「これはガンダムではないのだ!」劇場版 Gのレコンギスタ V 死線を越えて Duchampさんの映画レビュー(感想・評価)
これはガンダムではないのだ!
5まで観て分かったこと。
自分はまだGレコを従来のガンダムシリーズの枠組で捉えていた。
つまり戦記物の群像劇で、MSの戦争をどう描写するのか?という従来のガンダムシリーズと同様の視点である。
監督自身が、これは戦記物ではないくカット出来るシーンは一つもないから5部作で作り直すと言っている。
理屈で理解したつもりでも、感覚として捉えられていなかった。
この作品の肝は、乱暴に括ってしまうと、
ベルリの貴種流離譚かつスペースジャーニー物であり、もっと言ってしまうと富野版2001年宇宙の旅なのかもしれない。
ベルリという主人公を通して、
宇宙で人が暮らすには、どのような技術が必要なのか?(+裏返して現代科学での宇宙開発への諦め)
フォトンバッテリーという超テクノロジーがあると、どのような勢力が力関係を働かせているのか?
ビーナスグローブまで行ってしまったベルリ(人類)はどのように変化するのか?何を選択をするのか?
↑等等が、監督の描きたかった事であり、
Gセルフのバックパックとかジット団のMSとか、どの勢力が戦争で勝ったとか、そんなことは二の次なのだ。
若干こじ付けているのだが、
4のED絵がいつものダンスではなく、地上→ナット→月の裏のコロニーを順に登場させるのは、ビーナスグローブまで行った後のタイミングで、ベルリの旅路をもう一度観客に思い起こさせているのだ。
しかしいつもの大人の事情でガンダムという枕詞をつけてMSを出さないといけないから、この広大なスペースオペラに無理くりMSと戦争をくっ付けているのだ。
だからこそ、TVシリーズでは”書きたい事”と”書かなければならない事”が詰め込まれすぎて、とても2クールでは収まらないほど情報が詰め込まれてしまった。
そして観る者は混乱してしまったのではないのか?
何でこんな事を書いたかというと、
5の最期を観ても、この戦争がどうなったのか全然分からないのだ(まあ富野作品のお約束なんだが)。
アーミーもアメリアも痛み分けで停戦ということなのかもしれないが、そんなことどうでもええやん?という視点からがあるように見えてならない。
やっぱ監督自身は世界に目が向いていて、主要人物とカメオの監督自身が旅に出てしまっている。
ツラツラ色々書いたが、やっぱ自分の脳みそをアップデートしないとGレコをナチュラルに楽しむのは難しいのでは?特にガノタになればなるほど、と思ったわけだ。
よく言われている事だが、この作品が真に評価されるのは、残念ながら今ではないのだろう。
観客も重力の井戸から解放されなければ、、、