、山の遠景が、作中には多く映されています。 映画館の大スクリーンで鑑賞していれば、さぞかし圧巻だったことと思われます。 (大自然を目の当たりにして、ヒーリング効果も十分に味わえたことでしょう。) その点は、かえすがえすも残念に思います。
山という絶対的な存在で繋がる友人、親子を描いた、戻せない時間、戻れ...
山という絶対的な存在で繋がる友人、親子を描いた、戻せない時間、戻れない場所についての物語。美しい山々の光景が残酷な無常の世界を浮き上がらせる。ある種の諦念感を抱えてそれぞれ選んだ人生を生きる2人を描きながら、それでも観終わったあと肯定的なものが残る秀作。
男の友情も悪くない
ルカマリネッリ扮するピエトロはアレッサンドロボルギ扮する12歳で同い年のブルーノとグラーナ村で知り合った。川で遊んだりしてふたりは楽しく過ごした。しかし ふたりは引き離された。 思春期なのかピエトロは大学生になっても父親を嫌っていたね。親からすると子供の幸せしか考えないのにね。15年ぶりにふたりは再会、お互いヒゲ面になっていた。ブルーノはピエトロの父親と山小屋を建てると約束していて、ピエトロは手伝う様に要請された。幼なじみはいいよね。息子が嫌っていた父親とブルーノが仲良くしていたなんてさ。友人を通して父親を懐かしむのは後悔するだろうな。とはいえ色々あっても男の友情も悪くないな。
山を愛し、山に愛され、山に殉じた友ブルーノに捧ぐ
北イタリアのモンテローザ山麓の2000メートル級の山々を 殆ど軽装で登るピエトロと父親。 マッターホルンも近くにあると言うスイスとイタリアの境目あたりの山々。 名もなき山々は整備もされず、山小屋もない。 冬は深い雪に埋もれ、夏は湖で泳ぐこともできる。 父親の山好きをちっとも受け継がないピエトロ。 11歳の夏、家族で借りた山小屋に同じ歳のブルーノが現れる。 羊飼いだった。 瞬く間に親友になった2人は最高の夏休暇を過ごす。 しかし山嫌いのピエトロはトリノ(都会)で気儘に自分探しを続ける。 そんな31歳のピエトロに父死すの知らせが。 そしてお悔やみに来たブルーノと邂逅。 ブルーノはピエトロが父親を避けていた15年の間、 息子のようにピエトロの父親と山登りや相談事、家の修理など、 濃密な時間を過ごしていた。 そしてブルーノが告げる。 父は険しい山の中腹の石壁のある土地に、山小屋を建てる夢を 持っていた。 ブルーノが主導してピエトロが手伝う約束で夏の4ヶ月。 山小屋は立派に完成した。 初めての夏は2人で過ごし、次の夏はピエトロがトリノから友達を 引き連れて賑やかに過ごした。 ブルーノは酪農家として成功することを夢みる。 ピエトロの女友だちのララが牧場の手伝いを志願して、 ブルーノとララは結婚する。 食堂でシェフのアルバイトをしていたピエトロは山歩きが本格化して、 ヒマラヤに登ったり住んだりして、旅行記や登山写真本を出版して、 作家として認められるようになる。 一方でブルーノは酪農家としての借金が嵩み、遂に農場は抵当として 奪われてしまう。 ララと娘は実家に帰りブルーノは孤独に山小屋に引きこもるようになる。 人生の春から、夏そして秋そして草木も枯れる冬。 豪雪の冬。 ブルーノの姿は山小屋からも消えていた。 一見して男同士の山を介した長い友情の日々。 「ブロークバック・マウンテン」のヒース・レジャーと ジェイク・ギレンホールの2人みたいな男の友情の映画。ただし、 違うのは2人の男がゲイではない事。 原作を書いたパオロ・コニッティはまだ46歳。 彼は幼い頃から父親と登山を親しみ現在は1年の半分をアルプス山麓。 残りの半年をミラノで執筆生活をしているそうだ。 ピエトロのモデルはご自身なのでしょう。 ともかくアルプスの名もなき山々が美しかった。 山に恋する男性の気持ちが、少し分かるような気がした。
ほぼ生涯の永い年月がよく纏められている秀作だと思う。応援しながら観...
ほぼ生涯の永い年月がよく纏められている秀作だと思う。応援しながら観てしまうが、人生は甘い事ばかりではない。春夏秋冬をなぞったような人生の物語は悲しい事が多くても、反省することが多くても、逆に愛する事も多々ある・・色んな素材で作られる一生は線香花火の様でもあり、桁違いの大作でもありますね
鳥
子供の時からの友達との青年期までの友情物語。 途中まではハッピーな感じで進むも、 大人になればいろいろあるってことで、 最後は切ないラスト。 鳥の話をちゃんと伏線回収するとはねえ。 あとは、二人ともヒゲなので最初は区別がつきづらいw
よかった。 でもこれ観る前にファースト・カウ観てしまったので 。フ...
よかった。 でもこれ観る前にファースト・カウ観てしまったので 。ファースト・カウよかったな、、、みたいな気持ちになってしまった(男同士の友愛+自然とゆう組み合わせでつい比較してしまった) 帰れない山の方がより現実的でシビアな面を描いているように思った。 配信で鑑賞
土日はアルプス
ハードワーキングで共働きの親世代と、大都市の狭い家ながら豊かな世界で育った主人公。アルプスの麓の街は外に行くのが楽になって過疎になり、家族はその村の空き家を別荘にしている。山歩きが好きな両親に連れられて家族は毎週末通って、同世代の少年と親友になる。 イタリアの話ながら日本でもありそうな設定で不思議な感覚だった。恵まれていて仕事ばかりの親を理解しない主人公、大人になって何になれるわけでもない挫折感、少年だった頃はわからない格差、それでも親友であることは変わらないこと。日本だと思い出で終わってしまうところが、その先まで描かれているのが悲しくも美しかった。
ゆっくりした感動と余韻
原作未読、知識なし、高評価から鑑賞。美しい山岳風景、リアルな描写、珍しい(初見の)画面サイズ、起伏の乏しい物語が醸し出す何とも言えない感傷が溜まっていく。鑑賞後、それが徐々に抜けていくのも心地良い。
理想の父親像
「一番高い山を目指す者と8つの山を巡る者では、どちらが多くのことを学べると思う?」古代インドのジャイナ教や仏教の世界観に基づいたこの質問は、監督のフェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲンと脚本を担当したシャルロッテの経歴にそのまま当てはまるらしいのです。一つのことを突き詰めていくタイプと広く浅く色々なことを経験していくタイプ。世界的ベストセラーとなっている原作本を読んだ時には正直、英語原題『THE EIGHT MOUNTAINS』の意味するところが今一ピンとこなかったのですが、映画化された本作品を観てはじめて朧気ながらイメージがわき上がって来たのです。 イタリア人パオロ・コニエッティが書いた原作では、主人公ピエトロの父親ジョヴァンニに対する確執にもっと重きが置かれていたような気がします。北イタリアの別荘で知り合った自然児ブルーノに、父親をとられたジェラシーのような感情を抱いたりするのですが、映画ではそこにあまりふれられてはいません。その映画序盤で亡くなってしまう父親の代わりに、モンテローザの山々が存在感を増すよう、4:3のアスペクト比で撮影されているのです。 死の直前まで仕事に追われていたピエトロの父親、そして出稼ぎに行ったっきり劇中全く姿を現さないブルーノの父親。そうなりたくなかった反面教師としての父親の代わりにピエトロとブルーノは、ジョヴァンニが我が子のように愛した“山”そのものを理想の父親像として愛するようになったのではないでしょうか。定職にもつかず作家の真似事のようなことをしているピエトロは“8つの山”を、山の民が本職だと信じているブルーノは“須弥山”を父性の理想型として、対照的な生き方を選択するのです。 しかし山から一歩も出ようとしないブルーノは、あくまでも生活優先の奥さんと子供に家を出ていかれてしまいます。山の生活は家族を養っていけるほど利益を生まなかったのです。さらに自分の殻に閉じ籠るブルーノをピエトロはなんとか救い出そうとしますが....結局、須弥山を極めようとしたブルーノも、8つの山を探し出そうとしたピエトロも、目的を果たせないまま“山”から退場させられてしまうのです。人生における“帰れない山”とは一体なにを意味していたのでしょう。探しても探しても見つからない人生の“山”。理想的な生き方なんてそもそもどこにも存在しないのかもしれませんね。
友よここに僕らのケルンを積もう
普遍的な話だった。この普遍的とはバランスのとれた人が書いた話──という感じ。パオロ・ソレンティーノ監督のThe Hand of God(2021)を見たときにもそういう普遍性を感じた。The Hand of Godと同時期にボクたちはみんな大人になれなかった(2021)というのを見たので余計に“普遍”を感じた。 言いたいことが伝わるか解らないし牽強付会(こじつけな比較)でもあるが日本の創作物でこの種の普遍を感じることはまれだと思う。 むろんじぶんが接するものに偏り(かたより)があるからであり、言ってみれば無知だからでもあろうが、概して日本は“ひねくれ”の先に創作物があって、あっちは健全さの先に創作物がある──という感じをもったことはありませんか。 たいがい不幸や過酷な体験が物語形成の基幹にあり、それゆえ劣等感や敗北感が創作の端緒になっているものがほとんど。avicii風な人生賛歌って日本にはないでしょ。 引き合いにするものに罪はないが(たとえば)母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思ったとか、俺はまだ本気出してないだけとか、ボクたちはみんな大人になれなかったとか、そういうのって“普遍”じゃなくて、なんらかの“いびつさ”やコンプレックスの上に成り立っている創作物ではなかろうか。 解りやすく言うと(解りやすくなるかは不明だが)テラハにイタリア人の漫画家が出た回があった。 (テラハの全体がヤラセだとしても)日本人の面々はみんなコドモっぽかったのに比べて、そのイタリア人男性はとてもバランスのとれた人物だった。・・・。 バランスとは“まっとうさ”のことでもある。ようするに大人だった。あの感じが、この“普遍”を語るのに合致している。 もちろん普遍とは幅広く共感ができるという本来の意味でもある。 幼少期から大人へまたがる友情と、父への悔恨が美しい山稜のなかで語られる。深く共感できる話で俳優も撮影も音楽もよかった。 パオロ・コネッティという人が2016年に書き、ストレガ賞(イタリア文学界の最高賞)をとったLe otto montagne(8つの山)の映画化、とのこと。作家自身が脚本に参加してもいる。小説同様映画も成功し、カンヌでは審査員賞をとった。 Imdb7.7、RottenTomatoes91%と98%。 普遍とは技術でもあり、映画の技術を学んでこそ独善のない映画ができる。4:3に切ってあるが構図もよかった。 ソレンティーノと同じで悲劇的事象を内包していながらも全体として人生賛歌になっている。大人っぽい。巧いし美しいし、小説も読んでみたいな──と思わせた。 かつてみんなのうたで聴いたことがある歌にケルンをつもうというのがあり、伸びやかなバリトンによって歌われるその歌詞に「友よここに僕らのケルンを積もう」という一節があったのを思い出した。そんな感じの話だった。 ちなみに山に男二人なのでブロークバック~と状況が同じだがそっち(LGBTQ)の値はまったくない。
山は、人を傷つけない
同窓会やクラス会に行ったことはありますか? 僕はあまり学校を楽しまなかったせいもあり、また早々に地元ふるさとを離れたこともあって、「クラス会の連絡」にはいつも✕印でした。 実家の両親からは「○○さんに会ったよ、お前を懐かしく覚えておられて『くれぐれもよろしく、ぜひ会いたい』と言っておられたよ」の消息メールがしげく頻繁に届くのだが。 《かつての友人に会うという冒険》は、 それは、取りも直さずあの頃の自分に再会する ―ということなのかも知れない。 だから、あの頃の自分に出会いたくないなら、当然旧友との面会も、帰郷も、何となく避けてしまうわけなのだが。 ・・・・・・・・・・・・・ 映画は時の流れを描く小説が原作だ。二人の男の子が成長をし、青年になり、中年にさしかかって、そうして大人になっていく様子を追う。 主人公のピエトロが、竹馬の友ブルーノに会いに行くこと、そして疎遠だった父親と新しく出会い直していくこと。このことのためには、彼ピエトロには随分とたくさんのきっかけと時間が必要だったのかもしれない。 ピエトロは ひ弱だ。 パブで見かけた《友人》に声を掛けずにやり過ごす。 ピエトロは父親とうまくいっていなかったし、逆に、その父親と何故かうまくいっていて 父に気に入られていたブルーノに対しては、 わだかまりとジェラシーがあったのだ。 原題 「 Le otto montagne ―8つの山」。 人生の八つの山をぐるぐると巡る。 山を巡りながら、人との出会いに、そして父親との長い時を経ての邂逅に、ようやくたどり着く「悟りの頂(=須弥山) への登頂」がテーマ。 その“登頂ルート”は、ピエトロを迎えてくれた《山》がすべて取り持ってくれたもの。 自伝的要素を織り込んだ小説がそのまま映像になったのであろう。山を愛し山で暮らす原作者=パオロ・コニェッティのこのしんみりとした出来映え。 繊細だ。文学的だ。 最初から最後まで地味な展開だが、 我が身を振り返れば、生まれてこの方、万事手探りで人生の地図に迷い、クレバスには落ち、登頂や縦走には失敗続きだった僕には、どのカットもどの言葉も 胸に迫るシーンの連続だった。 「ブルーノが山で死んだことへの、簡単には言葉に出来ない複雑な気持ち」が行間から滲んできて、この作品の奥の深さを感じざるを得ない ・父を盗った友人の死をどこかでほくそ笑むピエトロもいるだろう。 ・父と息子が(父親の死後ではあったけれど) 心の再会を果たすためにその任を全うしてくれたその親友への限りない感謝もあるだろう。 当のブルーノだってわかっていたのだ、自分が“お邪魔虫”だったのだと。だからストーブに火を入れてピエトロに償い、バイクで自分のほうから迎えに来てくれた。 ブルーノもピエトロも父親がいなかったのだ。 辛かったのだ。 「山は、人を傷つけない」。でも人は互いに傷つく。 もはや山小屋に戻っても、ピエトロの人生に特に重要だったあの二人にはもう会えない。 でも「三色のペンでなぞる山の地図」はピエトロの一生の宝であり、これからの彼の人生の道標。 血色が良くなり、歩幅も肩幅も大きくなり、声も大きくなったピエトロがここにいる。 無音の長いエンドロールが たっぷりの、余韻を与えてくれる映画だった。 好きだなァ、こういうの。 ◆ ◆ 画面は四角。 赤い服、赤いニット帽、赤いシャツを着せて、いつも色白で弱かったピエトロの性格を演出し、ピエトロが画面の何処にいるのかをモンテローザの俯瞰で鑑賞者に教えてくれる、そんなカメラの優しさ・心配りも秀逸。 ⇒ 髭面の二人の男になってもどっちがピエトロなのか必ずちゃんと判るようにしてくれてある! 東座の支配人 合木こずえさんは女映画の上映も上手だが、今回のような男映画の発掘の腕も◎ 上映後、ドアを開けて送り出して下さいました、雪のように白く柔かなパンツルックでしたね。 「さあ、元気に出ていって自分の山に登りなさい」と背中を押された感じでした、 ありがとうございました。 ◆ ◆ 追記 2023年7月22日 ピエトロ中心にレビューをしたが、 ブルーノのことが気にかかる。 本を読めない自分のコンブレックスを語っていた。 都会からピエトロの友人たちが押し寄せてきて、ブルーノはその話題についていけずに無理をしていた。 都会の娘ラーラと結婚したがラーラの経理とアドバイスのもとで慣れない新しい事業を始めるが失敗。 借金を抱えて別居。 ピエトロの資金援助の申し出に怒りを爆発させて取り乱す。 etc. 聞いたことがあるのだ、 異文化の波が押し寄せると、その渦中に巻き込まれてペースを乱され・混乱する地元の人たちには、精神疾患が増えるのだと。 ブルーノは、もしかしたら自殺だったのかもしれないと 後から少し思った。
美しい山の風景
イタリア、モンテ・ローザ山麓の小さな村へ、両親と休暇を過ごしに来た都会育ちの少年ピエトロは、同じ年の牛飼いの少年ブルーノと出会い、一緒に大自然の中で遊び友情を深めた。思春期になってピエトロは父に反抗していたが、数年後、父の悲報を受けて村を訪れたピエトロは、ブルーノと再会を果たし・・・てな話。 とにかく、山の風景が美しく、不便なのは承知で住んでみたいと思った。 イタリア北部は仕事で何度も訪れ、休みにはスイスに行って登山鉄道にも乗ったことあるが、また行きたくなった。 本当に山で生活すれば、ブルーノのような最期を迎えてしまうかもしれないが、鳥葬もいいな、って個人的には思ってる。 世界中を旅するピエトロがヒマラヤ山麓で出会った彼女が美しかった。
雄大な自然の景色の中で育まれる友情。
イタリアの山奥で都会暮らし→田舎暮らしになったピエトロ、元々田舎暮らしをしていたブルーノの友情の話。 途中で田舎暮らしでフリーターのような生活のピエトロと、都会で早くから働いたブルーノが大人になり再会する。 友情が根底にある作品。 1つ疑問なのはピエトロの父親はなぜブルーノを助ける行為をしたのか。そこが話のキーポイントだが、そこの説明がなかったので終始引っかかっていた。(見逃した!?)
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