「人間の自然なリアルを捉えた秀作でしたが‥」PLAN 75 komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
人間の自然なリアルを捉えた秀作でしたが‥
(完全ネタバレですので映画を見てから必ず読んで下さい)
映画を見て監督は結構、人間の嫌な部分をリアルに捉えて表現する人なんだな‥と苦笑していました。
例えば、主人公の角谷ミチ(倍賞千恵子さん)が植木鉢に切った爪を肥料の為に?撒いていく場面や、PLAN 75サポートコールセンターの成宮瑶子(河合優実さん)に電話で(双方向でなく)自身の話を一方的に話す場面や、ミチの職場の同僚が退職の送別会で若い後輩からもらった花を後でそのままゴミ箱に捨てる場面など、そういう嫌な感じリアルであるよね‥の描写がそこかしこに表現されていました。
この映画は、増え過ぎた高齢者を殺害する若者のテロ場面から始まります。
しかし、この映画での高齢者のちょっとした様々な嫌な表現は、確かに高齢者の存在を鬱陶しく思わせて(もちろんあってはならないですが)高齢者を殺害する若者の気分も共感させる内容になっていると思われました。
PLAN 75サポートコールセンターの成宮瑶子は主人公のミチに共感し、最後にミチがPLAN 75に参加するのを止めようとミチに連絡しますが、ミチは既に身辺整理で自宅の電話は外していて通じぬままでした。
成宮瑶子は、このような事態を招いている責任はあなた達にもあるのではないかと、訴えているような目で最後、私達観客をカメラ目線で見つめます。
しかし私は、(おそらく監督の化身とも感じた)成宮瑶子(河合優実さん)のカメラ目線に対し、いやいや、このような事態を招いている中に、高齢者の嫌な部分をリアルに表現しているこの映画(監督)も加担していますよ‥とは思われて苦笑しました。
もちろんこの映画での高齢者の嫌な部分の表現は、誇張はなく表現されていて、リアリティがありました。
しかし本当は映画として、そんな嫌な部分を肯定した上で、高齢者のさらに奥の裏の心情をもっとしっかり描く必要があったのではと思われました。
私は、例えば、送別会でもらった花をゴミ箱に捨てていたミチの同僚も、嫌な部分を描いたのと同じぐらいに、そこに至るまでの裏の深い心情を描く必要があったと思われました。
ところでこの映画は、女性側の高齢者は主人公ミチやその周りが割と嫌な感じで描かれていたのに対して、男性側の高齢者は幾分かは優しい視点で描かれていたように感じました。
PLAN 75の市役所の申請窓口担当者の岡部ヒロム(磯村勇斗さん)は、PLAN 75の申請に来た長年音信不通だった叔父の岡部幸夫(たかお鷹さん)と再会します。
この岡部ヒロムの叔父の岡部幸夫に対する表現は、主人公ミチら女性高齢者と比べてそこまで嫌らしさはなかったと思われます。
むしろ、叔父の岡部幸夫がこれまで日本全国を飛び回りあらゆる建設土木に関わったこと、その地方地方で献血をして来たこと、が伝えられ、どれほど今の日本を築くのに貢献して来た人生だったかが伝えられます。
この女性高齢者と男性高齢者の描写の違いもこの映画の特徴の一つだとは思われました。
この映画は少子高齢化の日本についてが内容の基盤になっています。
日本の少子高齢化の原因は、人口ボリュームの大きい団塊ジュニア世代の少なくない人達が、家族を養える経済基盤を持てなかったのが大きな要因だと思われます。
今の団塊世代前後より上の高齢者が、あるいは既存産業の特に大企業が、バブル崩壊後に生き残り逃げきるために、非正規雇用の拡大などで下の世代の家族を養える構造を破壊してきたのが、日本の少子高齢化の大きな要因だと思われます。
そして少子高齢化による社会保障費の現役負担割合の増大は、あらゆる予算削減につながり、さらなる少子高齢化に拍車を掛けました。
高齢者の人々は、後期高齢者の負担の話になると怒り心頭で高齢者の人口ボリュームとも相まって声がデカかったです。
しかし若者世代の、例えば共働きでの子育て支援構造についての話にそこまでこれまで熱心ではなかったと思われます。
であるので、この映画で描かれているPLAN 75のようなアイデアも高齢者より下の世代からは言いたくもなるよな、とは思われます。
しかしこの考えはもちろん間違っています。
私達は、高齢者が壮年や若者世代の裏の心情に無関心や冷淡だと感じたとしても、壮年や若者世代が逆にそのまま高齢者の裏の心情に対して無関心や冷淡で返しては(忙しい日常では当然で仕方がないとしても)単に自分も相手と同じことをしているだけであって、本質的には間違っていると思われるのです。
このことはあらゆる場面でも同じです。
例えば政府批判をしている人も、批判相手である政府の人々の裏の心情を想像する必要があるのです。
自身が政府の裏の心情に無関心で冷淡であるなら、その批判も当然相手には届かないのです。
これは他国の人に対しても同様です。
ところで日本の少子高齢化の問題は、もう少子化対策で対応できるレベルを超えています。
その解決のためには日本は外国から移民を大幅に受け入れる必要があります。
当然、移民受け入れには文化衝突が起こります。なぜなら国によっての常識は様々だからです。
なので移民受け入れには、お互いに文化を含めた裏の心情を理解する必要があります。
それはその中に例え裏の心情を理解できない人がいたとしてもです。
ただ移民をする側は(される側の人々と違って)、その国や地域で暮らすために相手の言葉や文化や人々の裏の心情を必然的に知らなければなりません。
マリア(ステファニー・アリアンさん)は、そんな必然的に日本の人々(移民される側、この映画では外国人労働者での話ですが‥)の裏の心情を理解しなければならない一人です。
マリアは、PLAN 75で亡くなった叔父の岡部幸夫の遺体を施設から運び出す岡部ヒロムの手伝いをします。
この場面で小さな感動があるのは、淡々とPLAN 75の仕事をしていた岡部ヒロムが、叔父との出会いによって心情に変化が訪れる場面だからだと思われます。
と同時にそれに加えて、外国労働者として必然的に日本の人の裏の心情を想像しないといけなかっただろうマリアが、よく知らない日本人の岡部ヒロムの裏の心情に通じて手助けをしたからだとも思われました。
ただこの映画は、この場面と上で触れたPLAN 75サポートコールセンター成宮瑶子がミチに最後電話した場面以外は、相手の裏の心情に通じる描かれ方はほとんどされていません。
主人公のミチも最後の場面になっても、なぜ自分がこのようなことになっているのか分からないままだったと思われます。
リアルとしてはそうなんでしょうが、映画としてあるいは人間の本質としては、この映画は相手の裏の心情表現が全体として希薄に感じ、私はそこまで感心出来る作品ではないなとは思われました。
この相手の裏の心情に無関心で冷淡な希薄さは、結局は高齢者の裏の心情も、壮年や若者の裏の心情も、外国人労働者の存在や裏の心情も、少子高齢化で移民が必要だという現実も、なぜ彼らが相手の裏の心情に無関心で冷淡な希薄さなのかも、見ないことにしようという結果になると思われます。
そしてこの映画も、相手の裏の心情に無関心で冷淡な希薄さから免れていないと伝わるのです。
もちろんこんな長文の感想を書かせ、この映画内容も含めて互いに相手の裏の心情をほとんど考えない希薄さの表現は、逆に現在の日本を正確に捉えた秀作であるのだろうとは、一方では思われました。