「想像と解釈を喚起する「余白」の巧みさ」PLAN 75 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
想像と解釈を喚起する「余白」の巧みさ
これは、少子高齢化のような“正答”のない難題に直面したとき、誰もリスクと責任を取って解決にあたろうとせず、ひたすら先延ばしにしようとする日本的なメンタリティへの静かな抗議ではないか。本作を観ながらそんな風に思っていたのだが、鑑賞後に資料を読むと、早川千絵監督の意図は違うところにあったようだ。本作を着想するきっかけのひとつに、2016年に相模原で起きた障害者施設殺傷事件があり、「人の命を生産性で語り、社会の役に立たない人間は生きている価値がないとする考え方」への危機感が、映画を作る原動力になったとしている。
とはいえ、75歳以上が自ら生死を選択できる制度が施行されている近未来の日本を舞台にした本作は、特定の意見や主義主張を明示する映画ではない。登場人物らの苦悩や心の触れ合いを描いているが、彼らに思いのすべてを語らせるのではなく、観客のさまざまな想像や解釈を喚起する“余白”が大いにある。1983年のカンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作「楢山節考」で描かれた姥(うば)捨ての風習を想起する人もいれば、スイスやオランダなど一部の国で合法化されている安楽死と関連付ける人もいるだろう。この国では安楽死について口にすることさえタブーのような空気があるが、本作をきっかけに議論が活発化するなら良いことだと思う。
本作の主演に倍賞千恵子をキャスティングした点にも感心させられた。当たり役は「男はつらいよ」シリーズでの寅次郎の妹“さくら”であり、高度成長期に日本の国花の役名で知られた女優が、本作では衰退する日本、“日(ひ)没する国”を象徴するようなミチを演じているのだ。このアイロニカルな巡り合わせに思いをはせる観客も多いのではないか。
「安楽死の議論が活発化するならよいこと」ですか。
安楽死が合法の国でも治る見込みがなく強い苦痛を伴う重病患者に限っているので、高齢で経済的に苦しいとかいう理由で認められてる国はないですよ。
日本だと子どもいない高齢者は安楽死しろとか自決しろとか平気で言っており、自殺したいから安楽死を認めてほしいとか言ってる人も目立ちます。どの方向で議論してほしいのか疑問に感じます。
監督が思ったような、印象を観客は持たなかった訳ですから、芸術的には失敗作になろうかと思います。しかし、興行的には成功している訳ですから、元よりそこにこの監督の意図があったと見た方が無難だと僕は思いますが。映画の外でこの映画の意図を監督はわざわざ説明しているわけですから、 最低でも、映画の表現不足となろうかと思います。映画が多弁でないのに、その外で多くを語るのは、演出家として失格ではないでしょうか?