「オリジン」ホワイトバード はじまりのワンダー 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
オリジン
ワンダー(2017)でトリーチャーコリンズ症候群の少年オギーをいじめていたジュリアンの後日譚。学校を永久追放されたジュリアンがヘレンミレン演じる祖母に会い、彼女の数奇な過去を知って悔い改めるというスピンオフ映画。ワンダーを書いたのは作家兼グラフィックデザイナーのRJパラシオであり、White Birdはワンダー関連グラフィックノベルの最終章になっている。
とあるレビュー記事にRJパラシオがワンダーを書いたきっかけを述懐したインタビューが載っていた。
彼女が息子たちとアイスクリームを買いに行ったときのこと、顔に障害のある小さな女の子が隣に座った。その顔を見たことで彼女の3歳の息子が泣き出し、パラシオは家族やその小さな女の子に恥をかかせたくなかったので、その場から立ち去った。
『あとになって私は自分の反応の仕方にとても腹を立てました。私がすべきだったのはその少女の方を向いて会話を始め、息子らに何も恐れることはないと示すことだった。しかし結局私はその場を急いで立ち去ってしまったため、その状況を子供らへの教訓に変える機会を逃してしまった。そしてそのことで、どう向き合えばいいのか分からない世界と毎日向き合わなければならないとはどういうことだろう、と深く考えるようになった』
パラシオが言っているのは、人の悪意や無知のことだ。ワンダーはヒューマンな温かみを感じる話になっているが、ちがう顔をもって生まれてきて、そのことで誰かに攻撃される。あるいは今作であれば、人種がちがうというだけで、誰かからころされる。そんなとき、いったいどうしたらいいのか。
つまり『どう向き合えばいいのか分からない世界と毎日向き合わなければならないとはどういうことだろう』が創作の根底にある。
当然、それは怒りでもあったはずだが作家の特徴でワンダーもホワイトバードも対立方向へ持っていくことなく、あくまでヒューマンな丸みへ帰結させるのはさすがだと思う。がんらいワンダーは青少年向けのグラフィックノベルゆえ、ある程度の予定調和になっているのを批判する気はまったくない。
ただ、現実とパラシオの世界観を比較すると、わたしたちはこれほどまでに寛容にはなれない、という気分はある。
おりしも参院選(2025)で誰かの街頭演説を輩達が妨害しているのを見て、たとえそれが不賛成政党への妨害であっても、こんな輩しんでしまえばいいのに、と思う。じぶんは狭量なだけなのかもしれないが、つねに悪い奴はいなくなってもらわなければ困るという立地をとりたい。悪い奴を風教によって作り直すなんて無駄で、犯罪のニュースに「こんなやつ○○しちまえ」と独りごちるのは毎度だが、概して違わない処罰感情を多数の庶民がもっているはずだとは思う。
そんな現実的世界からみるとワンダーもホワイトバードも我慢強く寛容で予定調和する世界だと思うが、むろんそれは悪手ではなく徳育の効能を担っていると思う。
この映画は顔がいい。ポリオで片足が麻痺した少年役Orlando Schwerdtは、朴訥で正直そうな印象が強く、若き日の祖母役Ariella Glaserも天真爛漫な印象がある。
かつてワンダーのレビューに『オギーの顔の造形もどっちかといえば可愛いのです。醜を扱うために徹底的に醜を排除している──その「巧さ」』と書いたが、現実と創作はやはり違う。じぶんはワンダーが偏見をもつなと言っているわりには美しい人間ばかりがでてくる、と皮肉っぽく指摘したのだが、それがダメだと言っているのではなく、登場人物をいい顔にしておくのは、観衆の感興のために、徳育や博愛を訴えるために重要なことだと思っている。