「祖国という幻想から脱却できない愚かな精神性」ドンバス 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
祖国という幻想から脱却できない愚かな精神性
19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパ史は、軍事技術の発展と戦争の歴史である。第二次大戦の終結をもって一応の落ち着きを得たものの、強欲なスターリンの政策によって東西の冷戦が生まれ、同一民族のドイツは東西に二分された。スターリンの死後もソビエト連邦の人々は、祖国=同志=共産主義というパラダイムに縛られていた。
それは1989年のベルリンの壁崩壊から1991年のソ連崩壊というエポックを経ても、なお続いているように思える。特にロシア系の住民が住んでいる場所では、祖国=ロシア=同志というパラダイムから抜け出せていない。
1941年のナチスのソ連侵攻は革命後のロシア人にとって大きな事件であり、東部戦線を戦ってナチスに打ち勝った記憶は、ソビエト連邦にとって最も輝かしい歴史である。ロシア人は祖国ロシアに対立する陣営をことごとくナチと呼ぶ。
プーチンによるクリミア侵攻は、平和だった21世紀のヨーロッパにとって衝撃的な出来事だった。クリミア半島はウクライナ人よりもロシア人が圧倒的に多く、住民がウクライナ政府の統治を望まなかったという背景がある。
ドンバス地方も同じように住民がロシア系で、祖国=同志=ロシアというパラダイムに心が支配されている。ウクライナ憲法がウクライナ語を唯一の公用語としているせいか、ロシア人には被害者意識がある。クリミアがロシア人による自治区となったことに力を得たのか、ロシア人は武装してドンバス地方を実効支配した。そのための武器はどこから調達したのか。当然ながらプーチンのバックアップがあったはずである。
ドンバス地方の武装勢力に対してドローンを使った砲撃を仕掛けたのがゼレンスキー大統領だ。プーチンはゼレンスキー政権に対して何度も警告を出した。ゼレンスキーはウクライナ人ではなくユダヤ人でロシア人である。ドンバス地方のロシア人にとって裏切られたという気持ちが加わり、怒りを更に増幅させた。そしてプーチンはウクライナに侵攻した。
本作品はドンバス地方を武力によって実効支配しているロシア人の精神性を、茶化してみせたり、醜く描いたりしている。極めつけは結婚式で流れる祖国ロシアの歌だ。祖国=同志=ロシアというパラダイムを相対化して見せている。
実はゼレンスキーも、何度も祖国という言葉を使っている。もはや祖国というよりも縄張り争いである。暴力団と同じだ。祖国というパラダイムを捨てるか譲歩しない限り、紛争の解決はない。子供でも分かる。ゼレンスキーとプーチンの争いは頭の悪い祖国バカ同士の戦いなのだ。
にもかかわらず、日本の岸田文雄は「極めて困難な状況の中で、祖国や国民を強い決意と勇気で守り抜こうとする姿に感銘を受けた」と述べている。ウクライナ戦争の状況を何も分かっていないバカである。プーチンを盟友として威張っていたアベシンゾウは更に輪をかけたバカだ。日本の総理大臣はバカしかいないのだろうか。
祖国というのは幻想にすぎない。たまたまそこで生まれただけだ。人間は生まれた土地を離れてどこにでも行く自由がある。土地の支配者は、土地から人々が流出してしまうと困るから、祖国という概念を持ち出して、人々を土地に縛り付けようとする。祖国という言葉は土地の為政者によるプロパガンダなのである。
本作品は映画としてはあまり面白い作品ではないが、並べられたエピソードの全体をイメージしてみると、祖国という幻想から脱却できない愚かな精神性を笑い飛ばしているように思えた。