ザ・ホエールのレビュー・感想・評価
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どう捉えれば良いんだろ?
登場人物が少なくてシーンの展開が少ない点が非常に見やすくて良かった。昨今のMCU映画ばかり見ていたので、シークエンスが少なくて本当助かりました。あとストレンジャーシングスのマックスが出てビックリしました!「あれっ!?•••マックスじゃん!」って叫びました。
そんな中で、現実のストーリーと白鯨の物語が並列して進んで行きます。鯨はおそらく主人公の巨漢ニキだろう。それは自分も理解でしました。
無茶苦茶なことやって生きたチャーリーが、家族を裏切って不摂生をしてるのに、みんな捨てきれず寄ってくる。「人間は美しい」と言っていたが、人間臭い矛盾に満ちたこの巨漢ニキの生き様が、人を惹きつけてるのでしょうか?
自分でも抑えられない食欲、家族、世間体などを捨てボーイフレンドと恋に落ちるなど、自分の欲望にまっすぐなことと、それをエッセイに求めるところ、この映画はそれを伝えたかったのかもしれない、とこの文章を書いてて思いました。
でも何でこの映画を作ろうと思ったんだろ?巨漢ニキの演技、マックスの演技は最高でした。
これは映画ではない。とある人生だ。
かなり泣きました。デロデロに泣きました。
私自身も食で心を埋めるタイプである故、あらすじを見たときから他人事とは思えず視聴しましたが、予想外にキリスト教への辛く悲しい怒りのメッセージもあり深く共感。かなり没頭できました。
もしかしたら大衆が映画に求めるようなストーリーではないかもしれません。
人によっては鬱映画とも感じるでしょう。
しかし、さりげない伏線やそこはかとなくラブロマンスを感じるシーンに友愛もあり、シリアスではありますがキラキラと輝くドラマが散りばめられた良作です。
最後、主人公は救われたのだろうか?
救いとはなんでしょう。
愛する恋人に会えること?
娘の口で詩を読んでもらえたこと?
まさか神の元へでも行くのだろうか?
私は、ラストシーンを踏まえて、「あの時は本当に幸せだったなぁ」と過去になっても光り続ける思い出こそが救いだと感じました。
ほんの短い間だとしても、心から幸福を感じられる思い出があるなら、その人生は良きものだ。さらに愛する人にまで出会えたなら、最高の人生だ。
いいじゃないか。そんなもんで。
終末で人は救われない
すごく面白かった。
ある男の最期の五日間の物語。
登場人物は少ないが、1人1人が深く掘り下げられていて、人生について考えさせられる。
主人公を中心に、主人公と関係する人々が一人ずつ現れ、死に際の主人公と対話していく。
でもこの映画の隠れた主人公は、死んだ主人公のパートナーなのだと思う。この映画のほとんどの人物はパートナーとも深く関係している。
映画に登場しない人物を中心に物語が展開している様は、「ゴドーを待ちながら」を連想させる。たぶんあの話のゴドーはキリストの暗喩だと思うのだけど、本映画も「信仰」をテーマにしているのではないか。
そういえば、どこで聞いたか忘れたけど、「人生には誰にでも2つの奇跡が起こる。それは、生まれることと死ぬことだ」という話を思い出した。そこに存在しなかった生命が新しく出現することは確かに奇跡に違いないけど、同じくらい不思議なことは、そこに確かに存在していたものが消えてしまうこと。死とは神秘的なことでもあるのだと思う。
最後に主人公が娘に向かって歩くシーンは、ぼくは主人公が死に際に見た夢ではないかと思う。死の神秘と救いを表現していると思う。
この映画の人物はみんな、単なる善人でもなく、単なる悪人でもなく、どうしようもない人間的弱さをもちながら、互いを傷つけあい、同じ人を強く愛したり憎んだりする矛盾した感情を持っている。
主人公自身も娘を含めみんなにひどいことをしていてその罪悪感にさいなまれているが、悪人というわけではない。人間関係だけでなく、様々なものが実は善悪を簡単に決めることができないものだということが示される。
たとえばニューライフ(原理主義的なキリスト教)により主人公のパートナーは信仰に悩み自殺してしまったけど、一方でこの自殺は主人公への愛を貫いた証拠でもあった。
主人公の喘息呼吸は主人公の死が近いことを表すものだけど、一方で主人公が確かに今生きていることを示すものでもあった。
主人公の娘が宣教師の罪を暴露したことはおそらく娘の悪意からの行動だったけど、その結果かえって宣教師は救われることになった。
主人公の異常な過食行動と肥満体は、主人公が苦しみと罪を背負い続けたことを肉体的に表現したものだと思うのだけど、この映画全体が、「人間の罪」を大きく肯定しているんじゃないかと思う。
ニューライフの教義として、「終末」が訪れたあとでは汚れたものがすべて浄化される、というような話をしていたけど、この映画は、「そういうことじゃないんだよ」と言っている気がしてならない。
人間は弱さのために罪を犯し、そして苦しむけど、それらの中にこそ人間の素晴らしさがあるように思う。
<追記>
ラストシーンで、主人公の娘が、自分に渡されたレポートの文章が、自分が昔書いたものだということに気づく。
娘は「自分は父に愛されておらず、見捨てられた」とずっと考えていたが、実はずっと父に愛されていた、ということに気づく感動的なシーン。
このシーンに何か既視感があると感じていたが、その正体に気づいた
「砂の上の足跡」というクリスチャンの間で有名な詩だ。調べてみると、作者不詳らしい。
この詩の内容をざっと要約すると以下のようなものだ。
神に対して、「私が一番苦しかった時、あなたは私を見捨てたのはなぜなのか?」となじる男に対して、神は、「私はあなたを見捨てたことは一度もない。あなたが苦しかった時に足跡が一列しかなかったのは、私があなたを背負っていたからだ」と答える。
してみると、この映画でみじめで醜くて弱く罪深いおろかな人間の代表のような主人公は、「無垢に愛する」というただ一点において神の立ち位置にいるということになる。
主人公の娘は客観的には邪悪で、娘を盲目的に肯定する主人公は単なる愚か者に見えるが、一方で、理性的判断をはさまずただ信じるということによってしか、娘の心を動かすことはできなかっただろう。
もう一つラストシーンで気づいた事がある。主人公の最期のとき、ふわっと身体が浮き上がり、足が地面を離れたように見えるシーン。1つの解釈としては、主人公が死により肉体の重さから解放された、というようによめる。でも、キリスト教の教義に「空中携挙」というものがあったなあ、とあとで気づいた。調べてみると、終末論を掲げるプロテスタントの教義らしいので、たぶん当たりだろう。神に不死の身体を与えられ、空中に引き上げられた、というような宗教的なシーンではないか。
看護師のリズが主人公と最後に交わした言葉も意味深だ。「下で待ってる」とリズは言った。これが最期だと分かっているはずなのに。
主人公のパートナーは宗教によって殺されたということを考えると、この映画が宗教的なモチーフで構成されているのが奇妙に感じる。でも、この映画のテーマが「本当の信仰とは何か?」ということなのだとしたら納得できる。
ニューライフの宣教師は、「人を救いたい」という強い気持ちをもっていたけど、実はそれは「人を救うことで自分が救われたい」という動機だったことがあばかれる。
彼は決して悪人ではないけれど、彼にとっての信仰とは、自分の弱さから逃れるための依存の対象のようなものなのだと思う。主人公にとっての「過食」と変わらない。
欲に勝てない、優しく哀れな男の物語
元は舞台劇との事なので、主人公チャーリーの自宅でのシーンが大半です。8年も会ってなかった娘が亡くなる直前の5日間に頻繁に訪ねてきたり、パートナーと同じ宗教の勧誘が偶然やって来たり、まぁまぁご都合主義的なところはありますが、割り切ればいい感じにひっかからずに観られました。
退屈するかなと思ってましたが「立ち上がる」「笑う」「食事する」等、普通の人ならなんて事ない動作も彼にとっては命に関わるので、いちいち緊張感が走ってハラハラしました。
A24ですが、グロい描写はほぼなし、代わりに食事シーンは鬼気迫るものがあり、理性ではどうにもならない過食症の恐ろしさを感じました。
不安や悲しい気持ちになると、命が危なくても過食を止められない。リズだって食べ物を渡したくないし、彼もよりによって看護師の彼女を加担させたくない筈なのに、結果的には自殺ほう助させてしまう。
こうなる前に心のケアができていたら、身体も健康でいられたのに。
過食症、アル中、貧困、格差、宗教問題等々、特にアメリカが抱えているシビアな問題が一気に描かれているので、暗い印象ではありますが、最終的には観て良かったと思える不思議な映画でした。★3.7
詰め込みすぎの鯨
おそらく現代アメリカ人にとって「救い」とはなにか、が主たるテーマなんだろう。しかし設定にあれこれぶち込みすぎてぼやけてしまった。
肥満、宗教2世、同性愛、家族の離別、金、生きる意味 などなど、アメリカ(だけではないが)が抱える問題がてんこもりなのである。てんこもりすぎてどれもこれも中途半端になり、結局どの登場人物にも感情移入できないまま予定調和で終わるという、最悪にちかいシナリオだった。
特に宗教2世の配分がおかしい。偶然現れた宣教師も親身な看護師も死んだ恋人もみんな同じ宗教の2世というのはいかがなものか。不自然だ。
さらにこの映画最大の「ウリ」である肥満も、その必然性がわからない。醜い外見の人間への救いを描きたかったのか? たしかに特殊メイクはすごかったものの、ブレンダン・フレイザーはハンサムなので醜いとは言い切れないし、ピザの配達人に姿を見られたショックもあまり伝わってこない。これは演技力の問題なのだろうか。(なのにアカデミー賞主演男優賞)
加えて、繰り返される「白鯨」の感想文のどこがすばらしいのかさっぱりわからない。 アメリカ人ならピンとくるのか? 鯨のイメージ映像を挟むとかすれば関連もわかりやすかっただろう。
舞台向けの設定なのかもしれない。
照明などで肥満はシルエットで表現でき、物語を進めていく会話に集中できる。窓の外の雨が最後に晴れるのも、ありふれてはいるが舞台なら一定の効果はあるだろう。
映画ならではの迫力やイメージの拡張もなく、つまらない作品。
あのハムナプトラで考古学者だった男が
20年前の映画「ハムナプトラ」でイケメンの考古学者を演じた後、いろいろあって、表舞台から遠ざかっていたブレンダン・フレイザーが、余命いくばくもない巨漢を演じる映画。
レビューでは、「椅子から立てなかった」ほど感動した人もいたが、自分はそこまでならなかった。
家庭をぶっ壊したのも、肥満体になってしまったのも、自分が欲望の赴くままに行動したからじゃないのかと。娘が可愛かったら、ちょっとはブレーキを踏むだろうと。まあ、あのきついかみさんじゃ、逃げ出したくもなるかなあと。
自分は日本人だからかもしれないが、赦す(その結果として救いがもたらされる)のはあくまでも人であって、神じゃないだろうと。神が赦しても、人(ここでは妻や娘)から赦してもらえなかったら、それは結局救いにはならないだろうと思った。
この映画で描かれなかったこと、描かれたこと
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい)
この映画は、(個人的に)描かれていないことと描かれていたことがある映画のように思われました。
私はこの映画の鑑賞後に、素晴らしく深い映画であると感じましたが、一方で大きな感銘や大感動の傑作とまでは思えないという感情もありました。
その理由は、この映画『ザ・ホエール』は、主人公のチャーリー(ブレンダン・フレイザーさん)が(私が字幕など見落としていない限り)なぜ娘や妻を捨て、ボーイフレンドのアランの方に行ったのか、チャーリー自身の理由動機が明確に描かれていないところにあると思われました。
加えて、チャーリーの妻であるメアリー(サマンサ・モートンさん)も、なぜゲイであるチャーリーと結婚したのか、その明確な理由が(私が字幕など見落としていない限り)描かれていないように思われました。
この映画の主人公チャーリーは、その後ボーイフレンドのアランが亡くなってから、引きこもり過食によって体重を増加させ、自らの足では歩行器なしに立つことさえ出来ない「醜い」姿になってしまいます。
私はこの怠惰な主人公チャーリーに心からの共感は正直出来ないままでした。
その理由は、(チャーリーの外見の「醜さ」というより)娘や妻を捨てボーイフレンドのところに行った、チャーリーの本当の意味での行動理由が描かれてないところにある、と思われました。
それが、この映画の鑑賞後に大傑作や大感動との思いが湧き上がって来ない理由にも感じました。
ではこの映画『ザ・ホエール』はダメな作品だったのでしょうか?
私はしかし大傑作や大感動の感情がなかったにもかかわらず、この映画はしかし人間の深淵をえぐってもいる別の意味の感銘を受ける映画になっていると一方では思われました。
その理由は、(主人公チャーリーや妻のメアリーとは違い)他の4人の主要登場人物の全員が、なぜそんな行動をしているのか、その理由が明確に描かれていたところにあると思われました。
チャーリーの娘であるエリー(セイディー・シンクさん)は、学校を停学になりSNSに犬の死体を載せたり大麻を吸ったりしています。
その理由は、娘エリー本人も言っているように、父チャーリーが自分と母を捨て、ボーイフレンドのアランの方に行ったのが根本理由だと暗に明かされています。
過食で身動きが難しくなっている主人公チャーリーの身の回りの世話を、訪問介護士のリズ(ホン・チャウさん)が時折訪ねて行っています。
リズがチャーリーの身の回りの世話をしているのも、彼女の兄がチャーリーの亡くなったボーイフレンドのアランだったことが理由として明かされます。
チャーリーのボーイフレンドだったリズの兄のアランは、新興宗教のニューライフ教会の父に決められた結婚から逃れ、チャーリーとパートナーになったことがリズから話されます。
しかしアランは、ニューラーフ教会の家族との精神的な断絶から命を落とすことになることが明かされます。
主人公チャーリーの家を訪ねて来たトーマス(タイ・シンプキンスさん)はニューライフ教会の宣教師で、チャーリーを救いたいとチャーリーの家を訪れています。
後に明かされるように、チャーリーの亡くなった元ボーイフレンドのアランがニューライフ教会の教えを家族から受けていて、チャーリー自身もニューライフ教会の教えを深く知っていたからこそ、トーマスを度々家に入れていたことが暗に明かされます。
また、トーマス自身は宣教活動でチャーリーの家に来たというのは実は嘘で、宣教活動に疑問を持ったトーマスが、教会の金を盗んで逃げて来たということが後に明かされます。
チャーリーや妻のメアリーと違って、娘のエリー、訪問介護士のリズ、ボーイフレンドのアラン、ニューライフ教会宣教師のトーマスの、行動の理由は明確に示されているように感じました。
そしてそこで描かれているのは、ゲイと新興宗教にまつわる世間と家族に引き裂かれた人々の濃縮された関係性だと思われます。
そしてその出会いは、一方で偶然の要素もあるのだと思われます。
さらにこの映画ではもう一つ重要なことが描かれていると思われます。
それはチャーリーが最後に(オンラインでの大学授業での生徒や、娘エリー対して)伝えていた「正直に」生きるという言葉です。
娘のエリーは、ニューライフ教会の宣教師のトーマスの、教会の金を盗んでここに来たとの告白を録音し、トーマスの家族にその録音を送り付けます。
おそらく娘のエリーは、トーマスの罪を家族に罰せさせようとしてトーマスの告白録音を送り付けたのだと思われます。
しかしトーマスの家族は、教会の金を盗んだことを大した話ではないと許し、トーマスに家に帰っておいでと伝えます。
このことは以下のことを表現しているように感じました。
チャーリーはボーイフレンドのアランを選択し、娘のエリーや妻のメアリーを捨てます。
しかしそのことによってチャーリーは娘のエリーと疎遠になってしまいその後に苦しみます。
もちろん冷たい言い方をすればこれはチャーリーの自業自得です。
しかし一方でここでは、私たちが何かを選択した時に、選択しなかった事柄についてからも影響を受けてしまうという普遍的な感情も描いているように思われました。
そしてその影響は、自分が何かを選択した時には思いもしなかった感情や事柄で成されることが多いと思われるのです。
娘エリーは自分の感情から「正直に」(おそらく)トーマスをトーマスの家族から罰してもらおうと彼の告白録音を送り付けたのだと思われます。
しかし結果は真逆の、トーマスは彼の家族から許されるという帰着を迎えます。
このことは、私達は例え一見自身の欲望に「正直な」選択をしたとしても、その選択をしたことにより(それ以外を選択しなかったことにより)別の思いもかけない影響を受けることになるのだということを伝えているように感じました。
だから例え犬の死体の写真をSNSに載せたりといった一見世間に反するように「正直に」生きたとしても、(逆に「正直に」生きたからこそ)さまざまな思いもかけない別の(傷を含めた)感情に出会うことになる、だから「正直に」生きて大丈夫なんだと、この映画は伝えているように思われました。
私は、この映画『ザ・ホエール』は、主人公チャーリー(あるいは妻メアリー)の行動理由が明確に描かれていないから大感動の大傑作になり得ていないと感じながら、一方で、偶然も相まって引き寄せられるように出来てしまう凝縮された人間関係と、人生での選択における思いもかけない選択しなかった方からの(内面外面含めた)影響のされ方について、人間を深く描いた作品になっていると思われました。
そしてこの映画の「正直に」生きるという到達は、その厳しさも含めた運命の受け入れにも通じる私達への励ましや勇気づけにも感じました。
思えば、人は周りのことは客観理解出来ても、自分のこと(あるいは妻のようなまだ存命の愛憎交わる最も近い人のこと)は客観視出来ないことも多いだろうと思われます。
そんな自分の(あるいは存命の近しい人の)行動理由は明確になんて分からないということも、「正直に」描かれていた映画なのかもしれないなとも思われたりもしました。
弱い人間たちの保身の生贄
元が舞台劇とのことで、舞台劇らしいつくりでした。
チャーリーの娘に対する親バカっぷりが切ない。
8歳から会っていなければ仕方ないかもだが、元妻に娘の実態を知らされても直視しない。
チャーリーは現実から逃避する。辛い現実を突きつけられると過食に逃げて身を守る。酷い言い方かもしれないけれど、恋人の死の現実から逃避して過食に走りあの巨体になったのだ。
宗教の嫌な部分の一つは、教義に外れると罪だの罰だのと信者を脅すところだ。「教え」は洗脳に近いと思う。
キリスト教は同性愛者にとっては救いどころか害だ。
本人たちに酷い罪悪感を押し付けるだけでなく同じ信仰を持つ人々を、彼らに対して白い目を向け迫害するよう仕向ける。チャーリーの恋人も信心深かったが故に罪悪感に苦しみ、さらに家族やコミュニティーから孤立した孤独感から、ああいうことになってしまったんだろう。チャーリーがそうならなかったのは、過食に逃げこんだから。(結果的にそれが緩慢な自死になってしまったが。)「救い」ってなんだろう。
チャーリーにキリスト教の、特にニューライフの「救い」は不要というのにしつこい宣教師トーマスは、真面目な青年だからこそ信念の押し付けになるんだろうが、チャーリーのためといいながら自分のためにしていることで、思いやりが欠如しているのは育てられ方のせいだろうと思う。
どんなに問題のある家族でも、そこから一人反旗を翻して離脱するのは大変なことだ。
「家族」全員、さらには親戚一同、コミュニティ全体から敵視されたら、肚をくくった心の強い人でも孤独感や寂寞感は半端ないだろうし、そこまでの決心のない人ならなおさら、人によっては罪悪感にも苦しむかもしれない。だから意を決して離れたものの、戻ってしまうことも多かろうと思う。トーマスが家族やコミュニティーに許されたとわかったときの晴れ晴れとした表情がそれを物語っている。毒家族から逃げられない真理はそういうものだと思う。
甲斐甲斐しくチャーリーの世話をするリズはあからさまなイネーブラーで、彼女も家族から孤立、唯一の仲間の兄に逝かれてチャーリーを自分に縛り付けて孤独から身を守っていたのだろう。
登場人物の、チャーリーの娘も含むほぼ全員(チャーリーの元妻は除けるかも)が弱い人間で、精神的に自立できない彼らがそれぞれ自分を守り正当化する行動をする。多分自覚はないのだろうがそのためにチャーリーを犠牲にしている。チャーリーはそれを一身に受けた吹き溜まりだった。おそらく彼はそれを知っていた。でも、孤独な彼には利用されつつも拒めない弱さがある。精神的な面だけでなく、身動きできない身体を持った物理的な不自由さからも。
自分の死期が見えてこれ以上他人に頼らなくていいとなったときに、ようやく周囲の思惑を振り切って自分の意思のみに従うことができたんだと思う。
生贄が去った後、遺された登場人物たちはどう生きて行くのだろうか。
どう生きたいか
残り時間を何に使うのか?
自身の残り時間を知った時、誰しも何かをしたいと考えるんじゃないかと思わせてくれる。それが親ならば尚のこと。
彼が起こす行動は長い時間を掛けることが出来ない状況の中、劇薬となるとしりつつ渾身の力を使い注力するその姿がとても惹きつけられる。
その相対として他人の目の怖さがとても残酷で心が引き裂かれる思いを目の当たりにする。
誰しも前向きに進めない時がある様に、彼もまたその姿になりたくてなったわけではないのだから。人の生きた道程を知らず見た目で疎外することの怖さも同時に思い知らされる。
依存症の怖いところは心が奪われてしまうことです。
他の事への興味が薄れてしまう、最終的には生きることへの意欲も。何故なら嬉しいとき悲しいとき淋しいとき退屈なとき、いついかなる時も食べ物のことが頭から離れない。食べないことにはどうにもこうにも不安でやってられない。きっと最初はパートナーの死という大義名分があったのでしょうが今はもう何故食べているのか自分でもわけがわからなくなっています。そもそも依存症を理性で抑えることはできません。
人生でたった一つ正しいことというのなら、病院で治療して生きなおす姿を娘に見せることだと思います。大金を残すことではなくお金の稼ぎ方を教えること、もしくはお金なんか無くても幸せに暮らせることを示すことだと思います。自分がもう生きたくない、楽になりたいから緩慢な自死を選んだのであって娘にお金を残すためというのは後付けの理由です。
厳しい言い方をするなら卑怯ですし、娘も死ぬ理由にされていい迷惑です。母親も情緒不安定でアル中ですし、娘も薬物中毒にならないか心配です。そう考えるとやはり依存症から脱却する姿をみせるべきでしょう。あとリズ、看護師なんだから食い物渡しちゃだめでしょ(笑)
リアルな体型かつ感動の物語
とにかくリアルな体型で驚き特殊メイクされている俳優さんが大変!本当に太ってしまうと生活になってしまうんだなぁとリアルすぎです。
勿論、子供との関係に涙です。
ただ最後は、、、ハッキリしたい方はなんだかなぁと思いますが、私はこういう結末もアリだなと思いました。
私の体調のせいなのか、
全く感動出来ないし、観ているのがきつかったです。チャーリーが過食で醜く太っているからではありません。彼がホエールなら私だってホエー豚みたいなもんです。
人物が入れ替わり立ち代わり登場してはセリフを言って退場するのはいかにも舞台劇ですが、有無を言わさずああだこうだ我儘を言うチャーリーや、突然現れてマシンガンのようにまくし立てるエリーには違和感があったし、頭が疲れて途中ちょっと寝てしまいました。
看護師のリズは、彼氏の妹とはいえ、生きようとする意志が無い男によくあそこまで寄り添えるなと現実味を感じません。医療従事者は患者を生かすのが使命ですが、チャーリーは彼女にゆるやかな自殺の立ち合いをさせようとしていて、まともな人なら断ると思うからです。リズは見捨てませんでしたが、チャーリーは彼女の優しさに甘え過ぎだし、治療を必要としないのだから、別の介護士とハウスキーパーを雇うべきでした。元妻のキャラクターだけは理解できます。
「白鯨」を読んでいないので、本作が描く『鯨』が悪なのか、それとも誇り高い生き物なのか分からないのですが、テーマが魂の解放のようなので、周りに左右されずに強い意志で生き抜く、ということかもしれません。ただ、チャーリーの場合、自分を抑圧して生きてきたわけではなく、身勝手な行動の結果なので、最後にありのままの自分を認める事が出来たからって、それは良かったねと思うだけです。ちゃんと観なかったから、私の理解が足りないんでしょう。
摂食障害・同性愛の映画だと思って見に行ったが、どちらかというと(カ...
摂食障害・同性愛の映画だと思って見に行ったが、どちらかというと(カルト)宗教映画であった。(それが駄目だということではもちろんない。)人は人を救済できるのか?ということ。
『炸裂』
色々なテーマを編み込んだ、演劇由来のワンシチュエーション舞台を、スタンダード画角での上映表現である
しかし、劇判の美しさと恐ろしさ、悲しみさを見事に表現し同義させた、最近にはない奥深い演出に仕上げている
こんな様々な重層的脚本と自然な演技の数々なのに、私的な事で、朝からアレルギー性結膜炎のせいで左目の痛みで丸っきり役に立たず、しっかり観賞が出来ない状況でのレビューでは失礼なので、これ以上は止めておく
「正直」に書いてみたw
〝私は何も忘れない〟
母が留守をした日にやってきた、父が恋した男。
彼を選び、自分を捨てた父。
〝私は何も忘れない〟
父の異変も、私の傷みも、苦しみも、、8歳だった過去から現在、そしておそらく未来にわたり…
私はなにひとつ忘れない。
父であるあなたの身勝手な行動が娘の私に及ぼした全てのことを。
なにひとつ忘れないから、なにひとつとしてあなたへの恨みは消えることはないのだと。
エリーのその言葉には、この上なく痛烈な意味が響き渡っていたのを父チャーリーがわからないわけはなかった。
しかし、それだけ憎しむ父からの連絡を受け、エリーが放っておかなかったのはなぜか。
余命がわずかと知り、思春期ならではの反抗の力を味方につけ最後に一言ぶちまけたかっただけ…ではすまないだろう。
実母メアリーとの母子関係も、みてすぐわかるほどだ。
満たされてない心の隙間には冷たい風が吹き荒れ、安息とは無縁の時間だけが流れているエリー。
そこにはもちろん心の置き場などなく、本能的に感じる愛を探し彷徨い続けている。
父からの連絡は、それを僅かでも感じるための最後で最大の自分自身のチャンスだと悟ったのだろう。
しかし、再会を果たした父の姿は、エリーにとってもショッキングだった。
恋人の死をきっかけにチャーリーは、孤立と自暴自棄に襲われ、ストレスの吹き溜まりのような心が死を呼ぶほどの身体に変えていた。
親身になって世話にくるリズや、偶然一命をとりとめてくれ関わるようになった宣教活動の青年、いつもデリバリーしながらチャーリーの様子を気遣う担当者、最後を感じそっと歩みよってくれた元妻、そしてエリーの存在も、もはや、ゆっくりと自殺しているのと同然の彼を止められない悪化状態だった。
エリーはきっと、妻と娘を捨ててまで離れて行った父が、選んだ道を充実させれずに暮らす現実が悔しかったのではないだろうか。
それはさらに彼女を深くて遠い場所に捨てたのと変わらぬ意味を持つからだ。
ママとパパがうまくいかなかったこと、父が彼を好きになったことの仕方なさは、大人になる時間をかけて理解していけるかもしれなかったのに。
今、ここにいる父は、世間からドアを一枚隔てた暗く汚れた閉鎖的な部屋にある世界で、吐いた汚物にまみれ、日常生活すらままならず、微かな呼吸に喘ぎ、苦しみと悲しみを纏い、精神や健康も無視し堕落した空気と一体化している。
正反対に、遺されている恋人が生きていたころの整然と美しい寝室と眩しく幸せな写真。
父が、自分の人生を諦めた時間の流れが目にみえてわかり、その耐え難さは、とげだらけの言葉と悪態になってエリーから迸る。
ある日は激しくドアを閉め飛び出し、ある日は辛辣な言葉で責めたてる。
またある日は、窓辺にくる鳥にやる餌の皿に気がつきバラバラに砕く。
そこまでしてしまうのは、父の内面にまだある、他を思うやさしさをみつけて辛くなってしまったからだと思う。
割られた皿をみて、自分への悔しさとやりきれなさをエリーが爆発させていることをチャーリーもまた、気づいているのだ。
そして、そんな嫌な時間を毎回過ごすのに、エリーはまた自分に会いにくることにも…。
チャーリーは父娘の距離、恨まれて当然だった空白の年月を、余命わずかな日々でとりもどすために何をしようとしたか?
学生たちに、リモートで文章の書き方の手ほどきを仕事にしている立場のチャーリーが、あと数日の命と知り実行せずにはならなかったもの。
それは生徒よりも先に、人の親として示すべき最初で最後の教え。
弱みと恥を捨て、醜態、深き罪を認め、嫌悪を浴び、それでも彼に恋した自分、病院にも行かずにエリーのためにとっておこうとしたお金のこと。
矛盾だらけの人生の最後に、彼にとって、執着すべきはその本心ひとつ。
エリーに、自分に正直になることをみせることだった。
そして、それを自分に教えてくれたのは、ほかならぬ我が娘がかつて書いた文章であったことへの感謝。
いまだにのしかかる彼女の迷いを築いてしまった父としての贖罪、そしてまだまだ先に続く人生の難題に立ち向かうだろう我が血をわけた一人娘に、渾身の提示をし、彼の人生は完結する。
地響きが立つほどの巨体を満身の力でたち上げ、娘の元に一歩ずつ前に前にと向かう姿は、底のみえない深く黒く海中から、猛しぶきを跳ねあげながら浮かび上がった命がけの大鯨の最後の姿だった。
あの時、涙で滲む朗読を続けながら最後の父の気持ちに包まれた〝私は何も忘れない〟エリー。
やさしくまっすぐな父のまなざしをみた彼女は今、どう生きているだろうか。
修正済み
Fat Man
謎にMX4Dの劇場でやってたので、何かしら動くのか?と思いましたが、スケジュールの関係でそこにぶち込まれたみたいです。ダンジョンドラゴンとかあったのに、なぜこの作品をMX4D劇場で公開してしまったのか。でも座席がとても良かったです。
ただ内容は、家族よりも愛する人間が出来たから家を出て、自己管理ができずに太ってしまい、その上死にかけているおデブさんのワガママ映画でした。
登場人物が太ったオンライン教師、その娘と嫁、若手宣教師に看護師と限られた人達との一軒家での会話劇がメインになってきますが、基本的に食ってばっかりテレビ見てばっかり、時々宣教師が怪しいもの布教しにきて、看護師が追い払う、この流れ3回くらいやったのですが、そこまで何かが進んだようにも思えなくて怠かったです。
娘は反抗期真っ盛り(まぁ自分を捨てた父親に対してそうなるのは当然ちゃ当然ですが)、停学も食らってますし、よく家まで来たなと思いましたが、チャーリーがお金を渡すとか言い出して正気か?と疑ってしまいました。自身の身勝手で捨てた家族を金で取り戻そうとする、もうこの時点である程度見切ってしまいました。
宣教師も、本当に勧誘してるのかと思ったらそんな事は無く、お金を盗んでニセの宣教師として活動してたら、娘に写真を撮られて宣教師の家族に報告されたけど、なんか許してもらえたとかいうふんわりしたものだったのも疑問符がつきました。
ボーイフレンドが殺されたとか何とか言ってますが、多分自死ですし、その理由もこれまたふわっとしてるのでんーって感じです。
最後は何かを全うしたのか天へ登って行きましたが、そこまでの過程でイライラしてしまったのもあって、何これ?感が否めませんでした。
アカデミー賞でも受賞していた通り、ブレンダン・フレイザーの演技は素晴らしく、死ぬ直前の葛藤や自己満な様子が見ていて痛々しいリアルさが凄かったです。超肥満体型の造形もよく作ったなぁと思いました。ちょいちょい線の細さが出ていましたが、あれをずっと装着して演技となると大変でしょうし、制作側と演者が見事に噛み合ったなと思いました。
真正面からLGBTを描く作品はテーマ性がしっかりしていて面白いと思えるのですが、映画を観始めてからLGBTがぶち込まれると途端に萎えてしまいます。あらすじには書いてあったのですが、読んでなかったのでそのテーマが急に現れたのでマズイかも…と思ってしまいました。というか今年のアカデミーノミネート作品、LGBTが殆どの作品に入ってるような…。そんなに重要視するものなんでしょうか…。
鑑賞日 4/12
鑑賞時間 12:25〜14:35
座席 H-3
人は、
人はみな、
いつも誰かを気にしている。
人は素晴らしいじゃないか。
に、
心救われました。
最後でも、
最初に何度も何度も口語っていたエッセイが実は娘のものだと分かった瞬間、余りの衝撃に過呼吸を起こしかけました。
いやあ、泣けに泣けましたねぇ。
ブレンダン・フレイザーはすごかったが
ブレンダン・フレイザーがアカデミーの主演男優賞を受賞した感動作というイメージで臨んだ本作。たしかにブレンダン・フレイザーの演技はすごかった。ハムナプトラのあの人が!という衝撃はなかなかのもの。あれがどんな特殊メイクだったのかが気になる。
なぜあれほど巨大な体になってしまったのか、その理由が徐々に明らかになっていくのだが、今ひとつ気持ちが乗り切れない。どれだけ言い訳しようとも家族を捨て、新しいパートナーに走ったことには変わりがないという思いが拭えなかったからだ。いや、それでも父親として娘のために何かしたかったという願いはわかるし、その気持ちも叶えてあげたいとは思う。だからこそ娘の態度に複雑な思いを抱くという流れ。なかなかうまい演出だ。たがこれも納得できる最後が待っていたのでよかった。
通院と治療をあれだけ拒む理由もハッキリはしない。娘のためにお金を残したいといえ理由だけではない気がしてしまう。あそこまで大きくなるってことは相当に心を病んだってことだから、緩やかな自殺願望として自分の中では納得させた。
それにしてもまた同性愛が絡むのかと思ってしまった。実際同性愛を絡めすぎなんじゃないか。若干食傷気味なのが正直なところ。これが自分の中の偏見でないことを願う。
よかった。
帰り道にじわじわと染み渡ってきた。
そんなしっとりとした映画で、でも
心を揺るがす力を持っている。
たった数名の人物だけで、
しかもあの家の中だけで、
あれだけ飽きさせない演出がすごいし。
中盤で、まさかあの人がっていう
そういう展開もうまかった。
やっぱり娘との関係性に回帰していくのは、
そうなんだよね、と思いつつも、
彼自身のトラウマが娘が人を救ったことによって
払拭されたのかは気になった。
まあ、されたのか、立ったし。
あの娘とのくだりは、NTLの「スカイライト」を
思い出したりしましたな。
俳優さんもホン・チャウが素晴らしかった。
(ザ・メニューのあの人って気づかなかった!)
主人公との関係性も絶妙でしたな。。
あるよね、ああいうケアしてたのに裏切られた、みたいな。
それでもエネルギー持って接していたのがよかったし、
序盤の彼との関係性が本当に可愛かった。
セイディー・シンクも魅力的だった。
本当に最後には信用できるような人物をうまく
演じておりましたな。
てかストレンジャー・シングスのあの子だったんかい
大きくなって…
やっぱりケンタッキーが食べたくなって、
チキンを買って帰りましたよ…。
それでも何となく自分を肯定してあげたくなる、
自分を大切にしてあげたくなる映画でした。
「自分の暗い部分を先送りにしている」
こんな、まさにっていう言葉さ、本当に胸打たれたよ。
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