「不倫するアントニーナに対して不信感を強く感じることになってしまいました。なお本編には2度性器をあらわにした男たちが登場します。しかも無修整です。」チャイコフスキーの妻 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
不倫するアントニーナに対して不信感を強く感じることになってしまいました。なお本編には2度性器をあらわにした男たちが登場します。しかも無修整です。
19世紀ロシアの天才作曲家ピョートル・チャイコフスキーと彼を盲目的に愛した妻アントニーナの残酷な愛の行方をつづった伝記映画。ロシアではタブー視されてきた「チャイコフスキーが同性愛者だった」という事実と、「世紀の悪妻」の汚名を着せられたアントニーナの知られざる実像を、史実をもとに大胆な解釈を織り交ぜて描き出します。
●ストーリー
女性の権利が著しく制限されていた19世紀後半の帝政ロシア。地方貴族出身の娘、アントニーナ(アリョーナ・ミハイロワ)は、チャイコフスキー(オーディン・ランド・ビロン)を見初め、熱烈な恋文を送って求婚します。女性とつきあったことがないチャイコフスキーは一方的な求愛に戸惑いますが、「兄と妹のような愛」でよいのならと、結婚を承諾したのです。
しかし女性への愛情を抱いたことがないチャイコフスキーの結婚生活はすぐに破綻し、夫から拒絶されるアントニーナは、孤独な日々の中で狂気の淵へと堕ちていくのでした。
●解説
自身の嗜好をぼやかす偽装的な結婚。破局が容易に想像できる夫婦関係。キリル・セレブレンニコフ監督は残された文書や日記などを基に、独自の解釈で本作を作り上げました。その恋愛劇は、アントニーナの地獄巡りの様相を呈していくのです。
どんな媚態を見せても、性交渉を拒まれる女は哀れです。夫の周囲はいつも男ばかり。彼らは、アントニーナからチャイコフスキーを奪うかのように、別れ話を持ち出してくるのです。その態度はあからさまで強権的ですが、アントニーナは、「私はチャイコフスキーの妻」と主張し、屈しません。
常軌を逸したアントニーナの愛はグロテスクに映ります。今でいえば、ストーカーに近いといっていいでしょう。一方、彼女は悲劇のヒロインのようにも見えます。妻の存在によって、精神的に追い詰められるチャイコフスキーの苦悩は大きいかったですが、愛の純度と強度のせいで、アントニーナの悲劇性が夫のそれをはるかにしのいでゆくのです。
チャイコフスキーのセクシュアリティーは、ロシアではタブー視されていたといいます。ただし予告編で暗示されたようなが同性愛に走る直接的なシーンは皆無でした。そして劇中中盤からチャイコフスキーがすっかり登場しなくなるのです。やがて次第にアントニーナが精神的に壊れていく姿が描かれます。ここで疑問に思ったのは、史実にはない彼女の不倫です。あれだけチャイコフスキーに執着しながら、本作のアントニーナは、チャイコフスキーの弁護士(チャイコフスキーの弟?)ど同棲し、子供まで産んでいるのです。これはどういうことなのかと。
またチャイコフスキーのタニマチの貴族に彼女は呼び出されて、突然4人の男をあてがわれます。貴族は呼び寄せた男たちにアントニーナの目の前で、全裸になるよう指示。そして彼女に好みの男はいるのかと訪ねるのです。もし本気でチャイコフスキーを愛しているのなら、馬鹿にしないでとその場をトンズラすることでしょう。しかし、アントニーナは4人の男のうち一番若い男の前に立ち、男根を握りしめ、その手のついた男の匂いを嗅ぎながら、発情した顔つきで、人払いをするのです。
なんでこんな史実にないシーンを入れたのでしょうか。おそらくセレブレンニコフ監督は、アントニーナの純愛に懐疑的で、実は男好きな裏の顔を持っていたと描きたかったのでしょう。
なのでこの不倫と男好きなところが描かれることで、見ていてアントニーナに対して不信感を強く感じることになってしまいました。
●演出面で冴えるセレブレンニコフ監督
舞台の演出も手がけ、「LETO レト」などで知られるセレブレンニコフ監督は、いわゆる伝記映画や文芸映画の枠を超え、夫婦の関係を新たな物語として描き出しました。
どれだけ拒絶されても愛することをやめないアント二ーナは”世紀の悪妻”ではなく、男性社会のなかで自らの欲望を貫き通そうと格闘した女性なのではないか。捨て身の愛の行方が、フェルメールの絵画のような光と、現実と虚構を織り交ぜた映像で描かれました。
そんな格調高いかと思えば、大胆不敵にもなるセレブレンニコフ監督の映像には圧倒されることでしょう。ランプやろうそくの火がゆらめく照明、19世紀の雰囲気を再現した美術と衣装は絵画のようです。カメラの長回しも、流麗に見えます。
池のショットや血塗られたピアノなど色調や陰影に富んだショッキングな映像美も重厚です。
ライティングも非常に素晴らしく、後半にかけて狂気に堕ちていくアントニーナを顔に当たる光と当たらない光で区別して表現していたことが印象的です。
またチャイコフスキーとの最後の繋がりとして残していたピアノが回収される寸前に、男たちが抱えあげて窓から半分出てるピアノを弾くアントニーナの絶望した顔に当たる光の美しさも絵画的でした。
ところで本編には2度性器をあらわにした男たちが登場します。しかも無修整です。一度目は、前途したとおりですが、強烈な印象を残したのが、ラストシーンです。突如全裸の男たちが全裸でダンスを始めるのです。それは聖と俗、芸術とわいせつの境がなくなったような、混沌とした時空間となりました。舞台の演出家でもあるセレブレンニコフ監督らしい演出です。そして、芸術と性愛を描いた映画にふさわしい幕切れでした。
●最後にひと言
誰にも受け入れられず蔑視されながら愛を貫くアントニーナを、ミハイロワが体現。情感がもの凄く圧巻です!
フランスを除く欧州のゲイ達は安易に偽装結婚を選びます。チャイコフスキーの場合は“向こうから来た”タイミングで都合よく運んだだけで、監督も彼女の妄執ばかりクローズアップします。
英国では400年以上前からゲイ=犯罪者(1967解除)ですがフランスは自由で、アンドレ・ジッドは妻の処女死、カミングアウトからノーベル文学賞というケースもありました。