苦い涙のレビュー・感想・評価
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Unsettling
In La Dolce Vita a director found appreciation with all the beautiful people who surround him. Ozon’s drama, on point with the complexities of reality as always, is the opposite: a director collapses under the weight of being accomplished, and homosexual too. There’s nothing good to feel about; it’s depressing and the character is revealed to be rather unlikeable. Maybe not a first date movie.
愛は、人を色んな意味で殺す
フランソワ・オゾン監督が、氏の尊敬するドイツのライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の1972年に制作された「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」のリメイクを試み、時代をそのままにドイツのケルンを舞台にしてオマージュし、愛に翻弄される映画監督の私生活を赤裸々に描いた人間ドラマのフランス映画。台詞もフランス語で、キャストも原作のファスビンダー作品に出演したハンナ・シグラ以外は、すべてフランス出身の俳優で占められています。特にフランス映画界の名女優、イザベル・アジャーニが主人公の友人シドニー役で出演しているのが作品にとって大きな魅力になっていました。
この映画に食指が動いたのは、映画に夢中だった学生時代、それは1979年の4月に東京のヤクルトホールにて開かれた(西ドイツ新作映画祭)で偶然見学したーそれも無料試写でー3本の作品のなかにファスビンダーの「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」があったからです。他はアルフ・ブルステリンとベルンハルト・ジンケルの『三姉妹』(1977年)と、マルガレーテ・フォン・トロッタの『第二の目覚め』(1978年)でした。東京に上京した年にフィルムセンターで観た古いドイツ映画の素晴らしさに衝撃を受け、それまでフランス映画やイタリア映画に憧れていた価値観に変化をもたらし、新たにドイツ映画に注目していた時期になります。戦後ドイツの映画産業が衰退の一途をたどったのは、偏にナチス・ドイツの崩壊と戦後復興に映画産業が加わることが無かった事情からと思われます。それ程に敗戦のショックと深く傷ついた贖罪意識からドイツが精神的に立ち上がれ無かったのは、日本の比ではありません。欧米で作られる戦争映画の悪役は常にドイツ軍でした。そんな長い停滞期を過ぎて1970年代から漸く新しい才能ある監督たちが活躍し始め、ニュー・ジャーマン・シネマと称される波が生まれて、海外へのプレゼンテーションが始まった時期に当たると思われます。ヴィム・ヴェンダーズ、ヴェルナー・ヘルツォーク、フォルカー・シュレンドルフなどと並んでファスビンダーも主要な担い手として作品が日本公開されるようになりました。
そのファスビンダーの「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」の印象は、その独特な表現がゴダールやベルイマン、そしてブニュエルの演出タッチを窺わせて、全体としてはテネシー・ウィルアムズの愛憎劇のような深刻なドラマを演劇的に構築していました。但し後半の形式主義の実験的手法の面白さに対して、前半が緩慢で集中力に欠け眠気を抑えるのに苦労したと、映画ノートに記してあります。それでも女性だけの登場人物の愛憎劇は珍しく、それはレオンティーネ・ザガンの「制服の処女」のドイツ映画の古典を想起させて、興味深かったことだけは確かです。
この微かな記憶から今度のオゾン作品を観てみて、人物の設定からその個性的性格の表現力、台詞の平明で教訓的な人生論の分かり易さ、最後主人公が苦い涙を流すまでの無駄の無い展開と、約2時間の原作の上映時間を85分にまとめ上げた脚本の簡潔さが、演劇映画として完結していると好印象を持ちました。また晩秋から翌年の冬までの時間経過を数少ない野外ショットで季節感を出す演出と幕間の効果、その落ち着いた色彩の映像美、舞台となるピーターのアパルトマンの独特な室内装飾に赤と青を基調にした衣装のコントラスト、窓と鏡を生かしたカメラワークの巧さなど、オゾン監督の細部に神経が行き届いた丁寧な演出に感心しました。
オゾン監督がファスビンダー監督の個人的な恋愛遍歴を調べてシナリオに落とし込み、映画制作に多忙を極めた映画監督の人間味そのものを映像化した作品と言えます。見た目を真似て演じたドゥニ・メノーシェの、人生哲学を語りながら失恋の痛手に理性を失い、最後混乱と失望から自暴自棄になるピーターの大人と子供の両面を可愛らしく表現した巧さが光ります。一目惚れしたアミールをスクリーンテストするシーンがいい。出自を話し始めて素の表情になった時、助手のカールが撮影するカメラを奪い取るピーター。映画監督らしい人間観察と映像に込める想いが伝わります。このアミールを演じた23歳のハリル・ガルシアの女性なら小悪魔的魅力を振りまく演技も自然に、9か月後のピーターの映画に主演してカンヌで注目され自惚れてピーターと対等に接する太々しさまで、演出に応えた演技を見せます。ここで興味深いのは、アミールが全裸で踊るときに両手を掲げるカットです。そのポーズは後半の彼が居なくなってから部屋に飾ってある巨大パネルの、17世紀のバロック画家グイド・レーニの『聖セバスティヌスの殉教』を模した写真と同じです。(この絵画は作家の三島由紀夫氏が憧憬したことで日本では有名)そして、最後公衆電話に姿を見せるカットから、シドニーが待つ車に乗り込むシーンのハリル・ガルシアの演技で、このアミールと言う男の心理の変化を確認することが出来ます。強かに有名監督の愛人になり、彼を利用し自信が付くと妻の元に帰る口実で別れ、そして再会を断られてから本当に愛されていたことに気付いて僅かに心苦しさを感じるアミール。それでも、この若者はピーターの元に帰ることはない。しかし、この演劇ドラマで最も不思議な存在感を演じるのは、カール役のステファン・クレポンです。映画監督の助手と言っても、秘書としてタイプライターを打ち、家政婦として食事の世話もし、カメラマンも務め、まるで貴族に仕える執事のように献身的で一切の無駄口も叩かない。フランツという男との同棲生活も見て来て、次は若い男とまた同じように夢中になって棄てられるであろうピーターの総てを3年間も目視している。言葉を発しないから彼の真意は分からない。それでもステファン・クレポンの多彩な表情演技で色んな想像ができる面白さがあります。娘ガブリエルと女優シドニーがピーターの部屋を訪れて、そこに母親ローズマリーが現れる誕生日の場面で、この3人の女性を前に失恋で壊れた男の嘆きが攻撃的になる展開は演劇の定石ですが、イザベル・アジャーニの貫禄の存在感と、母親役ハンナ・シグラ79歳の年輪を経た落ち着きある包容力が魅せます。このシドニーこそピーターの公私に渡る理解者であり、どんな罵詈雑言で詰(なじ)られてもピーターの精神面を思う大人の女性として最後まで見捨てません。最後の車のアミールの座席の横で佇み見せるアジャーニの表情の美しさ。次はどうピーターを労わるかを思っているかのようです。ドラマの最初の方でピーターは作家らしく“理解できないことは、憐れむな”と言いつつ、最後は独占欲と愛を切り離せず惨めな姿を晒す矛盾。男が愛に本気になると子供のようになるのは、男の弱さでもあるかのように。そんな愚かな男を慈しむようなオゾン監督の大人の視点が、悲喜劇の面白さに至っています。
ファスビンダー監督の演劇の素養の高さと性的嗜好にシンパシーを持つオゾン監督がしたためたラブレターのような映画とも言えるでしょう。この個人的創作動機が、優れた脚本に統一された映像美、そして個性と演技力を備えた俳優たちの充実によって、小品でも見事な映画に仕上がっていると思いました。
「正気を失うほどの恋」〜おぉ、カール!
2022(日本は2023)年公開、フランス映画。
監督と脚本はフランソワ・オゾン。
登場人物は6人だけ、コロナ期にはうってつけだ。
ピーター・フォン・カント:ドゥニ・メノーシェ
シドニー・フォン・グラーゼナプ:イザベル・アジャーニ
アミール・ベンサレム:ハリル・ガルビア
ローズマリー:ハンナ・シグラ
カール:ステファン・クレポン
ガブリエル:アマント・オーディアール
なんと、Wikipediaには「コメディ」と紹介されていて少し驚いた(笑)。
喜劇だったんですね…
そうか、乙女チックな中年男を見て、笑うべきだったのか?!
作中、「正気を失うほどの恋」というセリフがある。
ピーターがアミールに寄せる狂おしいまでの独占欲。
” Je t'aime ” を何度も繰り返すし、おねだりもする。
40歳で恋という病に身を焦がすなんて、贅沢な男だ。
だが、アミールは誰のものでもなさそうだ。
全体を通して、よくある話のような気もするが、
ひとつだけ「特殊な事柄」を挙げるなら、
カールの存在だろう。
そもそも
カールは実在していたのだろうか。
「狂言回し」のような存在にも感じるし、
ピーターのもう一つの人格のようにも捉えられる。
なにはともあれ、
主役のドゥニ・メノーシェ、「目」の演技力が素晴らしかった。程良い長さでもあったので☆3.0
泣くな❣️
新しいので、
俳優も今風でやはりイケメン。
娘ガビ可愛い服装等から真面目な子っぽい。
美人大女優シドニー、ラスト辺りタクシーで
アミールに指示していたのは、
ピエールから断らせなさい、ということかな。
人間って物凄く欲しいモノがあるとき、
無理してでも自分から拒否した方が
優越感に近い感情が湧いて
さっきまでしんどかった心が楽になるのだろうか?
涙はこぼれていたけれど。
オリジナルより本作リメイクの方がわかりやすかったように感じた。
ただあの生真面目なガビの父ちゃんが、
このオッさんというのがなぁ、
見た目だけでなく
アミールのポスターはりまくり、
アミール不在で当たり散らす❗️
かなり問題なオヤジだった。
ガビ、まっすぐ生きてくれ。
馬鹿で、なんだか切ないBL
若いイケメン男子に翻弄される中年親父のラブストーリー。最後は側近イケメン男子にまで見放される始末。苦い涙ってより、痛い涙だね。
でもバカなオヤジだけど、何だか気持ちは分かる。
男女の間でもこんな風に翻弄されてしまう人って沢山いるように思う。また誰でもイけてしまい皆んなにいい顔できて振り回して歩きする美男美女もいる。こんな人種に出会ってしまうと最初はワクワクするが、次第に痛い目にあうもんだ。こういう人種ってその先どこかで幸せを手にしてるんだろうか?1人を愛する日が来てるのだろうか?それが知りたい。
【著名な仏蘭西監督が、若く美しい青年への愛に翻弄され悩む姿を面白可笑しく描いた作品。劇中の著名監督がフランソワ・オゾン監督に見えてしまった作品でもある。】
■恋人と別れて落ち込んでいた映画監督のピーター・フォン・カント(今や、仏蘭西の名優ドゥニ・メノーシェ)。
助手のカール(ステファン・クレポン)をしもべのように扱いながら、事務所兼アパルトマンで共に暮らしている。
ある日、親友で大女優のシドニー(ナント!イザベル・アジャーニ)が美青年のアミール(ハリル・ガルビア)と訪ねてきて、ピーターは彼に一目で恋に落ちる。
◆感想
・ご存じの通り、フランソワ・オゾン監督は50代ながらも既に仏蘭西映画監督の巨匠である。
そして、一年に一回新作を発表するという驚異的な多作監督である。
ー 私事で恐縮であるが、2017年公開の「2重螺旋の恋人」を劇場で鑑賞し、一気に引き込まれ、それ以来昨年の「私がやりました」まで全て劇場で鑑賞して来た。
只、一作、今作を除いては・・。-
・今作の作品の作りは、フランソワ・オゾン監督としてはシンプルなコメディ劇であるが、ドゥニ・メノーシェの演技が只のコメディではない作品に仕立て上げている。
・それにしても、今作で主役のピーター・フォン・カント監督が、フランソワ・オゾン監督に見えてしまったのは私だけであろうか。
・ピーター監督の助手カールへのぞんざいな物言いの仕方。
それに対し、慇懃なまでに忠実なカールの姿。だが、全てに裏切られた時にカールに縋るピーター監督に対して取ったカールの分かりやすい溜まりにたまった怒りのレスポンスには笑ってしまったぞ!。
<今作は、フランソワ・オゾン監督作品の中では、軽い作品に分類されると思うが、テンポ良い展開なども含めて、面白く鑑賞した作品である。>
恋は盲目
恋に狂った映画監督が見せる
《人間の虚飾を剥いだ実像》
本音満載のセリフ劇が面白く、そして衝撃でした。
ドイツ映画のリメイクだそうですが、
室内のラファエルかなんかの壁全体を覆う裸の絵画や、
台詞を歌詞にして歌う楽曲など、挿入歌もパワフルで
引き込まれる映画でした。
殆どが主役の有名監督ピーター・フォン・カントの部屋。
お客が扉を開けて入って来て会話する
【舞台劇】のような映画です。
カメラが戸外に出るのはラストの2〜3シーンのみ。
キャスティングの完璧さ!!
醜く太った腹・・・アルコール依存・・・
(ゲイなのにバイセクシャルで娘もいて、監督としての成功もして、
お金もたんまりあるピーター(トゥニ・メノーシュ)
大女優シドニー(イザベル・アジャーニ)が連れて来た青年
アミール(ハリル・ガルビア)にピーターは一目で恋に落ちる。
翌日には同棲を始め、
アミールに「1日中ベタベタしていられない」と言われてしまう。
この映画のなんとも言えない本音で話す言葉の品のなさが
強烈に響くのだ。
(オリジナルも口汚い言葉だけれどオゾン監督が更に輪をかけた感じ)
綺麗事が人生ではない。
アミール以外に価値観を見出せない、恋に狂ったピーターには、
カンヌの映画作品の成功も虚しいだけ。
アミールに恋焦がれている筈なのに、
「誕生日おめでとう」の電話を受け、なぜか会うことを避ける。
あんなに電話を待ち侘びていたのに。
何故?
恋に恋してる?
それにしてもカール‼️
助手のカール(ステファン・クレボン)の存在。
罵詈雑言を浴びせられた罵られても、文句一つ眉ひとつ動かさないカール。
ラスト含め怪演。
強烈な印象を残す。
遂にピーターを捨てて出て行く!!
(うーん、この映画のオリジナルを観たい、観なければならない)
ピーターはアミール(ハリル・ガルビア)への痩せるほどの悶えも苦悩も、
愚かな者にしか見えないが、
そこが人間に幻滅するオゾン監督のシニカルな視点なのか?
ラストの20分はピーターの狂乱、
そして口汚い本音
(娘や母親や友人をあそこまで悪し様に言うか!?)
本音満載の独壇場。
涙ぐんでアミールの思い出に耽るピーター役のトゥニ・メノーシュが
むさ苦しい太めの中年男なのに
恋に翻弄される乙女のように愛らしく見えた。
快作でした。
討ち死にして号泣するみっともないおやじに憧れる
あの「聖セバスティアンの殉教図」。
イタリアの画家グィード・レーニの「殉教者・聖セバスチャン」です。
矢で射られて死んだ聖人の大きなポスターを前に、アパートの二階で繰り広げられるワンシチュエーションの舞台劇でした。
アミールと同じポーズの再現は、三島由紀夫もやっていますから、検索してみて下さい。
恋愛は何かを手中にし、支配することではないですね。
ぜんぶ無くして、壊されて、新しくその相手との人間関係を始めるってことなんです。
そしてもちろん逆もしかり、「結婚」も、誰かのものになったり誰かからの支配を受け入れることではありませんよね。
でも男って、誰かを好きになる時って無我夢中。
ピーターの頑張りが可愛いんですわ。
猛然と自分をアッピールして目の前の恋人を自分の魅力で惹きつけようとする。そして恋人を我が物にしようとする。
( 諸氏、あなたにも覚えがあるでしょう?笑 ) あの“反応”と“衝動”は、動物の生態学としてはDNAの発動するプログラムですから、これは求愛行動としては恥じることでもなく、仕方が無いのですが、「つがい」を作るとき、春先のウグイスのようにオスはさえずり、メスの周りをくるくると舞い踊り、あんなふうに胸を張ってメスの前で良く喋りますよねー、ピーター。(笑)
慈母ハンナ・シグラはピーターを抱きしめてたしなめ、
女優シドニーはピーターに呆れ返り、
娘ガブリエルは父親のそんな姿に涙。
アミールに気に入られようとして飾り羽根を広げて迫り寄るピーターは、雄孔雀そのものなんです。
インテリらしさを見せつけます。理路整然と、理詰めで相手を説得し、知識と経験とトロフィーのありったけを総動員して、他の男たちよりも優れている風を装ってね。あれは絵に書いたような男の性なんです。
美青年アミールをキャメラで撮りながら、その瞬間、男ピーターはアドレナリン爆出です。自分が恋人の前で心身ともに“バージョンアップしていく快感”に、自分自身でも酔っているのです。
ところが
猛烈アタックの甲斐あって、ピーターのものになってくれたはずのアミールくん、
たった9か月あとにはすっかり雰囲気が変わってしまったョ、 チャンチャン♪という結末でした。
しおらしかったアミールが、残念ながらベッドで朝寝でゴロゴロしたり、ピーターを口汚く罵って叱りつけたりと、アミールも古女房の“鬼嫁”に変身している訳ですが。
・・ガラガラの映画館でしたが、僕はここでもなんども声をだして笑ってしまいました。
パートナーが男であろうと女であろうと、DNAの春を過ぎればみんな早晩あんなふうになってしまうのだって分かって、お付き合いをする人たちは《幻想》が払拭されて、いいのではないですかね。
オゾンは容赦しません、
熱して下さい。そして冷めて下さい。
男は 恋の季節が過ぎればさえずりが止み、女は可愛いらしいポーズを止める。
詐欺じゃないんです。そういうふうに動物として出来てるんです。
そこを楽しむのです。
だから人間は面白いのです。
アミールが去ったあとの、
映画監督ピーターの失意。あの嘆き様が、そりゃあ可哀想で可哀想で。でもドゥニ・メノーシェ、まったく素晴らしい演技でしたねー。
中年になってあそこまで人を好きになれたって凄いこと。
・・・・・・・・・・・・・
今週僕は フランソワ・オゾン鑑賞週間でした。
「スイミングプール」では女同士の確執とタッグ、
本作「苦い涙」では今度は男同士の愛と別れ。
でもすでに、世界は性別などもうどうでも良い時代に入っているのですよね。
そういえば僕の大好きな現代バレエの名作=ラヴェルの「ボレロ」は、今でこそ大きな丸テーブルの中心で踊る筋骨逞しい男を、たくさんの裸の男たちがそれを取り囲んで、激しくプリンシパルを求めて舞い狂う=モーリス・ベジャールの振り付けが決定版とされていますが、
元々はと云えば、ボレロのストーリーは、酒場のテーブルで踊る女を酔っ払いの男たちが取り囲んで囃し立てるという構図なのでした。それが原点。
それがボレロの振り付けは、後に女がテーブルに立ち、同性の女がそれを取り囲むという「女✕女」の舞台が生まれたあとに、ベジャールの「男たちだけの踊り」に変遷。行き着いたのです。
性差の壁を乗り越えて、人間の情熱と求愛のドラマはステージにもスクリーンにも爆発します。
本作、
最後には“ジャイアン”キャラクターのピーターが、召使いカールから驚きの反撃を受ける。
殉教図。そして
アミールの裸の写真が横に並び、
写真の下にピーターは倒れ伏します。
「キューピッドの矢は愛を燃え上がらせるけれど、当たりどころが悪ければ人を死なせて、愛を死なせるのよ♪」と
ずっとそのように歌うシドニーのレコードが流れていました。
支配しようとして、ぜんぶを失って、またみっともなく泣く男。そんなピーターがむさ苦しくて いじらしくて可愛い。
オゾンのやり口。いいですねー。
映画監督として、シニカルに、自分のプロフィールをピーターに重ねて映像化したのかも知れません。
オゾン。サラリと、毒を吐きます。
・・・・・・・・・・・・・
こちら長野県はすっかり秋の気配です。
長い猛暑の夏が終わり、Tシャツではもう寒い陽気となりました。
塩尻市の東座。
切符売り係兼、映写技師兼、上映前の解説者兼の東座の社長さん=合木こずえさんも、いつもはアップにしていた柔らかい髪を、細い肩に静かにおろしていました。
オータム・イン・塩尻です。
しんみりと愛を語るにふさわしい季節です。
目を血走らせてがぶり寄る春には、まだあともう少し。
しっとりと良い映画を楽しみましょう。
ありがとう。
とても滑稽でとても切実
愛情も恋情も生きてる限り定まらない。
年上で社会的地位もある方が、優位に立つ出会いから、9ヶ月後、飼い犬になっちゃった!
若い愛人の気まぐれに、全身全霊で振り回される姿に、泣き笑い。
全てをさらけ出した後に、ピシャリと閉められたカーテンは、誰も開けられません。
ファスビンダー版は序盤かなり眠気を誘う展開もあるが(中盤以降のペト...
ファスビンダー版は序盤かなり眠気を誘う展開もあるが(中盤以降のペトラの迫力!)、オゾン版はその弱点を極力カバーしている。ただどちらが真に迫るかというとファスビンダー版。オゾンが悪いわけでなく、ただただペトラが凄まじい。実らぬ愛のやり切れなさがあれ程伝わってくることはない。また男性と女性の違いもある。男性は優しい。だから究極孤独ではない(ように見えてしまう)。
鼻から牛乳
そんなシーンは今作には一つもないのだが、自分が知っている元ネタが嘉門達夫だったもので、そこから、『トッカータとフーガニ短調』 (バッハ)→ザ・ウォーカー・ブラザーズ/孤独の太陽In My Room という流れに落ち着いた劇判である そこからの派生で宇宙戦艦ヤマト白色彗星のテーマのパイプオルガンまで行着いたことは蛇足(苦笑
フランス映画らしい皮肉とウィットに富んだ作品という括りで良いのだと思うのだが、現代の重層的作調よりも薄さが垣間見れてしまう内容である というのもリメイク作品と言うことなので致し方ない部分も甘受せざるを得ないストーリーである
主人公の監督の自宅から略出ていかないロケーションの撮影である このことから演劇用に設えているのではないかと思うコンセプトなのでは?
そもそも映画監督という職業のキャリアステップ自体、さっぱり想像出来ない、或る意味偶然の賜物のような地位に鎮座している男の、だからこそのエゴイズム溢れる印象に仕上がった作風である
才能、努力、タイミング、その全てを掠め取った者のみが得られる称号としての"映画監督"なのだが、しかしそれ故の犠牲を埋め合わすかのような愛情 それは愛という名の肉欲かも知れないし、神に近づく敬意かもしれない 兎に角、ジューサーミキサーに全部ぶち込んで混合する"スムージー"のような理念に取憑かれた、太っただらしない男の生き様をアイロニーたっぷりに描いてみせた作品と言うことで良いのでないだろうか・・・
"愛"という幻想を、欲望や敬服、自尊心や卑下、そして勝手な妄想と拠所と、人はホントに自分勝手に構築し、そしてそれを具現化可能な社会的地位に創られた舞台なのだろうと、ゲンナリする現実を描いた完成形である
奴隷のように扱った助手に唾を吐きかけられても、でもまるで中東の彫りの深いハンサムな男に完成された芸術美に魅せられるラストシーンも又、情けない羞恥たっぷりに切り取った作風に、外連味込みの毒々しさを感じた意欲作と心を抉られたのである
恋愛喜劇
恋は盲目が過ぎる…
しかし、他人の恋愛には客観的に意見を述べられるのだが、
自分になると…
というのは、わたしもピーターと何ら変わらんのでは…
と冷汗三斗の苦笑い…
いや、あそこまで盲目ではないっ!
むしろ、あそこまでいった方が幸せなのか?!
オッサンなのに子どもかっ!な
ドゥニ・メノーシェのピーターもお上手で、憎めないのよ。
とにかく、ピーターのアミール以外の他人に対しての態度、
特にカールへの傍若無人ぶりは、おいおいっ!てなるんだけど、
カールはカールで何考えてるのか判らないし…
カールの人、良かったなー。
最後の反撃も 苦笑
なんにせよ、滑稽なものでした。
炎
毎年一本は公開する映画監督
フロンソワ・オゾン監督作品
映画監督を映画で撮るのは初めてとのこと
前情報なく、期待して観た
巨漢の名監督が主人公
若く魅力的な男性に恋に溺れる主人公
ときどき、恋焦がれている女性にみえる笑
それを公私共に使えるカールがなんとも良い立ち位置
なんであんなに従順なんだ
大女優の毛皮が好きなのか、大女優が好きなのか
毛皮を抱きしめて匂いを嗅ぐシーンがなんとも良い
カール良いなぁ
最後はなんだか寂しさもあり
あぁここで終わるのかと思ったタイミングでの終了
いくつになっても恋をしているのは羨ましいが、ダメな人好きになりやすい体質は、なんだかねー
見ていられません
観ていてしんどいわぁ、もお😫
男も女も正気を失うほどの恋に落ちると
とんでもないです😫
いやまぁ気持ちは分からんくもないが
失恋して落ち込んでたおっさんが
若い美少年にまた簡単に恋に落ちるが
まぁみっともない😫
40歳のおっさんピーター、23歳の若造に
振り回されっぱなし
執着して、嫉妬深く、干渉しまくる。
よく言えばピュアかもしれんが、激しく重い。
鬱陶しい。メンヘラじじいなんて見るに耐えられん💦
年上ならば、ドーンと構えておけよ。
遊びくらい見て見ぬふりしなさいよ。
「愛してるって言ってくれない🥲」って
あぁもう…。
.
.
誕生日を祝いに来てくれた実母と娘、親友に
八つ当たりし、物を壊し酷い暴言を吐く。
見てられません🤣
きっとまた繰り返すんだろうな
限られた登場人物で話が進む室内劇。
地位も名誉もある主人公が、実はそれぞれの登場人物に転がされている自己愛の塊であるという滑稽さ。それを個性的な登場人物と、舞台設定等の妙で際立出せている。
上手くオチはついて幕を閉じるのだが、この主人公は翌日からまた同じことを繰り返すのだろうなと思ってしまう。
登場人物に持たせた属性、象徴するものを明確にした事がとても良かったと思う。
遠くに見つめてたら、そのまま終わった
どう見ても55歳(森脇健児と同い年)と思っていた監督に、
「40年前の今日、お前が生まれた…」とお母さんが言うシーンが、一番震えた。
まだ40かよ!
そもそもアミールの魅力がよく分からず…。女性乳房化が気になった。
フランソワ・オゾンの割に上映館少なめスタートで、
終わるのも激早な理由は、よく分かった。
スイスで暮らす著名な映画監督ピーター・フォン・カント(ドゥニ・メノ...
スイスで暮らす著名な映画監督ピーター・フォン・カント(ドゥニ・メノーシェ)。
著名ではあるが、ここんところはややスランプ気味で、新作を思うように撮れていない。
無口で従順な助手のカール(ステファン・クレポン)が見の回りの世話をしているが、カールにはこれといった感情を抱いていない。
さてある日、元妻で親友の大女優シドニー(イザベル・アジャーニ)がピーターのもとを訪れる。
連れてきたのはトルコ系の青年アミール(ハリル・ガルビア)。
一目でアミールに恋したピーターは、彼をスクリーンデビューさせるといって同居させ、物狂いの恋の日々となるが、数か月するとアミールはピーターのことなど尻の毛ほども気にしない・・・
といった物語で、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの戯曲をフランソワ・オゾンが監督したもの。
ファスビンダー戯曲の映画化といえば、初期に『焼け石に水』を監督したオゾン。
あの作品は、演劇臭が強くて、内容的にもさほど面白くなかった(いま観ると違った印象かも)。
なので、本作もそれほど期待していなかった。
特に主演のドゥニ・メノーシェには、コワイおっさんというイメージしかなったので、観る前は戦々恐々。
ま、そんな強面のおっさんが恋に狂ってしまうさまが面白いのだが、それ以上のところには誘ってくれない。
アミールに去られて、別の男性に言い寄るもしっぺ返し・・・というのは定石的で、面白いのは、ピーターの母親と先妻の娘とシドニーが、ピーターの誕生祝に駆けつける一幕の混乱ぶりで、ここは女優陣の頑張りがあったゆえかしらん。
それほど期待していなかったのでそれなりに面白かったのですが、全体的には平凡かな。
意外と舞台劇臭がないのはよかったです。
オゾンのファスビンダーへのリスペクトぶりはわかりますが。
ウォーカー・ブラザーズの「in my room」を聞きに出かけた。
予告編を見て、この映画ではウォーカー・ブラザーズの「in my room」が流れることを知って、出かけた。
この曲は、1967年「孤独の太陽」として、日本で大ヒットした。その頃、ウォーカー・ブラザーズの日本での人気はすごかった。少なくとも関東でAMラジオを聞く限り、ビートルズを上回っていたのではないか。ただ、この曲がシングルカットされたのは日本だけで、彼らの本国、米国はもちろん、ヨーロッパでもヒットしたとは聞こえて来なかった。それなのに、なぜ、この映画で取り上げられたのだろう。
映画館に足を運んで、この映画が二層構造を持つことはわかった。基層は、1972年ファスビンダー監督のドイツ映画「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」。それを現在のフランスを代表するフランソワ・オゾン監督が、70年代のケルンを舞台にして、ファスビンダー監督を反映していると思われる主人公を含めて、かなり大胆にアレンジし「苦い涙」とした(一部を除き、フランス語)。
確かに「in my room」は出てきた。中心は、Thinking how lonesome I’ve grown, all alone, in my room(自分の部屋に一人でいて、どれだけ寂しさを募らせてしまったことか)か。この曲は、ほぼ同じ室内でのみ展開される、この映画の雰囲気をよく伝えている。主人公ピーターは、「in my room」を「若いころ好きだった」と言ったように聞き取れた。すると、この曲は、オリジナルの「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」でも出てくるのではないか。その通りと知って、本当にうれしかった。
ところが映画の中で、もう一曲、気になる曲があった。ピーターのいわく付きの友人で女優、シドニーに扮したイザベル・アジャーニがドイツ語で歌った「人は愛するものを殺す」。こちらは、オスカー・ワイルドの「The ballad of Reading Gao(レディング牢獄のバラード)」という詩から採られている。しかも、ファスビンダー監督の遺作「ファスビンダーのケレル」(1982年)の中で、フランスの名優、ジャンヌ・モローが歌った原詩(英語)の一部をドイツ語に翻案したものと判った。Doch jeder tötet, was er liebt. と Nur stirbt nicht jeder dran のレフレイン(誰もが自分の愛するものを殺す。しかし、それで誰もが死ぬわけではない、の意か)。イザベル・アジャーニの母親はドイツ人だそうだから、さぞかし、感激しただろう。かすれた声でアジャーニが歌うこの歌は、演劇的な色彩の強いこの映画とぴったりだった。
それにしても、映画の中でシドニーが連れてきて、さんざんピーターを惑わすことになる青年アミールを演じたマグレブ出身らしいハリル・ガルビアに、若い頃のイザベル・アジャーニの面影を見たような気がしたが、もちろん幻だろう。
全体として、ファスビンダー監督に対するフランソワ・オゾン監督の深いオマージュ(賛辞)が感じられる映画だった。
オゾン層の衰退
フランソワ・オゾンはひところ新作が来る度に見ていたが、近年何となく足が遠のいていた。時折行き過ぎるきらいはあったが、その癖のある作風に惹かれていたのだが。
というわけで、今回は「2重螺旋の恋人」以来となるオゾン。ほぼ室内劇で、太ったキューブリックのような顔の主人公が、泣いたりわめいたりなだめすかしたり、すったもんだする。総じて痴話喧嘩を85分見せられている感じだ。この主人公の心情に寄り添えればまた違うのだろうが、私は乗れなかった。カールの存在が一番不気味。
かつて「殺意の夏」や「サブウェイ」で魅了されたイザベル・アジャーニの美貌も、さすがに歳月には抗えず。
美青年に恋するドゥニ・メノーシェが秀逸
フランソワ・オゾン監督作。彼の作品を見逃すのには勇気がいる。結局観てしまう。
今作はファスビンダーの1972年作「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」をもとにアレンジしたとのこと。残念ながらファスビンダー作は未見。
美青年に恋し翻弄される映画監督ピーター・フォン・カントをシニカルに描いた。若い肌を前にドギマギするかっこ悪いピーターを演じたドゥニ・メノーシェが秀逸。不釣り合いな片思いがみっともなくも潔かった。
それにしてもピーターの母を演じたハンナ・シグラ‼︎
ニュー・ジャーマン・シネマの代表作となった1979年の『マリア・ブラウンの結婚』で世界中の映画ファンを魅了したファスビンダー、そしてハンナ・シグラ。少年だったオゾンがどれだけ衝撃を受けただろう。ファスビンダー作品のリメイク、そしてハンナ・シグラの起用にどれだけの思いがあっただろう。
ちなみにイザベル・アジャーニの若さと美貌には何か違和感が😓
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