「恋愛と死との関係がテーマの壮大な物語ではあるが平坦なストーリー。」すずめの戸締まり eigazukiさんの映画レビュー(感想・評価)
恋愛と死との関係がテーマの壮大な物語ではあるが平坦なストーリー。
女子高生の主人公が朝の通学途中に謎の青年に偶然出会い事件に巻き込まれ旅をしているうちに日本の危機を救い主人公は自身の過去を思い出すストーリー。この映画は起伏の少ない平たんな一直線の道路のように淡々と都合よく話がテンポよく進んでいく。主人公の恋愛の気持ちがわからず。2.5点。
私は主人公が謎の美青年を見た後に空に大きなミミズを見る場面は思春期の妄想だと思ったのだが実際あの大きなミミズは思春期からの湧き出るように発生する止まらない性欲を表していると思う。鈴芽と草太は扉からあふれ出る性欲を二人で止めるがこれは性欲を二人で発散したと解釈できる。死の世界である常世から扉を通って現実世界に出てくる大きなミミズは巨大な性欲と巨大な死(地震や災害などでの大量死)を表現している。なぜ性欲の放置が大量死と関係するのかという理由は 、恋愛による性欲の発散がない場合は恋愛が存在しないということなので子孫が生まれなくなりそれは人類の滅亡につながる大量死と同じ事となるからだと思う。愛し合う二人による恋愛のみがミミズ(性欲)を退治する方法であり恋愛をしないでミミズが放置されると子供が生まれない(人類の大量死につながる)ということである。大きなミミズは日本人の性欲であり日本人の恋愛がなく性欲が放置されると生まれるはずの大勢の子供が生まれない。それは災害級の大惨事に匹敵する。大ざっぱに言うと鈴芽と草太は性欲を放置せず恋愛をして子供が生まれるようがんばっている。
結論:鈴芽の恋愛と母の死との関係がテーマの壮大な物語ではあるが平坦なストーリー。
追記:
なぜ人は恋愛するのか。そして性欲はなぜあるのか。
それは人は死ぬ事を知るからだと思う。人は人が死ぬことを知りそれゆえ恋愛し性欲を獲得する。鈴芽の場合はあの扉の世界で母の死を知り理解して同時に草太との恋愛が生まれたと解釈できると思う。常世(死の世界)からミミズ(性欲)が発生するのは人が死を知ることと関係がある。もしも人が不死身なら恋愛はたぶん起きない。
まとめ:
人の死の意味は他人に死を教えるということである。他人の死を知った人は自分の死も知り同時に性欲が湧いてくる。発生した性欲を抑えるため恋愛をする。やがてその人も死に他人に死を教えて他人の恋愛の起点となるという生と死のサイクルが本作品の主題(メインテーマ)であろう。
ストーリー:
女子高生の鈴芽は過去の震災での母の死をまだ心の中では認めていなかった。ある日イケメン大学生の草太と偶然出会い自然に性欲が湧いたがそれが何かを知らなかった。出来事がいろいろあってやっと母の死を認めることができた鈴芽は草太と恋愛をスタートしたのだった。ラストシーンあたりで鈴芽が「行ってきます」と行ったのは実家を出て独立したことを意味しており「おかえり」と草太に言ったのは新しい家庭を築こうとしていることを意味する。
追記その2:
現代では恋愛と死の関係の密接さは古代よりは薄れている。現代では映画などのメディアが多感な時期の若者に対し恋愛をファッションとするよう扇動しているように見える。
追記その3:
本作品はキリスト教の聖書の創世記に書かれている最初の人類アダムとイブの最初の子作りの話がモチーフであろう。二人以外誰もいない廃墟で鈴芽と草太つまりイブとアダムは子供を作るための作業をする。つまり戸締りとは子作りのことである。また二人は廃墟で子供を作って人類を復興させるという役割も担っている。大地震などの大災害では確かに大勢の人が死ぬが性欲が適正に発散されず恋愛をする人が減り子供がいなくなると大地震の被害以上に人がいなくなり、しまいには町は廃墟となる。本作品では大ミミズは性欲の象徴として、草太が変身する椅子は自慰行為の象徴として描かれる。大ミミズという性欲を放置し子作りしない場合、子供が生まれなくなり町は廃墟となるのである。戸締りとは疑似的子作り行為である自慰をやめるという意味合いも持っているのであろう。現代日本では性の話題は恥ずかしいこととしてやハラスメントとしてや場合によっては罪に問われてタブーであるが神聖な行為としての性活動をこの作品は描いていると思う。私としての感想は恋愛の減少が原因で子供が減るなどの仮説のように現代日本の人口減少問題は単純なものではなくもっと地理的で複合的で歴史的な要因の結果として人口減少があると思うので本作品での子供を作ろうという単純なメッセージ性は宗教的で聖書的で清らかすぎる感じがする。現実世界の本質は聖書のように色眼鏡を通して見たような単純な世界ではなく人類の理解を超えたカオスであると私は思う。とはいえ私はこの作品の美しい映像世界に魅かれたのは事実である。
