ザ・ホエールのレビュー・感想・評価
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白鯨のいた部屋
45kgの特殊スーツを着て,体重272kgの男性を演じたブレイダン・フレイザーの姿が頭から離れない。妻と娘を捨て,同性のパートナーを選んだチャーリー(ブレイダン・フレイザー)は,彼を失ったことで塞ぎこみ,歩くこともできないほど過食症になってしまう。高カロリーの食物が散らかる部屋は脂っぽく,画面越しに見ていても胃もたれしそうだ。自重を支えられず歩けない彼は部屋から一歩も外に出ないため,カメラはほとんど「外」を映さない。サム・D・ハンターの舞台劇が原作であるゆえんである。亡くなってしまったボーイフレンドの妹であり看護師でもあるリズ(ホン・チャウ)が,頻繁に部屋を訪れ,チャーリーの看護を行っている。やがて,娘であるエリー(セイディー・シンク)がチャーリーの部屋を訪れるようになり,大学非常勤講師という顔を持つ彼が,彼女の「エッセイ」を指導するようになるという筋書きだ。タイトルが示唆しているようにハーマン・メルヴィルの『白鯨』(1851)がレファレンスになっていて,作品内には登場人物や文章表現が数多く引用される。確認しておくと,『白鯨』はモビー・ディックという白いマッコウクジラに足を喰われたエイハブ船長の復讐の物語である。エイハブ船長の「義足」は,本作においてチャーリーの体重を支える介護用具,車椅子として登場する。ではチャーリーがエイハブ船長かというとそうも言い切れない。彼はチャーリーはエイハブ船長であるのと同時に「クジラ」としても描かれているからだ(それは光に満ち溢れるラストシーンを見てもらえればわかる)。彼は足を失った「エイハブ」であるのと同時に,(家族から)復讐される宿命を背負った「モビー・ディック」なのである。その両義性と葛藤が彼の人間らしさに命を吹き込み,物語に奥行きを与えている。キリスト教的世界観に限らず,人は誰もが罪を背負い,救済を求める。そして人生において「正しいこと」をしたいと願う。映画館とはいえ,スタンダードサイズの画面は狭い。その中に閉じ込められた観客は呼吸すら苦しく感じるだろう。しかし,その窮屈な部屋の中で人生の最後に「正しいこと」をしようとした男が救われたと信じたい。
赦しを乞う男
ブレンダン・フレイザーの演技は、怪演とか名演技・・・
という表現の先。
別次元の凄みがありました。
アカデミー賞主演男優賞にこれほど納得したことはありません。
自室から離れることも、階下の一階へ下りることも、
自由に歩くこともままならない鯨のように肥満した男。
ぶよぶよ肥満した見た目とは真逆の頭脳明晰にして知的な男チャーリー。
そもそも彼が肥大化した原因は、同性の恋人の死にある。
その男性アランの死因が宗教にあった。
チャーリーの友達で看護師でアランの妹でもあるリズ。
この辺り宗教に無知な私には理解できないのですが、
その「ニューライト」という宗派は、この世の終末論と
その結果にキリストが再臨する・・・
と説く新興のカルト的キリスト教の宗派。
同性のチャーリーを愛したアランの心はそのカルトに癌ように
蝕まれて遂には身体中に癌が回って死んでしまった・・・とリズは言う。
そしてチャーリーはアランの喪失を埋めるために過食に走って、
今は殆ど身動きが取れないのだ。
私はチャーリーの死生観にある意味で共感した。
彼は肥満による鬱血性心不全で余命は4〜5日と思われるのだが、
頑なに治療を拒否している。
救急車を呼んで治療・手術などしたら何万ドルもかかる。
チャーリーは15万ドル位を元妻に預けている。
その金は娘のエリーに残したいのだ。
そのお金を自分の死期を延ばすために消費したくないのだ。
この考えには私も賛成する。
どうせ死ぬなら治療費はドブに捨てるようなもの。
家族に残すかはともかく、もっと有意義に使ってほしい。
この映画は元々は舞台劇を映画化したものだそうです。
成る程、場面はチャーリーの部屋が殆どです。
スタンダードサイズの窮屈な画面。
とても暗い。
多分チャーリーは醜悪な自分を見たくないのだ。
共演者はチャーリーの部屋のドアを開けて登場する。
「ギルバート・グレープ」にも過食で200キロ以上に太った母親がいて、
ギルバートの母親も夫の自殺のショックから過食を始めたのだ。
ラストでギルバートは死んだ母親を家と遺体と丸ごと焼き払ってしまう。
ダーレン・アロノフスキー監督の名作「レスラー」でも、主人公は、
レスラーでステロイド剤の多飲で心臓発作に見舞われる。
彼も昔、家族を捨てた過去を持つ男。
この映画でも捨てた娘との繋がりが男を支える。
(ミッキー・ロークはこの演技でゴールデン・グローブ賞の主演男優賞を受賞)
(忘れられていた老スターの再生になった)
ダーレン・アロノフスキー監督の宗教観は特殊で、過去作で物議を醸した。
「ノア約束の方舟」や、特に「マザー!」
「マザー!」は観た人にしかその特殊さは分からないが、
ユダヤ人でユダヤ教で育てられた監督は独特の宗教観を持っている。
この「ホエール」ではカルト教の架空の宗派「ニューライト」が、
大きな役割を振り当てられている。
突然チャーリーの部屋をノックして、「白鯨」について書かれたエッセイを
朗読させられる羽目になる宣教師のトーマス。
そしてやはり「ニューライト」の宣教師だった恋人のアラン。
アランは看護師のリズの兄でもある。
アランは父親に背き男性の恋人チャーリーとの肉欲に溺れたことを恥じて、
家出して何年か後に湿地で死体で発見される。
その事がチャーリーを苦しめ過食に至ったのだ。
(しかし、チャーリーは肉欲の次は、食欲・・・7つの大罪のうちの
(2つも当てはまる)
白鯨の感想エッセイにチャーリーは深く拘るには理由が2つある。
《語り手は自らの暗い物語を先送りする》
鯨に共感するのがひとつ。
もう一つはラストで分かる。
愛する娘エリーの書いたエッセイなのだ。
この一節も興味深い。
「語り手は悲しみや苦しみを《先送り》している」
出来る事なら「死」もずうっと「先送り」したいものだが・・・
チャーリーは、キチンと死と向き合い、
決着をつけて逝ったと、
私は思う。
魂の救済
終映後、久しぶりに拍手がおきました。
最後、力を振り絞り、立ち上がり、娘のもとに向かおうとする姿は、銛でつかれようとも生きようとする白鯨に重なり、それは生きながら死に向かっていること、生きている苦しみそのものを体現しているようでした。
最初は映画サイトのあらすじと若干違うことと(娘に会いには行かないこと)、入れ替わり立ち替わり様々な人物が突然登場することで入り込みづらかった部分もありました。
しかし、あ、そういえばこれはアロノフスキー監督作だったと気がついてからは、その“型”にすっと入り込むことができました。
要するに「ノア」しかり、「ブラック・スワン」しかり密室劇なんだな、と。
家族という血縁関係の複雑なパワーバランス、それを描かせたらピカイチの監督。
しかし今回は「目的」や「使命」ではなく、「救済」をテーマにしています。
登場人物は、だれも悪くない。
ただ自分の心に忠実であるがゆえに、か家族を傷つけてしまう。
それは、よくあることなのこもしれませんが、この作品は更に、愛し愛される関係の者でさえも救うことのできない絶望に一歩踏み込んでいます。
人の心は自分自身でしか救えないのかもしれませんが、最終的に赦しをえることで、救われることも事実。赦しは、与える側をも救うのかもしれません。そんなラストを、私も祈る気持ちで見つめていました。しばらくは、涙が止まりませんでした。
魂の贖罪の過程と、赦免に至るまでを丹念に描いたあまりにも美しい作品。
観てから、ああ…しまったと思ったのだが、小説の「白鯨」を読んでおくか、調べてから観ないと、中々この作品を理解する事が出来ない。死を前にした親が、一度は捨てた子にひたすら愛を伝える様は、もどかしく詮無い。それでもこの親子の一縷の光明となるのが只ひとつ、小説「白鯨」のエッセイ。観ている側はそれが何を意味するかラストまで悟らせない辺りが絶妙。小説は後調べにはなったのだが、その父娘の魂の贖罪と浄化が見事に結実するラスト。「白鯨」の中のモビーディックとエイハブ船長の関係をこの親子にオーバラップさせて、小説とは異なる崇高な結末を描き出す。
話題になったブレンダン・フレイザーのリアルな特殊メイクによる異様な肥満姿には宗教的意味合いも多分に含まれていると思われ、キリスト教で云うところの7つの大罪の成れの果てがその姿となっているのだろう。フレイザーはその特異なキャラクターを哀れになる事なく丁寧に、慈しみを持って奥行深く演じていて一等素晴らしい。オスカーも納得の名演技だ。
また、娘を演じたセイディー・シンクも、邪心と良心とが交差する、観る側をも翻弄するような複雑なキャラクターを奇をてらわずに演じていて好感。
原作が舞台劇ならではの会話劇というのも、閑静なタッチながらも映画にひり憑くようなテンションを寄与していて、時間を感じさせない。作家サミュエル・D・ハンターと演出ダーレン・アロノフスキーの丹念な仕事が見事な逸品だ。
エリーが書いたエッセイが親子を結びつけた。
ストーリーはそれほど、稀でもない。妻と娘とクリスチャンの信仰を捨て同性の恋人に走り、ガンの人生をおくって亡くなった人を知っている。それに、アイダホ州は共和党の州でこの映画でも、共和党でテッドクルズやマルコ・ルビオよりトランプ(30%)が優勢だと2016年の大統領選のための共和党予備選中だ。それにこの州には腐るほど、モルモン、アッセンブリー・オブ・ゴッドなど教会がある。友達がいるなどの理由で何度か訪れている
が、公立学校の隣に教会、特にモルモン教会があるというように政教分離がちょっと?この映画ではNewLife教会の伝道師(アイオワ州ウォーターローからのトーマス)とやらが登場している。チャーリー(ブレンダン・フレイザー)のパートナーであるアレンもNew Lifeで、私的にかなりよく状況を把握できて、なにも新鮮さを感じないがないが、チャーリーの生き方、それに、家族愛、宗教の矛盾には衝撃を受けた。それに、チャーリーの娘、エリー(セイディー・シンク)の書いた詩(脚本)で気に入ったところがいくつかある。
まず、父親チャーリーは8歳で別れた娘、エリーが8年生の時書いた作文を自分の心を落ち着けるための糧にしていたことだ。この作文を持ち続けていたということだ。中学2年生の時のこの作文の出来はいいがこれを何度も復唱するシーンが多い。心を落ち着けるだけでなく、死に瀕しているときも暗唱する。それに、父親が『好きなことをかけ、何でもいいんだよ』といわれ、書き出したエリーの詩(川柳):
This apartment smells
This notebooks retarded
I hate everyone.
父親がこの詩を詠み、8年生の時に書いた作文の中に取り入れるところがまたいいね。エリーは心の中を吐き出して言葉に表すことができる。父親がその指導を文学初級のクラスで教えている。エリーは「文学101」のクラスは(文学初級)を卒業できるねえ。エリーに対して『amazing』を連発するけど、私もそう感じたよ。
母親が、エリーは父親のことを『There'll be a grease fire in hell when he starts to burn』 というと。そして、悪魔ねと。これを聞いて父親は
『This is not evil. This is honesty!!!』と答える。
私も本当のことをうまく文学的な言葉に表せるエリーに感心したよ。
エリーは8歳まで父親といたから彼の才能や思想の影響を受けているように思える。それに、いやみたらしい現実的な母親の影響も。この元夫婦は陰陽のバランスが良かったようで、父はポシティブ、母はシニカルで、エリーはシニカルであり、正直で賢い、annoyingであり、amazing である。
正直なところ、ここに脚本家の意図が含まれていると思う。脚本家の言いたいことは『真実を正直に自分で表すことの大切さ、それが時には自分を助けたり(父親、家族と繋がり始める)関わってくる人を助けたり(トーマスを両親の元に戻らせる。アレンを助ける。リズの蟠りも消える)、または人や自分を傷つけたり(エリー自身の生き方)する。でも真実を伝えようと。綺麗事やまやかし、ここでは宗教家、宣教師であるトーマスとの対比(矛盾:ゲイを受け入れられないなら初めから綺麗事を言うな!Be honest 正直であることが大事。ゲイは受け入れられないって言え)で現れていると思う。レッド州(共和党)のこのような片田舎ではでは宗教が全てにオブラートをかけて、正直さを隠しているような気がする。(私はクリスチャンなのでこういう言い方はしたくないが、)『現実に目を逸らすな』が信条なのでこう書き留める。ステレオタイプだが、日本社会のような裏表の社会、本音建前の社会、内外の社会、では、正直者で、人助けができるエリーのような存在はどうなんだろう?
次に、最後のシーンでは「文学101」のクラスで、本人自らも学習者に正直になり、自分の心と体を見せる。彼は初めから病院に行くことなんて考えていないと思う。天国でボーイフレンドのアレンと一緒に暮らせることができるし、娘のために何か一つでもいいことをしてあげたいから。才能のある娘を彼が貯めたお金で好きな道に生かしてあげられるから。親子の結びつきがなく、父親に捨てられたと思っていた娘が、父親に書かせた作文は娘自身が8年生の時に書いたものである。それを知らなく読み始めた娘は父親の今までの気持ちを理解する。『私を愛していてくれたんだ』と。それに、自分で書けるんだということも実感する。父親自身も人には寛大でよくできるが自分には満足できなかった。でも、死ぬ一歩手前で娘が読んでくれて、最高の幸せを味わったようだ。娘のために何か一つでもいいことをしてあげたいことがお金だけじゃなく、娘への愛情も知ってもらったし、自分自身も満足できたと思う。『Daddy 』と娘は初めて父親に言った。初めて!泣けた!
蛇足:
エリーは才能がある。正直いうと脚本が優れているんだよね。脚本家が気になって調べたら、有名な人、サム・ハンターだった。2022TIFF (ティフ:トロント映画祭2022 Toronto International Film Festival on September)を聞いたら、監督はサムの誕生日にティフにこの映画を上映して欲しく頼んだと。
サムは北アイダホで生まれ育ち宗教的な環境の中でゲイで肥満であったことも自分とのコネクションがあると言っていた。
この戯曲は120席という小さな劇場で上映されていたが、そこにこの映画の監督が来ていて是非映画にさせてくれと言い出したと。初めは断ったが、何度かの監督の訪問で10年かけてこれが映画にできたと。主役だが、以前に監督の映画に出たことがある、フレイザーに声をかけたと。
フレイザーに対する観客の拍手はものすごくて圧倒された。私は監督もフレイザーも全く知らなかったけどこの映画祭の観客の喝采に驚愕。
「推敲」への幻想
◉書き直したかった男
人が存在することや、生きていくことへの大きな問いかけをチャーリー(ブレンダン・フレイザー)が発していた訳ではなかった……と思う。チャーリーの瞳があまりに深い悲しみを湛えていたから、そんな風に思ったのだが、チャーリーが見つめていたものは、妻子を見捨てた自らの罪悪の浄化。そして娘への償い。嘆き悲しむ巨体の男の魂は、次第に娘と言う小さな点に集約されていく。
同性の恋人ができて妻と娘を捨て、その恋人が死んだショックで引き込もりになって肥満からの多臓器不全になるが、娘に金を残すために治療を拒否。この迷いのない自己犠牲。息を切らせて暗い部屋を這い回るのは、とにかく死期を早めたいがための行為にしか見えない。
しかし、文章や言葉への意欲は遂に最後まで尽きることはなかった。文筆の専門家として教鞭を取っているチャーリーは、教え子たちに「推敲を重ねればエッセイは良質になっていく」と説く。それは一つの妄想がチャーリーを捉えていたからだではなかったか。既に過ぎてしまった人生であっても、自らの悔恨やあからさまな想いを素直に書き綴れば、別の人生に成り変われるかも知れないと言う幻想。
◉白い鯨と部屋の中の鯨
チャーリーが「娘のエリー(セイディー・シンク)にはエッセイを書く力がある」と称賛した、課題エッセイの文意が映画の中ではよく聞き取れず、パンフを買いました。このただのメモ書きにしか思えないようなエッセイに、チャーリーは娘とのよすがを求めていた。
エッセイは「白い鯨を殺すことがエイハブの人生のすべて。しかしその生き甲斐は悲しい。鯨には感情などないのだから。ただ大きく哀れな生き物。殺してもエイハブの人生はよくはならない。私は登場人物たちに複雑な思いを抱いた。鯨の描写の退屈な章にはうんざりさせられた。語り手は自らの暗い物語を先送りする。」と言った内容。
これは『白鯨』への感想を綴ったエッセイであるが、同時にこの作品が訴える暗喩が詰まっているとして……
「ただ大きく哀れな生き物」とは、娘が憎悪と侮蔑の対象にしている現在の鯨(父親)。娘にとっては、チャーリーが鯨の想いについてどれほど説明しようとしても、それは「退屈」で「うんざりした」行為だ。
チャーリーは悔恨の情いっぱいで、過去の鯨を追って仕留めようとしている。だが、殺したところで、何にもならない。「暗い物語を先送り」するように、もう考えるのは止めようと娘が呟く。
娘の思いは厳しくて、救いがなかった。突き放されるチャーリー。けれど、いじましいぐらい控え目に、繰り返し繰り返し娘への愛を差し出そうとする父の姿。
やがて推敲できなかった過去から光が射して来る。そこには妻と娘が居て、チャーリーの魂は光の中に紛れて消えていく。
ひたすらに信ずるだけの者ではなくて、悩み苦しんだ者が救われると言う、やるせ無いけれど納得のいく結末。
見ているのも辛くなるような巨漢であるのに、身体いっぱいに優しい笑みが溢れているようだったチャーリー!
◉リズも大きな安寧の海に沈む
看護師のリズ(ホン・チャウ)がしばしの眠りに就いたチャーリーを、まるでベッド代わりにして寄り添うシーン。見ていて、私もそこに倒れ込めるならそうしたいほどの、安らぎを感じてしまった。何故だったろう。辿り着く先は判っていると言う、諦念込みの安堵感だったのか。
それにしても看護師対病人の関わりを差し引いても、余りあるリズの安らぎ。リズにとってチャーリーの胸に沈むことは、つまり兄のアランとチャーリー二人が居る海に、しばし沈み込むことだったのかも知れないと思いました。
インセプション、トータル・リコール、そしてレスラー…
この映画はオープンエンドタイプの終わり方をしている(と初見時に思った)。
上記に上げた映画と同じタイプの終わり方をしている、と。
映像上から読み取れるのは、あれだけ神の存在を作中否定したにも関わらず、ただ彼の中にあるキリスト教的な記憶からなのか、宗教的サルベーション(救済)ぽい救われ方をする、というエンディングの描き方をしている。
しかし、わたしが考えるエンドは、娘がドアを開けたその瞬間にショックで彼は死んだ。その後の展開は走馬灯みたいな、自分が見たかった世界。そのため娘の態度も彼にとっては大変好ましく、そして不可能だった歩くという行為も可能に、そのうえ天国へサルベーションなど、彼に不可能なことも全てやってのける。
じゃあバッドエンドかというと違い、この物語は彼の「終活の話」で、心残りである娘への愛は伝え終わってる。あとはどう死ぬかの考え方の話になっている。
監督アロノフスキーとしては、「もしかしたら娘は立ち去ったかも、もしかしたら白鯨のエッセイを朗読してくれたかも、現実に何が起こったかはそこまで重要じゃない。自分の中でどう物語が終わったか、それが大事」という考え方を伝えたかったのだと思う(π、レスラー、ブラックスワン、マザー!から考えるに)。
そしてそれがヒューマンドラマを求めている観客にはそのままサルベーションの感動物語として受け取られ、穿った観客にはその救われ方の提示の仕方に、心を引っ張られ続ける。
そんな映画だと思った。
・補足
作中、宣教師が「肉欲に溺れたから死んだ。神を信じれば救われる(的なニュアンスの発言)」という、彼にとってこの世で最も聞かされたくなった発言をして、その上でわざわざあの天国へ向かうような描写=キリスト教的救済描写を入れた。
なんであんな描写になったのか、ってことも、彼がもっとも見たかった景色を死ぬ間際にすべて見られたからだと思う。
娘に救われる、パートナーが救いをもった場所=天国へ連れて行ってもらえる、過去にもっとも思い出深い波打ち際の景色を見ることができた、という。
これで、パートナーが天国から手を差し出す、みたいな幻を入れたら、よりフィクションとしてのこの解釈が分かりやすくなったけれど、その解釈も認めつつ、痛烈な信仰による盲目さ、みたいなものを観客の視線でも感じさせようとしたんじゃないかとも思った。
しかし実際のところ、その種明かしはオープンエンディングとしてあやふやに提示された。つまりこれらの考察も全部あやふやになった。この映画においては、それはそれで正しい解釈だと思う。
人生
部屋の中だけで起こる映画
人生最後の1週間
もうすぐ亡くなる人、あんなに話せないし、あんなに食べれないよなぁと思いつつ
ハムナプトラ大好きだったわたしは、復活ブレンダン・フレイザーさんの名演技は素晴らしいと感じました
もっと言えば、リズ役の女優ホン・チャウさん
あの方
めっちゃ凄い女優さんですね
アカデミー賞見た時、華やかで綺麗な人と思ってましたが、映画のなかだと別人ですね
夜勤明けのナースにしかみえない笑
泣きの演技凄い✨
役者達が素晴らしいと感じた映画です♪
どう捉えれば良いんだろ?
登場人物が少なくてシーンの展開が少ない点が非常に見やすくて良かった。昨今のMCU映画ばかり見ていたので、シークエンスが少なくて本当助かりました。あとストレンジャーシングスのマックスが出てビックリしました!「あれっ!?•••マックスじゃん!」って叫びました。
そんな中で、現実のストーリーと白鯨の物語が並列して進んで行きます。鯨はおそらく主人公の巨漢ニキだろう。それは自分も理解でしました。
無茶苦茶なことやって生きたチャーリーが、家族を裏切って不摂生をしてるのに、みんな捨てきれず寄ってくる。「人間は美しい」と言っていたが、人間臭い矛盾に満ちたこの巨漢ニキの生き様が、人を惹きつけてるのでしょうか?
自分でも抑えられない食欲、家族、世間体などを捨てボーイフレンドと恋に落ちるなど、自分の欲望にまっすぐなことと、それをエッセイに求めるところ、この映画はそれを伝えたかったのかもしれない、とこの文章を書いてて思いました。
でも何でこの映画を作ろうと思ったんだろ?巨漢ニキの演技、マックスの演技は最高でした。
これは映画ではない。とある人生だ。
かなり泣きました。デロデロに泣きました。
私自身も食で心を埋めるタイプである故、あらすじを見たときから他人事とは思えず視聴しましたが、予想外にキリスト教への辛く悲しい怒りのメッセージもあり深く共感。かなり没頭できました。
もしかしたら大衆が映画に求めるようなストーリーではないかもしれません。
人によっては鬱映画とも感じるでしょう。
しかし、さりげない伏線やそこはかとなくラブロマンスを感じるシーンに友愛もあり、シリアスではありますがキラキラと輝くドラマが散りばめられた良作です。
最後、主人公は救われたのだろうか?
救いとはなんでしょう。
愛する恋人に会えること?
娘の口で詩を読んでもらえたこと?
まさか神の元へでも行くのだろうか?
私は、ラストシーンを踏まえて、「あの時は本当に幸せだったなぁ」と過去になっても光り続ける思い出こそが救いだと感じました。
ほんの短い間だとしても、心から幸福を感じられる思い出があるなら、その人生は良きものだ。さらに愛する人にまで出会えたなら、最高の人生だ。
いいじゃないか。そんなもんで。
終末で人は救われない
すごく面白かった。
ある男の最期の五日間の物語。
登場人物は少ないが、1人1人が深く掘り下げられていて、人生について考えさせられる。
主人公を中心に、主人公と関係する人々が一人ずつ現れ、死に際の主人公と対話していく。
でもこの映画の隠れた主人公は、死んだ主人公のパートナーなのだと思う。この映画のほとんどの人物はパートナーとも深く関係している。
映画に登場しない人物を中心に物語が展開している様は、「ゴドーを待ちながら」を連想させる。たぶんあの話のゴドーはキリストの暗喩だと思うのだけど、本映画も「信仰」をテーマにしているのではないか。
そういえば、どこで聞いたか忘れたけど、「人生には誰にでも2つの奇跡が起こる。それは、生まれることと死ぬことだ」という話を思い出した。そこに存在しなかった生命が新しく出現することは確かに奇跡に違いないけど、同じくらい不思議なことは、そこに確かに存在していたものが消えてしまうこと。死とは神秘的なことでもあるのだと思う。
最後に主人公が娘に向かって歩くシーンは、ぼくは主人公が死に際に見た夢ではないかと思う。死の神秘と救いを表現していると思う。
この映画の人物はみんな、単なる善人でもなく、単なる悪人でもなく、どうしようもない人間的弱さをもちながら、互いを傷つけあい、同じ人を強く愛したり憎んだりする矛盾した感情を持っている。
主人公自身も娘を含めみんなにひどいことをしていてその罪悪感にさいなまれているが、悪人というわけではない。人間関係だけでなく、様々なものが実は善悪を簡単に決めることができないものだということが示される。
たとえばニューライフ(原理主義的なキリスト教)により主人公のパートナーは信仰に悩み自殺してしまったけど、一方でこの自殺は主人公への愛を貫いた証拠でもあった。
主人公の喘息呼吸は主人公の死が近いことを表すものだけど、一方で主人公が確かに今生きていることを示すものでもあった。
主人公の娘が宣教師の罪を暴露したことはおそらく娘の悪意からの行動だったけど、その結果かえって宣教師は救われることになった。
主人公の異常な過食行動と肥満体は、主人公が苦しみと罪を背負い続けたことを肉体的に表現したものだと思うのだけど、この映画全体が、「人間の罪」を大きく肯定しているんじゃないかと思う。
ニューライフの教義として、「終末」が訪れたあとでは汚れたものがすべて浄化される、というような話をしていたけど、この映画は、「そういうことじゃないんだよ」と言っている気がしてならない。
人間は弱さのために罪を犯し、そして苦しむけど、それらの中にこそ人間の素晴らしさがあるように思う。
<追記>
ラストシーンで、主人公の娘が、自分に渡されたレポートの文章が、自分が昔書いたものだということに気づく。
娘は「自分は父に愛されておらず、見捨てられた」とずっと考えていたが、実はずっと父に愛されていた、ということに気づく感動的なシーン。
このシーンに何か既視感があると感じていたが、その正体に気づいた
「砂の上の足跡」というクリスチャンの間で有名な詩だ。調べてみると、作者不詳らしい。
この詩の内容をざっと要約すると以下のようなものだ。
神に対して、「私が一番苦しかった時、あなたは私を見捨てたのはなぜなのか?」となじる男に対して、神は、「私はあなたを見捨てたことは一度もない。あなたが苦しかった時に足跡が一列しかなかったのは、私があなたを背負っていたからだ」と答える。
してみると、この映画でみじめで醜くて弱く罪深いおろかな人間の代表のような主人公は、「無垢に愛する」というただ一点において神の立ち位置にいるということになる。
主人公の娘は客観的には邪悪で、娘を盲目的に肯定する主人公は単なる愚か者に見えるが、一方で、理性的判断をはさまずただ信じるということによってしか、娘の心を動かすことはできなかっただろう。
もう一つラストシーンで気づいた事がある。主人公の最期のとき、ふわっと身体が浮き上がり、足が地面を離れたように見えるシーン。1つの解釈としては、主人公が死により肉体の重さから解放された、というようによめる。でも、キリスト教の教義に「空中携挙」というものがあったなあ、とあとで気づいた。調べてみると、終末論を掲げるプロテスタントの教義らしいので、たぶん当たりだろう。神に不死の身体を与えられ、空中に引き上げられた、というような宗教的なシーンではないか。
看護師のリズが主人公と最後に交わした言葉も意味深だ。「下で待ってる」とリズは言った。これが最期だと分かっているはずなのに。
主人公のパートナーは宗教によって殺されたということを考えると、この映画が宗教的なモチーフで構成されているのが奇妙に感じる。でも、この映画のテーマが「本当の信仰とは何か?」ということなのだとしたら納得できる。
ニューライフの宣教師は、「人を救いたい」という強い気持ちをもっていたけど、実はそれは「人を救うことで自分が救われたい」という動機だったことがあばかれる。
彼は決して悪人ではないけれど、彼にとっての信仰とは、自分の弱さから逃れるための依存の対象のようなものなのだと思う。主人公にとっての「過食」と変わらない。
欲に勝てない、優しく哀れな男の物語
元は舞台劇との事なので、主人公チャーリーの自宅でのシーンが大半です。8年も会ってなかった娘が亡くなる直前の5日間に頻繁に訪ねてきたり、パートナーと同じ宗教の勧誘が偶然やって来たり、まぁまぁご都合主義的なところはありますが、割り切ればいい感じにひっかからずに観られました。
退屈するかなと思ってましたが「立ち上がる」「笑う」「食事する」等、普通の人ならなんて事ない動作も彼にとっては命に関わるので、いちいち緊張感が走ってハラハラしました。
A24ですが、グロい描写はほぼなし、代わりに食事シーンは鬼気迫るものがあり、理性ではどうにもならない過食症の恐ろしさを感じました。
不安や悲しい気持ちになると、命が危なくても過食を止められない。リズだって食べ物を渡したくないし、彼もよりによって看護師の彼女を加担させたくない筈なのに、結果的には自殺ほう助させてしまう。
こうなる前に心のケアができていたら、身体も健康でいられたのに。
過食症、アル中、貧困、格差、宗教問題等々、特にアメリカが抱えているシビアな問題が一気に描かれているので、暗い印象ではありますが、最終的には観て良かったと思える不思議な映画でした。★3.7
詰め込みすぎの鯨
おそらく現代アメリカ人にとって「救い」とはなにか、が主たるテーマなんだろう。しかし設定にあれこれぶち込みすぎてぼやけてしまった。
肥満、宗教2世、同性愛、家族の離別、金、生きる意味 などなど、アメリカ(だけではないが)が抱える問題がてんこもりなのである。てんこもりすぎてどれもこれも中途半端になり、結局どの登場人物にも感情移入できないまま予定調和で終わるという、最悪にちかいシナリオだった。
特に宗教2世の配分がおかしい。偶然現れた宣教師も親身な看護師も死んだ恋人もみんな同じ宗教の2世というのはいかがなものか。不自然だ。
さらにこの映画最大の「ウリ」である肥満も、その必然性がわからない。醜い外見の人間への救いを描きたかったのか? たしかに特殊メイクはすごかったものの、ブレンダン・フレイザーはハンサムなので醜いとは言い切れないし、ピザの配達人に姿を見られたショックもあまり伝わってこない。これは演技力の問題なのだろうか。(なのにアカデミー賞主演男優賞)
加えて、繰り返される「白鯨」の感想文のどこがすばらしいのかさっぱりわからない。 アメリカ人ならピンとくるのか? 鯨のイメージ映像を挟むとかすれば関連もわかりやすかっただろう。
舞台向けの設定なのかもしれない。
照明などで肥満はシルエットで表現でき、物語を進めていく会話に集中できる。窓の外の雨が最後に晴れるのも、ありふれてはいるが舞台なら一定の効果はあるだろう。
映画ならではの迫力やイメージの拡張もなく、つまらない作品。
あのハムナプトラで考古学者だった男が
20年前の映画「ハムナプトラ」でイケメンの考古学者を演じた後、いろいろあって、表舞台から遠ざかっていたブレンダン・フレイザーが、余命いくばくもない巨漢を演じる映画。
レビューでは、「椅子から立てなかった」ほど感動した人もいたが、自分はそこまでならなかった。
家庭をぶっ壊したのも、肥満体になってしまったのも、自分が欲望の赴くままに行動したからじゃないのかと。娘が可愛かったら、ちょっとはブレーキを踏むだろうと。まあ、あのきついかみさんじゃ、逃げ出したくもなるかなあと。
自分は日本人だからかもしれないが、赦す(その結果として救いがもたらされる)のはあくまでも人であって、神じゃないだろうと。神が赦しても、人(ここでは妻や娘)から赦してもらえなかったら、それは結局救いにはならないだろうと思った。
この映画で描かれなかったこと、描かれたこと
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい)
この映画は、(個人的に)描かれていないことと描かれていたことがある映画のように思われました。
私はこの映画の鑑賞後に、素晴らしく深い映画であると感じましたが、一方で大きな感銘や大感動の傑作とまでは思えないという感情もありました。
その理由は、この映画『ザ・ホエール』は、主人公のチャーリー(ブレンダン・フレイザーさん)が(私が字幕など見落としていない限り)なぜ娘や妻を捨て、ボーイフレンドのアランの方に行ったのか、チャーリー自身の理由動機が明確に描かれていないところにあると思われました。
加えて、チャーリーの妻であるメアリー(サマンサ・モートンさん)も、なぜゲイであるチャーリーと結婚したのか、その明確な理由が(私が字幕など見落としていない限り)描かれていないように思われました。
この映画の主人公チャーリーは、その後ボーイフレンドのアランが亡くなってから、引きこもり過食によって体重を増加させ、自らの足では歩行器なしに立つことさえ出来ない「醜い」姿になってしまいます。
私はこの怠惰な主人公チャーリーに心からの共感は正直出来ないままでした。
その理由は、(チャーリーの外見の「醜さ」というより)娘や妻を捨てボーイフレンドのところに行った、チャーリーの本当の意味での行動理由が描かれてないところにある、と思われました。
それが、この映画の鑑賞後に大傑作や大感動との思いが湧き上がって来ない理由にも感じました。
ではこの映画『ザ・ホエール』はダメな作品だったのでしょうか?
私はしかし大傑作や大感動の感情がなかったにもかかわらず、この映画はしかし人間の深淵をえぐってもいる別の意味の感銘を受ける映画になっていると一方では思われました。
その理由は、(主人公チャーリーや妻のメアリーとは違い)他の4人の主要登場人物の全員が、なぜそんな行動をしているのか、その理由が明確に描かれていたところにあると思われました。
チャーリーの娘であるエリー(セイディー・シンクさん)は、学校を停学になりSNSに犬の死体を載せたり大麻を吸ったりしています。
その理由は、娘エリー本人も言っているように、父チャーリーが自分と母を捨て、ボーイフレンドのアランの方に行ったのが根本理由だと暗に明かされています。
過食で身動きが難しくなっている主人公チャーリーの身の回りの世話を、訪問介護士のリズ(ホン・チャウさん)が時折訪ねて行っています。
リズがチャーリーの身の回りの世話をしているのも、彼女の兄がチャーリーの亡くなったボーイフレンドのアランだったことが理由として明かされます。
チャーリーのボーイフレンドだったリズの兄のアランは、新興宗教のニューライフ教会の父に決められた結婚から逃れ、チャーリーとパートナーになったことがリズから話されます。
しかしアランは、ニューラーフ教会の家族との精神的な断絶から命を落とすことになることが明かされます。
主人公チャーリーの家を訪ねて来たトーマス(タイ・シンプキンスさん)はニューライフ教会の宣教師で、チャーリーを救いたいとチャーリーの家を訪れています。
後に明かされるように、チャーリーの亡くなった元ボーイフレンドのアランがニューライフ教会の教えを家族から受けていて、チャーリー自身もニューライフ教会の教えを深く知っていたからこそ、トーマスを度々家に入れていたことが暗に明かされます。
また、トーマス自身は宣教活動でチャーリーの家に来たというのは実は嘘で、宣教活動に疑問を持ったトーマスが、教会の金を盗んで逃げて来たということが後に明かされます。
チャーリーや妻のメアリーと違って、娘のエリー、訪問介護士のリズ、ボーイフレンドのアラン、ニューライフ教会宣教師のトーマスの、行動の理由は明確に示されているように感じました。
そしてそこで描かれているのは、ゲイと新興宗教にまつわる世間と家族に引き裂かれた人々の濃縮された関係性だと思われます。
そしてその出会いは、一方で偶然の要素もあるのだと思われます。
さらにこの映画ではもう一つ重要なことが描かれていると思われます。
それはチャーリーが最後に(オンラインでの大学授業での生徒や、娘エリー対して)伝えていた「正直に」生きるという言葉です。
娘のエリーは、ニューライフ教会の宣教師のトーマスの、教会の金を盗んでここに来たとの告白を録音し、トーマスの家族にその録音を送り付けます。
おそらく娘のエリーは、トーマスの罪を家族に罰せさせようとしてトーマスの告白録音を送り付けたのだと思われます。
しかしトーマスの家族は、教会の金を盗んだことを大した話ではないと許し、トーマスに家に帰っておいでと伝えます。
このことは以下のことを表現しているように感じました。
チャーリーはボーイフレンドのアランを選択し、娘のエリーや妻のメアリーを捨てます。
しかしそのことによってチャーリーは娘のエリーと疎遠になってしまいその後に苦しみます。
もちろん冷たい言い方をすればこれはチャーリーの自業自得です。
しかし一方でここでは、私たちが何かを選択した時に、選択しなかった事柄についてからも影響を受けてしまうという普遍的な感情も描いているように思われました。
そしてその影響は、自分が何かを選択した時には思いもしなかった感情や事柄で成されることが多いと思われるのです。
娘エリーは自分の感情から「正直に」(おそらく)トーマスをトーマスの家族から罰してもらおうと彼の告白録音を送り付けたのだと思われます。
しかし結果は真逆の、トーマスは彼の家族から許されるという帰着を迎えます。
このことは、私達は例え一見自身の欲望に「正直な」選択をしたとしても、その選択をしたことにより(それ以外を選択しなかったことにより)別の思いもかけない影響を受けることになるのだということを伝えているように感じました。
だから例え犬の死体の写真をSNSに載せたりといった一見世間に反するように「正直に」生きたとしても、(逆に「正直に」生きたからこそ)さまざまな思いもかけない別の(傷を含めた)感情に出会うことになる、だから「正直に」生きて大丈夫なんだと、この映画は伝えているように思われました。
私は、この映画『ザ・ホエール』は、主人公チャーリー(あるいは妻メアリー)の行動理由が明確に描かれていないから大感動の大傑作になり得ていないと感じながら、一方で、偶然も相まって引き寄せられるように出来てしまう凝縮された人間関係と、人生での選択における思いもかけない選択しなかった方からの(内面外面含めた)影響のされ方について、人間を深く描いた作品になっていると思われました。
そしてこの映画の「正直に」生きるという到達は、その厳しさも含めた運命の受け入れにも通じる私達への励ましや勇気づけにも感じました。
思えば、人は周りのことは客観理解出来ても、自分のこと(あるいは妻のようなまだ存命の愛憎交わる最も近い人のこと)は客観視出来ないことも多いだろうと思われます。
そんな自分の(あるいは存命の近しい人の)行動理由は明確になんて分からないということも、「正直に」描かれていた映画なのかもしれないなとも思われたりもしました。
弱い人間たちの保身の生贄
元が舞台劇とのことで、舞台劇らしいつくりでした。
チャーリーの娘に対する親バカっぷりが切ない。
8歳から会っていなければ仕方ないかもだが、元妻に娘の実態を知らされても直視しない。
チャーリーは現実から逃避する。辛い現実を突きつけられると過食に逃げて身を守る。酷い言い方かもしれないけれど、恋人の死の現実から逃避して過食に走りあの巨体になったのだ。
宗教の嫌な部分の一つは、教義に外れると罪だの罰だのと信者を脅すところだ。「教え」は洗脳に近いと思う。
キリスト教は同性愛者にとっては救いどころか害だ。
本人たちに酷い罪悪感を押し付けるだけでなく同じ信仰を持つ人々を、彼らに対して白い目を向け迫害するよう仕向ける。チャーリーの恋人も信心深かったが故に罪悪感に苦しみ、さらに家族やコミュニティーから孤立した孤独感から、ああいうことになってしまったんだろう。チャーリーがそうならなかったのは、過食に逃げこんだから。(結果的にそれが緩慢な自死になってしまったが。)「救い」ってなんだろう。
チャーリーにキリスト教の、特にニューライフの「救い」は不要というのにしつこい宣教師トーマスは、真面目な青年だからこそ信念の押し付けになるんだろうが、チャーリーのためといいながら自分のためにしていることで、思いやりが欠如しているのは育てられ方のせいだろうと思う。
どんなに問題のある家族でも、そこから一人反旗を翻して離脱するのは大変なことだ。
「家族」全員、さらには親戚一同、コミュニティ全体から敵視されたら、肚をくくった心の強い人でも孤独感や寂寞感は半端ないだろうし、そこまでの決心のない人ならなおさら、人によっては罪悪感にも苦しむかもしれない。だから意を決して離れたものの、戻ってしまうことも多かろうと思う。トーマスが家族やコミュニティーに許されたとわかったときの晴れ晴れとした表情がそれを物語っている。毒家族から逃げられない真理はそういうものだと思う。
甲斐甲斐しくチャーリーの世話をするリズはあからさまなイネーブラーで、彼女も家族から孤立、唯一の仲間の兄に逝かれてチャーリーを自分に縛り付けて孤独から身を守っていたのだろう。
登場人物の、チャーリーの娘も含むほぼ全員(チャーリーの元妻は除けるかも)が弱い人間で、精神的に自立できない彼らがそれぞれ自分を守り正当化する行動をする。多分自覚はないのだろうがそのためにチャーリーを犠牲にしている。チャーリーはそれを一身に受けた吹き溜まりだった。おそらく彼はそれを知っていた。でも、孤独な彼には利用されつつも拒めない弱さがある。精神的な面だけでなく、身動きできない身体を持った物理的な不自由さからも。
自分の死期が見えてこれ以上他人に頼らなくていいとなったときに、ようやく周囲の思惑を振り切って自分の意思のみに従うことができたんだと思う。
生贄が去った後、遺された登場人物たちはどう生きて行くのだろうか。
どう生きたいか
残り時間を何に使うのか?
自身の残り時間を知った時、誰しも何かをしたいと考えるんじゃないかと思わせてくれる。それが親ならば尚のこと。
彼が起こす行動は長い時間を掛けることが出来ない状況の中、劇薬となるとしりつつ渾身の力を使い注力するその姿がとても惹きつけられる。
その相対として他人の目の怖さがとても残酷で心が引き裂かれる思いを目の当たりにする。
誰しも前向きに進めない時がある様に、彼もまたその姿になりたくてなったわけではないのだから。人の生きた道程を知らず見た目で疎外することの怖さも同時に思い知らされる。
依存症の怖いところは心が奪われてしまうことです。
他の事への興味が薄れてしまう、最終的には生きることへの意欲も。何故なら嬉しいとき悲しいとき淋しいとき退屈なとき、いついかなる時も食べ物のことが頭から離れない。食べないことにはどうにもこうにも不安でやってられない。きっと最初はパートナーの死という大義名分があったのでしょうが今はもう何故食べているのか自分でもわけがわからなくなっています。そもそも依存症を理性で抑えることはできません。
人生でたった一つ正しいことというのなら、病院で治療して生きなおす姿を娘に見せることだと思います。大金を残すことではなくお金の稼ぎ方を教えること、もしくはお金なんか無くても幸せに暮らせることを示すことだと思います。自分がもう生きたくない、楽になりたいから緩慢な自死を選んだのであって娘にお金を残すためというのは後付けの理由です。
厳しい言い方をするなら卑怯ですし、娘も死ぬ理由にされていい迷惑です。母親も情緒不安定でアル中ですし、娘も薬物中毒にならないか心配です。そう考えるとやはり依存症から脱却する姿をみせるべきでしょう。あとリズ、看護師なんだから食い物渡しちゃだめでしょ(笑)
リアルな体型かつ感動の物語
とにかくリアルな体型で驚き特殊メイクされている俳優さんが大変!本当に太ってしまうと生活になってしまうんだなぁとリアルすぎです。
勿論、子供との関係に涙です。
ただ最後は、、、ハッキリしたい方はなんだかなぁと思いますが、私はこういう結末もアリだなと思いました。
私の体調のせいなのか、
全く感動出来ないし、観ているのがきつかったです。チャーリーが過食で醜く太っているからではありません。彼がホエールなら私だってホエー豚みたいなもんです。
人物が入れ替わり立ち代わり登場してはセリフを言って退場するのはいかにも舞台劇ですが、有無を言わさずああだこうだ我儘を言うチャーリーや、突然現れてマシンガンのようにまくし立てるエリーには違和感があったし、頭が疲れて途中ちょっと寝てしまいました。
看護師のリズは、彼氏の妹とはいえ、生きようとする意志が無い男によくあそこまで寄り添えるなと現実味を感じません。医療従事者は患者を生かすのが使命ですが、チャーリーは彼女にゆるやかな自殺の立ち合いをさせようとしていて、まともな人なら断ると思うからです。リズは見捨てませんでしたが、チャーリーは彼女の優しさに甘え過ぎだし、治療を必要としないのだから、別の介護士とハウスキーパーを雇うべきでした。元妻のキャラクターだけは理解できます。
「白鯨」を読んでいないので、本作が描く『鯨』が悪なのか、それとも誇り高い生き物なのか分からないのですが、テーマが魂の解放のようなので、周りに左右されずに強い意志で生き抜く、ということかもしれません。ただ、チャーリーの場合、自分を抑圧して生きてきたわけではなく、身勝手な行動の結果なので、最後にありのままの自分を認める事が出来たからって、それは良かったねと思うだけです。ちゃんと観なかったから、私の理解が足りないんでしょう。
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