「境界のおはなし」すずめの戸締まり ばぶさんの映画レビュー(感想・評価)
境界のおはなし
新海誠は昔から、「交わるはずのない世界がほんの僅かな間だけすれ違う」というシチュエーションが好きな作家ですよね。今回もそうでした。なので新海らしさが好きな人にはハマる作品だったと思います。
後戸の向こうにある常世。
後戸のこちらにある現世。
主人公すずめはひょんなことから後戸を開けてしまい、かつ要石も抜いてしまったことで、異世界に繋がってしまいました。放っておけば大災害を引き起こすミミズが這い出てしまう。そのミミズを封じるため、大学生兼閉じ師の草太が駆け回ります。
すずめもまた、椅子にされてしまった草太とともに宮崎から故郷の宮城まで長い旅に出ます。
画の美しさは新海誠の十八番なのでここでは触れません。
今回私が感銘を受けたのは、扉を開ける/閉めるという行為に様々な意味を持たせ、描いてみせた点です。
後戸は開いてしまったら悪いもの(ミミズ)が出てきてしまう。だから閉じねばならない。
しかし本来扉とは逆で、外から悪いものが入ってこないように、中にあるものや人を守るために閉めるのです。
後半で、震災の朝もいつもどおり出かけて行ったであろう人々が出ていく様を描いていますが、これこそが私たちにとっての扉の役割なのです。
いってきますと言い、いってらっしゃいと言われ、そのあとに扉を閉めるのは、内側にあるものを守るため。
これが逆転しているから「後戸」なのかと思いました。
視点や立場によって想いが変わるというのも、新海監督の好物ですよね。
本来立ち入ってはならない領域。
関わってはならない存在。
踏み込んではいけない場所。
過去作同様、今回もまた、時間空間を超えて境界を渡り、また戻ってきました。
もう1点。
すずめは作中において、よく「死ぬのは怖くない」と言います。若さゆえの無謀さばかりでなく、4歳の頃に震災で母親を喪ったすずめにとって、死とはいつでもすぐ側にあるものであり、それに捕まるかどうかは運次第なのです。
すずめだって震災で死んでもおかしくなかった。
そうならなかったのは、たまたまそうだったからに他ならない。この経験が、すずめの少し不思議な死生観につながっているのかと感じました。