劇場公開日 2023年3月24日

「ズバリ来年の日本アカデミー賞を総ナメにする傑作だと断言します!」ロストケア 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0ズバリ来年の日本アカデミー賞を総ナメにする傑作だと断言します!

2023年3月26日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 昨日観た『The Son/息子』のラストに衝撃を受けたのに、その余韻を打ち消すくらいの激しいショックに包まれました。上映が始まったら、心が揺れ動くのが自分でわかるくらい物語に引き込まれ、夢中で最後までスクリーンに釘付けとなったのです。そして、自分ならどちらの判断をするのだろうと、観終わった今もずっと考えています。

 葉真中顕の日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作の原作は、謎解きの要素もありますが、何より、命の尊厳、家族の絆といったテーマに真摯に取り組んだことに好感が持てました。映画化において「ミステリー」という原作のジャンルを通してでも、重厚な問題提起が可能なんだいうことを、提示した作品となったのではないでしょうか。

 小さな町のケアセンターに勤める介護士、斯波宗典(松山ケンイチ)は献身的に働き、高齢者やその家族、同僚の信頼が厚く、誰からも慕われていました。でもその裏で施設利用者を大量に殺害していたことが明らかになるというのが、この作品の基本的な話です。
 物語の前半はミステリー調。施設利用者の家で利用者と斯波の上司で所長の団元晴(井上肇)の死体が発見される事件が発生します。
 事件を担当することになった検事の大友秀美(長澤まさみ)は、虚偽の証言をしていたことから斯波に疑いの目を向けます。しかし物証がない中で、数字に強い部下の事務官である椎名幸太(鈴鹿央士)がデータから、斯波が勤めるその訪問介護センターが世話している老人の死亡率が異常に高く、彼が働き始めてからの自宅での死者が40人を超えることを突き止めるのです。

 真実を明らかにするため、斯波と対峙する大友は、「誤った正義感をふりかざした身勝手な大量殺人」と断罪します。しかし斯波は「殺人は最後の介護、ロストケアなのだ。本人と家族を救った」と主張するのです。冷静に語る斯波の言葉は揺るぎない確信に基づくものでした。
 斯波が目にしたつらい介護の現場の様子は、介護サービスを利用して年老いた親の面倒を見るその子たち(坂井真紀、戸田菜穂)の追い詰められた日常として描かれていきます。
 大友は、「自分勝手な誤った正義感に基づいた殺人」として、斯波を糾弾します。「一人一人の人生の何があなたに分かるのか」「大切な家族の絆をあなたが断ち切っていいわけがない」「他人の人生に決着をつける権利はない」と。しかし、斯波は「この社会には穴が開いている。落ちたらはい上がれない」「かつての自分がしてほしかったことをした」と反論する斯波に大友は言葉を失うのでした。そして斯波は、介護殺人が毎年何人増えているかという数字で畳みかけるのです。(厚生労働省の統計<2006~2019>によると年間20~30件起きているそうです。)

 斯波が介護対象者を次々殺害していく原点となったのは、実父である正作(柄本明)における過酷な介護経験でした。介護のために就労もままらならず、父親の年金では家賃や光熱費で精一杯。次第に貯金を切り崩していって、最後はお米を購入する資金までも枯渇し、飢えをしのぐ日々に。思いあまって市役所に生活保護の申請に行っても、就労可能な斯波が介助している限り、生活能力があると認定されて門前払いを喰らってしまいます。もう親子揃って飢え死にを覚悟せざるを得なくなったとき、正気を取り戻した正作から、自分を殺してくれと嘱託されたのでした。
 このときの殺害方法がバレずにすんだことが、後々の連続殺人につながっていったのです。

 大友が真相に迫る過程は、なかなかスリリング。しかし映画の主眼は斯波が犯行を認めてからの、大友との議論にありました。予告編では単なる殺人鬼にしか見えなかった斯波でした。大友の主張の方が当然だと思いました。けれども物語が進み、斯波が体験してきた介護の現実は、行政も宗教も救いようもない過酷なものでした。そんな現実を見せられると、斯波の主張する「殺害が救いなんだ」という主張に、すっかり共感してしまったのです。

 トドメのひと言は、作品の冒頭に表示される「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」 (マタイによる福音書 第七章 十二節)という聖書の言葉でした。
 キリスト教信者でなくとも、この言葉は耳にしたことがあることでしょう。他者に愛を求めるのではなく、みずからが愛を与えなさい。この考えはキリスト教に限らず、他の宗教でも根幹になっていることから「黄金律(ゴールデン・ルール)」と呼称されています。 斯波はクリスチャンではなかったが、どうやら「黄金律」の部分を繰り返し読み返していたようなのです。そして斯波が思ったように、もし「人にしてもらいたいと思うこと」が、正作が語ったように殺してくれ、自分を苦しみから解放してくれと懇願されたとき、「人にしなさい」と殺してしまうことがどうなのか、わたしの中の宗教観が混乱してしまいました。
 もちろん殺人は決してあってはならない行為ですが、何が正しくて何が悪いのかは、その時、その状況にならなければ判断できないと考えさせれたのです。

 ただ本作は、観客それぞれの置かれている状況によって、2人の議論は違って見えるかもしれません。毎日、高齢者を相手にしている家族や介護スタッフ、親を施設に預けた家族、近い将来介護する身、あるいは介護される身になるであろう中高年、少子高齢化社会を想像する若者たち…。斯波は、介護現場の厳しさとは無縁の人たちを「安全地帯」にいると言いいますが、そこにいるかいないかでも、違うことでしょう。

 ただ、誰もが受け止めざるを得ないのは、過酷な現実から逃れられない人たちがいるということ。映画は、見終わった観客にずしりと重い手応えを残すことでしょう。
 映画では、小説とは異なる大友の背景が描き込まれ、彼女が斯波に重なって見えてくるのです。いやそれ以上に、自分の母親を多忙な自分の都合に合わせて、老人ホームに押し込めていた大友は、斯波の言葉によって、罪悪感を感じ始めて、追い込まれていくのでした。まさに善人と悪人が逆転する悪人正機説を地で行く作品だったのです。
 接見の場面での前田哲監督の演出も、その狙いと一致する。松山と長澤は、丹念に役を演じています。微細な心理をリアルに表現し、何度も熱演に息をのみました。特にあの斯波の超絶したキャラクターは、作品ごとに役になりきる、松山ケンイチでしか演じられないものだと言えるでしょう。来年の日本アカデミー賞を総ナメにする傑作だと断言します。

流山の小地蔵