すずめの戸締まりのレビュー・感想・評価
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ダイジンかわいい
すごくおもしろかったです
最初の戸締りするところ怖かったけど、すごい迫力あり引き込まれました
草太もイスもすごくいい動きをしてて、かっこいいし見応えあります
ただ一つ残念なのは、主人公のすずめにほぼ感情移入というか、理解できないこと。
え?高校生ですよね?もうちょっと自分以外の気持ちとか考えてもいいんじゃない?と思ってしまう
自分がされて嫌なことを平気で関係ない人には押し付ける。自分と草太以外は眼中にないって感じでちょっと理解できなかった。
ダイジンとかほんとにかわいそうだった
結果オーライだからいいのかもだけど、もうちょっとすずめの成長が見たかったなあと思う
周りに生かされたなあという感じ。
ただの個人的願望で、新海誠監督が描きたいストーリーはこっちだから、とやとや言う筋合いはないんだけど..
あと、震災の当事者でない私でも最初本当にしんどくて、会場を出ようかと思ったくらいなので、被災者の方はいろいろ思うことがあるかもしれません。
母を探す子に「(母のいない)明日がある」と言われても
緊急アラートや震災の描写があることは注意喚起があったのでメンタル武装できましたが、どうしてもダイジンのことを考えると気持ちが沈みます。
同時に主人公であるすずめを好きになることができませんでした。
わたしは震災とは異なることで生きるか死ぬかは運次第ということを体感した人間です。だからこそ幼少の自分に聞かせた言葉が全く響きませんでした。弱っている人間は正論や眩しいことを説かれても何も入りません。
例えば転んだ子供に「あそこで足元を見て歩いていれば、走らなかったら転けなかったよね」なんて言うでしょうか。そこで必要な言葉は「痛かったね」や言葉ではない抱擁だったりすると思います。
幼少の自分に宛てるというより、この物語を観る人へというメッセージが強すぎて新海監督のご高説でしかなく、物語として締まらないなと思いました。
胸がざわつく映画でした。
南海トラフあたりで気が付きましたが
九州では【戸締りが間に合わなかったから熊本地震が起きた】と
史実につなげてからの最後の東日本大震災へつながる流れ
炎が暗闇の中線状に伸びていく絵など
当時、ニュースで見た映像によく似た景色が多かった
私は、再び見る事はなさそう。
それはある扉を閉じたことから始まった…
今回の新海監督のアニメは震災をテーマにした映画で深く感じました。
全国の廃墟にある扉を閉じに旅に出た少女と青年(実質椅子)が猫を追いかけながら閉じに行くという設定が面白い発想だなと思いました。
中でも終盤辺りの少女の日記の部分が黒く塗りつぶすシーンが震災を感じさせる事で深く感じました。
(ฅ ॑꒳ ॑)ฅ スーズメッ!
めちゃくちゃ遅れてようやく観ました、すずめの戸締まり。正直1回観ただけでは最後の方の理解が追いつかなかったです。もう一度観たい...
何故急に子猫からダイジンと呼ばれるようになったのか、何故すずめに嫌われるとシオシオになったのか、左大臣?はなぜ急に環さんに乗り移ったのか...
謎が多いです🤔
しかしそういう謎や理解出来なかった点を含め相変わらずの映像美や切ない音楽、話のスピード感諸々おもしろい映画でした。
ダイジンをなぜ猫にしたのか
どうしても私見を述べて、近い意見の方がいたら「そうそう」とうなづいてもらいたいと思い初投稿です。長いですがお付き合い頂ければ嬉しいです。
この映画「すずめの戸締り」
素晴らしい!から駄作、まで感想の幅も広く、それだけ皆の感性や気持ちを刺激し、たくさんの問いかけがあり、考察させてしまう作品であることは間違いないと思います。
前置きが長くなりましたが、
もしテストで「映画を観たことのない人のために、監督が最も伝えたかったことを50字以内でまとめよ」と出題されたら、私なら
東日本大震災で母親を亡くした子どもに、成長したその子自身が「大丈夫」と伝えることで自分を救う物語 (48字)
と、まとめます。物語の内容ではなく、骨子なので、このようにしました。
しかし、物語構成要素が他にたくさんあって、というかありすぎて、観客の頭がぐるぐるしてしまい、また、それらの物語要素ひとつひとつに説明がない(あっても少ない)ので、いったい物語の最も太い屋台骨はなにか? をはじめとして、観ている側にはたくさんの疑問点が出てきます。なので、私の五十文字以内まとめとは違う内容を選ぶかたもいらっしゃると思います。
映画は観ている側に委ねる、考えさせるものでもあると思うので、それでいいと思います。監督の最も伝えたいこと、それも受け手によって変わってくる、それもいいと思います。
が、それにしてもかなりモヤモヤ度がデカい。
その中でも私の一番のモヤモヤは、以下のような事です。
ダイジンという役を猫で表現したのがエグい。
要石に戻りたくない、要石から解放して「うちの子になる?」と受け入れてくれた(ように見えただけ)鈴芽と居たいから。でも、鈴芽に愛されていないとわかり、誰かが要石にならないといけなくて、愛する鈴芽は椅子の代わりに自分が要石になると言ってる、だから自分(猫)が要石に戻る。
...このダイジンが人間の大人の姿だったら、もう少しモヤモヤが少ないのにな、と思った。子猫に、報われない愛と自己犠牲を表現させるのは、モヤモヤする。鈴芽と草太を祝福できないのだ。ヒロインを肯定できないまま映画が終わってしまった...
全てが終わって日常に戻った最終場面で、私は、鈴芽が白い弱った野良子猫と出会ってダイジンを思い出し、ああこの子猫をダイジンの代わりに大事に育ててやろう、と決意し、抱っこしているところに草太が現れる...みたいなラストにならないかな〜(なるとは思ってなかったが、希望として)と映画館で思っていた。が、やはり鈴芽と草太の再会だけで映画は終わった。
要石を可愛らしい姿で表現し、自己犠牲させることの意図はなんだったのだろう。草太と同じように若くてイケメンの男性で、鈴芽を想うが報われない、ではダメだったのか。或いは他のブログで拝見した意見だが、江戸時代から生きてるヨボヨボのおじいさん、とか。それにしたって、要石の刺さってる皇居下(だっけ)に向かって手を合わせるくらいしても、いいんじゃないか?
可愛い子猫のほうが、映画ビジネス的に都合がいいからなのだとしたら、モヤモヤ大爆発である。
せめて、ダイジンが愛のために自己犠牲になるのではなく、要石に戻るのはそもそも自分の仕事を全うするためだが、何日か猫の姿に戻れてリフレッシュできたよ〜ありがとね〜またがんばるよ〜、くらいにできなかったのか?
でなければ、草太が自分の家業である閉じ師を全うすべく要石になり、鈴芽は彼を忘れず生きていく、のほうがまだスッキリするのだが...もういっそ、愛と平和のために鈴芽と草太が二人で要石になっちゃうんでもいい。まだそのほうがわかりやすい。そもそも要石を引っこ抜いたのは鈴芽なんだし(マッチポンプという感想さえあった)。
鈴芽の手で猫に戻しておいて、自分の猫にならないかと誘っておきながら都合が悪くなると存在を否定して、自分を愛してくれる猫を自分の好きな男のために犠牲にして思い出しもしない、というのは納得できない。しかもそれは、日本を地震から守るためという大義名分がついているのである。ますます納得いかない。
人がいっぱい死ぬね、とダイジンに言われて(このセリフもかなり賛否の否が多いようだ)草太を要石にせざるを得ないというのは、自分の愛する人より、地震を防ぐ事を選んだ、と解釈できる。
もし、地震より愛する人を選んだ場合、首都圏直下型地震を映画の中で具体的に描くことになってしまい、それはあまりにエグいからできないという、現実的な理由もあるよなぁと思った。
映画を観たあと調べたら、案の定ダイジンのぬいぐるみなどグッズが売られていて、ますます割り切れない思いだった。可愛い猫を登場させたほうが儲かるから、という意図まで勘ぐってしまった。自己犠牲の猫をグッズにして売らないで欲しかった。
しかも、新海誠監督は猫を飼い始めて、名前を鈴芽と椿芽にしたそうではないか。なぜダイジンとサダイジンにしないのか.....
この映画を駄作とまでは思わないし、楽しく鑑賞した。映像美も素晴らしく、さすが新海誠映画だとその点感動した。でも、とにかくダイジンの扱い方、動かし方、結末においては全く納得できず、モヤモヤは膨らむ一方であり、そのために他の重要部分(東日本大震災について、寂れた土地を想い鎮めること、鈴芽の自己救済、鈴芽と環の関係性、鈴芽と草太の恋、芹澤の役目など)は全然考えられなくなっている。
鈴芽とダイジンの関係と、環と鈴芽の関係を対にする考察も多く見たし、なるほど...と思ったのだが、もう長過ぎちゃうのでここでは触れないでおく。ただし、環が鈴芽に発した「うちの子になる?」と、鈴芽がダイジンに発した「うちの子になる?」の重みが違いすぎるのに、対比させることにはどうも違和感がある、ということは記しておきたい。
そして以下は重箱的ツッコミ(笑)
①物語の冒頭、鈴芽が草太を追いかける理由がイマイチ伝わってこない
イケメンだから&どこかで会ったような気がするから、という事だろうけど、それもコミカルな台詞で印象が薄まっちゃって。
②水溜まりの真ん中にある扉まで、ローファーを履いたまま歩いていくだろうか
そこまでするほど扉に惹きつけられているように見えなかったのにな〜的なこともあり、単純に女子高生がそこまでするかな、的な意味もあり。
③なぜ要石を抜いたのだろうか
たまたま目についてなんとなく軽い気持ちで...としか見えなかったけど(なにかもっとありましたっけ?)、ここは物語の全編に関わる部分なのになぁ、という疑問
④会ったばかりの男子が怪我していてイケメンで気になるからと言って、自分の家、自分の部屋にまであげるだろうか
せめて玄関先とかじゃね?
⑤鈴芽の部屋に来たダイジンは、自分が引き抜いた要石が姿を変えて、その手から逃げ出した猫だと、彼女は気づいたのか
気づかずにエサをあげて「うちの子になる?」と致命的な台詞を吐いたのだと認識していますが、どうだったっけ?
草太はすぐに分かったんですよね、だから、要石に戻れと言って、逆に椅子に閉じ込められてしまうんですよね。(合ってる?)
⑥スマホ以外何も持たず、フェリーに乗り込む女子高生がいるだろうか
物語上絶対に必要な流れだし、椅子とダイジンを追いかけてるからしょうがないんだけども、唐突過ぎるというか、無理があるというか、不自然に感じた。スマホがなかったらどうするつもりだったのか...
⑦お金の支払いが全部スマホだけど、鈴芽の口座には一体いくら入っているのか
環さんがお金を管理してるから心配しなくていいのか。それにしたって使い過ぎ...それと、あんなに何でもかんでもスマホ決済できるの?現代社会はすごいな
⑧旅先で会う人々は、なぜあんなに優しくて寝食提供のみならず心の交流まであるのか
これも物語上大事な部分なので、ケチつけないほうがいいのはわかってるんだけど...なんか不自然に感じちゃって。最初に会う旅館の娘も、せめて親にバレないようにかくまう、とかのほうが自然なのでは...
⑨鈴芽が、椅子である草太に座ることは、草太をコミュニケーションの輪に入れることになるのか
お尻を草太に密着させるのって、なんかちょっと恥ずかしくはないのだろうか。
椅子を入れて記念撮影までしてるのも、なんか違和感。
キスすると起きるよ、と聞かされて簡単にキスしてるけど、それもなんか...
お互いに惹かれ合っていくんだなという描写も見えずそんな匂いもしないのに、物語の都合だけで「好きだ!」ってなっちゃってる感じがどうにも否めないんだよねぇ。それに比べるとダイジンが鈴芽を好き!っていうのはなぜか伝わってきたよ。なんでだ?(ハッキリ言ってるからってのもあるけどw)
⑩教員採用試験の二次をすっぽかす事が、自分を粗末に扱うことにつながるのか
この芹澤の台詞は、映画館で配られたスピンオフ小説で出典?が明らかになるもので、草太と芹澤の繋がりを示す大事な台詞ではあるのですが、なんかちょっと、違和感。すっぽかすなんてよっぽど何かあったんだろう、いったいなんなんだ、心配だ!ならまだわかるけど。芹澤が草太を心配してるのはよく伝わってきたから、心配だって台詞はいらないけど、自分を粗末にしすぎる、はなんかヘン。
映画ではわからない部分も多いから、小説版を読んだらいいらしいのですが、それはある意味禁じ手とも考えられるので、映画だけで考えています。
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映画を観た後、家に帰って飼い猫をめちゃくちゃ可愛がって、心の中で「ダイジンごめんよ」と何度もつぶやいたが、同じ事をしてる方がネット上にもいらして、あー同じ気持ちの人いっぱいいるんだろうなぁと思いました(笑)
もう、タイトルを「すずめの戸締り」じゃなく「かわいそうなダイジン」にしちゃえ。
正反対で同じな二人
封切りで見て、やっとレビュー書こうという気持ちに。
映画全体としては本当に良く出来ていて、相変わらず美しさとリアリティを貫きながらも、今までの作品よりクスッと笑えるポイントも多くて。
何度でも見たいし、定期的に、春や夏に見たくなるのだろうと。無くなった世界を思い出すように。
それはそれとして、主役であるすずめと草太さんのパーソナリティのリアルさに舌を巻いたのでその話を。
すずめは2011年に被災した孤児で、「人間はいつ死ぬか分からないから」と、自暴自棄な面がある所が映画では何度も描写されます。
人のために死んだ母親をなぞって、どうせ失うならと命を有効に使う場を探している側面があります。
看護師を目指しつつも、「それまで生きていられたら」という前提で序盤ではものすごく熱心という事もない様子です。
一方草太さんも作中ではっきりと明言されていませんが彼も被災した孤児です。
そして彼の場合は「人間はいつ死ぬか分からないから」やりたい事を生きているうちに全てやろうとしているように見えます。
どうせ失うならと、死ぬまでに家業も続けたいし、教員になりたいし、こんな所で終わりたくないのです。
なので、浮世離れした外見に反して生に貪欲でオーバーワーク気味です。
そういう意味で、二人は幼い頃に場面は違えど同じ傷を負って同じ結論を得た同士でありながら、その傷へのアプローチが違う二人なのです。
だからこそ、惹かれたし寄り添えたんだろうなと思うし、その正反対のアプローチが『人』だなぁと思うのでした。
ジブリ感
新海誠監督の作品は「君の名は」ぶりに劇場で観ました。
き「君の名は」で光が割れるシーンがジブリの「ハウルの動く城」でハウルの幼少期に心から光が放たれるシーンと類似しているのは知っている方もいらっしゃるかなと思います。
今作でも、"あ、これは千と千尋の神隠しで龍になったハクの背中に千尋が乗って空を飛ぶシーンと似てるぞ?"とか、これまた"これはハウルの動く城のハウルと、壊れてしまった城を描いたシーンに似てるかも"とか、
わたしの頭の中にジブリがあったからその先入観もあるのかもしれませんが、
所々似てるなあ…新海監督はジブリに影響されているのかもなあ…と感じました。
松村北斗さんと原菜乃花さんの声のお芝居はもちろんのこと、白鵬さんの声のお芝居に心を掴まれました。すごい迫力。声だけであんなに気迫を感じさせられるのはすごいです。。圧巻でした。
肝心のストーリーはというと、考察が読みたくてたまらやくなりました。
一度では理解できない難題ストーリーです。。
あまりにも陳腐
どこかで見たようなストーリーのつぎはぎ合わせ感がすごい。
なによりもしょうもないポイントが、東日本大震災という実在の自然災害をミミズという超常現象のせいだとした設定。ストーリー上そうする必要があったのなら目を瞑るが、結局ミミズの正体はわからずじまいでなんの意味もない。
ストーリーの本筋も、顔のいい男とそれに恋した女が人柱状態になりかけて日本を救おうとするだけ。全てが陳腐すぎて逆に面白い。
主人公の女の周りの人間達も、主人公を助ける(時には安っぽい障害になる)舞台装置でしかない。いそうでいない奴らばっかでクサい。
神様猫の扱いも酷すぎる。カップルのイチャイチャの踏み台になった猫。胸糞悪い。グロ映画だったのかな?www
時間を無駄にした。最低最悪。☆0.5は映像と音響分。
地震かぁ…
フィクションとは分かってるけど、常世とかあれまさにあの311…と思うと辛いつらい…
すずめ一人だけ訛ってないなぁと思ったら震災孤児なのね…つらい、色々つらい。
地元が映るとソワッソワしますね。そう言う土地を巡ってたのかな。
いつか死ぬことも分かってるけど、そりゃひとときでも長く生きたい。
環さんも芹澤も途中で拾ってくれた人々も皆良い人で恵まれてましたね、良いことです。
長旅の時にルージュの伝言流したくなるのとてもよく分かる。
色々な人に恵まれて託されて、物やら受け継いで、今度はすずめがすずめに椅子を託すの、とても良かったです。
子供の涙には弱いので少し泣きました。
あとダイジンをとても愛したかったです。可哀想。
ダイジンっぽいってのがイマイチピンとこなかったな。
娘とデートで鑑賞。
昨年から小学生の娘と約束し、予習に「天気の子」を一緒に観て気分を盛り上げたままになっていましたが、ようやく観に行けました。
すごく観たがっていた娘に対し、私は正直そこまで期待はしていなかったのですが・・・良かったです。
何よりまず序盤のロケ地が私の故郷だったこともあり見覚えのある風景がいくつも出てきて、絵の美しさと相まってテンションが上がりました。
あとメガネくんの愛車からのBGMも昭和生まれにはドストライク過ぎました。
途中まで設定に無理があるなあとか若干思っていましたが、忘れもしない3.11に繋がる流れに心が震えました。
ロケ地に使われたこともあってかローカルのテレビ番組で新海監督がインタビューを受けていた際に
「何気なく日常で繰り返されている「いってきます」「いってらっしゃい」がどれだけ奇跡的なことか。」
とおっしゃっていましたが作品を観てあらためてそれに気付かされました。
年齢的に3.11をリアルタイムでは知らない娘ですが、後半涙を流していたので、鑑賞後に東日本大震災という未曽有の災害のことを話してやることができました。
今ここにある現実は決して明日も保障されているものではない、それだけに当り前だと思っている一瞬も大切に生きていきたいと思い出させてくれる映画でした。
自己を肯定するのみ
16歳となるすずめの反抗期なのか?自身の行動について自己を肯定することで前に進む。
そして旅先で出逢う人たちの優しさ。
目的はたまたま杭を抜いたことにより起こるんだけど、自己が行ったこの行動に対する対価はなんだったんだろう。
そしてその杭は東西それぞれにあると云いつつ、もう1つはだれが抜いたのか?もし抜いたのがネコなら終盤のネコに対する問答が意味をなさない。その点どうしても納得いかなかった。
そして主人公の背負ってきたものは理解できるが、彼女が伯母に対して持つ歪んだ想いと自身の行動の整合性のなさ。
そして何よりネコがどういう理由で彼を椅子にしたのか?自身の身代わりという理由のみで行ったのなら、杭自身にも想いや意思があることになり、その意思を自身の都合で杭に戻すことへの歪みはないのだろうか?
自然災害により苦境に立たされた人々の苦悩は理解出来るが、そのことと自身の行動が正解ということはイコールではないのではないかと感じてしまった。ただ派手な演出の連続なので、その点は楽しめました。
また(裏)設定が旅をテーマにしてる様に思え、魔女を思い浮かべてしまいました。なので出来ればあの曲は使わないで欲しかった。
さいごはグッときた
新海作品にハズレなし。話の展開も早くて引き込まれた。また映画後半の画面は迫力があった。地震を引き起こすミミズと(天気の子の)雲の中の竜の描き方や、前半の「ええっ?」というすずめのセリフ・反応が、(君の名はの)三葉の感じと被って見えて、「うーん、新海パターン!」と思えるところもちょこっとあったが、幼いすずめに、今のすずめが「これから良いことが沢山あるから(人生は素晴らしい)」と伝えるシーンのところなどはグッときた。何回見てもいいと思える大変良い映画。前作とはテーマがちがうけど、自分の好みとしては「天気の子」かな。
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すずめの尻拭い
見る予定は予定は無かったのですが、友人に誘われて鑑賞しました。新海監督作品を見るのは初めてです。予備知識は特に無かったのですが、周りの子達はよく見てる作品だなぐらいの印象でした。
私のように歪んだ目でしか作品を見れない人にとっては、微妙に楽しみづらい作品かもしれません、、。
世間知らずで高校生ぐらいの年代の子に憧れてる小学生〜中学生が対象の作品かな。モヤモヤした点を全てこの世界線では普通のことで、こんな展開も主人公の運命で引きつけられるように起こってしまった出来事なんだと思えば大人でも面白いかもしれませんね。
小さい田舎の島に住んでて、いかにも島の人間ではない他人に空き家の場所を教えるとか。危険だと分かってて立ち入り禁止区域まで行って、いかにも何かを封印するために置いてありそうな石像を取ってしまうとか。自分のせいで他人が呪われときながら私が"手伝います"とか。
このヒロイン、馬鹿なんじゃないかと思うシーンが度々あります(^^)
でもヒーローに関してはそんなヒロインの真っ直ぐで一生懸命で天真爛漫なところにときめいてるんですよね。まあ、呪いにかけられたのもこのヒロインのせいなんですけど。やっぱり男にはこういう身勝手な女が好きなのか、、と思わせるような主人公です。主人公共感はあまり出来ません。
お話し上の歴史とかにも気になるところがあって
地震を起こすのはミミズって、、、なんか微妙。
地震とミミズってなんか関係あるんですか?現実的な感じで「ああ、昔から言われてるこれってこう言う解釈もできるよな、!」みたいな感じだとナマズとか、空に昇っていく災いの元として描くなら龍とか、他にもあったのでは。
あとすずめ自身が過去の自分に対面することで、過去の自分を助けるみたいなハリポタ的展開、エクスペクトパトローーーーナムです笑
他にもいろいろパロディみたいなシーンが多かったですね、ヒロインが走ってる時に転けるジブリ的なシーンとかわざとらしいのに笑に来させてるわけでもない場面が多々。
細かいことを気にせず大まかな話としてみれば面白いですし、今自分が暮らしている日本とは似た別の異世界で起こってる話だと思えばいいんじゃないでしょうか。
東北の大震災を交えたシーンは、小さなすずめちゃんがお母さんを呼ぶ声に自分が子供の頃迷子になった時の心細さと何倍も辛いだろうとか、お母さんや暮らしていた町がもう帰ってこないことを知りながら俯瞰して見ているどうしようもない切なさとかでずるい泣かせ方をしてくる場面もあるし。
彩度高めの繊細な日常の描き方も見どころだと思います。一回見れたら満足です(^^)
過去に闇を抱えた元気系ヒロインが椅子に変えられたイケメンと猫を追いかけるうちに災いを封印しながら気づいたら自分探しの旅に出いて日本を巡り一回り大きく成長する笑いあり涙ありのお話しです。
それされたら泣いちゃうよ
ラストシーン、子供の頃のすずめが泣いていて「それされたら泣いちゃうよ」って思いながら映画館で泣いた。
アニメ映画基本信用していない、映画館で見る意味あまりない、という派閥なんですが、新海誠だけは別格かなあ。
嫌いな人もいるみたいだけど、君の名は、天気の子から続くこの3部作は個人的に結構好きよりだったなあ。
椅子が走るくだりだけはまじ意味わからん。あとサダイジン。
地震をムカデに喩えるのとかは、面白くて納得感得られやすくていいなと思った。
唐突すぎて
最初の出会いが唐突すぎてビミョーな感じ。
3.11は題材にしても良い時期なのかな?自分は時期尚早と思うが人それぞれか。
良い音楽だと思うけど映像とのリンクが薄いと感じた。
チビっ子も多数観てたけど理解できてない様子だった。
絵を観るだけでも価値あり!!
前作が全く引っかから無かったので、無興味で(スミマセン)で観てきました。
始まりの30分は完璧です!繰り返しますが、完璧です。私もワクワクでした。ただ、ストーリーが進むにつれて辛い…辛いです。
おっさんの意見を言うと、リアリティが無い(世界観の現実味というよりは、内面の動き的な)ですし、急なキャラの割り込み等々「それいるっ?!」と突っ込み所があり、気になりました。
ただ、東北震災の激烈さ・非情さを知らない世代や人間には響く作品かと思いました。(個人的には、最後の扉を戸締まりの際、地域の心・生活・日常のシーンでグッと来ました。)是非、本作をきっかけに、震災の書籍や映画など見て頂きたいです。
んーー!昨今の原作ありきの中、0から1を作り出す力は凄いなと思います。ただ、1から2以上が不器用なのかなと失礼ながら勝手に思いました。
とは言え、恐らく震災の映像制約の中で、ここまで踏み込んだ作品は無かったと思います。
是非、少しでも多くの少年・少女に映画館で観賞して欲しいです。
映像美!!是非映画館で!!
音楽映像は素晴らしかったですが、結局、すずめにとって要石とは何だったのか?
(完全ネタバレですので鑑賞後にお読み下さい)
※少し修正加筆しました
この映画『すずめの戸締まり』の鑑賞後は、素晴らしい映像と音楽の映画で、ある水準を超えた面白さのある映画だと思われました。
しかし、(もしかしたら多くの人もそうだったかもですが)では『君の名は。』のような傑作だったかというと何かが足りないと個人的には思われました。
この映画『すずめの戸締まり』の主人公の岩戸鈴芽/すずめ(声:原菜乃華さん)は、映画では瑞々しい性格の良い人物として描かれています。
しかし見終わった時に、この映画の内容としてすずめをこのように万人に肯定されるキャラクターとして本当は描いてはいけないのではないか、とは思われました。
ところで、なぜ要石だった(猫の姿をした)ダイジンをすずめは外してしまったでしょうか?
この理由が明確に描かれていない、その理由の描写から目を逸らしているところにこの映画『すずめの戸締まり』が傑作になり得てない要因があるように思われています。
ではすずめが、要石の(猫の姿をした)ダイジンを外してしまった理由は何なのでしょうか?
この映画では明確に描かれていませんが、個人的な解釈としては、実は潜在的にすずめは<要石を外したかった>と考えれば、この映画の背後に潜む一貫性をうかがえると思われました。
要石がすずめに外されることによって、ミミズが地上に現れて、そのミミズの柱が倒れることで地震が引き起こされます。
しかしその地震(災害)の要因であるミミズをすずめ以外の(あと閉じ師の宗像草太(声:松村北斗さん)ら以外の)、すずめの友人や周り含めた一般の人々は見ることが出来ません。
このことは何を暗喩しているのでしょうか?
この災害の要因であるミミズを見ることが出来ない一般の人々は、過去の震災での被害を忘れた一般の人々の暗喩であると考えれば合点がいくと思われます。
つまり、すずめにとって、ミミズを見ることが出来ない過去の震災を忘れた周りの人々は、震災で母を亡くしたすずめとは断絶した関係性の人々であるということになります。
そんなすずめが、震災を忘れている周りの人々に再び自身と同じ傷を負わせたいと潜在的に考えていたとしたら‥
潜在的に望んでいたからこそ要石をすずめは取り外すことが出来、その潜在意識によってすずめが再びミミズを地上に発生させたのだとしたら‥
俄然この映画は違った映画として解釈され直すと思われます。
そんなバカな‥と思う人がほとんどだと思われますが、すずめは要石を潜在的に取り外したかった、すずめはミミズを復活させて災害被害を再び周りに浴びせて母を亡くした自分と同じ傷を震災を忘却している周りにも負わせて共感させたかった、と解釈し直しても、驚くべきことにこの映画は同じストーリー展開で成り立ってしまうのです。
すずめが、ミミズを復活させて災害被害を再び周りに浴びせて母を亡くした自分と同じ傷を震災を忘却している周りにも負わせて共感させたかったと潜在的に思っていたのならば、なぜ要石だったダイジンがすずめによって外されて、そのダイジンがすずめのことが「好き」なのか良く理解できます。
そしてすずめが潜在的にミミズを復活させたかったと解釈すれば、ダイジンがすずめにさらに好まれるため行く先々で後ろ戸を開けてミミズを復活させていた、というダイジンの行動の理由もはっきりします。
すずめは東京に行った時に、100万人の死者を出すか宗像草太を要石にしてミミズ(災害)を食い止めるかの選択を迫られます。
そしてすずめは迷った末に宗像草太を要石にして100万人の死者を出す災害の方を食い止めます。
この選択も、(実際はそうしませんでしたが)潜在的には100万人の死者を出しても大切な1人の方を救った方が良いのでは、とのすずめの潜在意識が見え隠れします。
事実、新海誠監督の前作の映画『天気の子』では、たとえ東京が水没しても、主人公の森嶋帆高(声:醍醐虎汰朗さん)にとって大切な1人の天野陽菜(声:森七菜さん)が助かった方が良いのだとのラストでした。
この映画『すずめの戸締まり』はものすごくイジワルな解釈をすれば、潜在的にはテロリズムの無意識が根底に流れています。
そして、その潜在意識を否定するために、人々と出会うロードムービーなのだ(ミミズを封じる閉じ師である宗像草太との出会いなのだ)と考えても全く成り立つストーリーなのです。
その解釈に従えば、すずめにとって震災の傷を忘却しているその他大勢の人々は、自分と同じ傷を浴びせられれば良いとの潜在意識の解釈になります。
そして、そのテロリズム的な潜在意識は実際は間違いなんだと、ミミズを封じる閉じ師である宗像草太との出会いや、ダイジンを追う旅の途中で出会った、具体的に生活を営んでいる様々な人々との交流によって、すずめに対しロードムービーとして示されるストーリーになっています。
こう考えるとゾッともする1段深い映画になっていると思われます。
しかし、これは潜在的にそう解釈できるというだけで、実際はこのように映画『すずめの戸締まり』は描かれてはいません。
あくまですずめは気持ちの良い瑞々しい人物として描かれ、要石のダイジンがなぜすずめによって外されたのかの理由も示されません。
このことが、
結局これ何の映画だったの?
良く考えたら要石を外したのはすずめで、それを元に戻すだけの、1人相撲で大騒ぎになってる映画にしか観客にとってはなってないんじゃないの?
という釈然としない感想も残る映画にさせていると思われています。
それは、この映画で表現されてしまっている暗い潜在意識から、新海監督が目を逸らせてしまっているのが理由だと、個人的には思われてはいます。
私個人は、いまだにセカイと私(あるいは大切な1人)とを単純に分けてしまう世界描写に大きな違和感を感じています。
初めから周りにいる具体的な人々の重層された心の深層を踏まえ、さらにそこから関係性を深める必要があると思われています。
人は表層で一見侮れる部分が見えたとしても、その背後に抱える矛盾は複雑で、どんな人も侮ってはいけないと思われます。
そして現実では、ミミズはちゃんとほとんどの人々には本当は深層では見えているのです。
そこへの眼差しを忘れてはいけないのだとこの映画を見て逆に思われました。
映画自体は、そこまで要求しなければ、映像と音楽の質の高さだけでも見る価値がある素晴らしさある映画だとは、一方では個人的にも思われました。
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