「〝私は何も忘れない〟」ザ・ホエール humさんの映画レビュー(感想・評価)
〝私は何も忘れない〟
母が留守をした日にやってきた、父が恋した男。
彼を選び、自分を捨てた父。
〝私は何も忘れない〟
父の異変も、私の傷みも、苦しみも、、8歳だった過去から現在、そしておそらく未来にわたり…
私はなにひとつ忘れない。
父であるあなたの身勝手な行動が娘の私に及ぼした全てのことを。
なにひとつ忘れないから、なにひとつとしてあなたへの恨みは消えることはないのだと。
エリーのその言葉には、この上なく痛烈な意味が響き渡っていたのを父チャーリーがわからないわけはなかった。
しかし、それだけ憎しむ父からの連絡を受け、エリーが放っておかなかったのはなぜか。
余命がわずかと知り、思春期ならではの反抗の力を味方につけ最後に一言ぶちまけたかっただけ…ではすまないだろう。
実母メアリーとの母子関係も、みてすぐわかるほどだ。
満たされてない心の隙間には冷たい風が吹き荒れ、安息とは無縁の時間だけが流れているエリー。
そこにはもちろん心の置き場などなく、本能的に感じる愛を探し彷徨い続けている。
父からの連絡は、それを僅かでも感じるための最後で最大の自分自身のチャンスだと悟ったのだろう。
しかし、再会を果たした父の姿は、エリーにとってもショッキングだった。
恋人の死をきっかけにチャーリーは、孤立と自暴自棄に襲われ、ストレスの吹き溜まりのような心が死を呼ぶほどの身体に変えていた。
親身になって世話にくるリズや、偶然一命をとりとめてくれ関わるようになった宣教活動の青年、いつもデリバリーしながらチャーリーの様子を気遣う担当者、最後を感じそっと歩みよってくれた元妻、そしてエリーの存在も、もはや、ゆっくりと自殺しているのと同然の彼を止められない悪化状態だった。
エリーはきっと、妻と娘を捨ててまで離れて行った父が、選んだ道を充実させれずに暮らす現実が悔しかったのではないだろうか。
それはさらに彼女を深くて遠い場所に捨てたのと変わらぬ意味を持つからだ。
ママとパパがうまくいかなかったこと、父が彼を好きになったことの仕方なさは、大人になる時間をかけて理解していけるかもしれなかったのに。
今、ここにいる父は、世間からドアを一枚隔てた暗く汚れた閉鎖的な部屋にある世界で、吐いた汚物にまみれ、日常生活すらままならず、微かな呼吸に喘ぎ、苦しみと悲しみを纏い、精神や健康も無視し堕落した空気と一体化している。
正反対に、遺されている恋人が生きていたころの整然と美しい寝室と眩しく幸せな写真。
父が、自分の人生を諦めた時間の流れが目にみえてわかり、その耐え難さは、とげだらけの言葉と悪態になってエリーから迸る。
ある日は激しくドアを閉め飛び出し、ある日は辛辣な言葉で責めたてる。
またある日は、窓辺にくる鳥にやる餌の皿に気がつきバラバラに砕く。
そこまでしてしまうのは、父の内面にまだある、他を思うやさしさをみつけて辛くなってしまったからだと思う。
割られた皿をみて、自分への悔しさとやりきれなさをエリーが爆発させていることをチャーリーもまた、気づいているのだ。
そして、そんな嫌な時間を毎回過ごすのに、エリーはまた自分に会いにくることにも…。
チャーリーは父娘の距離、恨まれて当然だった空白の年月を、余命わずかな日々でとりもどすために何をしようとしたか?
学生たちに、リモートで文章の書き方の手ほどきを仕事にしている立場のチャーリーが、あと数日の命と知り実行せずにはならなかったもの。
それは生徒よりも先に、人の親として示すべき最初で最後の教え。
弱みと恥を捨て、醜態、深き罪を認め、嫌悪を浴び、それでも彼に恋した自分、病院にも行かずにエリーのためにとっておこうとしたお金のこと。
矛盾だらけの人生の最後に、彼にとって、執着すべきはその本心ひとつ。
エリーに、自分に正直になることをみせることだった。
そして、それを自分に教えてくれたのは、ほかならぬ我が娘がかつて書いた文章であったことへの感謝。
いまだにのしかかる彼女の迷いを築いてしまった父としての贖罪、そしてまだまだ先に続く人生の難題に立ち向かうだろう我が血をわけた一人娘に、渾身の提示をし、彼の人生は完結する。
地響きが立つほどの巨体を満身の力でたち上げ、娘の元に一歩ずつ前に前にと向かう姿は、底のみえない深く黒く海中から、猛しぶきを跳ねあげながら浮かび上がった命がけの大鯨の最後の姿だった。
あの時、涙で滲む朗読を続けながら最後の父の気持ちに包まれた〝私は何も忘れない〟エリー。
やさしくまっすぐな父のまなざしをみた彼女は今、どう生きているだろうか。
修正済み
私のレビューを詳細に解釈して頂き、大変に有り難うございます。改めて、そう記述した自分の気持ちなども分かりました。
エリーについては、おっしゃられるように、「父が、自分の人生を諦めた時間の流れ目にみえてわか」る耐え難さから、あのように頑なに父を責め続けたのでしょうね。
そうですね。父から捨てられた娘だったからこそ、「父の内面にまだある、他を思うやさしさ」が辛く、切なかったのでしょうね。憎もうとしているのに、力任せに憎めない。