「捨て難いラブストーリーには仕上がっている」わたしの幸せな結婚 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
捨て難いラブストーリーには仕上がっている
<映画のことば>
古着とも呼べぬ粗末な着物に、あかぎれだらけの手。とても名家の令嬢とは思えない。
いよいよ本格的に、おかしな娘が来てしまった。
火を操る異能の久堂家と風を操る異能の齊森家ー。
本来であれば美世も(齊森家の血を引く者として)異能を発揮できるところだったのでしょうけれども。
しかし、風を操る異能の血を受け継ぐ斎森血を引き継ぎながら、その才を発揮できてはいなかった美世は、斎森家では、とかく虐げられてきていた-。
異能の家系に生まれながら、美世にはどうして異能が発現しなかったのか。
その伏線が回収される終盤には、評論子は、深い感慨を禁じ得ません。
愛娘の本当の幸せを願う母親の深い深い、もっともっと深い愛情があったればこそのことだったとでしょう。
しかし、美世が初めて久堂家の敷居をまたいだその時から、清霞が、美世のただならない素性には薄々ながら気がついていて、後に美世の母親の素性が分かって初めて、それが確信に変わったといったところでしょうか。
それも、清霞自身も優れた才の異能者であったが故のことだったのだろうと、評論子は思います。
清霞の上掲の映画のことばには、決して美世に対する否定的な評価ではなく、むしろ美世のただならない素性を、あたかも空(くう)でも掴(つか)むかのように、真実・真相を掴みかねている清霞の困惑が表されていたと受けとるのは、果たして、独り評論子だけの管見でしょうか。
若くして陸軍の異能部隊を率い、帝都の治安維持には重い責任を負わなければならない宿命の清霞にしてみれば、帝都に放たれた蟲(むし)が引き起こした混乱の只中にあっても、否、そういう極限的な混乱の火中にあってみればこそ、清霞の美世に対する思慕も、また炎々と燃え上がっていたのではないかと、評論子は受け止めます。
本作は『コーヒーが冷めないうちに』が素晴らしかった塚原あゆ子監督の手になる作品として鑑賞することにしたものでした。
「王道も王道のど真ん中」という、掛け値なしの直球勝負とは言えないにしても。
なかなかどうして、捨て難いラブ・ストーリーには仕上がっていたと思います。評論子は。
むしろ、内容的には決して「薄口」とはいえないラブ・ロマンスものを、ある種さわやかとも言えるタッチで描き切るためには、「異能者の世界」という架空の世界に設定したことは、本作では充分以上に利いていると、評論子は思います。
ファンタジックなラブ・ストーリーの一本として、佳作として評価が適切と思います。
(追記)
自在に火を操るという異能の久堂家に当主として生を受けた清霞-。
陸軍異能部隊の隊長として、「いざ鎌倉へ」という局面ではその異能が遺憾なく発揮もされる訳ですけれども。
しかし、平時の日常にあっては、その才を活かしてお風呂を沸かすのだけが久堂家のご当主の役目というのは、いささか寂しいような気も、評論子はしてしまいました。