「夢見ることからすべては始まる。お母さんと仲間たちが教えてくれること。」ウォンカとチョコレート工場のはじまり 高橋直樹さんの映画レビュー(感想・評価)
夢見ることからすべては始まる。お母さんと仲間たちが教えてくれること。
何よりも素晴らしいこと、それはすべてのキャストとスタッフが自分が期待されていることは何かを理解していることだ。それは過剰な演技を披露するということではないし、過剰な装飾を施すことではない。役柄と役割をわきまえ、周りを意識してなすべきことをなす。当たり前だけれど最も難しいことだ。
ティモシー・シャラメはいつも何かを伝えようとするウォンカになって、歌うのではなく想いを伝えようとする。チョコレートで人々を笑顔にする。その願いが叶えば、誰もが笑顔を浮かべてくれる。そしてお母さんにもう一度会える。彼の信じる心は常に開かれている。誰もが知っていることだけれど、心を開くこともとても難しいことだ。
母と離れて7年、修行の旅を続けてきた彼はチョコの街にやって来る。でも、持っていたお金は瞬く間になくなってしまう。なぜなら彼の心は常に開かれているからだ。心を開けば人は優しくなれる。でも、邪心を抱いたり、相手を敵と見なす猜疑心や支配欲を持った人に対しては無防備だ。だから騙されたり、罠に嵌められたり、追い込まれたり…。
最初の一夜を過ごすためにウォンカは宿屋を訪れる。文字が読めない彼は、宿屋の女将と使用人にまんまと騙されてしまう。地下の洗濯場では同じ手口で嵌められた人たちが働かされている。女将に育てられたという孤児ヌードルの手助けで仕事場を抜け出して広場に向かった彼は、自己紹介すると、とっておきのチョコレートを振る舞う。なんと空を飛べる魔法のチョコだ。慌てて駆けつけたチョコレート組合の三人衆が宙に浮かぶ。でも、夢見ることを禁じられた街で得た報酬はすべて取り上げられてしまう。
ウォンカの魔法のチョコを味わった3人組は気が気ではない。実は警察署長も敬虔なはずの神父もチョコ組合の三人衆に懐柔されている。ウォンカのチョコを味わった3人は強敵の出現にあの手この手を使って邪魔をする。こうして、街の支配者と何もかも奪われた者たちの対決の構図が形成されていく。
美味しいチョコレートを生むのはカカオ豆だ。貴重な豆を4つも盗まれてしまったウンパルンパは、警備失格者として島を追い出されて盗人を追っている。一方、大切なチョコが何者かに盗まれているウォンカは盗人対策の罠を仕掛ける。捕らえられたのは、オレンジ色のウンパルンパだ。ヒュー・グラントが演じる極めてスマートな紳士が物語の鍵を握る。秀逸な託し方だ。
夢見ることが禁じられた街で、欺瞞に晒された弱者が追いつめられていく。貧乏だから何もできない。貧困に追い込まれて心が俯いたとき人は夢を諦めてしまう。追い打ちをかけるかのように、不寛容で支配的な強者たちの癒着や賄賂によって正義がねじ曲げられる。卑劣な行為が横行し、力に任せて相手を捻じ伏せる理不尽な暴力が蔓延る。ポール・キング監督は、今世界で起こっている憂慮すべき事態を、寓話というオブラートに包み込んで物語に巧みに織り込んでいく。
お母さんとの思い出、ヌードル、そしてウンパルンパ。監督はウォンカを見守る存在によって行間に物語を紡いでいく。 いつも美味しいチョコレートを作ってくれたお母さんの笑顔、アルファベットが刻印された指輪をネックレスにしているヌードル、そしてカカオ豆を取り戻すためにウォンカを追うウンパルンパ。ヌードルとの約束に聞き耳を立てる人たちも忘れてはいけない。誰もがウォンカを見守っている。だからこそ彼らの物語には未来が与えられている。
憂慮すべき事態にウォンカはどう立ち向かうのか。人と人がつながり、知恵を出し合い、勇気を振り絞る。ひとりじゃできないことも、力を合わせて臨めばなんとかできるかもしれない。このテーマには、『パディントン』でも描かれた監督の真骨頂がある。ウォンカと仲間たちの大冒険は、人々の心に熱いエールを贈り、どんなことがあっても夢を諦めない姿に自分を重ね、勇気が沸いてくる。
ウォンカの生い立ち、ヌードルの願い、労働搾取の現実、好きな人への想い、そして誰もがワンコインで味わえる夢を叶えるチョコレート。ウォンカと仲間たちの夢、その先に出現する「魔法のチョコレート工場」は、ジョニー・デップ主演で描かれたあの工場へと見事につながっていく。
冒頭からラストまで、歌によって省略効果とメリハリを生み、エモーションを静かに劇的に高める。現代社会を生きる人々への熱いエールが詰まった作品に仕上げたポール・キングは、やはり素晴らしい語り部だ。
夢見ることからすべては始まる。だから夢を諦めないで…。ラストに明かされる母が残した人生を輝かせる秘訣が、明日に向かう大いなる希望をもたらす。