「優しくありたい」エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス のむさんさんの映画レビュー(感想・評価)
優しくありたい
小学生の時に読んだ『火の鳥(未来編)』にて、広大な宇宙と極小な細胞が同じ形をしている、という描写があった。私が宇宙の中の小さな存在であると同時に、私の中にも広大な宇宙が広がっているという表現は、私の腑に落ちる内容で、今でも何となくそうなんじゃないかなぁとぼんやり思っている。本作の、宇宙規模の危機が最終的に家族の問題に帰着するという流れを見て、真っ先に火の鳥を思い出した。
一つの人生を生きる主観的な私にとって、生身の自分が感覚的に認知できる世界の外にある重要な出来事、たとえばウクライナ問題だったり、トルコ・シリアの地震だったり……よりも、目の前にあるごく個人的な、卑小な出来事の方が重要だったりする。「そんなことより今晩何食べよう」と言うのが本音ではないか。技術の進歩によって我々は今、自分の認知できる世界をどんどんと広げ、あたかも本当に見たかのようにそれを知ることができるようになった。本作のバースジャンプはもちろんフィクションであり、突拍子もない設定ではあるが、パンフのインタビューにて監督自身が述べている通りマルチバースはインターネットのメタファーであると考えるならば、私が「直接的に」経験していないウクライナ戦争もまた、「マルチバースの世界で起こっていること」と捉えても良いのかもしれない。 この物語の最も共感できる点は、目の前の問題、特に人間関係において、「相手に優しくする」ことが全宇宙を救うことにつながることだ。私自身、世界に起きている問題を解決することはできない。しかし、目の前の人に親切にすることによって、世界が救われると思って生きていきたいものだ。
では、「目の前の人」とは具体的に誰なのだろう。本作で示されている通り、それは「家族」である。自分の目の前には自分の家族がいる。隣に座る赤の他人にも、その人の家族がいる。自分の家族を大事にするためには、同じく相手の家族も大事にしないといけない。それがわかっていれば、誰に対しても優しくなれることに、本作を通じて改めて気づかされた。
では、なぜ家族を大事にしなければならないのだろう?それは「自分の可能性の一つ」だからだ。例えば親子、これは分かりやすい。DNAレベルで半分は同じようなものを持っているはずだからだ。本作でもエヴリン(ミシェル・ヨー)が娘のジョイ(ステファニー・スー)に思いをぶつける場面にて「自分に似てほしくなかった」と述べている。これは親であれば誰しも少なからず思うことなのではないだろうか。娘の中にある「似てほしくなかった、自分のなかにあるもの」を受け入れることは、そのまま、自分自身を受け入れることだったのではないだろうか。
巨大な物語を本作のように矮小なものに帰結させるのならば、この世界を生きる私にとって、「私を愛せるかどうか」が、そのまま「世界を愛せるかどうか」につながるということだ。「優しい」ということがどれだけ大事なのか。ウェイモンド(キー・ホイ・クワン)の言葉を大切に胸にしまいながら、優しく生きていきたい。