「「生きる」、そして「繋ぐ」」生きる LIVING つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
「生きる」、そして「繋ぐ」
公開が決まった時からメチャメチャ楽しみにしていた「生きるliving」。黒澤明の「生きる」のリメイクで、しかも主演はお茶目でエレガントな名優ビル・ナイとくれば、今年の注目作ベスト10には確実に入ってくるでしょ!
リメイク作品はオリジナル作品と比較される宿命にあるが、今作は傑作映画「生きる」と比較しても何ら遜色のない、美しい映画だった。
オリジナルである黒澤版「生きる」はもちろん観ていて、今でも邦画のベスト3に入るほど好きな作品だが、実際に周囲に薦められるかと言えばちょっと難しい。
「古い・白黒・120分超え」の三拍子で、かなりの確率で敬遠されるからだ。しかも主演は志村喬で、志村喬はもちろん超名優なのだが、いかんせんオッサン過ぎて魅力が伝わり難いのである。オッサンなところが良いんだけどねぇ。
対して「生きるliving」はノスタルジックなアスペクト比やタイトルデザインを使用しながらも、やはり現代的なスタイリッシュさとわかりやすさが感じられる。
上映時間もコンパクトだし、主演は老いてもなお華やかさを失わないビル・ナイだし、プレゼンしやすいことこの上ない。
「オススメしやすい」という点ではオリジナルを大きく上回るかもしれない。
映画全体の印象としては、黒澤版「生きる」が志村演じる渡辺課長を強い光のように描いて、観客に「生きる」意味を問いかけたのに対し、「生きるliving」は光を受け取るピーターを用意し、映画の中にも可能性を描いたという違いがある。
もちろん「どちらが優れているか」という話ではなく、狙っている意図が違うのだ。
黒澤は「渡辺の決意」と、それが「特別」であることを際立たせるために、その後結局変わることの出来なかった役所を淡々と描き、作品の影を担わせてメリハリをつけている。
それは一言で言うなら「叱咤」なのだ。「こんなことを続けていたら、生きているなんてとても言えないぞ」という警告なのだ。だからあえて光と影を極端に描きわける。
だから映画を観終わったら闘う気力のようなものが湧いてきて、生きることに血が滾ってくるのだ。
「生きるliving」は、既にピーターがその生き様を受け止め、なんなら手紙で「遊び場のことを思い出して欲しい」と教えられている。
それは作り手が既に黒澤に焚き付けられ、それを繋いでいきたいと思っていることの現れだ。だから、今を生きる人々に対し、「わかりやすく」「優しく」そして、それを実践したウイリアムズ氏と受け継ぐピーターを優しい紳士として描いている。
だから観終わった後、血気盛んになるというより雨上がりの澄んだ空気のような、清々しい気持ちになる。
最初に「オリジナルと比べても遜色のない、美しい映画」と書いたが、あえて好みを述べるなら、私はやっぱり黒澤版が好きだ。泥臭くて、オッサン臭くて、熱い血潮を感じる方が好み。
でも現代に「生きる」を繋ごうとしている「生きるliving」も、その志は充分熱い。
熱さを感じられなかったとしても、ビル・ナイがあまりにも切なくてカッコイイので、それだけでお釣りが来るほど満足できる。
この映画を観て、普段の生活で溜まった濁りを洗い流し、「生きる」ことに前向きになれたら、ついででも良いのでオリジナルを観て欲しい。
大丈夫、ストーリーは同じだし、観たら「生きる」ことに、もの凄いテンション上がっちゃうから!