アラビアンナイト 三千年の願いのレビュー・感想・評価
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魅力ゼロの魔人
この映画を見る前に、類似のモチーフの映画「アラジン」を思い出す。こちらに登場するランプの魔人ジーニーは陽気で無限のパワーを持ち、しかしご主人様の命令は絶対、あなたが魔法のランプを持つかぎり最高の友達である。
こうした作品は魔人の魅力が8割で出来ていると思うのだが、この作品のジンには人間的(魔人的?)魅力がまるでない。
ひたすらに自分自身を憐れみ続け、突発的にヒステリーを起こす。こいつの自分語りが物語の大半を占める。それも、俺の女だいたい不幸になったし俺も不幸なんだよというゴミのような内容。終盤ではこの魅力ゼロの魔人と中年女性のロマンスが始まる。勘弁してくれ。
話が見えないうちに映画自体が終わっていた。序盤の幻覚描写から考えると自立しているように見える独身女性が、しかし孤独に耐えられず新しいイマジナリーフレンドを作りましたという話?だとしたら時間返してほしい。
基本的に無価値な作品ですが、中盤に登場するおデブハーレムの女性は一見の価値ありなので☆2とさせていただきます。
愛について語るときに我々の語ること。 ”物語る”こと自体を物語る、巨匠ジョージ・ミラーの意欲作。
物語論を研究する大学教授アリシアと、瓶に閉じ込められていた魔人ジンとの語らいを描いたラブ・ファンタジー。
監督/脚本/製作は『マッドマックス』シリーズや『ベイブ』シリーズの、オスカー監督ジョージ・ミラー。
3つの願いを叶える事が出来る魔人、ジンを演じるのは「MCU」や『ズートピア 』の、名優イドリス・エルバ,OBE。
ジンを解き放ってしまった物語論学者、アリシア・ビニーを演じるのは『ナルニア国物語』シリーズや「MCU」の、レジェンド女優ティルダ・スウィントン。
偉大なる監督ジョージ・ミラーが実娘オーガスタ・ゴアを脚本家として起用し、親子二代で現代に「千夜一夜物語」を蘇らせた。…コッポラにしろシャマランにしろ、巨匠も娘には甘いのである。
本作は大傑作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)の次に公開されたジョージ・ミラー作品。当然その流れを受け継ぐ超スペクタクル娯楽大作なんだろうと期待していたのだが、内容としてはそれとは真逆の超こじんまりおしゃべり映画だった。
メインキャラクターは2人だけ。ほぼイスタンブールのとあるホテルの一室だけで展開する密室会話劇という、まるで舞台のような映画である。
ここまでスケールの小さい地味な映画はミラー監督としては異質。期待を裏切られたという気もしないでもないが、アクション/ヒューマンドラマ/ホラー/コメディ/動物/アニメーションと、作品ごとにガラッとジャンルを変えるのが監督の持ち味であるわけで、ガッカリしたというよりもむしろ「おっ!こういう映画も撮れるのか!」と膝を打ちたくなる気分の方が強かった。
「孤独な女学者とロマンチストなジンの恋物語」という建て付けではあるが、これを素直に受け取ると大切なものを見落としてしまう気がする。正直、ラブストーリーとしてはあまりにも不細工。第一の願いまでに時間がかかりすぎだし、そこから第三の願いでジンを自由にするまでは性急すぎる。この2人のロマンスに胸を躍らせた観客は1人も居ないんじゃない?
近年観た映画では一番の難物。一体この作品はどう捉えるのが正解なのか、鑑賞から数日経った今でもわかっていないというのが本音。
ただ一つ言えるのは、どうやらこれは「物語」とは何なのかについて言及している作品なのだということ。
三千年もの永きに渡り、物語を溜め込み続けたジン。彼がアリシアに語る物語は、「愛」「嫉妬」「欲望」「戦争」「悲しみ」「学問」と、まさに人類の歩みを凝縮したかのような内容である。「口承」によって伝えられるその物語を受け取ったアリシアは、最終的にそれを書物に認める。これは口承文学から記載文学への発展を表しているのみならず、人類の遺してきた歴史を受け継ぎ、それに自分の体験や経験を付け加えることで初めて物語は物語たり得るのだということの示唆にもなっている。
また、ジンを物語が擬人化した存在だと捉えるならば、彼を愛するということは物語自体を愛することだと言える。物語はその人を癒し、また他者に対して寛容になる優しさも与えてくれる。しかし、一方的な搾取はだんだんと物語を痩せ衰えさせる。物語の豊かさを維持するためには、自らも新たな物語を生み出すより他はないのだ。
愛とは与えられるものではなく与えるものである、という言葉を実践するかのように、アリシアは物語を描き始めるわけだが、これはミラー監督から新たな物語を紡ぎ出そうとするクリエイターへ、そして何より80代を迎えようとしてなお第一線の映画監督として歩み続ける自分自身へと送るエールであり、死ぬまでオレはストーリーテラーを辞めへんで!という宣言なのではないだろうか。
まるで監督の所信表明演説のような作品で、老境に入った監督の意地と覚悟が表れている。
ただ、独り身の女性には愛する男性が必要だ、という異性愛至上主義的なメッセージの映画に見えてしまうきらいはある。多分にフェミニズム的な要素を含んでいる作品な分、そこがちょっと気になるような気もするがまあ許容範囲内か。
爽やかな映画だし映像も美しい。『アラジン』(1992)みたいな冒険活劇を期待しなければそこそこ満足できるんじゃないでしょうか。期待しすぎは禁物!💦
存在
また、レビューを消されるかもしれないけど、とりあえず、レビューしてみる。
映像も魅力的だし、脚本も中弛みを(個人的には)感じたが、知的で楽しめた。
ジンの存在とは何なのか?。
ジン生3,000年も歩けないが、誰かと出会い、誰かと別れ、また再び、愛を与え合える人であれ…
そんな話だった。
三千年の願い、叶いますように
物語の効力というか、役割というか、、
ちょっと考えさせられた
…ラストの楽しげな恋人たちに幸せそうな家族と、いわゆる「リア充」な人々と主人公を
比較してしまうと元も子もない気もした。
だからずっと好きで映画(物語)を見てきている身にとって、
あのジンとアリシアの幸せそうな後ろ姿は、逆に陰鬱というか内向的なエンディングに感じて少し落ち込んでしまい
8 1/2がアッパー系なら、こっちはダウナー系に思える。
妄想の恋物語
うーん。
とても興味ある監督なんだが、この作品は監督の想いが違う形で形成された様な作品です。
恋物語を語りたかったのかなあ。
1人の女性が文学の世界で生き、その文学の副産物として創り出された魔人なのか?どうしての疑問が残った。
主人公の妄想というフワッとした中で生み出され完結するんだけど、その世界観が馴染めなかった。
マッドマックスの監督の初おとぎ話ファンタジーロマンス映画
とにかく映像が綺麗で表現が小説や絵画をみてるみたいで芸術的だったのですが結構ファンタジー要素が強いのでそこまで癖なくみれた気がします‼️
ファンタジーといっても3つの願いを叶えてくれるジンとナロトロジー(物語論)の専門家アリシアのロマンスストーリーがメインなので大人のファンタジーっていう感じ🤔✨✨
マッドマックスシリーズで有名なジョージ・ミラー監督がファンタジー要素強めな作品をつくったのには驚きでしたが、
すごくストーリーや映像・衣装・音楽などの緻密な部分までこだわっているのが伝わってきて、今後ディズニーなどのアニメ作品になっている原作の小説などをジョージ・ミラー的解釈で新たな物語としてみてみたいなって思います。
今作はディズニー製作のアラジンに出てくる青い魔人ジーニーとは違って、人間に優しいのかと思いきやそうではなく3つの願いを叶えるために厳しい線引きをするという点があるのでより本当のイスラム世界の「千夜一夜物語」に登場するジン(精霊や魔人)に近いのかなって気がしました。
人間は愚かな生き物だから3つも願いを叶えてあげましょうといわれたら最初と二つ目は理性的なものかもしれないけど、最後の願いは心の底に眠る人間の本質的な邪悪な部分が露呈してしまうのかもしれないと思いました。
要するに自分が頑張らないで他者や何かに頼ってしまうと人生がいい方向ではなく、どんどん破滅への道に進んでしまうということを教えてくれてるような感じです☺️✨✨
2024年に私の好きなアニャ様主演のフュリオサが公開予定なのでそれまでにマッドマックスシリーズを制覇したいと思います。
※ジョージ・ミラーの作品は昔DVDを借りて、ベイブをみたのがはじめてで劇場で鑑賞した作品は今回初なので星4評価にしました。
対盤
ジョージ・ミラー監督最新作という事で、マッドマックスとはだいぶ毛色が変わったなと思いつつ鑑賞。平日の昼間でしたが、結構人が入っていました。
願い事を叶える旅に出る冒険活劇的なものだと思っていましたが、基本的には魔人のジンがアリシアの元へやってくるまでの道中の話がメインで展開されます。ここが思っていたのと違った点で、もう少し現代パートで絵変わりがあれば良かったのになとは思いましたが、その道中がそこまで悪くないので、退屈とまではいきませんでした。
最初の人に仕えてから、海に放置されての2500年、王宮で女性に仕えたけれど、その女性の3つ目の願いが叶えられずに床下に幽閉、その床にふくよかな女性が座って破壊して復活したけれど叶えれずに幽閉、うまいこと海に流れて魚に食べられたのちに胃袋から出てきて天才少女に拾われるものの、直前で愛に芽生えてしまい3つ目の願いを断ってしまい自ら幽閉、そして現代になりたまたま購入した瓶を拭いたら出てきてアリシアと対話するという感じで物語はまとまります。
魔神の話のパートの映像は神秘的な映像が続き、VFXもふんだんに盛り込まれており目が楽しくなる映像まみれでした。それぞれの時代の装飾や背景、隙のない作りには舌が唸りました。
普通の日常を求めてたどり着いたラストはインパクト不足ではありましたが、なんだかニンマリしてしまったので1本取られたなと思いました。ミラクルキックで少年にボールを返すシーンも好きです。小難しい話になってしまったので全部をしっかり理解するまではいきませんでしたが、充実を求めた結果がこうならそれはそれで良いのかなと。
役者陣は皆活き活きしており、ただでさえデカいのにさらに巨大化したイドリス・エルバは見ものでした。
期待しすぎたら肩透かし食らってしまいますが、ゆとりを持った気持ちで観たら楽しい作品になるんじゃないかなと思います。
鑑賞日 2/28
鑑賞時間 13:50〜15:50
座席 E-9
魔人の苦悩
何の情報もない状態で鑑賞
最初はハムナプトラみたいなアクションなのかなと思ってましたら
びっくり
物語ガッチリ系でした
そして
その時代ごとの世界観が
しっかり伝わってくると共に
3000年にも渡る魔人の苦悩に
切なくなりました
そして、現代
魔人はこの200年の間に
すっかり変わってしまったと
言ってましたが
まさにその通りな気がしました
魔人にも我々にも
生きづらくなっているのかな
ホメロス
物語論の研究をする女性博士と、彼女の前に現れた3つの願いを叶えてくれる魔人の話。
物語を語る会で訪れたイスタンブールのバザールで買ったガラス瓶を洗っていたら、栓が抜けて魔人が現れというストーリーで、願い事を言わないビニーに願いを言って貰いたいジンが過去3000年に渡る3度の幽閉に至る出来事を語っていく。
意志を超えた想像力で失神しちゃうビニーのそれまでの様子や学生時代のエピソードから、今回も?となりつつも、シバやソロモンに始まる物語はなかなか面白く、あれ?ただのおしゃべり好きな兄ちゃんですか?な感じw
そしてい話しを聞いたビニーの決断からは、えっ?そんなのあり!?からの地下室のヤツはどういうこと?
そして最後は時々通ってということですかね…そしてそして、ジンは事実なのか、それともビニーの?
…ファンタジーな寓話ということで。
とっても素敵なメロドラマ。
なんだけど、多分。時代も国籍もなんのその、の愛の物語、なんかも知れませんが。
もうダメ。ラス前20分あたりから完全にダメ。イヤ、だから、彼を現代社会に縛りつけちゃダメでしょうが。そこはバイバイしようや、大人なら。的な気分ですもん。
昔話パートは無茶苦茶魅力的でしたが、現代に話が戻って来て、私を愛して!から、個人的には暗転ですw
え?えええぇえー?
ってなりませんか?
やっぱり、ミリヲタ理系脳には、愛の物語はムリですわ。ネコに小判?
ムリだった。
かなりw
と言うか、ティルダーーー!
最近、大丈夫ですか?
日本公開の前作は爆睡もので、コレもちょっと....
あ。今、気づいた。コレがアン・ハサウェイとかなら、素直に物語を受け入れたかもw
下手にティルダとか使うもんだから、え?愛してですか?になるんかも知れませんわw
【”MAD MAX 怒りのデスロードのアラビアンナイトバージョンかな?等と思って観ると痛い目に合う作品。”今作は孤独な魔人と諦念に満ちた女性神話&物語研究者との恋物語なのである。(私の勝手な解釈。)】
ー ♪ティールダ、ティルダ、ティールダ、ティルダ、スウィントン♪と、徹子の部屋のメロディを梅毒にヤラレタ脳内で、リフレインしながら劇場へ。
そう、脳内では勝手に、”MAD MAX 怒りのデスロードのアラビアンナイトバージョンだよな!”と思って観に行ったのである、私は。ところが・・。-
◆感想
・神話や物語の研究者、アリシア(ティールダ・スウィントン)は、講演の為に訪れたトルコ・イスタンブールのバザールで、ガラスの小瓶を購入する。ホテルに帰り、瓶の汚れを落とそうと電動歯ブラシ(だよね?)でゴシゴシ洗っていたら、蓋が始め跳び、中から超大男のジン(以下、魔人)(イドリス・エルバ)が現れ、”三つの願いを叶えるよう”と宣う。
ー あれれ、全然MAD MAXじゃないじゃん・・。”
・中盤までは、確かにアラビアンナイト風の3000年にも渡る、魔人が語る数々の物語が、アラビアンナイト感満載で描かれる。
あのVFXを多用した、エキゾチックな物語の数々は面白く鑑賞。
太った女性群との酒池肉林(まさに字の如く・・。)は凄かったなあ・・。
・だが、御存じの通り夢を叶える物語が必ずしもハッピーエンドにならない事は衆知の事。それを知っているアリシアは魔人の申し出を受けない。
・そのうちに、魔人はシバの女王との悲恋の話を始めるが、矢張りどれもアンハッピーエンドで、何度も魔人が瓶の中に閉じ込められてきた孤独で哀しき過去を持つ事をアリシアは知るのである。
そして、アリシア自身も、親兄弟はなく、夫とも別れ寂しき独り身・・。
<そんな二人が、お互いを失いたくないという想いに駆られるのに、そんなに時間は必要なかった・・。
今作は、所々、分かりにくい部分もあるが、エキゾチックな物語の数々のシーンや、ラスト、魔人がアリシアを抱きかかえるように歩き去る姿は、中々良かったな・・。>
「物語」と“何故人間というものは物語を求め綴るのか”を描いた映画。
①「魔法のランプ」に基づいたドラマや映画は沢山あるが、ランプの中に閉じ込められていた魔人と魔人をランプから出した人間とのロマンスを描いた映画はこれが初めてでは。(TVドラマでは男女反対で『可愛い魔女ジニー』ってのがありましたが)
②「物語学」(または「物語論」※narratology)というものが有るのを初めて知った。
主人公をその研究者にしたのは上手い設定。
呼ばれたイスタンブール(イスラム世界)での講演会の席上、彼女は「物語」が生まれた背景等を簡略にスピーチするが、今後の情報技術の発達で「物語」というものは死滅してしまうだろう、と言ったところで何処からともなく現れた老人(後に魔人の物語の中で出てくる王を唯一楽しませた老人?)に“ふざけるな!”と一括されて気絶してしまう。
それと、この映画は物語り形式が「入れ細工」になっているのも特徴的。
先ずはこの映画(「物語」)の語り手として主人公がいる。その物語の中に「ランプと自分の物語」を語る魔人が出てくる。
この映画は物語の語り口として二重構造を取っているわけだ。
そこで、主人公が「物語学」の学者だという設定が効いてくる。
「物語」というものを研究しているから、普通の人間ならすぐ“引っ掛かってしまう3つの願いを叶える”という話に簡単に乗ってこない。“3つの願い”の話は大概欲をかいた人間の失敗談で終わってしまうことを研究して知っているからだ。
何とか自由な魔人に戻れるようアリシアに自分の3000年間の物語を話すも3つの話も全て人間の欲望・愚かさ等(自分の愚かさも含まれる)によりアリシアの言う通りハッピーエンドとはほど遠い。
※魔人(ジン)についてWekipediaで調べてみると、この映画の内容に関する部分は下記の通り:
知力・体力・魔力全てにおいて人間より優れるが、ソロモン王には対抗できないとされる。ソロモン王はジンを自在に操り(これでソロモン王が魔人を壺に入れることが出来た理由が分かった)、神殿を立てる際にもジンを動員したと言われている。
クルアーンに拠る公認教義では、ジンは人間と天使の間に位置する被造物とされる。古典イスラム法でもジンの位置づけを定めているが、ジンが人間と結婚する事についても論考されている。
なお、アラビアンナイト(千夜一夜物語)の伝承で有名な、「シャハラザード姫が残虐な王の悪習を止めさせる為に毎晩一話ずつ話をしてついに成功したとする結末は、後世のヨーロッパ人が追加したものである」ということがそうだが、このエピソードは魔人の語る物語で別の形で取り入れられている。
これらの物語を聞いてアリシアが決断した「願い」は、魔人とアリシアとが相思相違になること。(いささか突飛だとは思ったが)
③孤独を愛する知的で自立した女性を演じるのに現代最高の女優の一人ティルダ・スウィントンはまたとない適役である(まあ、何をやっても上手いけど)(私がこの映画を観ようと思ったのも彼女が出ているから)
一方、イドリス・エルバも3000年も人間たちを見ながらひねくれもせず厭世的にもならなかった魔人を、酸いも甘いも噛み分けたような包容力のある演技で魅力的に造形している。
殆ど二人だけの芝居ながら(魔人が話す「物語」部分は劇中劇なのでここでは省きます)、この二人の好演で飽きさせない。
④
貧乏揺すり
"ストーリーテリング"についての壮大なCGを駆使した西洋画のようなルックと作劇であり、哲学と思想的、且つロマンティシズム溢れる作品である
但し、これが非常に難解な哲学故に、ストーリーそのもののシンプルさとの結びつきを見出すことが困難な思考を余儀なくされるのである
なので、本作を充分に理解したいのならば何回も観るべきなのであろう 色々な伏線と回収が散りばめられている所も、"塵"である人間ならではの成せる技なのかもしれない
ラストの解釈は特に困難を極める 私は、『愛しすぎるが故にジンの能力が徐々に削がれるから、たまに通い婚でいいじゃね』的に思ったのだが、考察サイトではそうじゃないらしい・・・
そんな具合に、その物語を受取った人がそれぞれの考えを持っていいのではという多様性の話であるという結論なのだが、これも間違っているのかな?(苦笑
心のなかの願望をすくいあげる魔人
ストリーミングサービスの普及により、人々は映画館に足を運ぶことなく新作映画を楽しむようになる。コロナ禍がその流れをいっそう押し進め、「ソーシャルディスタンス」の要請は映画撮影の現場にも支障をきたす。
そんな社会背景のもと、2022-23年にかけては映画にまつわる「価値」を問い直すような作品が続々とリリースされているようにも思える。
デミアン・チャゼル監督の『バビロン』は、映画製作の現場における熱狂を描く。サム・メンデス監督による『エンパイア・オブ・ライト』は、映画館を舞台にした感動的な人間ドラマである。巨匠スティーブン・スピルバーグは自らの幼少期の記憶に基づいて、映画のもつ夢の力を描く『フェイブルマンズ』を制作した。
(いずれも筆者未見ではあるものの)これらの作品は、映画制作や映画業界そのものの楽しさを描いたり、映画館という場所の良さを強調するものであるように思える。
このように、映画の持つ様々な「価値」を描く作品が続々と公開される中で、本作『アラビアンナイト 3千年の願い』は、物語の持つ意味とは何かを問いかける。
映画とは、まず映像を主体とした芸術であることは当然のことながら、そこにはストーリー、ナラティブがある。単なる映像ではなく、基本的には「物語」である。
そういった物語は、我々の願望を具現化したものが多い。私たちが日常生活で我慢している気持ちを解放したり、理想的な生き方を提示してくれたり、理想の社会を映像化してくれたり、空想の世界や非現実的な体験をさせてくれたりする。
普段の生活、通常の人生を送っていて、(あらゆる意味で)「できないこと」を映像にすることで、私たちの心を満たしてくれるのが映画の役割でもある。
映像として提示されることによって初めて「これが自分の心が求めているものなのか」と気づく場合もあるが、私たちは日常生活を送りながら、理想を追い求めている瞬間がある。例えば歯を磨いている瞬間や、シャワーを浴びている瞬間。靴紐を結んだり、家から外に出て歩いている瞬間。私たちの心はどこかを彷徨って、「あれをしたい」「これをしたい」と、願望を抱いている。
それは映画に出てくるような非現実的な空想であるとは限らない。単に「新しい家具が欲しい」とか「旅行の計画を立てようかな」ということでもいい。
ここで重要なのは「私たちの心が彷徨いながら、自分が実現したいことについて考えている瞬間が、普段の生活の何処かにある」ということだ。もう少し重要な、人生の転機...例えば「転職しようかな」といったことでもいい。
こういった「私たちの心が彷徨いながら抱いている願望」というのは、ポジティブで、自分の生活や人生をよりよくしたい、という真っ当な根拠に基づいている。もう少しスケールが大きくなれば「自分たちの社会をよりよくしたい」「こんな仕組みができたらいいな」といった社会変革に繋がるようなものでもいい。
そういう、「理想を実現したい気持ち」をすくいあげようとするのが、劇中に登場した魔人"ディン"なのではないか。この魔人が、主人公の妄想や幻覚にすぎないのか、それとも現実なのかはそれほど重要なことではない。
彼女にとってこの魔人は、幼少期に現れたという少年の幻影と同じようなものなのではないだろうか。
この「願望をすくいあげる幻影」は、基本的に彼女が1人の時に限って登場する。
これはあくまで個人的な体験に基づいているが、他者と接する時、社会の慣習やマナーだとか、いろいろな決まりに縛られて「本当の自分」を解放できないことが多い。これは、「自分の願望」が著しく抑圧された状態である。
一方で、「1人の時間」「自分だけの時間」ができると、心が解放され、自分の願望について考える時間になる。
彼女の心の中の魔人が登場するのも1人の時間であり、孤独を好む彼女は、自分自身と向き合う時間が多く取れていることだろう。
ところが、(夫と別れたことで彼女の心に埋められないものができたかどうかはわからないが)彼女は孤独を愛し、自分の知識を満たすことに1人の時間を費やし、学問によって生活もできており、他者に頼る必要もなく、すっかり願うものがない。
そんな彼女の影で、過去の歴史上、宮廷奴隷として扱われた女性や、自宅に監禁された少女など、「自己実現できなかった女性たち」の存在が、魔人の口から語られる。
(本作の監督ジョージ・ミラーは、女性が主役となった『マッドマックス』を制作し、ジェンダー的な観点から大絶賛を浴びたクリエイターでもある。『マッドマックス』に登場した女リーダーを主人公にした『フュリオサ』の公開も控えている。)
主人公の隣人である女性たちは旧来的・家父長制度的な考え方を強く抱いており、彼女に雑念を植え付けようとするが、彼女は1人の時間を作ることで再び、心の中の魔人、物語をつくる「願望」と向き合う。
・・・・
古来、神話や宗教は、世界の成り立ちや自然現象に関する説明を巻き込みながら、時に政治的な意図で、権力者の神格化・権威づけや正統性の主張のために利用された。
自然科学の発達や経済的な豊かさによって、政治における「物語」の居場所はどんどんなくなっていく。私たちの信念や信条、行動が、聖書のような宗教的物語によって縛られることも少なくなっていく。
それでもなお、我々の願望を実現する「物語」は、映画の中で生き続けている。
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注)
戦争映画、恐竜映画、宇宙SF、アクション
恋愛映画
社会性のある映画...人種、ジェンダー
こういった「日常にはないもの」「夢のあるもの」「理想の生活・生き方・人生・社会を提示してくれるもの」というのはあくまで映画作品の一部で、ミステリー映画のように謎解き目的で知的能力を試したり、映画の手法を色々と実験するような「映画のために作られた作品」、芸術的意図を持って作られた作品というものもあるから、「願望を実現する」というのは映画の役割の中でもあくまで1つです。(それでも、現実生活ではほとんど体験できない出来事を映像化することがほとんどですね。)
・・・・・
私たちの心の奥底に眠っている願いは、忙しい日常生活の中で、社会の要望に答えているうちに立ち消えてしまいがちだ。他者と接していると、心の中の願いは居場所を失ってしまう。
そんな「願い」と向き合い、よく観察し、心の中に居場所を確保してあげること。そして他者と相対しながらもその願いのままに生きること。「これが自分の生き方だ」と提示すること。
自分の生き方が、これまでの「普通」とは異なることに、不安を覚える日もある。それでもそんな自分を愛して欲しい。認めて欲しい。
この映画に込められたのはそんなささやかなメッセージであるように思う。
(2月24日追記)
・・・・
【もう少し詳しく】
この映画の中で、魔人"ディン"の口から、3つの物語が語られます。
いずれも女性を主人公とし、どのストーリーでも、最後には魔人が封印されてしまいます。
この3つの物語には、2通りの解釈が存在します。
1つ目は「主人公が女性として生きてきた中で、自分の生き方、可能性について脳内で検討してきたことを物語に仕立てたもの」
2つ目は「過去の歴史上、女性たちがどう扱われてきたか。そして彼女たちには気づきもしなかった、その当時は願うこともできなかったことがあった」ということ。
いずれの解釈においても、魔人は、「女性としての願い」あるいは「主人公の願い」を意味します。
1つ目のストーリーは、シバの女王とソロモン王とのラブロマンスです。
しかし2人が結ばれたとき、魔人は封印されてしまいます。
このことは、主人公が過去に男性と恋に落ちたことにも対応しますし、「ここから男性優位社会が始まる歴史」を意味しているようにも思えます。
実際、シバの女王の物語においては彼女こそが世界を統べる存在として君臨していたのに対し、あとの2つの物語においては、女性の主人公たちはいずれも、宮廷奴隷、そして人身売買によって性奴隷となった少女です。
また、シバの女王が何かを欲する時に喉を鳴らすのと同じように、主人公にも「何かを欲する時に唾を飲み込み喉を鳴らす」という癖があります。このことは、シバの女王が主人公の投影である、という可能性に気づかせるサインでもあります。
シバの女王が男性と恋に落ちると、「恋は盲目」ということわざ通りに、女王は魔人=「人生の可能性や心に秘めた理想、まだ見ぬ自分の理想」を忘れてしまい、ディンは封印されてしまうことになります。
2つ目のストーリーは、皇位後継者の子を宿したものの、宮廷策略に巻き込まれて亡くなってしまった若い女性奴隷の物語です。
主人公は、過去にある男性と恋に落ちて結婚しましたが、どうやら妊娠や出産の経験はなさそうです。したがって、もしも2つ目のストーリーが主人公の経験に基づいているとみなすならば、「妊娠や出産の可能性を検討したが、その先がなかったこと」を表しているように思われます。
女性の幸せが妊娠や出産に限定されていた時代や地域があった(そして今でもあるorそういう考え方をする人もいる)事実は、「過去の女性の扱われ方を表している」という解釈に合致しますね。
このストーリーで魔人が封印されてしまうのは、「妊娠・出産のその先のなさ」の象徴であり、閉塞感ゆえなのかも知れません。
※この考察は、妊娠や出産を肯定的に捉え、それを目標として生活する女性の願いを否定するものではありません。個々人の願いは様々で、妊娠・出産・育児をしたい人もいれば、そうではない人もいるでしょうから。ここでいう「閉塞感」とは後者の女性に対して当てはまるもので、妊娠・出産とは異なる人生の可能性を模索しても道を塞がれてしまうような閉塞感のことを指します。
3つ目のストーリーは、人身売買によってか、老齢の男性と結婚し、性奴隷として監禁されてしまった12歳の少女の物語です。
少女は非常に知的で、貪欲であり、電磁気の方程式を編み出すものの、それを世に出すことなく終わってしまいます。
※劇中に登場する方程式は、実際の物理学のものです。「マクスウェル方程式」と呼ばれ、電磁学の基本原理となる4つの式です。理系の学生は大学で学びます。
この少女のストーリーは、「男性優位社会ゆえに才能を認められなかった人々の存在」を示唆しているようにも思えますし、学求心の旺盛な主人公自身の投影として、「女性だから認められなかった」という、過去の障壁、あるいは「女性だから認められないのでは?」という不安や恐怖心などを象徴しているのかも知れません。
実際、3つ目のストーリーに登場する少女には貧乏ゆすりの癖がありますが、主人公自身も貧乏ゆすりをしながら仕事に向かう姿が描かれていますね。
主人公はナラトロジーの研究者としてある程度成功しているようで、講演会の舞台にも立っていますから、どちらかというと現実世界の我々に対し、才能ある女性の活躍の舞台を妨げてはいないか?という問いを投げかけているメッセージのようにも思えます。
才能があっても自分の活躍の場を持てず、世間に認められることのない時代背景ゆえか、魔人は封印されてしまいます。ここでの魔人は、自己実現願望の象徴とも言えますね。
映画のラストで主人公と魔人が愛し合うのは、「孤独で知に生きる主人公が、そんな自分の生き方を愛することができるようになったこと」を表しているとも言えますし、そんな社会が今現実のものとなりつつある、あるいはそうあって欲しいという願いが込められているのかも知れません。
この映画が、性別を問わずあらゆる人の心の中にある願いの存在を否定するものではないと思いますが、主に女性に向けての物語であると捉えたとき、「あなたはどんな社会になって欲しいですか」「女性としてどう生きたいですか」と問いかけているようにも思えます。
※都合上、男女二元論のような書き方になりました。
「3千年の願い」とは、女性のための、まだ見ぬ理想の生き方なのかも...
(2月25日追記)
じじばばの恋?
評判がよさそうだったので、初日に見てみました。結論・感想は「じじばばの恋」でしょうか? 映像も良く、語りかけるような展開もよいのですが、ちょいと抑揚が小さいような気がしました。ジンとアリシアが恋におちる理由・契機もよくわかりません。この映画を好む人と好まない人で大きく別れるような気がしました。
<主な基準(今後のためのメモ)>
4.0 おすすめできる映画、何かしら感慨を感じる映画
3.5 映画好きなら旬なうちに見てほしい映画
3.0 おすすめはできるが、人により好みが分かれると思われる映画
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