劇場公開日 2023年3月24日

「社会派映画の存在意義」ロストケア シューテツさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0社会派映画の存在意義

2023年4月19日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

予備知識は殆どなく評判が良さそうなので観に行きましたが、いやぁ~引き込まれましたよ。私好みの作品で当たりでした。
原作は未読ですが、原作はもう少しサスペンス寄りの作品だそうで、映画は社会派寄りに敢えてしたという情報を見たのですが、それも私の好みに合っていました。
で、95歳の母親と二人暮らしである68歳の私には切実過ぎる物語というか生々し過ぎる作品なので、作品自体の感想(自分の感情)は書けそうにもないのでパスしますが、その代わりにこういう作品の社会的意義の様な事を今回は書いて行こうと思っています。

まず本作の前田哲監督作品って、あまり多くの作品を鑑賞した訳ではありませんが、本作の尊厳死も含め『ブタがいた教室』の食文化とか『こんな夜更けにバナナかよ』の健常者と障害者の日常での関係性とか、倫理観だけでは解決不可であり、本来答えのない人の考え方や対応に対しての少し意地の悪い問題提起をする監督という印象があります。
誰しもが人生に於いて逃げられるのであれば逃げたいし、見たくも考えたくもない問題を、だからといって有耶無耶にも出来ず、人間として生まれた限り必ずぶち当たる問題であって、こうして映画として突きつけられ考えさせられることの意義は大きいと思います。

本作では主人公が「社会の穴」という言葉を使っていましたが、私も今後この言葉を頻繁に流用しそうな深く的を得た表現の様に思えました。
“理想の社会”というのは、本来この穴は少なければ少ないほど良い筈なのですが、逆に言うとこの穴がなければ社会は成立しないという捉え方も出来るのかも知れません。
“社会の穴”の他にも“社会の隙間”という言葉も社会ではよく使われています。
あくまでも、私の考え方ですが、“社会の隙間”というのは“悪事の隠れ蓑(場所)”だと思っています。
理想の社会というのは悪のない社会ということですが、現実の社会には悪が充満しています。何故かというと権力者や成功者の悪事は見逃さないと人間社会は成立しないからです。
そして“社会の穴”というのは、社会の矛盾であり不条理であり、真面目に生きようとする人間を不幸にする落とし穴です。
最近観たばかりの作品では『夜明けまでバス停で』、『夜を走る』や多くの社会派映画は全部“社会の穴”に落ちてしまった人たちの物語ばかりです。
というか、最近の日本の社会派映画の殆どが、そのような“社会の穴”を見つけ出し問題提起しているという事なのですが、現実社会は穴ぼこと隙間だらけで、それを埋めようともしない(いや、出来ない)
恐らく、今の社会力(造語)の限界であり、隙間や穴が埋められないのは何かのバランスを保つ為の必要悪としての存在であり「人は見たいものしか見ない」という、それは政治だけなく人間としての限界なのかも知れません。
ただ、本作にもありましたけど、役所などの対応の不親切さや不備などについても様々な作品で取り上げられ、パッと思いついた作品だけでも『生きる』『恋人たち』『護られなかった者たちへ』『岬の兄妹』等々で度々見かける光景ですが、溺れかけた人間に対しての命綱であるべき部署の現実は、何度か役所に行った人間なら決して誇張ではないと理解は出来る範疇の演出であって、“社会の穴”が最も可視化し易い場所というのも哀しくも皮肉な話です。まあ個人としては、穴に落ちないことを祈るしかないのですけど…
だからこそこういう問題を知らない(見ない)ままにせず、知らせる(見せる)媒体が必要であり、それを自ら見ることも重要で、それが出来るのは今や映画や小説くらいしかない様な気がしています。本来なら報道機関がすべき仕事なのでしょうが、そこが隙間だらけで腐ってしまっているので仕方ないですね。

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シューテツ