CLOSE クロースのレビュー・感想・評価
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誰にでもある意図的に友達を避けた少年の日々が甦る
ルーカス・ドン監督が前作『Girl ガール』に続いて放った作品は、やはり他者との違いに悩み、苦しむ少年たちの葛藤を描いて入るものの、本作の方がより幅広い共感を得るかも知れない。なぜなら、子供の頃、大好きな友達がいたとする。でも、その友達との関係を周囲から奇異な目で見られ、それが嫌で関係を絶ってしまった、なんて経験は誰にでもあるはずだから。
主人公のレオはいつも一緒にいる、暮らしていると言ってもいい親友のレミとの関係を、クラスの女子から『カップルなの?』と聞かれたことが妙に恥ずかしくて、レミとの距離を置き始める。仲間外れになることを恐れて、新しい友達と仲良くし、それまでやってなかったアイスホッケーにもトライしてみる。そして、いつものようにレミの家に泊まっても、同じマットレスで寝ることがなくなった。何となく、あくまで何となくやったことが、果たして、どんな悲劇を引き起こすのか!?
子供だからとは言えない、残酷な仕打ちがもたらす予期せぬ出来事の顛末を描く映画は、やがて、少年らしい結末をレオに与える。その清々しさは半端ないのだが、注目すべきは子供たちを見守る大人たちの眼差しだ。生きていくこの世界には色々が出来事があって、色々な人々が重なり合って成り立っている。そこもまた、本作の視野の広さを象徴している。
末長く愛され、観る者の心を揺さぶり続けるであろう一作
少年たちの純真な思いに深く寄り添った傑作だ。舞台はベルギー郊外の自然に包まれた地域。いつも何の躊躇いもなく仲睦まじく戯れる13歳のレオとレミだったが、ある日、その様子をクラスメイトから揶揄されたことでレオの感情には戸惑いが生まれ、つい何となくレミを遠ざけてしまい・・・。ここからの展開に関してはできれば情報を入れずに臨んでほしいところ。何が起こるかは明かさないが、これはある意味、少年が自分の中の本心と切実に向き合おうとする物語であり、その心情を思うといまだに涙がこみ上げてくるほどだ。ドラマを彩る青々とした木々が胸に滲み入るように美しく、農園で収穫される花々の色味は、時として残酷に思えるほど鮮烈。その狭間を駆け抜けていく少年たちの表情と躍動が素晴らしく、脇で支える大人たちの演技にも心酔させられる。このルーカス・ドン監督による長編2作目は、今後、末長く愛され、観る者の心を揺さぶり続けるであろう。
これぞ映画の妙
あいまいなものを抱える勇気
心の棘
幼馴染のレオとレミは家族ぐるみの付き合いで、まるで兄弟のように仲が良く何をするのもいつも一緒だった。二人にとってそれは当たり前のことの様に思われた。中学に入学した二人のそんな姿を見た同級生からカップルなのかと聞かれ、からかわれるまでは。
この年頃の子供は何かと繊細で、また人生経験も浅いことから周囲の目がやたらと気になる。自分が女の子みたいだとからかわれたレオ、たわいもない子供の意地悪でもそれを深刻に受け止めてしまう。
そのせいでレミと距離を置くようになり、他の同級生たちとつるむようになったレオの変化についていけずさみしさを募らせるレミ。いつも二人一緒が当たり前だった、それなのにレオは自分を置いて行った。ショックを抑えきれないレミはレオと激しい喧嘩をしてしまう。
それからしばらくして遠足の日にレミの姿はなかった。何かせわしなく連絡を取り合う教師たちの姿を見て不安を募らせるレオ。学校には保護者達が迎えに来ているという。レオの不安は現実のものとなった。
それは誰のせいでもない不幸な出来事だった。でもレオはその事実をなかなか受け入れられない。どんなにホッケーの練習に没頭しようとも心から離れない。それはまるで心に刺さった棘のようにレオの心に居座り続け彼に痛みを与えた。
練習中に腕を骨折して治療を受けるレオは思わず泣き出してしまう。父は骨折したんだから痛くて当然だと慰める。でも痛いのは腕じゃない、心が痛いんだ。
レオは生涯この罪悪感を背負って生きていくのだろう。たとえレミの母親が許してくれても、けして誰のせいでもない不幸な出来事だったと言われても彼は自分を許せないだろう。
心に刺さった棘が年月を経て風化し、尖った先端が丸みを帯びてきて痛みが和らいでいってもそれは彼の心に居座り続け、何かのきっかけで不意に思い出される。そして棘はやがては粉々の塵となり彼の記憶の中に散らばり小さく見えなくなってもかすかな記憶として居続けるだろう、幼き頃の親友への思いとして。
未熟さゆえに何気ない言動で相手を傷つけてしまった、誰もが有するであろうそんな幼き頃の苦い記憶を思い出させてくれるノスタルジックな作品。少年期の繊細な心の揺れ動きを見事に描いた。
「コット 始まりの夏」に引き続きこちらも演技経験の少ない新人俳優による素晴らしい作品だった。光の演出も素晴らしく、花畑を疾走する二人の少年の姿が美しかった。本作も劇場鑑賞を逃したことが悔やまれた。
負の感情が連鎖しない
13歳のレオとレミは大親友で、しょっちゅうレオはレミの家に
泊まりにいくほど、家族ぐるみでの仲の良さなのだが、
この二人の仲の良さを学校でからかわれて、
レオがいじめ的な扱いを受けるようになり、
レオは自身を守るために、レミにそっけない態度をとるようになる・・。
レオとレミに「二人はつきあっているの?」と問う早熟の女子や、
いかにも子どもっぽくからかう男子がリアルで、
そこから脱却するために、
レオが行動を変えていくという心理は誰もが理解できるはず。
(こういうことが大人社会でも起きていないかハッとさせられた)
中盤、レオには耐え難いショックな出来事が起きるが、
それでも淡々と日常を過ごしていく姿はどこか痛々しくもあり、
やはり時折見せる後悔の念と、そこに背中を押されたラスト近くの
シーンは猛烈に感動できる。
そして劇場内はすすり泣きの大合唱となった。
特に本作における大人の子どもへの包容力は目を見張るものがあり、
負の感情の連鎖にならないところが本当に素晴らしいと思った。
舞台となっているベルギーの花畑が素晴らしく美しく、
また、映画における画質/画面の色味も素晴らしい。
第75回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で見事グランプリを
受賞した本作。
確かな傑作であることは間違いない。
美しい少年たちと見習いたい大人たち
【”僕のせいだ。僕が突き放した・・。”今作は幼馴染の少年二人が周囲からの揶揄いの声により変遷していく関係性により起きた悲劇と、残された少年が再生していく様を静謐なトーンで描いた作品である。】
■花を育てる農家の息子レオ(エデン・ダンブリン)と彼と幼馴染のレミ(グスタフ・ドゥ・ヴァール)は、いつも一緒に過ごす仲良しだ。
二人は、中学に入学し同じクラスになるが、二人の親密な姿を見て、同級生達から悪意なき揶揄いの言葉を掛けられ、レオは徐々にレミと距離を置くようになっていく。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・序盤、二人は仲良くレオの家の花畑を駆けまわっている。中学校に行き時も、並んで自転車に乗って登校し、クラスでも肩を並べている事が多い。
だが、レオはオトコオンナなどと揶揄われて、徐々にレミと距離を置いて行くようになる。
ー 見ていると、レオはアイスホッケーチームに入る活発な男の子で、レミは楽器演奏を楽しむ控えめな性格に見える。
レミは揶揄われても気にしないが、レオが徐々に自分から離れて行く事を悲しむが如く、静に涙を流すのである。-
・ある日、レオは一人で自転車で学校に来るが、レミにそのことを激しく追及され喧嘩になってしまう。
ー レミの方がより繊細な心を持っているのだな、と思うし、彼のレオを想う気持ちが分かるシーンでもある。-
・レミが学校に来ない日に、レオが女性教師にレミのことを尋ねるシーン。”あの子は・・、もういないの・・。”
ー レミの死を知ってもレオは懸命に冷静な振りをする。
そして、レミの家にも行きレミの家族と卓を囲んでいる。
レミの兄が未来の夢を語るシーンで、その隣に座っていた父親はその言葉を聞き、目を抑えて肩を震わせて嗚咽するシーンでは涙が出そうになる。父親がレミの未来はもうない事を悲しむ気持ちが、伝わってくるからである。-
・レオは、全てを忘れるようにアイスホッケーの激しい練習を続けるが、ある日左手首を骨折してしまう。そして、包帯を巻いて貰っている時に流す涙。
ー 医者は”骨折したら、痛いよね。”と言って慰めるが、あの涙は手首の痛みの涙ではなく、心の痛みの涙である事は明白である。-
・更にレオはバスに乗って、レミの母が勤める病院へ行く。
そしてレミの母が運転する車の助手席に乗った時に、漸くレオは堪えていた慚愧の念を口にするのである。
ー ”僕のせいだ。僕が突き放した・・。”と言って涙を流すレオ。
一度はレミの母は”降りて。”と言うが、森の奥に駆けていくレオを追い掛けて抱きしめるのである。実に切ないシーンだが、レミの母の赦しの心に再び涙が出そうになる。-
<時は流れ、レオの左手首のギブスが取り外される。そして、レオはレミと遊んだ花畑を走って止まり、振り返ってあの印象的な大きな瞳が映されて、シーンは暗転する。
今作は、今作は幼馴染の少年二人が周囲からの揶揄いの声により変遷していく関係性により起きた悲劇とそこから残された少年が、徐々に再生していく様を静謐なトーンで描いた作品なのである。>
思春期の微妙な距離感がリアル
レオが意味ありげにこちらを見つめる本ビジュアルのせいで見るまではサ...
学校がもたらす残酷性
レオとレミは大の仲良しでいつも一緒にいる。レオは家業の農園の手伝いをしていて田園風景と戯れるふたりがまるで楽園の天使のように高らかに描かれる。
学校がはじまるといつもべったりなふたりはクラスメイトに「カップルなのか?」と聞かれる。さらに同性愛嫌悪のひやかしにもさらされる。
レオはこれらの学校内不文律を察し、排斥されてしまうのを怖れた結果、レミとつるむのをやめ、アイスホッケーのチームに加わり、軟弱だと思われないよう、荒々しい野郎気配を発することに努めるようになった。
一方、レミはおっとりした芸術肌の男の子で、独奏をするほどオーボエがじょうずで、学校がはじまり「おまえらいつもいっしょにいんな」と揶揄をされても、とくに気に留めていなかった。
だからなぜレオが突然冷たくなったのか解らない。ふたりは文字通り寝食をともにしてきたソウルメイトだったのだから、突如突き放されたレミの絶望やいかばかりか──である。
なんでなんだ?と泣きながらレオに詰め寄るレミ。その後、レミが欠席した旅行から戻ったレオに、レミのじさつが知らされる。
監督の前作がトランスジェンダーの少女をあつかった映画だったこともあり、セクシュアリティに着目した批評もあったが、レオとレミは性的にひかれていたわけではない。年齢からしてじぶんの性的指向に気づいてさえいなかっただろう。
すなわち同性愛嫌悪の中傷には同性愛者であろうとなかろうと反発する──ということを映画は言っていて、これは例えば男の子が女っぽい色や服やことばづかいやしぐさを呈したときに揶揄されることと同じような学校内の日常的な漫言に属するものに過ぎない。
みなさんもご存知のように、学校というところでは、たいした意味もなく、それが相手にどれほどダメージを与えるかなど考慮されずに、いろんなことを言ったり言われたりするものだ。
よって映画は学校のような集団生活では友情が脆いと言っているのであり、とりわけレオとレミのような「親密な友情=Close」は、瓦解したときに途方もない悲劇におちいってしまう──と言っているわけでもあった。
ただしそれは特殊な状況ではなく「突如として冷たくなる友人」は、幼少期から高校あたりまで誰にでも経験のある現象ではなかろうか。
わたしたちはレオと同じように学校内不文律を怖れ、はぶられた人と親しくするのを避けたり、時にはじぶんがはぶられたりしながら、学校生活をどうにかやりくりしてきたはずだ。したがって少年の気持ちはわかる。わたしは学校でレミにもなったときがあったし、誰かから見ればレオになったときもあったのかもしれない。
だからこそ、この話のどうしようもなさが胸に迫ってくる。そもそも二人の少年は、とうてい演技しているようには見えなかった。
この悲劇をさらに悲しくするのがレミのお母さんのソフィー(Émilie Dequenne)。
冒頭の“楽園”描写のなかで少年らと一緒になって遊ぶような自由人のお母さんで、レミが亡くなっても恐ろしく気丈で、かえってその悲しみが推察され怖いほどだった。
死んだ動機を知りたくて何度かやんわりレオにたずねたりもしたが、最終的にレオから「ぼくのせいだ、ぼくが原因だ、ぼくが突き放した」と告白され、そんときはもう冷静じゃいられずに(クルマから)「降りて」と言ったけれど、われに返って、レオを追った。レオは木の枝をもって武装していた。じぶんは彼女のむすこをころした犯人なんだからね。それを悟ったソフィーは、もうどうしようもなくて、和解とかじゃなくて唯唯どうしようもなくて、抱き合って泣いた。
いつしかレミの親たちは引っ越していていて、今、少年はひとりで野を駆けるのだった。
概説に『第75回カンヌ国際映画祭で「観客が最も泣いた映画」と称されグランプリを受賞。』と書いてあったけれど、冗談じゃない。涙なんか一滴も落ちませんわ。ほんとに悲しいけれど泣くどころか楽園から奈落へ突き落とされる。
謂わば学校生活の残酷さを描いていて人はしんでないにしても誰にでも大なり小なり似たような経験があるのではないかと思う。
imdb7.8、RottenTomatoes91%と88%。
近くて遠い僕の“クロース”
レミ、あいつら噂するように僕と君はカップルだったの?仲のいい友達?それとも...君がいなくなった今ではそんなこと、もうどうでもいい気がするよ。そんなささいなことを気にしていた自分自身に腹が立つくらい。サッカーにしか興味のないバカな奴らにからかわれるのが嫌で、僕は君を一方的に突き放した。でもレミ、君は違ったんだね、君がいなくなってやっとそれがわかった気がするよ。あの日、君が学校の日帰り旅行バスに乗らなかった日から、僕の身体の一部がどこかへ消えてしまったんだ。家の仕事を手伝っても、男らしく振る舞おうとはじめたアイスホッケーに打ち込んでも、君の家に泊まったことを思い出して兄貴の寝ているベッドに潜り込んでも、僕の喪失感は埋まらなかった。僕の胸の奥の方で、レミ君の吹くクラリネットの音がずっとずっと鳴り響いているんだ....君のお母さんが不思議がってた、なぜ君が突然○○なんてって。レミの目にそっくりな君のお母さんの目が僕に訴えているんだ。「何か知っているでしょ?」ってね。正直いうと、苦しくて苦しくてしょうがなかった。僕らのことを何も知らないクラスのバカな連中が、レミの○を悼むような詩を書いて、さも同情するような....あんな嘘っぽい態度も許せなかった、僕らの関係が馬鹿にされているみたいでさ。もしかしたら、僕も君に嘘をついて君をわざと突き放したからかもしれないね。アイスホッケーの試合中に骨折した僕は、先生に包帯を巻いてもらいながらいつの間にか泣いていたんだ。涙がどうにも止まらなかったんだ。骨が折れて痛かった?それは違うよレミ、君の心の痛みがあの時本当にわかった気がしたんだ。ごめんよレミ、大切な友達。僕があんな態度をとりさえしなければ、僕と君はずっと友達以上の“クロース”な関係でいられた気がするよ。だからねレミ、僕は君のお母さんに真実を打ち明けることにしたんだ。僕が君を突き放したこと、君のお母さんには知っておいて欲しかったんだ。それでねレミ僕は気が少し楽になったんだ、腕に巻いていたギブスがとれたみたいにさ、へへおかしいだろ。花畑をレミと一緒に駆け抜けたあの夏の日、僕はそれを一生忘れない。でもねレミ、過去を振り返ってばかりはいられないんだ。僕には君の分まで前を向いて生きていく義務がある。しばらくすれば新学期もはじまるしね。じゃあねレミ、近くて遠い僕の“クロース”......
その言葉が言えるまで・・・罪の意識を乗り越えて、
心の成長、そして身体の変化、
性別の違和感を感じる第一次性徵期真っ只中の13歳の二人。
その言葉に出せない違和感や同性への思慕。
子供の視点に立ち、13歳の目線で繊細に描く作品です。
自殺(したらしい)レミ。
黒髪の角度よっては女の子にしか見えないレミ。
金髪の男の子がレオ。
金髪が小刻みにウェーブしていてとても美しいレオ。
この映画、私的にはイライラ。
知りたい事が、中々明かされない。
それとカメラ(撮影)が、
私からしたら見たいものが見えない。
レオの農園の農作業も、季節が変わり収穫した作物や
種付けや、レオがとても真面目に農作業をお手伝いする偉い子、
なのは分かるのだけれど、もっと高いところから遠目に写して、
もっと風景の全体を見たい飢えを感じて堪らなくなる。
台詞は知りたい事が、語られない・・・
なので、正直なところ欲求不満も溜まりました。
バス旅行に現れなかったレミ。
到着間際のバスの中で、事件?
異変が教師から知らされる。
直ぐに察したレオは
「病院にいるの?」と訪ねる。
聞かれたレオの母親は、
「もういないの・・・」
とだけ答える。
(無表情なレオが、無表情だから、痛々しい)
自殺という言葉は一度も使われない。
まるでその言葉を出すと、ダイナマイトで爆発し、
ダムが決壊する様に「タブー視されて、・・・」
そして生徒たちには「心のケア」だと思うけれど、グループセラピー」
として「レミってどんな子だったのか?」話し合われる。
レミのことを、女の子の一人は、
「明るい子だった」とか、
別の男の子は、
「とてもハッピーそうだった・・・」
能天気に、そして他人事として「ハッピーそう・・・」
レオがその言葉に反応する、
(ハッピーだったなんてなぜ言えるんだ!!)
レミとレオを《カップル》と囃し立てたクラスメート。
レオの心に秘めた秘密がレオを苦しめている。
(絶対に秘密を心に隠している)
冒頭のシーン。
夏休み休暇の日々。
頻繁にに裕福なレミの家に泊まりに行くレオ。
スキンシップ、
ピッタリとレミの背中に抱きつく姿勢のレオ。
シーツに包まりじゃれ合うレミとレオ。
(危険な匂いがする)
オーボエが得意で音楽家を目指しているレミ。
「オトコオンナ」の言葉が校庭のどこかから聞こえる。
レオは次第に男の子らしく成長して、
アイスホッケー部に入り夜の練習に通う。
男らしくする事で、レミとの距離を取る。
スケートリンクを見に来たレミは、なんか違和感がある。
カッコいい男の子の出待ちする女の子のファンみたい。
そんな雰囲気がある。
レミの家をレミの死の何ヶ月後かに訪ねたレオは、
お母さんから、「何があったの?」と直球質問を受ける。
狼狽えて何も答えず、慌てて帰宅するレオ。
それでも、レミのお母さんの勤務する産院に訪ねるレオ。
送ってもらう車の中で、遂に真相を話す事が出来た。
「僕がレミを○○○○○」
この映画のまだるっこさはローティーン(13歳の2人)
(レオの幼い知能に合わせた会話と、
風景も身長に合わせてるからカメラが上を写さない・・・
全部じゃないけれど、低い位置ばかり多く写している・・・
今、フッと気付いたけれど、・・・なんかそんな気がしてきた。
13歳の子供に言える言葉・・・
当然、うまく気持ちを言葉になんか出来ない。
だから「自殺」なんて言葉は刺激がキツ過ぎるから
誰も言わない。
感じやすい、傷つきやすい、脆いガラスのようなこころ。
《あやうくて砕けてしまうこころ》
それを掬い取っている映画なのだと思う。
レミはレオが原因で、死んだ。
それもキッカケかも知れないけれど、女性の心を持つ自分が、
男性の身体を持つことに戸惑い、
絶望したのも一因ではないのだろうか?
ルーカス・ドン監督の処女作「Girlガール」では、
トランジェンダーでバレリーナを目指す主人公が
女性として生きる決意をする映画でした。
(とても衝撃的なラストシーンだったのですが、)
レミはレオに拒絶された事とともに、男性として変化していく自分に
失望し、女の子でないからレオは好きになって、くれない、
レミの愛を受け止めてくれない・・・
そう思ったのだとも思う。
レオがやっとレミのお母さんに、心にしまっていた秘密を話せた。
そのことはレオの成長・・・レミの死への罪悪感を乗り越えた・・・
事だと言える。
でも私には死んだレミ(グスタフ・ドゥ・ワエル)の、
はにかむように微笑む顔が常に目に浮かぶのだった。
13歳の進学期9月から始まり、その学期の終わる7月。
見違えるほど大人びた知的な視線を持つレオ(エデン・ダンブリン)
悩み抜いた数ヶ月で見違えるほど成長した姿に驚いた。
(すごく背が伸びたね)
そして一番辛かった事。
子供に自殺されたレミの両親の苦悩。
その癒えない悲しみに、
涙しました。
名前はレオ
怒り、悲しみ、逃避、様々な感情が流れ込んでくる
不安定な感情を表情で伝える、大好きな映画だ。
思ったよりも早く急展開を迎える。
急過ぎて少し冷めてしまったのだが、ここからが本番だった。
寄りで無言のシーンが多いけれど、それに耐えうる演技もさることながら、そこに至るまでの経緯と状況から登場人物の心情を読み取ろうとすることで、全く退屈にならない。
それと同時に目線がこちらを向くショットなど、観客側にも感情が流れ込んでくる。
その感情も単純なものではなく、だれもが抱いたことがあるだろう複雑な感情で、言葉に出すのはとても勇気がいるもの。
それがこどもによってより強く感じられる。
子供から大人への成長も描いているが、仕事やスポーツなど、状況からもサポートとしてバランスよく表現されている。心なしか、顔つきも大人っぽくなっている気がする。
ラストシーンも、わかりやすいがとてもスッキリとする終わり方だった。
こころなしか、様々なシーンが『怪物』とも重なる。
2023年劇場鑑賞94本目
12歳が背負ったもの
最初に思ったのが、「こんなことで死ぬなよ」
今どきの子は、女子だけじゃなく男子だって、同性同士で仲が良すぎたらこのくらいのことは言うよ。ママと仲良しすぎてからかわれるのと同じレベルだと思う。それが嫌で友達を突き放すっていうのも、思春期入り口の子供ならありがち。こういうのを乗り越えて成長していくんじゃないか。レミは異様に繊細な子だったのかも(ママが、トイレに篭ったかと心配していたり)だけど、これで友達に死なれたレオが辛すぎる。
レオが、まず自分の保護者に相談、じゃなく、誰にも打ち明けず一人で背負って、レミの母に「自分のせいだ」と打ち明けに行ったのは漢だと思った。
彼が救われるといいな。
ひょろひょろと長い手足と薄い胸の美少年の苦悩する姿をひたすら見せた、少々あざとい映画と思う。
映画はそうだけど、レオにもレミにもあざとさはないので良いです。あったら見ていられないわ。
子役、特にエデン・ダンブリンはすごすぎる。
普遍的な青春ドラマ
いわゆるLGBTQをモティーフにした作品であるが、それ以上に普遍的なメロドラマとして興味深く鑑賞することができた。
この年頃の子供たちは、社会や学校といった周囲の環境にどうコミットし、そこでどうやって自己を確立させていくか、悩んだり戸惑ったりする大変難しい時期にいるように思う。本作はそのあたりの当事者の心理をよく捉えていると思った。
レオとレミは幼い頃から本当の兄弟のように一緒に過ごしてきた仲の良い幼馴染である。そんな二人は、中学に入ると周囲から奇異の目で見られるようになる。レオはそれを気にして次第にレミとの間に距離を置くようになってしまう。その結果、悲劇的な事件が起きてしまう。
よくある話といえばそうなのだが、それをここまで深く掘り下げて描いて見せた所に脱帽してしまう。
映画を観る限り、二人が実際にゲイだったとは言い難い。確かに毎晩のように同じベッドに寝ていたが、まだ二次性徴が始まるか始まらないかの年頃ということもあり、互いに性的な目では見ていなかったように思う。しかし、当事者はそうでも、周囲は色々と邪推してしまう。
もう少し周囲の家族や教師がケアしてあげれば…という気がした。本作はレオとレミの閉じた世界の中でドラマが展開されるため、そのあたりがどうだったのかよく分からないが、おそらく誰かに相談していれば”ああいう悲劇”は起こらなかったかもしれない。
尚、タイトルの「CLOSE」は”関係や距離が近い”という意味もあるが、”閉じた”という意味もある。前者はもちろんレオとレミの関係を示しているが、後者は彼らの狭い閉じた世界を意味しているような気がした。
映画は中盤の”悲劇”を起点にして、レミを遠ざけてしまったレオの後悔と罪の意識に焦点が当てられていくようになる。悲しい現実を受け入れられないレオの心情を大変丁寧に描写していて見応えを感じた。ただ、この丁寧さがテンポを若干鈍らせてしまったという印象も持った。重苦しいトーンが続くので、この辺りは致し方なしか…。
演出は基本的に手持ちカメラによるドキュメンタリータッチが貫かれ、アンビバレントな少年たちの心の機微を臨場感たっぷりに捉えている。どことなくダルデンヌ兄弟の作品を彷彿とさせた。
ただし、レオが演奏会を見に行くシーンは固定カメラで統一されている。レオがレミの母親を直視するカットがロングテイクのズーミングで捉えられており、かなり意味深に編集されていて印象に残った。”見る側”と”見られ側”のスリリングな関係にゾクゾクするような興奮を覚えた。
他にも、本作にはこうした”見る側”と”見られる側”を意識させるカメラワークが頻出する。その極めつけはラストカットである。レオの視線の先には我々観客がいる…という実に大胆且つ挑発的な幕引きが強烈なインパクトを残す。観終わった後に色々と考えさせられた。
サスペンスやロマンス、エロティズム、様々なドラマを誘発させる、こうした視覚演出も本作はかなり計算されていて感心させられた。
また、冒頭の花畑を走る疾走感溢れるカットを筆頭に、本作は横移動のカメラワークも実に素晴らしい。二人並んで自転車を走らせるカット等、画面に程よいメリハリをつけていると思った。
キャストでは、何と言ってもレオを演じた新人エデン・ダンブリンの佇まいが印象に残った。繊細さをにじませた哀愁漂う面持ちにスターの資質を予感させる。
レミの母親を演じたエミリー・ドゥケンヌは、ダルデンヌ兄弟の「ロゼッタ」のヒロイン役だったということを後で知って驚いた。今やすっかり母親役を演じるようになったことに時代の流れを感じる。こちらも好演である。
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