「自己主張できる自由の有難み」カラーパープル movie mammaさんの映画レビュー(感想・評価)
自己主張できる自由の有難み
奴隷制が終了後の1900年代のアメリカジョージア州の黒人社会。
※性被害を被った事がある方は絶対に見ない方が良い作品。
されてきた虐げられた過去を繰り返してしまうからなのか、黒人男性が黒人女性を虐げることが横行している。低収入家庭ではよりひどい。
街中の食材店のオーナーにも関わらず、田舎のカウボーイに娘を売る父アルフォンソ。
しかも娘のセリーは母亡き後、そのアルフォンソの子を2度宿し、産んで、2人とも子を取り上げられている。セリーの妹ネティは賢いから学校の先生にすると言われているのに、扱いの違いに驚く。
女性は性のはけ口と家政婦にすぎない存在だから、妻を亡くし長女がターゲットになってしまったのか?
子供を売る商売のためなのか?
最初はよくわからない。
そこに来た、馬に乗った体たらくそうな男、ミスター。既に3人子がいて悪魔と呼ばれているが、妹ネティを嫁に欲しいとやって来るも拒まれる。代わりにセリーが牛と交換で嫁に出される。
あ、赤ん坊を売る商売のためではなく、娘を単なるはけ口として扱っていたのか、とわかる。
で、嫁いだ先の生活水準は更に落ち、何の愛情もなく、すでにいる3人の子の世話と家政婦とはけ口。
家に残ったネティは父アルフォンソのはけ口役とされそうになり、ミスターのところにいる姉を訪ねてくる。最初はネティを欲しかったミスターは下心があり住まわせることにするが、ネティははけ口にされる事をここでも拒んで、追い出されて姉妹は別れた。
そこから10年。セリーが世話をし続けたミスターの息子、ハーポが妻に連れてきた女性ソフィアは、セリーのように従順ではなく、自己主張もするしハーポに尽くさせようとする。
セリーの夫、ミスターも、街の教会の神父の娘で、酒場のブルース歌手シュグが本当は心に秘めた相手で、シュグが帰郷すると家に泊めなんとご飯まで作ろうとする。
この辺りで気付く。あれ?女性によって扱われ方が違う。セリーが望まぬ扱いを拒んでいないだけなのか?と。でも同時に思う。誰かが声高に理不尽を拒んでも、その皺寄せが誰かに行くだけなんだなと。
セリーはずっと皺寄せ。
ずっとその扱いだからそうされることに慣れてしまって、抜け出せない。親の愛を感じられずに育ち、愛し合って結婚してもいないし、妹とも生き別れ、愛情に飢えているのだが、夫も夫で父親支配の歪んだ愛の中で育って、心にはシュグがいる。
なので、好きでもない優しくない夫を振り向かせようという気持ちもセリーにはないから、おしゃれをする気もわかない。
亡き母との唯一の思い出、裁縫が心の支えで得意分野。こき使われているので料理も上手。
でも、それを褒められたり活かす場は来ない。
セリーが、何にも縛られず街中を夢中にさせるシュグの奔放な生き方に触れると、少しずつ心の声が出始める。この時点ではまだ、シュグの魅力は表面的で尻軽歌手な印象しかなく、女が自由になる=誰にでも足を開くことで生計を立てるに行き着くのかな?と思わされるが、シュグは地元から出てテネシー州メンフィスを拠点にできているので、人権無視のど田舎ジョージアより少しだけ進んだ世界を知っているのだ。
セリーにとって本音が出る分岐点になるところで、鼓動のような音が入り、こうして耐えて生きて繋がれてきた黒人の血がセリーの中でも脈々と生きて、繋がれて今があるのだなと感じる。
シュグが訪ねてきた時、セリーは産まれて初めて地元を抜け出し、夫を置いて、シュグと、メンフィスを訪ねる。産まれて初めて映画を観る。
初めて吸った自由の空気。
そして、シュグもまた神父の父親と確執があり、親の愛に飢えていた。シュグとセリーは何故かキス。
あれ、レズ同士なの?と思うが、そういうことを伝えたいのではなく、はけ口とされてきたセリーの女性としての機能も、本来自由なんだよと自覚させる場面なのかなと思った。心にある異性を愛そうが、同性を愛そうが、本来自由。
あとは、生い立ちに虐待等があると、欠如した愛を埋めるための同性愛があると聞いた事がある。そういうのも関係しているのかな?
シュグの実家は神父だから、異性愛は許されないはずだが、シュグも愛に飢えていて、心の通い合いなのか恋愛なのか、セリーもシュグも混同しているようにも見受けられた。実際、そこから10年近く後、シュグは男性と結婚して故郷に一時的に戻る。
シュグが再び故郷に戻るまでの10年近くも、セリーはずっと家の奴隷をこなして生きていた。
その間、夫の息子ハーポの嫁ソフィアは再婚し2児をもうけるも、白人市長夫人に背いて6年間の投獄。
あぁジョージアの中では先進的な女性像に見受けられた理不尽に逆らうソフィアでも、家の中ではそれを認めてくれる男性もちらほら出て来ても、白人による黒人支配はまだまだあるのだから、黒人×女性×貧困のセリーの圧倒的不利を思い知らされる。
ソフィアの牢獄にそこに毎週面会に尋ねたのもセリーだった。
10年前、シュグはセリーと、生き別れた妹ネティからの手紙を夫ミスターが隠していたのを見つける。
ネティはなんと、セリーが産んだ子達を養子にとった神父夫妻の元に逃げ込み、子供たちの世話をして過ごしていた。更には神父伝道で黒人のルーツアフリカの村を回っていた。後に白人支配が押し寄せて村を焼かれ、難民キャンプを周り、パスポートも焼かれ、アメリカに市民権の書類がないと帰国ができないとなるのだが。
シュグが戻るタイミングで、セリーは夫を殺しかねない怒りの限界を感じていた。シュグに着いてメンフィスに行くことを決意。
その時のセリーの溢れ出す暴言。最高だった。
それを聞いて、6年ぶりに笑えたソフィア。
シュグに着いて行ったらシュグの家で電話が鳴る。
出ると、父親が亡くなったと。
気乗りせずも地元に戻り教会の式に出たあと、実は父親は母親の再婚相手で、セリーは母の最初の夫の子だったと知らされる。
実家の食材店も、実はセリーの父親の物だったので、ゼリーが相続できると。
長年耐えて耐えて、ようやく心の声に従えて自由を手にしたセリー。
何がしたいか考えて、既製ズボン店をオープン。
かつての実家に戻り、心から笑いが湧いて来て、何がしたいか思いつく、このシーンが最も好きだった。
女性もズボンを履く時代が、やっとジョージアの片田舎まで浸透してきていた。
ズボン屋さんのドアの前でセリーが歌うシーンで、正直、客観的に見ないと辛いので、そういう時代だからなぁという目で観ていたにも関わらず、ボロボロ涙が出て来た。自立をできるまでに、思考も身体も心も体力も、全てを奪われて来たセリーが、夫にNOを言え立場をひっくり返せる時が来た。ガツガツ狙って手に入れてきたのでなく、少しの選択が出会いを変えタイミングを引き寄せて。
一方、セリーが出て行き、家事もできず威張れず虐げる相手もおらず、家業の畑は害虫騒ぎで、八方塞がりの夫。悔い改めて、土地を売り、セリーの妹ネティ達が帰国するための資金を密かに用立てる。
セリーからは、やり直すなんてありえず、友達ならなってあげてもいいよと言われるが。
そして迎えた感謝祭。セリーが招いてシュグ、ソフィア、ハーポ、ミスターと勢揃いのところに、妹ネティとかつてセリーが産んだ2人の子供とその子供達が帰国しやってくる。
あれ、神父夫婦はどこ行った?セリーの子供達2人とも、ネティが引き取って良いの?
お互いわかるうちに会いたいという手紙の一文で予想はしたが、帰国したネティ、別人!!!生き別れたネティがリトルマーメイドの子で印象が強かったから、驚き!
とにかく紆余曲折辛いことが沢山あったが、みんながまた集まった。
この輪こそが、セリーがお人好しで、切っても良い人間関係を切らずにいたからこそ、守れた、セリーの人生そのものであり、守れた人間関係であり、繋いだパープルの血である。
善い行いの黒人でなくても、黒人というだけで互いにbrotherと声を掛け合うのはよくわかる。
そうなっている根本原因のどこかに、必ず、黒人という属性がゆえに辛い思いをした理不尽がある。それが先祖にいて、だから生活水準や養育環境の空気に響いてしまったのか、本人が被っているのか、わからないが、辿れる程度の何代か上には、奴隷制が終わってもその影響を色濃く受けた人々がいる。その人達がどんなに理不尽でもどうにか命を繋いでくれて、今の黒人がいる事実がある。深い深い傷が必ずどこかにある。
作中で、前半のセリーの環境は周りが決めていく。抗えば暴力だし、逃げれば誰かがそれを負う。
今ならありえないレイプが当然で、周りの意識を変えていくなど到底無理。
ソフィアやシュグの振る舞いのように、そうよ抵抗しなくては!とは私も思えなかった。したくても後が怖すぎて、行く場もないからできない。
なのでセリーが言う、「生きている」それが何にも勝る価値なんだとよく理解できた。
どう生きるかを選べるどころか考えてよい自由すらなくても、どこかに希望を探して、いつかの自由を信じて生きるしかない。選べる範囲でごくごく小さな選択を少しずつするしかない。そう思わされた。
そして、女が男に支配されずに自由の息を吸うには、とにかく、手に職。男よりもできる何かを身に付けるしかない。1900年代からそうなんだなと思った。
家の建て方や作りは、ディズニーランドの至る所で見受けられるカントリーな感じ。トムソーヤにビッグサンダーにスプラッシュに、全部そんな雰囲気。
そういう粗野なスタイルが、小洒落た雰囲気に作り上げられて商業化されているが、実際には時代を反映した、低所得層の噛み潰している苦虫生活そのもの。酒場など、知識も教養も身につけようがなく畑仕事をするしか生きる術がない者達の発散場だから荒れ者が出る。だから、スプラッシュマウンテンが停止にするほど、アメリカでディズニーを快く思わない人がいるのもわかる。
黒人だけでなく、人権侵害や虐待の影響は、本当に本当に根深い。
そして、この作品を観て、過去の被害やトラウマが掘り起こされるなどなく、基本的人権がある中で生きてこられた有り難みを感じた。