「原作ファンとしては、決して手放しで喜べる出来とは……」ぼくらのよあけ ここすけさんの映画レビュー(感想・評価)
原作ファンとしては、決して手放しで喜べる出来とは……
期待をしすぎたのかもしれません。
あるいは、原作と重ねて見なければよいのかもしれません。映像化の機会に恵まれただけでも喜ぶべきなのかもしれません。映画の尺に収めるためにはどうしても改変を避けえないことも理解はします。それでも、「この作品は絶対にアニメ映画に合う」と長年思い続けてきた原作ファンの一人としては、残念という気持ちが勝ります。というのも特に中盤以降、原作の重要なエッセンスをことごとく取りこぼしていると感じるからです。
・ゆうまとナナコの関係性
この作品の軸は宇宙船以上に、ゆうまとナナコが友達になり、そして別れるまでにあると思います。そこで重要な転機が、ナナコがゆうまに宇宙のことを手伝うとJAXAの写真を見せる一幕です。このシーン自体は映画にもありましたが、説明不足になっていた印象があります。
というのも、原作ではこの写真は一般に公開されているものではなく、処理能力のあるオートボット向けに限り公開されているものだということが明かされているのです。期待していたような宇宙の話ができずナナコに落胆していたゆうまにとって、彼女は彼女にしかできない形で宇宙への好奇心を満たしてくれると知った喜びは、一体どれほどだったでしょうか。このことがあればこそ、宇宙船がナナコを乗っ取っている事実を隠し続ける後ろめたさや別れを厭う気持ちへと繋がっていくと思うのですが、結果として映画ではここが弱くなってしまったように思います。
・大人たちの役目
屋上での転落未遂以降、映画ではゆうまたちは大人たちに隠れて宇宙船を帰すべく活動を続けます。あれだけのことがあった後のことで、さらに親の目を躱すために夜中に外出する描写もあり、これを見過ごす親はいくらなんでもザルではないか……と思った方は居られませんでしょうか。
実は、原作ではこれは直ちにバレています。そのうえで原作では、屋上には立ち入らないなどの約束のもと、むしろ沢渡父母と河合父は積極的に協力をしているのです。これはかつて宇宙船を帰せなかった彼ら自身のけじめでもありますが、危険なことを危険だからと禁じて終わるのではなく、きちんと監督下においてやりたいようにやらせるという姿勢は保護者として真っ当なもので、親たちを子供の視点からも尊敬に値する、魅力的な人物として描くうえで一役買っていました。映画ではこの点がスポイルされてしまった印象があり残念でした。(沢渡父に至っては存在感すら薄いような……)
・割ってはいけないリアリティライン
宇宙船を飛ばすための燃料として、30号棟を水で一杯にするという展開。劇場でこの展開を目の当たりにして、この近未来的な世界で、閉まっているはずの水栓にそれだけ大量の水が流れてバレないということがあるか、流量くらいモニタされているだろう、と一気に醒めてしまったのを覚えています。更には解体を控えているのだから業者が下見にでも来たらやはり露見するだろうなど、この改変(そう、改変なのです)には突っ込み始めればキリがありません。
原作では、宇宙船は飛ぶためのエネルギは保持しており、ただ点火するための機構が損なわれているという設定でした。この点火のためのエネルギ自体はそう大きなものではなくDIYレベルで可能なこと、ただ特殊なパルス信号である必要がありかつて親の世代では果たせなかったこと、今はナナコの能力でそれが可能であることも語られ、物語に一定の説得力をもたらしていたのですが。
・ラストシーンとエピローグ
終わりよければすべて良しと言いますが、残念ながら私にとっては、このラストシーンにみられた二つの改変こそは最も落胆すべきものでした。
ひとつは、飛び立つ宇宙船のデザイン。原作のそれは、徹頭徹尾小さな冒険といったスケール感で進んできた物語に相応しい小さなペットボトルロケットであり、そして何よりも大切なことには、ナナコの意匠があしらわれていました。明らかにこれはナナコなのだと分かる小さなロケットが、あっというまに空の向こうへ飛び去って行く原作の寂寥感。突然現れた思い入れもないデザインの巨大な宇宙船が悠々と飛び去るよりも、余程印象的であったと思います。
もうひとつは、去り際の二月の黎明号の台詞。原作の彼は、少年たちに自分の起動コードと共に破壊コードも託すほどにはドライな存在です。それがクライマックスの回想の中で告げる、「私はきみたちと友達になるために来たんだよ」という言葉。「友達」という言葉を二月の黎明号が自ら選んだこと、このクライマックスでその会話が初めて明かされること。前後するほのかの「地球の中でだってこんなに難しいのに」という台詞と合わせて、ぼくらのよあけという漫画で最も印象に残っている、最も好きなシーンです。翻って映画では、途中に差し込まれたオリジナルシーンでほのかが彼に「友達」という単語を仄めかしていること、また彼の台詞自体も「友達になれただろうか」と思い悩む妙に人間臭いものに変わっていることもあり、印象は全く違ったものとなりました。これははっきりと改悪であろうと感じます。
上二つと比べると些末かもしれませんが、原作のエピローグが削られたこともすっきりしない後味に拍車をかけています。原作では、宇宙飛行士になったゆうまがナナコを迎えに行くべく外宇宙探査機に乗り込む一幕で締められており、実にすっきりとした読後感を味わえるのですが……。
もちろん、見るべきところがなかったとまでは言いません。屋上でのわことほのかの取っ組み合いは声優の熱演も相まって引き込まれるものがありましたし(欲を言えば、落下未遂の後にわこがしんごを気遣い、遅れて「うちの弟殺す気かよ」とガチギレする一幕も欲しかったのですが)、映画のオリジナルシーンで言えば序盤の情景に過ぎないかと思われたペットボトルロケットとラジコン着陸船を終盤で活かした展開にも成程と思わされました。懸念していたキャラデザの変更も思いのほか受け入れることができました。しかし、それらを踏まえてもなお、原作からの取捨選択や改変が納得のいくものだったとは言い難いというのが率直なところです。何よりも、もしも原作を知らない方に「ぼくらのよあけ」はこの程度の作品と思われたとすれば、それはとても悔しくてなりません。