「『ネコと和解せよ』」すずめの戸締まり 平 和男さんの映画レビュー(感想・評価)
『ネコと和解せよ』
今更ながら、『すずめの戸締まり』のレビューを書く。
本作の公開日は令和4年11月11日。私が本作を映画館で鑑賞したのは同年11月22日だった。
結論を先に書くと、本作は傑作である。
自分の中でのベスト1である『君の名は。』(前々作)と順位を入れ替えるには至らなかったが、それでも、『天気の子』(前作)を上回る出来であった事は間違い無い。
で、本作を鑑賞直後に私が思った事が、このレビューの表題そのまんまである。
……これだけだと意味不明なので、以下、主に主観的な記憶を頼りにして、私がレビューの表題の通りに思った理由を書く。
例によって、他者のレビューに影響される事を防ぐため、私は本レビュー執筆に当たって他者のレビューを読んでいない。
前作『天気の子』のレビューでも書いた事であるが、「芸術家はデビュー作で追い求めたテーマやモチーフを生涯追い続ける」とはよく言われる事であり、本作も例外ではないと思う。
本作にも、既存の新海誠作品から踏襲してきたと思われるテーマやモチーフが多々見られる。
「思わず祝福したくなる様な若き男女の愛」
「その愛を阻もうとする理不尽や不条理」
「少年少女にとって、時に敵や障害となり、時に味方となる大人達」
「大きな災いに抗おうとする人々のつながり」
「ドラマを引き立てる小道具や舞台装置としての、
SF的あるいはファンタジー的ガジェット」……等々。
但し本作の場合、前々作や前作と違い、主人公カップルの愛の成就にとって最大の『障害』になるのは『大人達』ではない。
『神』である。
もう少し詳しく言うと、制御する術が殆ど無い自然現象や怪奇現象の戯画・擬人化としての『神』であり、本作では白猫の姿をし、「ダイジン」という通称で呼ばれている。
この「ダイジン」、恐ろしい超常能力を持っており、主人公カップルのカタワレである宗像 草太 を造作も無く3本足の幼児用椅子に変えてしまい、主人公カップルの前から逃げ出してしまう。
草太に惹かれ始めていた主人公カップルのカタワレのもう片方である女子高校生、岩戸 鈴芽 は、草太を元の姿に戻す(※)ために奔走する破目になる。
(※草太は何故か幼児用椅子の形態でとりあえず行動可能であるが、後に劇中で判明する通り制限時間が有り、その制限時間を過ぎると元に戻れなくなり、ダイジンの身代わりとして要石になってしまう)
ダイジンの正体は、劇中で大震災を引き起こす超常的存在(劇中では『ミミズ』と呼ばれていた)を封じる『西の要石』であり、背景設定によるとかつては人間の子どもだったらしい。
『要石』としての境遇に不満を感じていたのであろうダイジンは日本列島を北東に向かって神出鬼没に移動し、気ままに遊びまわるが、その結果、封じられていた『ミミズ』が動き出し、東京都であわや大震災が起こりかける。
物語の中盤、ダイジンを追う過程で要石とミミズの関係を知った鈴芽は、先代要石であったダイジンを知らぬとは言え自分が解放してしまったという自責の念も有ってか、ミミズを封じるため、大震災がもたらす被害と草太の存在とを天秤にかけ、号泣しながら、要石と化した草太をミミズに突き刺す。
……前作『天気の子』では大水害がもたらす被害と想い人の存在とを天秤にかけ、帆高は想い人の方を選んだ。
本作の鈴芽の選択は前作の帆高の選択と真逆であったが、それぞれの置かれていた境遇の違いも有るので、「どちらの選択が正しかったか?」を問うのは、難しい。
この辺りの問題(トロッコ問題の様に、主観的な選好と功利主義的な判断とのせめぎあいが現れる問題)については『天気の子』の方のレビューで書いたので、ここでは多くを語らない。
ただ、本作中盤での鈴芽の選択が、前作を見た人に対して新海監督が提示した「トロッコ問題の別の答え」である事は、おそらく間違い無かろう。
ここで物語が終わっていたら本作は悲恋ものになるのだが、終盤へ向けて鈴芽は、ダイジンが再び要石に戻って元来の役割を果たしてもらう様、そして草太が再び人間の姿に戻って帰ってくる様に、様々な人達の助け(※)を得て、奔走する。
(※人間に限らず、ダイジンと対を成す黒猫の姿をした神『サダイジン』の助けも有った事を、ここで言い添えておく)
……ここから先の展開は是非とも本作を見て確認していただきたい。「心地良いハッピーエンドである」とだけ言っておこう。
何にせよ、鈴芽とダイジンが和解しなければ、ハッピーエンドにはたどり着けなかった。だからこそ、本作鑑賞直後にこう思った。
「ネコと和解せよ」(※銀河万丈さんが威厳に満ちた役を演じる時の様な、厳かな声で)