「心のなかの願望をすくいあげる魔人」アラビアンナイト 三千年の願い f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
心のなかの願望をすくいあげる魔人
ストリーミングサービスの普及により、人々は映画館に足を運ぶことなく新作映画を楽しむようになる。コロナ禍がその流れをいっそう押し進め、「ソーシャルディスタンス」の要請は映画撮影の現場にも支障をきたす。
そんな社会背景のもと、2022-23年にかけては映画にまつわる「価値」を問い直すような作品が続々とリリースされているようにも思える。
デミアン・チャゼル監督の『バビロン』は、映画製作の現場における熱狂を描く。サム・メンデス監督による『エンパイア・オブ・ライト』は、映画館を舞台にした感動的な人間ドラマである。巨匠スティーブン・スピルバーグは自らの幼少期の記憶に基づいて、映画のもつ夢の力を描く『フェイブルマンズ』を制作した。
(いずれも筆者未見ではあるものの)これらの作品は、映画制作や映画業界そのものの楽しさを描いたり、映画館という場所の良さを強調するものであるように思える。
このように、映画の持つ様々な「価値」を描く作品が続々と公開される中で、本作『アラビアンナイト 3千年の願い』は、物語の持つ意味とは何かを問いかける。
映画とは、まず映像を主体とした芸術であることは当然のことながら、そこにはストーリー、ナラティブがある。単なる映像ではなく、基本的には「物語」である。
そういった物語は、我々の願望を具現化したものが多い。私たちが日常生活で我慢している気持ちを解放したり、理想的な生き方を提示してくれたり、理想の社会を映像化してくれたり、空想の世界や非現実的な体験をさせてくれたりする。
普段の生活、通常の人生を送っていて、(あらゆる意味で)「できないこと」を映像にすることで、私たちの心を満たしてくれるのが映画の役割でもある。
映像として提示されることによって初めて「これが自分の心が求めているものなのか」と気づく場合もあるが、私たちは日常生活を送りながら、理想を追い求めている瞬間がある。例えば歯を磨いている瞬間や、シャワーを浴びている瞬間。靴紐を結んだり、家から外に出て歩いている瞬間。私たちの心はどこかを彷徨って、「あれをしたい」「これをしたい」と、願望を抱いている。
それは映画に出てくるような非現実的な空想であるとは限らない。単に「新しい家具が欲しい」とか「旅行の計画を立てようかな」ということでもいい。
ここで重要なのは「私たちの心が彷徨いながら、自分が実現したいことについて考えている瞬間が、普段の生活の何処かにある」ということだ。もう少し重要な、人生の転機...例えば「転職しようかな」といったことでもいい。
こういった「私たちの心が彷徨いながら抱いている願望」というのは、ポジティブで、自分の生活や人生をよりよくしたい、という真っ当な根拠に基づいている。もう少しスケールが大きくなれば「自分たちの社会をよりよくしたい」「こんな仕組みができたらいいな」といった社会変革に繋がるようなものでもいい。
そういう、「理想を実現したい気持ち」をすくいあげようとするのが、劇中に登場した魔人"ディン"なのではないか。この魔人が、主人公の妄想や幻覚にすぎないのか、それとも現実なのかはそれほど重要なことではない。
彼女にとってこの魔人は、幼少期に現れたという少年の幻影と同じようなものなのではないだろうか。
この「願望をすくいあげる幻影」は、基本的に彼女が1人の時に限って登場する。
これはあくまで個人的な体験に基づいているが、他者と接する時、社会の慣習やマナーだとか、いろいろな決まりに縛られて「本当の自分」を解放できないことが多い。これは、「自分の願望」が著しく抑圧された状態である。
一方で、「1人の時間」「自分だけの時間」ができると、心が解放され、自分の願望について考える時間になる。
彼女の心の中の魔人が登場するのも1人の時間であり、孤独を好む彼女は、自分自身と向き合う時間が多く取れていることだろう。
ところが、(夫と別れたことで彼女の心に埋められないものができたかどうかはわからないが)彼女は孤独を愛し、自分の知識を満たすことに1人の時間を費やし、学問によって生活もできており、他者に頼る必要もなく、すっかり願うものがない。
そんな彼女の影で、過去の歴史上、宮廷奴隷として扱われた女性や、自宅に監禁された少女など、「自己実現できなかった女性たち」の存在が、魔人の口から語られる。
(本作の監督ジョージ・ミラーは、女性が主役となった『マッドマックス』を制作し、ジェンダー的な観点から大絶賛を浴びたクリエイターでもある。『マッドマックス』に登場した女リーダーを主人公にした『フュリオサ』の公開も控えている。)
主人公の隣人である女性たちは旧来的・家父長制度的な考え方を強く抱いており、彼女に雑念を植え付けようとするが、彼女は1人の時間を作ることで再び、心の中の魔人、物語をつくる「願望」と向き合う。
・・・・
古来、神話や宗教は、世界の成り立ちや自然現象に関する説明を巻き込みながら、時に政治的な意図で、権力者の神格化・権威づけや正統性の主張のために利用された。
自然科学の発達や経済的な豊かさによって、政治における「物語」の居場所はどんどんなくなっていく。私たちの信念や信条、行動が、聖書のような宗教的物語によって縛られることも少なくなっていく。
それでもなお、我々の願望を実現する「物語」は、映画の中で生き続けている。
・・・・・
注)
戦争映画、恐竜映画、宇宙SF、アクション
恋愛映画
社会性のある映画...人種、ジェンダー
こういった「日常にはないもの」「夢のあるもの」「理想の生活・生き方・人生・社会を提示してくれるもの」というのはあくまで映画作品の一部で、ミステリー映画のように謎解き目的で知的能力を試したり、映画の手法を色々と実験するような「映画のために作られた作品」、芸術的意図を持って作られた作品というものもあるから、「願望を実現する」というのは映画の役割の中でもあくまで1つです。(それでも、現実生活ではほとんど体験できない出来事を映像化することがほとんどですね。)
・・・・・
私たちの心の奥底に眠っている願いは、忙しい日常生活の中で、社会の要望に答えているうちに立ち消えてしまいがちだ。他者と接していると、心の中の願いは居場所を失ってしまう。
そんな「願い」と向き合い、よく観察し、心の中に居場所を確保してあげること。そして他者と相対しながらもその願いのままに生きること。「これが自分の生き方だ」と提示すること。
自分の生き方が、これまでの「普通」とは異なることに、不安を覚える日もある。それでもそんな自分を愛して欲しい。認めて欲しい。
この映画に込められたのはそんなささやかなメッセージであるように思う。
(2月24日追記)
・・・・
【もう少し詳しく】
この映画の中で、魔人"ディン"の口から、3つの物語が語られます。
いずれも女性を主人公とし、どのストーリーでも、最後には魔人が封印されてしまいます。
この3つの物語には、2通りの解釈が存在します。
1つ目は「主人公が女性として生きてきた中で、自分の生き方、可能性について脳内で検討してきたことを物語に仕立てたもの」
2つ目は「過去の歴史上、女性たちがどう扱われてきたか。そして彼女たちには気づきもしなかった、その当時は願うこともできなかったことがあった」ということ。
いずれの解釈においても、魔人は、「女性としての願い」あるいは「主人公の願い」を意味します。
1つ目のストーリーは、シバの女王とソロモン王とのラブロマンスです。
しかし2人が結ばれたとき、魔人は封印されてしまいます。
このことは、主人公が過去に男性と恋に落ちたことにも対応しますし、「ここから男性優位社会が始まる歴史」を意味しているようにも思えます。
実際、シバの女王の物語においては彼女こそが世界を統べる存在として君臨していたのに対し、あとの2つの物語においては、女性の主人公たちはいずれも、宮廷奴隷、そして人身売買によって性奴隷となった少女です。
また、シバの女王が何かを欲する時に喉を鳴らすのと同じように、主人公にも「何かを欲する時に唾を飲み込み喉を鳴らす」という癖があります。このことは、シバの女王が主人公の投影である、という可能性に気づかせるサインでもあります。
シバの女王が男性と恋に落ちると、「恋は盲目」ということわざ通りに、女王は魔人=「人生の可能性や心に秘めた理想、まだ見ぬ自分の理想」を忘れてしまい、ディンは封印されてしまうことになります。
2つ目のストーリーは、皇位後継者の子を宿したものの、宮廷策略に巻き込まれて亡くなってしまった若い女性奴隷の物語です。
主人公は、過去にある男性と恋に落ちて結婚しましたが、どうやら妊娠や出産の経験はなさそうです。したがって、もしも2つ目のストーリーが主人公の経験に基づいているとみなすならば、「妊娠や出産の可能性を検討したが、その先がなかったこと」を表しているように思われます。
女性の幸せが妊娠や出産に限定されていた時代や地域があった(そして今でもあるorそういう考え方をする人もいる)事実は、「過去の女性の扱われ方を表している」という解釈に合致しますね。
このストーリーで魔人が封印されてしまうのは、「妊娠・出産のその先のなさ」の象徴であり、閉塞感ゆえなのかも知れません。
※この考察は、妊娠や出産を肯定的に捉え、それを目標として生活する女性の願いを否定するものではありません。個々人の願いは様々で、妊娠・出産・育児をしたい人もいれば、そうではない人もいるでしょうから。ここでいう「閉塞感」とは後者の女性に対して当てはまるもので、妊娠・出産とは異なる人生の可能性を模索しても道を塞がれてしまうような閉塞感のことを指します。
3つ目のストーリーは、人身売買によってか、老齢の男性と結婚し、性奴隷として監禁されてしまった12歳の少女の物語です。
少女は非常に知的で、貪欲であり、電磁気の方程式を編み出すものの、それを世に出すことなく終わってしまいます。
※劇中に登場する方程式は、実際の物理学のものです。「マクスウェル方程式」と呼ばれ、電磁学の基本原理となる4つの式です。理系の学生は大学で学びます。
この少女のストーリーは、「男性優位社会ゆえに才能を認められなかった人々の存在」を示唆しているようにも思えますし、学求心の旺盛な主人公自身の投影として、「女性だから認められなかった」という、過去の障壁、あるいは「女性だから認められないのでは?」という不安や恐怖心などを象徴しているのかも知れません。
実際、3つ目のストーリーに登場する少女には貧乏ゆすりの癖がありますが、主人公自身も貧乏ゆすりをしながら仕事に向かう姿が描かれていますね。
主人公はナラトロジーの研究者としてある程度成功しているようで、講演会の舞台にも立っていますから、どちらかというと現実世界の我々に対し、才能ある女性の活躍の舞台を妨げてはいないか?という問いを投げかけているメッセージのようにも思えます。
才能があっても自分の活躍の場を持てず、世間に認められることのない時代背景ゆえか、魔人は封印されてしまいます。ここでの魔人は、自己実現願望の象徴とも言えますね。
映画のラストで主人公と魔人が愛し合うのは、「孤独で知に生きる主人公が、そんな自分の生き方を愛することができるようになったこと」を表しているとも言えますし、そんな社会が今現実のものとなりつつある、あるいはそうあって欲しいという願いが込められているのかも知れません。
この映画が、性別を問わずあらゆる人の心の中にある願いの存在を否定するものではないと思いますが、主に女性に向けての物語であると捉えたとき、「あなたはどんな社会になって欲しいですか」「女性としてどう生きたいですか」と問いかけているようにも思えます。
※都合上、男女二元論のような書き方になりました。
「3千年の願い」とは、女性のための、まだ見ぬ理想の生き方なのかも...
(2月25日追記)
今回、初見で心に残ったのは、
物語を紡ぐ事を恐れるな、
愛とは受け取るものではなく、
与えるものだ、というメッセージでした。m(_ _)m
塵と電磁波のような次元の異なる存在であっても、いつも側に存在せずとも、愛する事、物語を紡ぐ事は出来るのだ、という事。
それを紡いで見せた物語、と感じました。恐らく見る人ごとに千差万別の解釈が可能なジョージミラー的マルチバース物語!凄いです。感謝!
素晴らしい考察レビュー!
ありがとうございます!^ ^
いろいろ分からなかった場面が
腑に落ちました。m(_ _)m
しかし、この映画、何重にも解釈できるように、物語が縦横無尽に交錯しながら、一枚の織物に仕上がっているようですね。
たぶん、何回も見る度に新たな解釈が出来そうで、凄く深い作品なのかも。マッドマックスとは全く違うベクトルです。ジョージミラー監督恐るべき才能ですね!(^^)