「かみあわない愛の矢印」チャイコフスキーの妻 うぐいすさんの映画レビュー(感想・評価)
かみあわない愛の矢印
ピョートル・チャイコフスキーの結婚生活を、妻アントニーナの視点から描く物語。
ビビビときたチャイコフスキーにのめりこんで結婚へこぎつけ、彼に拒絶されても「愛しているのに別れるのはおかしい」の一点張りで妻の座を固持し続けたアントニーナの執念を、不気味で奇妙な愛として描いている。
出会いから猛アタックする時期のアントニーナは初恋にのぼせ上がる少女のようだが、徐々にその像が崩れて幻想や妄想のようなシーンが増えるうち、冒頭のショッキングな葬儀のくだりも含め、本編が俯瞰の第三者視点ではなくアントニーナの記憶や主観を再現しているような印象を受けた。物理的・心理的にチャイコフスキーが関わらない空間の妙にがらんとした描写は、彼がいない場所=どうでもいい場所ということを表していたのかも知れない。
映画の紹介文ではアントニーナが悪妻と呼ばれたことが強調されていたが、文化芸術の偉人達にも我々一般人の生活でも今昔を問わずもっと強烈な悪妻や良識を超えた夫婦関係が存在するので、正直アントニーナを悪妻と呼ぶには物足りないような気がした。
劇中ではチャイコフスキーの代理人達がアントニーナこそチャイコフスキーのストレスの根源であると主張していたが、結婚前も結婚後も恋多き男で恋路に舞い上がったり激昂したりガチ凹みしたりが絶えなかったチャイコフスキーの情緒を考えると、彼らの主張は正直眉唾に思えた。結婚の報告を聞いた友人の驚きようを見るに、本作でもその人物像は採用されているのだろう。
アントニーナの「え?今、話聞いてた?」とツッこみたくなる強靭なスルースキルは不気味でもあるのだが、別居してしまえば公衆の面前で妻の座を振りかざすわけでもなし、婚外子に夫の財産を使うこともせず、『プロ彼女』ならぬ『プロ夫人』として体裁のための婚姻には適した振舞いのようにも思える。
ただ、アントニーナとの結婚はチャイコフスキーが専業音楽家として独立しようとする時期でもあり、独立のストレスと新生活のストレス、特に創作の空間に生活感を持ち込まれたり、お気に入りの使用人との暮らしに家の女主人が混ざる事態は、神経質なチャイコフスキーにとって苦痛だったことは想像に難くない。性愛の対象でない人物に襲われる恐怖も、十分絶縁する理由になり得る。問題が片付かないからこそ、目の上のコブのように意識に纏わりつき続けることもあるだろう。
また劇中、当時の社会において女性は誰かの妻でなければまともに生きられず、未婚女性や未亡人、夫の関心を失った妻が実家の隅や路上で朽ちていく様が繰り返し描写され、これがアントニーナの執着の背景の一つとして示唆されている。
二人の最後の対面でチャイコフスキーがアントニーナのベールを使って彼女を拒絶するシーンは、ゾクっとする凄味があった。全裸の名もなき男達が度々登場するのが何ともシュールだが、アントニーナにとってチャイコフスキー以外の男は弁護士も含め皆モブだったということなのだろう。
チャイコフスキーとアントニーナ、どちらかへ極端に肩入れすることなく破綻した夫婦関係をじっとりと描いており、結婚に夢を見る人や家庭を持っていることをを社会的信用の材料と考える人には不快な物語だっただろう。2人とも他者よりも自分自身や自分の理想を愛するタイプだったように見え、どっちもどっちのような気がしなくもない夫婦の騒動だった。
愛するだけで愛し合うことを知らないアントニーナ、多数の若者達を渡り歩いたチャイコフスキー、対照的なようで似たところもある愛の生涯ではなかろうか。