「英国紳士としての「矜持」という生き様」生きる LIVING 平野レミゼラブルさんの映画レビュー(感想・評価)
英国紳士としての「矜持」という生き様
あの黒澤明の大傑作がノーベル賞作家カズオ・イシグロ脚本で甦る……という超豪華リメイク。
ただ、いくらなんでもリメイク元が名作すぎる上に「原典の志村喬に対してビル・ナイって配役はいくらなんでも格好良すぎないか?」と観る前は不安でしたが、こちらは「英国紳士としての生き様」という別の一本芯を入れて見事に成り立たせています。
前半は驚くほど黒澤版に忠実に進みます。たらい回しのお役所仕事描写に、作家に遊び方を聞いて羽目を外そうとするウィリアムズ(原典の渡邊)、息子に胃がんについて話を切り出そうとするもお互いに中々話せないもどかしさ……黒澤版と同じおかしみに溢れています。
病院で医者に胃がんの申告を遠回しにされる部分くらいですかね、オミットされたの。
まあ、医者が胃がんをハッキリ伝えないとか現在だと医療倫理的にどうなんだろう(一応、本作の時代設定も1950年代のままですが…)とか、そもそもお国柄的に迂遠な申告はしないのかもなとか色々ありそうですけどね、この辺。
ただ、リメイクなんで当然ですが、しっかり英国の美に合わせた画作りをしているのは美しいです。
集団が画一的な存在に成っている…って表現である朝の通勤ラッシュ描写が、スラッとした黒スーツに山高帽というお洒落さで異様に格好良いです。こればかりは「英国紳士だから」こそ出来た絵面なのでズルさすら感じますね……この場面はどう足掻いても日本人じゃサマにならないからネ……
スクリーンサイズも当時のスタンダート・サイズ(1:1.37)に近しくしていますし、冒頭のスタッフロールは完全なスタンダート・サイズと当時を思わせる画質で、往年の「名画」を観ているって感じで嬉しい。『七人の侍』のリメイクだったらフルスクリーンで観たいですが、本作に関してはなんぼ小さくしたって良いですからね!
演出も全体的に抑えてあり、前述の胃がん問答といった黒澤版の滑稽な描写は極力オミットして雰囲作りに注力している印象があります。
原典から決定的にズラしたのは職場の女の子との関係性と主人公の変化の仕方でしょう。
原典ではおもちゃ会社に再就職した彼女の何気ない「何か作れば?」の一言に渡邊は天恵を得て、ハッピーバースデーの歌と共に「生まれ変った」受動的な変化でした。
しかし、こちらではウィリアムズは彼女に息子にすら打ち明けなかった余命の話を打ち明け、自ら納得して「生まれ変わる」という能動的な変化となっています。
そのため、原典と違ってウィリアムズと強い繋がりを得た彼女も葬式に参列することになります。
僕が黒澤版で一番スゲェーな……って思ったの、二部構成のうち二部からは主人公が既に故人で、すっぱり抜け落ちた彼の公園建設の過程を遺された人々の通夜の会話で1時間展開させたことなんですよ。
前述通り、変化のきっかけとなった女の子も不在だから、主人公の生き様は類推でしか察せられない「聖域」と化しています。
ところが、本作は死後のシーンは30分足らず。
上司がウィリアムズの手柄を横取りする場面や、公園作りを陳情しに来たマダムたちの焼香(英国だから参列か)も一応ありますがサラッと流していて、その構成に拘っているわけではありません。
しかも、ウィリアムズが死に際に何を感じていたのかを、自分でまとめてそれを女の子と手紙を託した新人に伝えている…というように、描き方自体を根本から変えているんですね。そのため、ウィリアムズの遺志を(想像して)継ぐも、結局死に臨んだ人間の行動は模倣できずに流されたシニカルな黒澤版から結末も変わっています。
即ち女の子と新人の役割は「継承先」へ、公園の意味は自分のような「生ける屍(ゾンビ)」を生み出さないための次世代への目線に再解釈。そのため、後半からは黒澤版を大きく汲みつつも全く別の話となっています。
この辺の改変、下手にやると陳腐というか「想いは受け継がれる」という安直な話に堕してしまう恐れがあるんですけど、本作においてはウィリアムズが「英国紳士になりたかった」という一本芯を通したことでかなり筋が通っているように感じましたね。
流されやすい日本人である渡邊は死に臨んで天啓を得て自分だけの「聖域」を築きましたが、英国紳士であるウィリアムズは死に臨んでも慌てずに何が出来るかを精一杯考えて納得する「矜持」を持つに至りました。
だからこそ、ウィリアムズは自分がこれからやることを言語化して他者にハッキリ伝えましたし、作品自体も見事に「継承の物語」への換骨奪胎を遂げることに繋がったのです。
ただその場合、黒澤版のシニカルなオチ部分は別に入れる必要はなかったかな……
本作ではその部分、希望のある継承の物語に変換した大オチに対する中オチにあたるんですけど、別に入れなくても良い場面になってるんですよね。
特に原典でのあの場面、通夜の席で酔った部下達がその場のノリで宣言したから翌朝には元の木阿弥だった…って風にも取れるようになっているのが秀逸で、対して通夜での酒宴の文化のない英国版だとシラフで宣言したのに、翌朝には元に戻ってるのはちょっと薄情とも取れちゃうからね……
それでも、原典の要点を正確に理解して、それを英国流にズラした上で相応しい様式に変えた脚本の出来は実に見事でした。
これは日本出身イギリス在住の作家であるカズオ・イシグロだからこそ出来たとも言えるでしょうね。その非常に丁寧で良質な仕事ぶりに拍手喝采です。