ロストケアのレビュー・感想・評価
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さもありなん
42人を殺した連続殺人犯とその事件の検事が対峙する人間ドラマ。今の日本にとって、切っても切れないテーマの映画でした。
殺人犯の動機が必ずしも間違っているとは言えないのもテーマとして強いものだと思いました。殺した人たちは1人を除き、家族などに介護されている老人たちで、セバは介護士としてその人たちを介護していましたが、ニコチン入りの注射で全員を救ったと謳っています。
これだけ見たらただただ残虐のように思えるのですが、セバの父親も同じように介護していて、自身に限界が来てしまい、殺してしまうけれど、同じように介護で苦しむ人を救うために介護士になり、殺していく…なるほどなと思わされました。
殺し方も決して残虐ではないですし、近年の日本の高齢化問題もあって、こういう先駆者が出てきてもおかしくないのかなとは思いました。
役者陣は文句なしです。長澤まさみさんと松山ケンイチさんの1vs1の対峙は最高でした。柄本明さんはどんな映画でも唯一無二の輝きを解き放っていて、今作でもそれを更新する勢いの熱演に脱帽でした。やすさんが上手すぎるのも良かったです。
少し引っかかったのが、とんとん拍子で進んでいくので、この題材に匹敵するエグさが無かったかなと思いました。
前田監督の作品の雰囲気があまり好きではないので、今作も進め方が合わないなと思いました。自白までのスピードや、元介護士が仕事を辞めて風俗嬢としてチラッと登場したりするシーンや、急に怒鳴り込んで法廷に現れた被害者家族だったりと、どこかしらで伏線を敷いた上で進めて欲しかったです。
オチもそこまで自白しないでも…勿論連絡を無視して見殺しにしてしまったという罪悪感はしょうがないとしても、あの対峙を演出したかったのか…?こればかりは原作を読んでないのであまりとやかくは言えませんが小骨がつっかえて取れないです。
日本がこれから長いこと付き合っていく介護の問題。安楽死という選択肢もありなのでは、とつい考えてしまう自分がいます。自分の両親はまだまだ元気ですが、うん十年と経てばどの様な感じになるのか、またどこかでこの作品を観たら多くを考えさせられるかもしれません。
鑑賞日 4/4
鑑賞時間 17:50〜19:50
座席 H-8
急性ニコチン中毒苦しいぞ~
安楽死や尊厳死の問題はまた別の問題。
斯波は検察官の大友(長澤まさみ)の取り調べの際、社会の穴に落ちた自分と安全地帯にいる大友の状況の違いを引き合いに出し、尊厳死の必要性を盾に自分の犯したことを正当化します。死刑を求刑するアンタも殺人者だと大友を揺さぶってきます。斯波の父親役の柄本明が観るものの判断をあやふやにしてしまう迫真の演技。つい同情してしまいます。高橋伴明監督も「夜明けまでバス停で」でバクダン役の柄本明に「底の抜けた社会」というセリフを言わせて、行政の不備を訴えていました。本当の息子の柄本佑が斯波役だったらよりリアルになるかなと一瞬考えましたが、それではコントになってしまいそう。松山ケンイチはとても適役だったと思います。自分の父親だけでやめておけば、自殺幇助罪止まりで、ある程度正当性はありますが、他人に対して反復大量殺人をやってしまうのは明らかに病的な心理が働いていると言わざるを得ません。また、看過できない松山のセリフとして、介護老人の不審な死亡例のほとんどは親族によるものだと大友に言ってのけます。ネグレクトを含む未必の故意のみならず、介護者が隠れて殺人を犯しているのだと言うのです。急性ニコチン中毒はとても苦しいと歌手の山本譲二さんがラジオで言ってました。みちのく一人旅が売れる前、キャバレーのどさまわりをしていた頃、酔客がタバコの吸殻を入れたビンビールを飲まされ、三日三晩のたうちまわるほど苦しんだそうです。この映画を観て、スパイ映画を参考に注射痕が目立たない足の指の間の血管からタバコの葉っぱの抽出液を注射する模倣犯が出ないかとても心配。斯波が被介護者にもそれを行ったのは父親にやった時にバレなかったからだとはっきり言っています。
その背景には確かな検死能力のある監察医がいないことや警察官が遺族や介護者を疑っていてはキリがない現実があります。
映画は在宅介護の話しですので、事業者にとって契約者が減ってしまうことは減益に直結するのでメリットはありません。しかし、民間の有料老人介護入所施設だとしたら、部屋の回転率をあげることは増収につながり、組織的とはいわないまでも犯行の動機になり得ます。所長を含めて施設の被雇用者が手のかかる介護度の高い入居者を忌避する心理が意識的あるいは無意識に働き、医療機関受診のタイミングを遅らせてしまうことは十分に考えられます。親を預ける子供の罪悪感にも訴える非常にセンシティブで多くの人にかかわってくる題材。
介護保険法が建設業界の介護医療産業参入を促しただけとまでは言いませんが、
原作の殺人事件モノのミステリー小説が映画化されるときには、脚本や過剰な演出についてよく吟味、評価する必要があるなと思いました。
ぎゃん泣き
もう人ごとでは無い!
この先もっと大きな問題になるであろう介護のお話
本作品では、犯人の介護士と検事の真っ向からの正義と救いの事が描かれているが犯人の思想など関係ないのだ
今の法律では如何なる理由があっても殺せば殺人罪なのだから
問題なのは介護にかかわるする側される側を誰がどのようにケアしてくれるのか
行政、民間etc… 誰に何をどのように相談すればいいのだろうか
殺すことが救いなら地獄を見る前に救ってやれって
しかし先のことや他者のホントの気持ちなど誰にも分からない
私の親のこともきちんと考えなければ、人に任せっきりで矢面に全然立ってない
腹が立つほど身につまされた作品でありました。
追記
医療が進み人の命も健康不健康どちらでも「長生き」出来る時代がこの先も続いていくでしょう
長生きとは、どこまでしたらいいのだろうか?
昔は不老不死が題材の映画などがありましたが今はそんなものない!
もうそこまで長生きしたいと思うさわなくなったのでしょうかね、老人の時が長くなることのリスクが恐ろしいですからね
例えば医者が病気で瀕死の状態を救っても家族から冷たい目で見られるような事もとっくに起こっているのでしょうね
本人が「死にたい」と言おうが「死にたくない」と言おうがお構いなしに医者は命を救わなければならない
救って家族に地獄をあたえる
とても難しいです
改めて映画『PLAN75』が重く深い作品なのだと思えてしまう
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」 マタイによる福音書 7章12節
松山ケンイチと長澤まさみの丁々発止。人の死は誰のものなのか、と自問させられる。斯波の行為は犯罪である。しかし、道義的にはどうなのか。それで救われた人はいるのかいないのか。当事者はそれを知っても感謝するのか非難するのか。立場が異なる人の数だけ、答えがいくつもある難問。それでも殺人は決してダメだ、といいきれない虚しさ。
同じテーマを扱った小説「命の終わりを決めるとき」(朔立木)を思い出した。こちらは限りなく"尊厳死"という課題に寄った内容だった。映画にもなった。この先、生きていくとき、その"生"が、自分にとって、周りの家族にとって、けして好ましい状況だと思えないとき、死を選ぶことの難しさ。目の前にあるその"死"を決めるのは、本人なのか、家族なのか、事情をよく知る他人なのか。はたまた、偶然という名を借りた"神"なのか。
「人には、見えるものと見えないものがあるんじゃなくて、見たいものと見たくないものがあるんだなって。」と言っていた。信じたいものと、信じたくないものもある、と思った。この映画を、いま現在、"絆"という"呪縛"に縛られている人が観た時、はたしてどう感じるのだろうか。でも、そうやって自分の時間も感情も抑え込んで人のために働いている人たちは、一本の映画を観る余裕さえもないのかもしれない。
正義と悪の境界
蓋をあけ、何をするか
光の照らさぬ穴の中で斯波は父の望みをかなえた。
そして、彼は同じような41の穴の先を照らす光になるべく道を選んだ。
介護士として関わる人への殺害を自供した斯波は、それを〝救い〟と呼び、担当検事・大友は驚愕する。その被害は41人に及び、さらにその前にもう1人、彼が父親を殺していた事実も発覚する。
共に信じる正義をかかげ譲らない取り調べで、斯波が穴と安全地帯とたとえて語る社会への不満は社会的地位を持ち淡々と職務をこなす大友に対する一方的な線引きのようにもみえた。
だが、それは大友が向き合わずにやり過ごしてきた自分の内面にぐさりと突き刺しえぐる言葉の数々だった。
彼女には、長いこと疎遠だった実父の壮絶な孤独死の現場に立ち会った経験と認知症が始まり介護施設にいる母に、自分への気遣いでその暮らし方を選ばせてしまったという後ろめたさがか潜んでいた。
(経済力の差は生きる上で確かに大きく影響する。
しかし、お金があることだけが必ずしも心のバランスをとり、安定をもたらし続けるわけではないようだ。
幾度となくある人生の選択時に誰にどのような理解と納得があったかが色濃くのこるのも事実だということだろう。)
また、介護士としての斯波が優しく感謝されていたこと、遺族の中には、実は自分も助かったと漏らす人がいたこと、斯波が父を懸命に世話した事実、経済的弱者の世の中との隔たりとその孤独、介護に伴う家族の疲弊や崩壊、制度の問題点など、差し伸べる手がない社会の落とし穴という闇の部分が次第に顕になり、大友は激しく惑う。
平静を装いながら斯波と対峙する大友が、ついに「関係ない」と叫び立ち上がった。
斯波の問いかけがプライベートに踏み込んできたからだけではない。
あえてピントを合わさずにいた彼女の心が、安全地帯と穴のどちらの意味も体感しているからこそ自問自答に追い込まれたのだろう。
目の奥を逸さずにみつめて語る斯波により、リアルに。
法側の立場でルールに生きる自分とひとりの人間、一組の親娘としての狭間にある葛藤、動揺。
そして、ついに自覚した裸の本心。
そこで、冷静さを守り、焦りを断ち切ろうと発してしまった自分自身への言葉だったと思う。
法廷でまっすぐ見据える大友と斯波。
その張りつめる空気が突然割れ、被告・斯波を激しく罵しり責める遺族の声が響きわたる。
あの声は、斯波の確固たる信念〝救い〟という正義を覆えすのか?
あの声で、大友の検事としての〝法〟にのっとる正義は、本音とたてまえのゆらぎを跳ね除け再び目覚め責任感を増していくのだろうか?
それとも…?と、投げかける。
いや、そんな生やさしさではない。
袋小路の壁の奥でどーんと突きつけられ、これはあなたのことだ、と言われたのだ。
そう、あの法廷に立たされたのは今この超高齢化+少子化社会に生きる私たちだ。
生き抜こうとする家族たちを最後の瞬間まで守れる社会の仕組みが成り立っていなければ、〝救われない〟家庭はあとをたたず〝救う〟ための切ない犯罪は増えていくだけだと。
生ぬるく傍観し停滞している空気、正解を見出しにくい世界にあえてこのショッキングな内容で切り込み、本作は〝蓋〟をあけた。
いつものように母を訪ねた大友が認母がもらす想いにふれ、その膝に泣きくずれる場面。
母は全てをわかっているように優しく頭を撫でる。
大友は、ようやく母に父の死を伝えることができたようだ。
それは、穴をみないようにするための蓋をあけた瞬間だった。
そして、彼女が以前、斯波に問われ敢えてこたえなかった父のことを伝えるために面会にいくきっかけにもなる。
斯波の父が折ったあの赤い鶴を手渡しながら。
そこで彼女の口から出た言葉。
一瞬、変化する斯波のあの表情。
(松山ケンイチの繊細な演技に震えるこの作品の貴重なシーンだとおもう)
斯波が1+41=42の殺害を犯した罪はたしかに許されない。
だが、ひと言でかたずけてはならない意味がそこに確かに息づいているのを見逃すことはもうありえないのだ。
家族との絆
今年は泣ける映画が沢山あるが、本作は群を抜いている。ラスト15分間、大号泣だった。悲しくて、辛すぎる。思い出しただけでも泣けるくらい、秀逸な演出と構成であった。胸が張り裂けそう...。
「ドクターデスの遺産」を思い出させる内容。
あの作品は映画こそ〈クソ作品〉であるが、小説はとても丁寧に描いており、深く考えさせられ見応えのある秀作だ。実は映画版では、柄本明が出演しているという、共通点があるのだけど...全然違う笑 「ドクターデスの遺産」は、生きることを苦しむ人々に安楽死という選択を与える、医師の話。延命治療が当たり前とされているこの国は、人に寄り添う心が何処か欠けている、そんなことを語る作品。そして、本作「ロストケア」は、親の介護で苦しむ人々に〈救い〉を与える、介護士の話。家族という絆が、家族をどれだけ苦しめているのか、ということを強く語る作品。
ドクターデスという医師はネットでの申し込み制、家族の了承があっての実行だったのに対し、本作の斯波という介護士は全て自分の判断、家族の承認一切無しでの実行であったため、少し倫理感が欠けている部分はある人物。快楽じみている。しかし、ドクターデスの場合だと、申し込むことに罪悪感を感じ、また今の刑法だと、共謀者として罪に問われる可能性もある。が、斯波の場合は、全ての事件を彼1人で行っているため、無論他の逮捕者が出ることもないし、身勝手な行動のあまり批判もあるだろうが、自然な形で苦しみから解き放たれ、救われる人も少なくないはず。
どちらが正しい行いをした正義なのか、というのは分かり得ない。だが、どちらも『この国は下を向かない。見えないんじゃなくて、見ない。』と訴えている。本作の斯波の犯行は、〈お父さんを返せ〉という言葉がある時点で、大きな罪に問われるのだけど、同時に〈救われたんです〉という言葉もあるため、100%間違いを犯したとは言いきれない。少なくとも、救いの手は差し出すことが出来た。
辛い思いをしている家族を楽にしてあげる。
これの、何処が悪いのだろうか。生きる権利があるなら、死ぬ権利があってもいいはず。特に本作は老人に焦点を当てた作品であったため、当人も自分のせいで家族が苦しんで欲しくない、と考えるはず。私がその立場に立ったら間違いなくそう思う。小説「ドクターデスの遺産」よりは、犯行に抜け目が多く、許されない行いだが、とてもリアリティがあって頭を抱えるほど考えさせられた。松山ケンイチと柄本明の演技力がお見事である。
感想と言うよりも解説が多くなってしまいました。
せっかくなので、原作も購入し、できれば改めてレビューに追記しようかなと。淡々と描いているために少しあっさりとした作りではあったけど、優れた演出で涙が止まらない、いい作品でした。ぜひ。
辛いから考えたくない問題😭
見たくない物は、見ない様にする、正に自分だ!時がくれば、対処するしかない、まだ、自分は安全地帯にいるのだな~
両親共に無くしましたが、この映画をレイトショーでポップコーンかじりながら、呑気に見ている自分は貧困だが安全地帯にいたんだなーとこの映画を見て気が付きました。人は、救いがなければ生きていかれないょ、そんなに強くは生きられない。
もう見たくはないが、見て良かったです。
アホ見たいに、生きていないでこれからの事を真剣に、考えよう。
泣けた😭
ズシっと重たく心に刺さる
大事なテーマ
楢山節考を改めて鑑賞したくなりました。
もう少し丁寧に斯波の人物像を描き 介護職に就いてからの葛藤等描いていたら 感情移入できたと思います。
…救ったことにはならないと思います。
誠実で真面目なキャラクターとしての日記の文字なのでしょうが あまりにも美しい文字過ぎて
白けてしまいました。
すみません…。
新人の介護職の女性は ショックのあまり風俗嬢となっていましたが 設定が安易すぎる気がしました。まるで介護職に相反する職業と描かれているようで。
鏡を使った演出もやや過剰に感じました。辛口ですみません…。
10年以上寝たきり 意思疎通が叶わなくなった母がいましたが 療養病院にお世話になりました。
安全地帯にいたのかもしれませんが それなりの葛藤、苦しみはありました。
PLAN75の方が刺さりました。
観た方が良い映画!考えさせられる。
答えがない問い
斯波が言った『僕を死刑にするあなたは正しい。しかし、(苦しむ老人を送る)僕も正しい』という言葉がとても心に残っています。
裁判の前、斯波が殺したことによって、介護から開放されて、『救われた』と述べた遺族の姿が描かれました。
しかし、裁判の途中斯波を『人殺し』と叫ぶ遺族の姿も描かれました。
この映画は本当に中立的に物事を描いていて、どちらの正しさも思わず納得してしまいます。
映画を観終わった今ですらどちらが正しいのか明言出来ません。
斯波も大友検事も、より良い社会を理想としています。
そこは一緒です。だからこそ観ていてすごく胸が締め付けられました。
この映画を観て、自分の親、恋人の介護の可能性、未来を考えました。
恐らくこの映画を観たたくさんの人が同じように感じたと思います。
とてもいい映画でした。
松山ケンイチ、長澤まさみ、柄本明の血気迫る演技の拍手。
自分で介護をしたことある人には刺さる作品
安全基地にいるのか、穴の淵にいるのか
介護制度ができてから、ずいぶんと時間が経っているというのに。
制度の穴はすぐに開くんだ。
介護サービスを受けない、受けられない人にとっては、なんの意味もないんだ。
介護、まさに目の前にある現実。
いや、それよりも自分の行く末を考えさせられたか。
家族が誰か分からなくなっても、それでも生きていたいか?そう問われているような。
厳しい現実の日々、汚物を素手で握り、食べたことすら忘れてしまう親を看ていて、それでもいつまでも面倒をみるからと、言い切れるだろうか?たとえ安全基地にいたとしても、罪悪感は否めないのでは?
いつまでつづくんだろう?
この問いが浮かばない介護者がいるのだろうか。
どんなにがんばっても、「これでよかった」と思える介護があるのか。
あっという間の114分。
松山ケンイチの演技に拍手。
それにしても、今どき、あんな生活保護担当いるかな〜?あれは、制度の穴じゃない。人災としかいいようがないでしょ。
本年度の邦画ベストワン候補
介護と救いと絆、何が正しいのか
人にしてもらいたいと思うことは何でも、
あなたがたも人にしなさい。
穴に落ちた側と安全地帯にいる側。
目に見えるものと見えないものではなく、
見たいものと見たくないもの。
迷惑かけていいんだよ。
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色々考えたり、思い出したりして
涙なしには見られなかった。
私の母は、
認知症の祖母の介護で苦労しており、
祖母が亡くなった時、親戚の人から
楽になれるねと声をかけられていた。
そんな私の母は、突然の孤独死だった。
私は母を亡くした時、
これから親孝行したかったのにと
悲しみのどん底にいたが、
親戚のおばさんから、
私の母は、娘孝行した、
と言われたことを思い出した。
何が正解か分からないが、
母の娘で良かったと生前に伝えられた
ことは今も私の救いである。
ひとつじゃない正義の行方
●公式サイトからあらすじ
介護士でありながら、42人を殺めた殺人犯・斯波宗典に松山ケンイチ。その彼を裁こうとする検事・大友秀美に長澤まさみ。社会に絶望し、自らの信念に従って犯行を重ねる斯波と、法の名のもとに斯波を追い詰める大友の、互いの正義をかけた緊迫のバトルが繰り広げられる。
***
かつてドラえもんはこう言った。
「どっちも自分が正しいと思っているよ。戦争なんてそんなもんだよ」
本作は文字通り、松山ケンイチ演じる殺人犯・斯波と長澤まさみ演じる検事・大友のそれぞれの正義をかけた戦争である。だが、明らかに正義であるはずの大友の分がどうにも良くない。大友が正論を吐けば吐くほど、斯波の覚悟を決めた眼に吸い込まれていく。斯波の瞳の奥に、自らの両親の姿を見たであろう大友が静謐な検事室で声を荒げるシーンは印象的だ。
劣勢の大友にとって数少ない救いは、裁判官に促された斯波が朗々と自説を述べる場面で、傍聴席から戸田菜穂演じる被害者遺族が発した「人殺し!」の一言だろう。
検事がつけるバッジは、秋の冷たい霜と夏の烈しい日光という意味の「秋霜烈日」という四字熟語がモチーフになっており、転じて、厳正な検事の職務とその理想像を示しているという。
検事役の長澤まさみはいつもながら美しいのだが、本作ではその美貌やスタイルを殊更に際立たせるような演出は鳴りを潜めた。赤いマフラーくらい。むしろ、年相応の皺やありきたりなパンツスーツなどで、彼女自身の年輪をそのまま魅せていく映像を用いて、ラストの「検事の担うべき厳正」に収まりきらない、ひとりの娘としての情動に見事に収斂させた。
圧巻は柄本明である。
検事室でのやり取りが「それぞれの正義」の対峙であるなら、かれと斯波との日々は「それぞれの愛」の対峙であり、後の連続殺人に正義があったというある種の倒錯を生み出したのは、かれの圧倒的なリアリティに依るところが大きい。
大友がぼつりとこぼした、「この世の中には"見えるものと見えないもの”があるのではなく、“見たいものと見たくないもの”があるのだ」という台詞が、観客であるわたしたち居心地の悪さと共に問う。要所で出てくる折り鶴の多義性をじっくり考えてみたくなる良作である。
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