クライムズ・オブ・ザ・フューチャーのレビュー・感想・評価
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視覚で感じるアートと痛み、クローネンバーグが観客に仕掛ける前衛的プレイ
クローネンバーグ作品は「M・バタフライ」くらいしか見ていない私、いかにもシュールそうなあらすじを見てハードルの高さをMAXにして観に行ったら、意外と退屈せず話を追えたので(その意味するところを理解できたというわけではありません)、そういう意味ではちょっとホッとした。
とはいえ、案の定の癖つよ映像。
痛みと感染症がない状態に進化した結果、臓器摘出や人体改造のショーがアートとして流行る。プラスチックを食べる子を母が殺し、父は遺体をそのショーに提供する。性的なプレイの一環として、相手の肉体を切り刻む。
腹部が切開されるシーンなどは、あえてなのか分からないがいかにもなCGっぽさや作り物感がありグロさが緩和されている。どちらかというと、オディールが頬に刻んだ傷をグリグリされるシーンの方がむずむずした。
それでもグロ耐性低めの私には、変態的な世界観と子供の臓器摘出など含めてR15+でも不思議ではないくらいに思えたのだが、映倫的には「簡潔な肉体損壊の描写(映倫サイトより)」なのでPG12ということらしい。この作品を小学生が観る時、親はどういう指導・助言をするのだろう。私は指導出来る自信がないぞ。
エイドリアンのショーに出てくる、目と口を縫い合わされて身体中耳だらけのダンサーは「ゴールデンカムイ」の江渡貝くんを思い出した(江渡貝くんは人皮コスチュームを着ているだけで自分に直接縫い付けているわけではないし、そもそも感性の源泉が違うが、アウトプットが似ていたのでちょっと笑ってしまった。すみません)。
しょっちゅうハエの羽音がしていたのは、感染症がない世界なので清潔を保つ意識が低くなっている、ということだろうか。
痛みがない世界と言いながらソールが何らかの痛みを感じているらしかった理由、彼をスパイにしてコープ刑事はラングを捕まえようとしていたが(子供を解剖させようとした罪で?)結局その顛末がどうなったのか、その辺はよく分からなかった。
一番分かりやすかった要素は、ひたすら渋カッコいいヴィゴ・モーテンセンと完璧な裸体のレア・セドゥ。一方で痛そうな(設定上本人は痛くないんだけど)映像の乱れ打ち、もう飴とムチという感じである。本作の鑑賞自体がある意味その手のプレイなのかも知れない。
テーマのひとつはやはり環境問題なのだろう。オープニングでの、廃墟のような構造物が浮かぶ海辺。ラングは自分の体を異食が可能な体に改造し、常人にとっては毒である紫のチョコバー状のものを製造して食べる。息子のブレッケンはプラスチックを消化する体で生まれる。この辺りは廃棄物による環境汚染や、マイクロプラスチックの問題を連想する。
人々が痛みを感じなくなるという「進化」を遂げるのは、人間が環境の危機に対し頑ななほど鈍感であることの暗喩にも見える。実際は監督の趣味、というか表現方法が、見る側に痛覚を意識させるものに偏っていて、痛そうな場面を盛るための設定なだけなのかもしれないが。
プロダクションデザインは、有機的でとても魅力があった。サークのリモコンの、ガマガエルみたいにぶにゅぶにゅした感じの不気味さが絶妙。
ただ、あのブレックファスターチェアだけは、どういうメリットがあるものなのかよく分からなかった。食べにくいだけやん?
懐かしくも進化しぶっ飛んだクローネンバーグ節全開
いったい俺は悪い夢でも見ているのかーーー何度も目を疑ったが、それはつまりかつてのクローネンバーグ節がめでたくカムバックを果たしたということだ。むしろ00年代に入った頃からの心理をえぐるような人間ドラマの数々の方が変拍子だったのであって、80歳近くなった巨匠が唐突にこのグチャグチャっとした領域に戻ってきたことは歓喜すべき事態だろう。もちろん、巨匠のフィルモグラフィーの流れを全く知らずにここにいきなり飛び込んだ人にとっては、頭掻きむしるレベルの内容だとは思うが。かつて人々を驚かせた肉体系、内臓系の映像世界に加えて、『クラッシュ』的な異常な性的衝動もある。つまりいちばん濃いところのクローネンバーグがてんこ盛り。耳慣れないワード満載のセリフの応酬も多く、一度観ただけで全てを理解できる人はごくわずかだとは思うが、「椅子」や「装置」などのビジュアルを見ているだけでも脳がヒリヒリするほど惹きつけられる。
クローネンバーグが深化と洗練を経て、久々のオリジナル脚本で悪夢的ボディホラーに原点回帰
しばしば“鬼才”と称されるデヴィッド・クローネンバーグ監督は、自ら脚本も手がけた1980年代の「スキャナーズ」「ヴィデオドローム」およびその前後の作品で、暴力や事故による身体の損壊、自発的な人体改造、グロテスクなクリーチャー、奇妙な生き物のような形状の道具や装置などを好んで描き、ボディ・ホラーというサブジャンルの確立に大きく貢献した。83年の「デッドゾーン」以降は小説等の映画化(「戦慄の絆」「裸のランチ」「クラッシュ」)やリメイク(「ザ・フライ 」)が増え、オリジナル脚本作としては99年の「イグジステンズ」が最後に。21世紀に入ってからは原作ものが続き、テーマとしても暴力や狂気を通じて人間の精神の深淵に迫ろうとする傾向が強まり、それが作り手としての深化であり洗練であるにせよ、なにやら変態趣味全開の悪ガキが上品な大人になってしまったような寂しさを感じていたのも正直なところ。
だが実に20数年の時を経て、クローネンバーグ監督がまたオリジナル脚本をたずさえボディ・ホラーの世界に帰ってきた。「クライムズ・オブ・ザ・フューチャー」のタイトルが示すように、時代は未来。人類から痛覚と感染症がなくなり、タトゥーや人体改造がカジュアルになった。体内で新たな臓器が生み出される病を持つアーティストのソール(ヴィゴ・モーテンセン)は、タトゥーを施した臓器を摘出するショーで人気に。政府は新臓器の生成が行き過ぎた進化だとみなし、臓器登録所という影の部署を通じて監視している。そうした人体の進化に対する監視や規制を嫌う反政府組織の男がソールに接触してくるが、ソールには“裏の顔”があった。
監督のファンなら、コンピューターと触手型インターフェースを備えるエイリアンの繭(まゆ)のようなポッド型ベッドや、人骨を大型化して組み合わせたような食事支援チェア、巨大な甲虫とその体内を思わせる解剖マシンなど、グロテスクだが異様な魅力を放つ造形物の数々にクローネンバーグ特有のフェティシズムを再確認できて歓喜するはず。マシンを使った開腹手術や遺体の解剖などのシーンがリアルに描写されるので、万人受けする映画でないのは確かだが(初上映された昨年のカンヌでは途中退席者が続出したという)、ずっと悪い夢を見続けているような感覚を好むマニアックな向きには待望の御馳走だろう。
面白くないけど面白い
本作はとても人を選ぶ作品です。
監督のデビット・クローネンバーグを知っているかそうでないかで評価が真っ二つに分かれるでしょう。
監督の過去作を見ていると本作はもっと楽しめます。
ビデオドローム…この映画と同じ特殊効果をたくさん使った映画。現実と地続きの幻想を見る話し。
クラッシュ…自動車事故に性的興奮を覚える人たちの話し。一般の人が普通は性的な感情を抱かないであろう存在に倒錯する人たちを描くというところがクライムオブザフューチャーと共通している。
戦慄の絆…この映画で「体内の美人コンテストをやりたい(内臓の美しさを決めるコンテスト)」とセリフがあり、クローネンバーグ監督も本作クライムオブザフューチャーを作るの発想の元になったと言っています。
ヒストリー・オブ・バイオレンス…主人公の役者が本作と同じヴィゴ・モーテンセン
イースタン・プロミス…主人公の役者が本作と同じヴィゴ・モーテンセン
危険なメソッド …主人公の役者が本作と同じヴィゴ・モーテンセン
この映画が面白くなかった人も同じ監督の他の作品を見てもう一度見て欲しい…
コイツらは何言ってんだ。が連発。面白かった
人類が進化し痛みの感覚を失い、更に進化していく過程を描く作品で、アートとセックスの話をしているんだからクローネンバーグは変態で間違いない。
最終的には少々違った着地をすることになるが、物語の中はほとんどアートの話だ。
人類全てが痛みの感覚を失ったところでは全員が人間で、更に変わってしまった個体は人間ではないという。
例えば羽が生えたとして、最初の数人は人間ではなくて、人間全てに羽が生えたら全員が人間だというのか。
人間かどうか隔てる壁は交配によって子孫を残せるかどうかだろう。チンパンジーは人間に一番近いとされているがチンパンジーとは子をなせない。だからチンパンジーは人間ではなくチンパンジーなのだ。
良かったところ。
1、クリステン・スチュワート演じるティムリンがヴィゴ・モーテンセン演じるテンサーに個室で迫る場面。ティムリンの不気味な迫力がハンパなかった。テンサーの後退りが演技とは思えないくらい圧がある。
2、レア・セドゥはあまり好きではないけれど裸は綺麗。
クセが魅力的な作品
クローネンバーグ癖が全開で世界観が面白い狂った映画。 主人公ソール...
クローネンバーグ癖が全開で世界観が面白い狂った映画。
主人公ソール・テンサーはオーキッド・ベッドで寝たりブレックファスター・チェアで食事をして そして臓器が増える(もはや人類では無い?)ビックリ人間。今作で監督と4回目のタッグを組むヴィゴ・モーテンセンはクローネンバーグと相性がいいのだろう。
フランスの変態女優(褒め言葉)レア・セドゥは存分に変なキャラを演じきってる。
洞察力鋭いティムリン役のクリステン・スチュワートの喋り方が『スペンサー ダイアナの決意』(2021)となんか似てて「強い意志があるが、声を荒らげない」表現だと勝手に思った。
監督は81歳だが次回作『The Shrouds』が控える。息子に負けてられない!
※PG-12指定だがレア・セドゥや他の女優の全裸シーンがある。
アートとは? このままで良いのか?
御大の信じられないイマジネーション
ここまでの大巨匠が、この年齢で、この内容の作品を創るとはそれだけで驚きです。今頃見ていて、大変遅いんですが、毎度の感覚を堪能しました。思った以上にストーリーもあって楽しみました。
最近は息子さんもすごいなと(「アンチヴァイラル」とか普通は思いつかない設定ですよ)思いますが、御大も健在です。細かいところは、改めて考えてみるとよくわかんない気もするんですが、まあいいです。最初のオペのシーンなんか、特にワクワクしました。
「イースタンプロミス」なども、それは良作だと思いますが、今作みたいなのが監督の本領発揮なんでしょう。グチャグチャしていて、普通じゃない設定で、暗くて、なんか寒くて、エロくて、いやらしくて、わけがわからない創造物。それだけでいいです。
あの食事介護ロボットみたいなの、あれ何ですか?実際にあったら介護負担軽減されますか。
レア・セドゥ、全然不満はないんですが、私的好みとして親子でお気に入りのサラ・ガドンを使って欲しかったです。露出もあったのに残念だ。
映画の形をした"なにか"。想像力が捗る捗る!
これぞ、クローネンバーグ
復活!クローネンバーグ
内臓フェチ
臓器登録局のところから状況を説明している台詞が続々出てくる。ここはこんな世界なんです、わたしはこういうもんなんです、というのが台詞になっているのは滑稽だった。(クローネンバーグの)頭の中にある饒舌さに、映像が追いついていないことと、登場人物が(とても)多く、解りにくい話をさらに整理しづらくしている。
クリステンスチュワートはサタディナイトライブで変なパーソナリティを与えられたロールをやっているかのようだった。言われたとおりのキャラクターをやろうとしている不自然なクリステンスチュワートを見るのは楽しかった。
ただし解りにくいとはいえ深度は感じ取れる。
よって、たとえばドゥニ・ヴィルヌーヴに渡したら、すごい映画になったのかもしれない。いわばビジュアルノベルをむりやり映画にしたような。こういうのはたぶんヴィルヌーヴとかノーランとか数学が得意じゃないと映像化は不可能ではなかろうか──という感じの、意欲的だがかならずしも成功しているとは思えない映画だった。
クローネンバーグには二通りの作風があり、片方がザ・フライやビデオドロームや裸のランチのような特殊効果を使ったフィクショナルなやつで、もう片方がイースタン~やヒストリーオブバイオレンスのような暴力を中心に据えた人間ドラマ。
Crimes of the Futureは前者の方法でつくられている。と解釈している。
が、全作品にあるていど一貫したモチーフがあると思う。それはfetishと愛が交錯する感覚であり、ザ・フライが上映されていた当時、ジェフゴールドブラムが醜く変容していくにもかかわらずジーナデイヴィスは彼を愛しているのです!──という謳いが盛んに喧伝されていたが、おそらくそれがクローネンバーグの核心を示唆していた。
つまりザ・フライは人の外見ではなく内面を愛する美談として喧伝されたのだが、それは誤解であり、クローネンバーグの心中は“わたしが愛しているのはあなたの内面ではなく内蔵です”と言いたいフェチ=変態だった。Crimes of the Futureは正にそれ(内臓愛)を映像化しようとしていた。
根本的にクリエイターの持っているなんらかのfetishが作品に反映されるものだが、日本人のfetishはそのままポルノ表現になるのに比べて、外国人はfetishをエンタメに変換する能力が優れている。──その代表例がクローネンバーグだ──と解釈するとCrimes of the Futureは腑に落ちる。
じっさいに腑を落とす話であり、内蔵に昂奮するfetishや内臓をつかった性交やマゾヒズムや奇食を併せて描いた超変態映画だが、その超変態を、美意識と美しい俳優が常人にも解るように均している。
カンヌで鳴り物入りだったのはクローネンバーグの映画産業にたいする長年の貢献度によるものでCrimes of the Future自体の評判はさほど芳しいものではなかったが、クローネンバーグらしさがたっぷり詰まったサービス精神旺盛な映画だったので、そのブレなさ=頑なな創作姿勢が敬重された。
クローネンバーグはこの映画と同じタイトルの映画を1970年につくっている。
『この映画はクローネンバーグの2022年の同名映画とタイトルを共有しているが後者はストーリーとコンセプトが無関係なのでリメイクではない。
しかし、2022年版の大前提である“創造的な癌”は1970年版にも登場するため、両作品には緩やかなつながりがある。』
(wikipedia、Crimes of the Future (1970 film)より)
内臓に昂奮する人がいると思うとぞっとするが結局内臓フェチが理解不能すぎて正直なところだからなんなんという感じの映画だった。w
凄いけれど乗りきれない、ジュリア・デュクルノーのTITANEチタン(2021)を見たときの感じと似ていた。
網羅した(全作品を見た)わけではないが個人的にはデッドゾーン(1983)がいちばんいい。クローネンバーグの両面が入っていると思う。
imdb5.8、Rottentomatoes80%と50%
淫靡な笑いのセンス
まさにクローネンバーグ芸術の集大成! ただしエンタメ作としてはさすがに難解に過ぎる。
柏のキネマ旬報シアターで『ふたりのマエストロ』のあと、
夕食をはさんでレイトショーで視聴。
まあ、自分にはちょっと難しすぎたかなあ?
しょうじき四分の一くらいは、睡魔との戦いだったので。
ほんと申し訳ない。
昔から、デイヴィッド・クローネンバーグは好きな映画監督だった。
ちょうど僕の子供時代には、TVでさんざん『スキャナーズ』の映画宣伝が流れていて、お茶の間の家族団らんの場で、人の頭が凄い勢いで爆散していたのだ! あれ、トラウマになってるアラフィフは多いと思うんだけど……(笑)。
大学時代には、ホラー&サスペンスをまとめ見していたこともあって、初期の実験映画や珍品『ファイアーボール』(78、なぜかドラッグカーレース映画!)も含めて、観られる作品はほぼすべてVHSで観ていたと思う。
『裸のランチ』から『クラッシュ』までは映画館の封切りで観ていたが、その後、監督がいわゆるジャンル・ホラーからは離れたこともあって、DVDになってから観たり観なかったり。今回、久しぶりに「肉」と「臓器」の世界に復帰した気配を察知して、遅ればせがら映画館に足を運んだ次第。
たしかに本作は、彼としては実に復古的な作風で、ちょうどダリオ・アルジェントが『ダークグラス』(22)でジャッロのジャンルに回帰したように、齢80にして自らの原点であるところの肉体破壊のグロテスクや生体機械の世界に戻ってきてくれて、まずはご同慶の至りといったところか(もともと本作の脚本を書いたのが98年ごろの話で、当時映画化に向けて動いたが実現せず今回仕切り直した、というのも、2000年代初頭に書いてお蔵入りしていたシナリオを再始動させたアルジェントとよく似ている)。
ただしジャンル感でいうと、ホラーというよりは、バリバリのSFだったけど。
彼にとって、リアルな肉体の変容とそれに伴う精神的な変化は、長いフィルモグラフィにおいて一貫して追求されてきたテーマである。
肉体がどう変容するかによって、映画の「見た目」は変わる。
寄生虫に犯され精神を支配される『シーバース/人喰い生物の島』(75)、マリリン・チェンバーズの腋から吸血男根が生える『ラビッド』(77)、サマンサ・エッガーの怒りが侏儒へと受肉する『ザ・ブルード/怒りのメタファー』(79)、ジェフ・ゴールドブラムが蠅と融合してゆく『ザ・フライ』(86)など、外形的にはさまざまなホラーの「かたち」を取りうるが、いつもやっていることはほぼ同じといってもいい。
あるいは、精神攻撃によって肉体を破壊する『スキャナーズ』(81)、スナッフフィルムによる洗脳で肉体に銃器を融合するに至る『ビデオドローム』(83)、ドラッグによって幻想へと飛翔しモンスターと交合してゆく『裸のランチ』(91)など、「精神の均衡の喪失」「外的要因による精神の変容」が、肉体のメタモルフォーズ(の幻想)を引き起こすというパターンも多い。
要するに、彼は常に「身体性」と「精神性」をめぐる均衡と不均衡、それによって生じる破壊的なメタモルフォーズとそれがもたらす悲劇を描き続けてきた監督だと言える。
これに加えて、一連の肉体破壊、精神変容を引き起こすトリガーとして、常に「近代科学」「医療」「精神医学」「ドラッグ」といった、人為的なサイエンスが絡んでいるのも、クローネンバーグの特徴だ。その関連で、人体と機械が融合したような薄気味の悪い「受肉装置」が登場することも多い。
また、メタモルフォーズの瞬間に、必ずといっていいほど主人公に性的な快感に類した衝動が付随し、中毒性から抜け出せなくなっていくという、「性欲と破壊」――「エロスとタナトス」をめぐる物語を常に志向している点も見逃せない。この人体破壊とエロティシズムをめぐる思考の極限に達したのが、バラード原作の変態映画『クラッシュ』(96)であり、クローネンバーグ芸術のある種の到達点と言ってもいい。
もう一点、彼の作品が常に、社会から弾きだされた異能者の悲哀を描く「哀しみ色のホラー」である点も忘れてはならない。
たしかに、映画内で起きる「肉体変容/肉体破壊」は「衝動的な性的興奮」と常に結びついてはいるものの、その一方で、主人公は己の肉体変容や異能の目覚めのせいで、まっとうな社会通念から逸脱し、モンスターとして阻害され、結局のところ滅びを選択するしかない。異能者故の絶望的な孤独と、その寒々とした孤絶のなかでもがき、抗い、ついには滅びを受け入れる主人公の光輝ある最期は、常に非情でありながらも、観る者の感情を揺さぶる「タナトスの誘惑」を秘めている。この方向での僕の思う最高傑作が、キング原作でクリストファー・ウォーケン主演の『デッドゾーン』(83)だ。
今回、『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』で描かれるのは、精神的な指向性によって体内で生み出される臓器という「目的化された腫瘍」の功罪であり、その摘出を敢えて「見世物」として公開する、グラン・ギニョル的で露悪的な「劇場化」の功罪である。
さらには、現在の人工的な合成品と環境ホルモンで汚染された世界に、適者生存の法則に則って「進化」した「プラスチック・イーター」が誕生するという、社会派的な側面も有している。
ここに、「臓器を生み出す男」と「それを摘出する女」という、ある種の逆転現象(通常は男性によって女性は胎児を孕まされ、それを女性は自ら産み落とす)が加味され、「手術はセックスに等しい」というエロスをめぐる新たな概念が、繰り返し呈示される。
ビジュアルイメージとしては、黒マントを着た死神かシス卿かといったいでたちの主人公ソール・テンサー、美しい顔に敢えて「傷物の加工」を加えた二人の美女、生体機械としての「オーキッド・ベッド」や「サーク」「ブレックファースター・チェア」といった不気味なオブジェ群、耳を体中に生やした謎のダンサー・クリネックなど、いかにものグロテスクな登場人物と呪物が投入される。
舞台となるアテネの風景や研究室の内部は基本的に殺風景で、極力舞台装置を排したミニマリズムの演劇を想起させる。
結果的に生み出される映像美は、どこか17世紀バロック絵画(とくにレンブラント)にも似た、奇矯さと劇性、そして静謐さを漂わせている。
いずれにせよ、本作で扱われる要素はどれもこれも、長年クローネンバーグが繰り返し、繰り返し、問い直してきたモチーフとテーマの語り直しであり、その意味では、まさに「クローネンバーグ芸術の集大成」といっていい映画であることは間違いない。
「腫瘍として恣意的に生み出される臓器」という概念は、僕がクローネンバーグ映画で一番偏愛しているといっていい『ザ・ブルード 怒りのメタファー』のネタの発展形とも言えるものである。この映画については『ハッチング 孵化』の感想でも紹介したことがあるが、改めてその内容に触れると、精神的な病理を催眠によって「潰瘍化」させ、身体に外傷として顕現させたうえ、外科的手術を用いて切除すれば、心の病がすっきり治療できるという画期的施術を創造した医者が出てきて、その催眠療法を実際に受けた女性が、知らない間に「怒りの侏儒」を孕むようになり、女性の敵意の対象を、彼女からボコボコ産み落とされた「雛=ブルード」軍団が「彼女の代わりに」血祭に上げにいくというもの。なんでも、当時離婚調停中だったクローネンバーグが、妻への怒りをぶつけて製作した映画らしい(笑)。
『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』では、『ザ・ブルード』における「怒り」の代わりに、「人類の進化への祈念」が「機能化された腫瘍としての臓器」を生み出す動因となっている。
「劇場化された解剖ショー」というアイディアも、決して本作だけの奇異な思いつきではない。そもそも14世紀から西欧では処刑後の公開人体解剖が(学問的な理由付けをした見世物)興行として確立しており、多くの画家がその場面を描き残している。フィレンツェ大学自然史博物館(ラ・スペーコラ)の美しき人体解剖蝋人形群。あまた遺される装飾的な解剖図。それはやがて通俗的な恐怖劇としての「グラン・ギニョル」へと引き継がれ、さらには映画の時代に入ると、ハーシェル・ゴードン・ルイスの諸作品や『悪魔のはらわた』『ゾンバイオ』といった数々の生体解剖ホラーを生んだ。
一方で、学術的な公開人体解剖が、現在でも英米で実施されているという現実もある。われわれ日本人がこの手のものに触れるのは、せいぜいマグロ解体ショーか「人体の不思議展」といったところだが、イギリスなどでは「食事をとりながら死体の解剖を見学するショー」といった悪趣味な代物が、今でもネットで検索すると出てくるのでびっくりする。
というわけで、クローネンバーグが描いた「臓器摘出ショー」は、決して空想的な産物ではない。そういえば、僕の本棚にはトレヴィルから98年に出ていた『劇場としての手術』という美麗な芸術写真集が今も置かれているが、こういった「臓器を愛でるアート」の延長上に、今回の作品は正統的に位置づけられるべきものである。
とはいえ。
この映画、面白かったかと言われると、
ぶっちゃけ、なかなかに難物だったように思う。
一番の理由は、とにかく単純に筋がわかりにくいことで、ただ観ているだけでは大筋すら理解できない人がたくさんいるのではないか。
語り口があまりに独善的で、自己完結的で、サーヴィス精神のかけらもない。
展開は概ね平板で、ドラマ性も希薄。終盤になってドリラーキラーが暗躍し始めて、はっと目が覚めるあたりまでは、こちらも何度も睡魔に打ち負かされそうになった。
全体に、登場人物の言っていることややっていることが形而上学的に過ぎて、SFエンターテインメントとして客を楽しませる気は、はなからないように思えるのが残念だ。
これってたぶん、タイトルから見ても一目瞭然なのだが、扱っている題材としては70年代後半~80年代前半にかけての人体破壊猟奇ホラーの世界へと回帰しているとはいえ、その極私的傾向においては、さらに初期の実験映画、『ステレオ/均衡の喪失』(69)や『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』(70)あたりにまでさかのぼってしまってるんだろうね。
人体と精神をめぐる高度な思想を、ジャンル映画としての「グロテスク・ホラー」を通じて語っていたかつての奇跡のようなエンタメ性は、本作では残念ながら感じ取ることができなかった。
なので、正直なことを言えば、パンフを読んでなお、何が起きたんだか今一つ意味のわからないシーンがたくさんあって、たとえば結局のところ、ラストでソールとカプリースが何を望んでああいうことをやって、何故ああいうことになったかすら、僕にはよくわかっていない。
細かいところについては、後日サブスクにアップされてから、疲れていないしゃっきりした頭で、改めてじっくり見直さないとなあ。
一点、パンフのなかで、ヴィゴ・モーテンセンが本作について「まるで第二次世界大戦直後のようなフィルム・ノワール最盛期を思わせるような物語」と言っていたのは、大変気になった。映画館で観ているあいだ、僕のなかでそういう観点は全くなかったので、どきっとさせられたのだ。
なるほど、本作を「ノワール」として捉えるって考え方は、実はとても有益かもしれないね。
クローネンバーグらしいグロテスクな世界が炸裂
昨今は「マップ・トゥ・ザ・スターズ」や「コズモポリス」と少し地味な作品が続いていたが、今回は「スキャナーズ」や「ビデオドローム」といった、ある種見世物映画的な面白さを追求した初期作品のテイストに回帰している。個人的にクローネンバーグと言えば、やはりこの頃の作品に最も衝撃を受けた口なので、その流れを組む本作は大変面白く観ることができた。
尚、彼の長編2作目「クライム・オブ・ザ・フーチャー/未来犯罪の確立」とタイトルが被るがストーリー的な繋がりはない。
ただ、近未来を舞台にしたこと、肉体の変容をモチーフにしていること、それを利用したカルト組織が暗躍するなど、幾つか本作に繋がる要素も見て取れる。両作品を見比べてみると面白い発見があるかもしれない。
それにしても、画面に登場する数々の奇妙な”マシン”の造形が悉くユニークで観てて飽きなかった。
ソールは度重なるパフォーマンスの副作用でまともに食事すら摂れない体になっている。それを補助するために奇妙な形をした椅子が登場してくる。彼がそれに座って食事をするシーンが何度か出てくるが、どこか生物的な匂いを感じさせるそのビジュアルに少し笑ってしまった。このユーモラスな薄気味悪さは如何にもクローネンバーグらしい。
あるいは、手術をする際に使用するインターフェースも機械と言うよりも生物的で、同監督作「裸のランチ」に登場するゴキブリ型のタイプライターを連想してしまった。ハイテクでありながらアナログ感を残した造形が面白い。
また、物語は全人類に関わるようなスケールの大きさでありながら、政府機関やカルト組織、登場人物を含めかなりミニマルに限定されている。全体的に背景がボカされているため説明不足な感が否めず、いささか箱庭感を覚えるが、これも狙ってやっているのだろう。予算的な事情も関係しているのだろうが、それ以上に世界観のリアリティを排除することによって敢えて寓話として描くことで作品の普遍性を追求しているような気がした。
環境破壊、食料問題、感覚麻痺に陥ることで本来の人間性を失ってしまう人類の未来といったものが、本ドラマの根底から読み取れた。
グロテスクなアートパフォーマンスも、文化の行きつく先を皮肉を込めて描いているような気がしてならない。芸術と娯楽の境目が無くなってしまうことの危険性、警鐘が、クローネンバーグの中にあるのかもしれない。
グロを超越した耽美的美しさ
グロテスクな肉体ホラーの名手、デビッド・クローネンバーグ監督の最新作。
80歳という年齢を感じさせない、先鋭的でかつての作品に原点回帰したようなボディホラーの名作を完成させた。
時は近未来。
未来ではあるが、建物は古典的でテレビはブラウン管の古びたテレビ、所謂レトロフューチ
ャーの世界観だ。
この世界で人々は痛みの感覚を失っている。
アーティストのソール(ヴィゴ・モーテンセン)は自らの体内で生み出した新しい臓器をパートナーのカプリース(レア・セドゥ)が手術で摘出するアートショーを公開している。
そこへ、人間がプラスティックを食べて生きていける進化を目指す組織を主宰する男がソールに自分の息子の死体を解体するショーを行なってほしいと現れる。
新しい臓器を秘密裏に管理する政府の組織、手術台のメンテナンスをする器具メーカーの2人の女性などが絡み、謎めいた物語が進行する。
甲虫の内部のような安眠ベッドや食べ物を普通に咀嚼できない人をサポートして奇妙に揺れながら口に運ぶ器具など、その世界観は奇妙奇天烈。
ただ、その世界観は見事にこの物語と調和しているのだ。
2時間弱、このクローネンバーグの世界に身を委ねるだけでも価値がある。
人間の外見と中身(内臓)、常識的な人体の機能をクローネンバーグは解体し、新たな美しいものとして再構築している。
人体を切り刻んだり、全身に切り取った耳を縫い付けるパフォーマーなど、変態感覚を受け付けられない人は多いと思うが、もはやグロを通り越した耽美的な美しさを感じる。
ボディーホラーの名手はホラーを超越しアートの領域まで高めたのではないか。
巨匠にはまだまだ、見たことのない不気味で美しい映画を期待したい。
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