「あらすじと考察」エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
あらすじと考察
Everything, Everywhere, All At Once
エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス
アメリカ社会に生きる中国系移民の女性が、中年の危機を迎え、自分の過去を振り返り、人生にあり得た様々な可能性を検討しながらも現実と向き合う物語。
家族の絆や、人種問題の融和といった感動的なテーマを掲げる。
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主人公はクリーニング屋を経営し、コインランドリーも兼ねている。
注)アメリカには「洗濯屋は中国人がするもの」というステレオタイプなイメージがある(あった)※1
彼女には夫と一人娘がいる。
夫は優しいが頼りなく、娘は反抗的で大学を中退し、今はガールフレンドと付き合っている。
映画が描くのは、そんな彼女が確定申告に追われながら、中国からやってきた父親の介護に追われ、新年会(旧正月?)を取り仕切る慌ただしい1日の出来事である。※2
確定申告は彼女の仕事。父親の介護も女の仕事。新年会を取り仕切るのも彼女。夫に指示を出して動かすのも彼女。
夫は離婚を切り出そうとしているけれども、彼女が忙しすぎるせいでゆっくり話し合う暇もない。
娘は新年会にガールフレンドを連れてやってきたが、主人公は、そのガールフレンドを父にどう紹介するか迷った挙句「友達」と紹介したため、娘は不機嫌に。
確定申告へ向かった国税庁では、監査官の白人女性との間に以前から確執がある。
言語や文化の違いもあってか、人種間摩擦にも似た問題を抱えている。
そんな彼女が自宅の食卓で確定申告業務をしている場面から映画は始まる。
家族との会話を交えつつ、自宅併設のコインランドリーの内部を経て、カメラはようやく屋外へ出て、国税庁へと向かう。
これは「自宅→仕事場→彼女を取り巻く社会」という順番になっている。
いずれも問題だらけで、彼女の人生の行き詰まりを「内→外」と、身近な順番で紹介していると言えるだろう。
そのあとには、夫と駆け落ちしてアメリカに来たこと、父親からは勘当同然の扱いを受けたこと、アメリカンドリームを抱いてコインランドリーを購入した当初の希望に満ちた様子が描かれる。
しかし彼女はずっとクリーニング屋=社会の底辺(成功者とは言えない)。
父の介護のためにいよいよ身動きが取れず、夫からは離婚を切り出されそうだし、娘との確執もあり、映画の中でアメリカ社会(白人社会)の代表として登場する監査官からは真っ当に扱われている感じがしない。
「クリーニング屋として社会の底辺に固定され、家庭に縛られ、アメリカ社会の中でも不自由している」ことを理解させる設定がふんだんに盛り込まれている。
★あらすじに間違いがあればコメントにてご指摘ください。
※1 ロマン・ポランスキー監督の名作『チャイナタウン』(1974)の中で、「中国人の洗濯屋はまだツバで洗濯しているのか?」というセリフがあり、ここから中国系移民に対する見下した意識が見て取れる。ちなみに『チャイナタウン』の舞台設定は1930年代。
※2 アメリカの確定申告の〆切は4月だとか
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人生の停滞を迎えた主人公だが、そんな彼女のために用意された救いの手が「マルチバース」だ。
確定申告のために国税庁へと向かった彼女は、監査官を前にいよいよピンチを迎えるのだが、「別の宇宙からの夫」が登場。
彼女こそが全宇宙の救世主であること、全宇宙を崩壊させようとする恐ろしい追手が彼女にせまっていることを告げる。
そこから後半にかけて、物語はカンフーアクション映画の様相を呈し、「別の宇宙の自分が持つ能力をダウンロードしながら戦う」という斬新な設定が盛り込まれている。
アクション自体は革新的なものではない。
ダラダラと進行する感も否めないが、「能力のダウンロードのためには何しらの奇行をしなければならない」との条件が伴う。
そのためアダルト描写を交えながら、ドラマ『スペック』の堤幸彦監督のセンスさながらのシュールでコミカルな笑いを誘う。
彼女に襲いかかる追手もまた、別の宇宙の自分の能力をダウンロードしながら戦いを挑んでくる。
『マトリックス』のエージェント・スミスによって乗っ取られた一般市民さながら、別宇宙の自分自身によってコントロールされている様子。
よくよく考えてみると、オフィスで無線で指示を受けながら追手から逃げ回るのもどこか『マトリックス』っぽい。
終盤には「あの有名なシーン」(どのシーンでしょう?)が再現されており、明確にオマージュを捧げている。
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【マルチバースについて】
本作におけるマルチバースは、量子力学の「多世界解釈」に影響を受けているようだ。
「私たちが何か選択をするたびに世界が分岐し、その蓄積によって無数の世界(宇宙)が同時に存在している」というものである。
加えて、別の宇宙の自分との意識の共有が可能で、別の宇宙の自分に意識を転送したり、別の宇宙の自分の意識が、現在の自分に転送されてきたりする。
主人公はその結果として、「すべての宇宙の自分の人生を、同時に1カ所で経験できるようになった」という設定だ。
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【まるで『インセプション』?】
このように、「全ての自分」を1つの肉体で経験できるようになった主人公だが、実はその主人公もまた別の宇宙の自分だった、と考えていい。
あるいは「『マルチバースにアクセスできる主人公』は主人公の妄想である」と解釈してもいい。
というのも、この映画は現実改変モノではない。
どのような選択をしようともあくまで分岐した世界が存在している、と設定しているからだ。
主人公はカンフーの能力を手に入れるが、それによって現実が改変されるのではなく、あくまで普通の人生を送る別の自分も存在している。
ということは、
解釈①「マルチバースにアクセスする主人公」は、普通の人生を送る主人公の妄想である
か、
解釈② 普通の人生を送る主人公もまた、分岐によって生じたマルチバースの1つであり、意識の共有によってカンフー能力を手に入れた世界線の主人公の意識が転送されてくることによって、現実世界をより良いものにしていく
ということになる。
クリストファー・ノーラン監督による有名な『インセプション』(2010)は、夢の世界を舞台にしている。「夢から覚めた世界もまた夢だった」という演出が印象的だ。
"Dream within a dream" (夢の中で見る夢)というセリフが記憶に焼き付くが、終盤には「夢の中で夢を見る」ことを繰り返し、夢の第1階層、第2階層、第3階層、そしてもっと深い階層でのアクションが同時進行していく。
本作も同様に、複数のマルチバースを同時に経験しながら物語は進んでいく。
マルチバースが全て「夢」、そして普通の人生を送る主人公が「現実」だという解釈も可能だ。
解釈①によれば、"エブエブ"は、普通の人生を送る主人公が、「マルチバースにアクセスできるようになった自分を夢見る」という白昼夢だということだ。
解釈②は、国税庁のあたりで主人公の世界は「カンフーマスターになった人生」("Kung-Fu Timeline")と「平凡な人生を送り続けた人生」("Reality Timeline")に分岐しており、"K"タイムライン(万能になった主人公)から"R"タイムラインに情報が転送されてくる、ということだ。
主人公は特殊能力を獲得して現実を改変できるはずなのに、物語は平凡な人生へと着地していく、という点に注目したい。
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【物語の結末】
この映画は、マルチバースという最先端のSF設定を採用しながらも、ごく平凡な人間ドラマとして着地する。
主人公はマルチバースにアクセスし、宇宙一のカンフーマスターとなり、様々な能力を手に入れるけれども、人生の問題を解決するのは夢のような能力ではない。
あり得たかもしれない別の人生を想像し、さまざまな検討を加えた結果、彼女はただ、目の前にいる夫を愛した。
夫はただ、白人の監査官と会話し、主人公はただ監査官とタバコを吸いながら話し合った。
さまざまな葛藤を経て、娘とただ胸の内のありったけをぶつけ合った。
父親にはただ「娘のガールフレンドです」と紹介した。
その「ただ〇〇した」が、物語を平和な結末へと収束させていく。
確定申告の〆切は1週間延長され、白人とも打ち解け、事業拡大への希望もつながった。
夫とのあいだに愛も取り戻したし、娘も一緒にいてくれる....
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今ある人生からは逃れることができない。
この映画は、観客に向けて「今ある現実、その生活は変えることができないのだから、まずは目の前にいる人を愛しなさい。優しくしなさい」と無条件の愛を訴える。
カンフーマスターとなった主人公。
だが彼女は戦いの型をとるのではなく、無条件の愛を持って手を差し伸べる。
エンドロールを最後まで見れば、まるで脳死の"I love you"が連呼される...
「家庭の問題も、人種間の問題も、愛があれば、優しさで解決できるよね」と
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【映画の問題点】
マルチバースを導入した斬新なカンフー映画であり、ユーモアも豊富だが、見せ場のアクションが真新しいものであったというわけではない。
マルチバースの設定もやや不明確だ。
インセプションのような入れ子構造が、明確なものだとも言えない。
「ベーグルってなんだ?」「結局全宇宙をかけた戦いはどうなったの?」「悪役ジョブ・トゥパキはどうなったの?」「夢オチってこと...?」
そういった娯楽面や表現面での批評はさておき、この物語が下した結論、物語が掲げたテーマについて考えてみる。
ジョン・レノンの「イマジン」が如く、この映画は「脳死の愛や優しさで人生をポジティブに変えよう」と訴える。
けれども主人公の家計や収入が良くなったわけではないし、父の介護によって縛られるのも変わらない。なぜ「娘のガールフレンドよ」と伝えただけで父の理解が得られるのかもわからない。
この映画は、パラレルワールドにおいて、家族や白人と主人公が繰り広げる葛藤が、あたかも現実世界に作用したかのように描いている。
けれども実際は、現実の主人公と登場人物たちの間には何も起こっていない。
パラレルワールドの登場人物たちと現実世界の登場人物たちを重ね合わせる演出が錯覚を生んでいるだけだ。
だから「パラレルワールドで色々と起こったからといって、なぜ全てがうまくいくのか」という疑問を生む。
「サリーとアン課題」という心理学の実験があるが、この映画を見て「主人公が家族や白人と和解した」と感じるのであれば、それは編集の巧みさと、サイケで時にサブリミナルな照明効果によるものではないかと思う。
現実世界の多種多様な問題に具体的な解決策を提案したわけでもない。
主人公が人生の問題や生活の問題を解決したわけでもないが、「愛の力」で人間関係だけは良好になる。
「貧しくても優しさですよ、愛ですよ」と説くが、「経済的余裕こそが精神的余裕を生むのでは?」「衣食足りてこそ礼節を知るのでは?」という疑問が生まれる。
現実のアメリカ社会で生活する貧しいアジア系移民に向けて「愛だ、優しさだ」と説いても意味がないが、支配階級に向けてアジアと白人が融和する映像を見せると満足する(態度が軟化する)ということなのだろうか?
社会問題に対して具体的な解決策を提示するわけでもないが、白人に対してアジア系への融和的な態度を促すのには効果的に思えた。
「マルチバース」というホットなテーマを導入しつつ、『マトリックス』のようなアクションと『インセプション』のような入れ子構造で描き、「性的多様性」や「アジア系と白人との融和」といったアメリカ人左派の価値観を再確認した、といったところだろうか。
自分は「夢と現実」のような映像表現が大好きなので、マルチバースという設定を整理・理解する経験が楽しくて少し高めの評価になった。
(3月4日 改筆済)
しろくろぱんだ さん
コメントありがとうございます。
私個人の好みでしかありませんが、以下の理由から、この映画が私にとってお気に入りの作品と言えるものではありません。
① 物語の多くを占めるカンフーアクションを、特に面白いとは思わない点
② 現実世界で、主人公と登場人物たちとのあいだにストーリーが発生していない点(観客の誤解を誘うことによってあたかも主人公が登場人物と和解できるかのように錯覚させる映画だと感じてしまいます)
③ 「愛」というテーマが、アジア人のためというより、アメリカ社会の支配階層のために設定されたものに思える点(もちろんこれによってアメリカにおけるアジア人に対する姿勢がより良いものとなり、今後アジア人の地位が向上するということになれば、政治的な作戦としては成功であり、それはそれで映画の持つ力というものが確認されるものではあります)