「黒澤作品へのリスペクトを感じるオーソドックスな演出・撮影とカズオ・イシグロの脚色の個性」生きる LIVING Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
黒澤作品へのリスペクトを感じるオーソドックスな演出・撮影とカズオ・イシグロの脚色の個性
黒澤明監督が1952年に発表した代表作の名作「生きる」を70年の時を経てリメイクしたイギリス映画。とは言え、ロンドンを舞台にした現代劇ではなく、時代設定は原作の1年後の1953年になっています。これは主人公が末期がんに罹患して余命宣告を受ける物語の主軸のための時代背景でした。今日の手術や抗がん剤投与の革新的な治療法により、生存率が大きく改善された医療の進歩を改めて鑑みれば、その物語のコンセプトを現代に当てはめると不自然になってしまう事情からでしょう。監督は南アフリカ出身の若き39歳のオリヴァー・ハーマナスで、撮影監督も同国出身で監督と同世代と思われるジェイミー・D・ラムジーと言う人。タイトルバックに1950年代と思しき記録フィルムを採用し、音楽がドヴォルザークの『弦楽セレナーデ』の第二楽章が流れ、如何にもクラシックの趣がありました。本編の演出と撮影もきわめてオーソドックスなもので、基本に忠実な演出に落ち着いた色彩がイギリス映画の品の良さを感じさせます。これは黒澤作品に対するリスペクトが前提の映画制作として好感を抱くのに充分でした。演出と撮影に合った繊細な音楽はエミリー・レヴィネイズ=ファルーシュと言うフランス人で、タイトルバックのドヴォルザーク始めシベリウス、ドビュッシー、ヴォーン・ウィリアムズのクラシックとジャズの選曲が地味ながら奇麗に溶け込んでいました。ゆったりした音楽にスローモーション映像や「昼下がりの情事」の『魅惑のワルツ』と、古い時代の雰囲気をよく醸し出しています。
しかし、この映画のスタッフで最も注目すべきは、日系イギリス人のノーベル賞作家カズオ・イシグロの脚本です。主人公ロドニーが課長を務める市民課に就職したピーター青年からの視点に重きを置いた映画の語り、それと余命が短いことを打ち明けられたマーガレットが葬儀に参列することで創作されたシーンが印象的でした。息子のマイケルが父ロドニーの遺品の中から見つけたピーター宛の親書を渡すのがラストシーンに繋がり、マーガレットと交わす会話からロドニーの覚悟を知ることになります。マイケルが“父は自分の病気を知っていた?長くないと”と尋ねます。すると申し訳なさそうにマーガレットが“私の口からは”と答える。この返事から察して、尚且つ父がデートをしていた噂の若い女性がマーガレットと思い込んでのマイケルの落胆と疑念の思いが募る場面。父を雪の中で死なせてしまった後悔に苛まれる息子の気持ちを慰めようとするマーガレット。息子の自分に病気のことを教えてくれなかった真意を一生抱え込むことになるマイケルには、とても残酷とも言えます。でもロドニーが全てを打ち明けていたら、間違いなくマイケルは退職と入院を勧めていたでしょう。それでは陳情に応えて遊び場を完成させたいロドニーの、それまで積み重ねた仕事の成果を残すことが出来なくなってしまいます。この決意と行動力を部下のピーターに引き継ぐことがロドニーの生きた証になる物語でした。
事なかれ主義の役所仕事に慣れ切った市民課の職員が葬儀後に列車内でロドニーを偲ぶシーンでは、後任課長のミドルトンがロドニーを手本として変わろうと部下に語ります。ところが時が経つと共に、再び元の無気力な役人に戻ってしまい、困惑するピーター。ここでロドニーが遺した手紙を読み返し、完成した遊び場を訪れるラストシークエンスは、観る者の琴線に触れて温かくも優しい情感を与えてくれます。雪降る夜に独り歌いながらブランコを漕ぐロドニーに声を掛けようとするも、幸せそうに見えたのでそこを立ち去った若い警察官は、その夜亡くなったことを知って後悔する心優しい青年です。ピーターは、ロドニーが末期がんで死を恐れることより、遊び場の完成まで仕事をやり遂げた満足感に浸っていたと想像し、彼を慰めます。黒澤作品の悲壮感が残る物語と比較して、覚悟を持って仕事に生き甲斐を得た幸福感に包まれた主人公像でした。ここに至るまでの脚色に、カズオ・イシグロが求めたもの、どんな状況においても人は前向きに最善を尽くすことで価値がある、という個性を感じます。
黒澤作品の『ゴンドラの唄』に当たるこのイギリス映画のテーマ曲は、スコットランド民謡の『ナナカマドの木』を採用していますが、これはスコットランド出身の夫人がよく歌っていて馴染みがあったカズオ・イシグロが強く推したようです。ノスタルジックでもメロディは明るく、何処か希望を感じさせる曲でした。この選曲も脚本創作に影響したと思われます。主演ビル・ナイは、感情を抑制させた渋い演技で終始ロドニーの落ち着きと変化を表現しています。ベテランらしいコントロールの効いたいぶし銀の味わいがありました。マーガレットのエイミー・ルー・ウッドは役柄に合った明るさと人懐っこいキャラクター表現で好演と思います。涙を流す演技も自然でした。ピーターを演じたアレックス・シャープはイギリス俳優らしい品があって紳士的な立ち振る舞いが印象に残ります。ミドルトンのエイドリアン・ローリンズが「ハリー・ポッター」の父役ジェームズ・ポッターとは、全く気付きませんでした。記憶にあるのが21年前のイメージですから当然でした。