「音楽映像は素晴らしかったですが、結局、すずめにとって要石とは何だったのか?」すずめの戸締まり komagire23さんの映画レビュー(感想・評価)
音楽映像は素晴らしかったですが、結局、すずめにとって要石とは何だったのか?
(完全ネタバレですので鑑賞後にお読み下さい)
※少し修正加筆しました
この映画『すずめの戸締まり』の鑑賞後は、素晴らしい映像と音楽の映画で、ある水準を超えた面白さのある映画だと思われました。
しかし、(もしかしたら多くの人もそうだったかもですが)では『君の名は。』のような傑作だったかというと何かが足りないと個人的には思われました。
この映画『すずめの戸締まり』の主人公の岩戸鈴芽/すずめ(声:原菜乃華さん)は、映画では瑞々しい性格の良い人物として描かれています。
しかし見終わった時に、この映画の内容としてすずめをこのように万人に肯定されるキャラクターとして本当は描いてはいけないのではないか、とは思われました。
ところで、なぜ要石だった(猫の姿をした)ダイジンをすずめは外してしまったでしょうか?
この理由が明確に描かれていない、その理由の描写から目を逸らしているところにこの映画『すずめの戸締まり』が傑作になり得てない要因があるように思われています。
ではすずめが、要石の(猫の姿をした)ダイジンを外してしまった理由は何なのでしょうか?
この映画では明確に描かれていませんが、個人的な解釈としては、実は潜在的にすずめは<要石を外したかった>と考えれば、この映画の背後に潜む一貫性をうかがえると思われました。
要石がすずめに外されることによって、ミミズが地上に現れて、そのミミズの柱が倒れることで地震が引き起こされます。
しかしその地震(災害)の要因であるミミズをすずめ以外の(あと閉じ師の宗像草太(声:松村北斗さん)ら以外の)、すずめの友人や周り含めた一般の人々は見ることが出来ません。
このことは何を暗喩しているのでしょうか?
この災害の要因であるミミズを見ることが出来ない一般の人々は、過去の震災での被害を忘れた一般の人々の暗喩であると考えれば合点がいくと思われます。
つまり、すずめにとって、ミミズを見ることが出来ない過去の震災を忘れた周りの人々は、震災で母を亡くしたすずめとは断絶した関係性の人々であるということになります。
そんなすずめが、震災を忘れている周りの人々に再び自身と同じ傷を負わせたいと潜在的に考えていたとしたら‥
潜在的に望んでいたからこそ要石をすずめは取り外すことが出来、その潜在意識によってすずめが再びミミズを地上に発生させたのだとしたら‥
俄然この映画は違った映画として解釈され直すと思われます。
そんなバカな‥と思う人がほとんどだと思われますが、すずめは要石を潜在的に取り外したかった、すずめはミミズを復活させて災害被害を再び周りに浴びせて母を亡くした自分と同じ傷を震災を忘却している周りにも負わせて共感させたかった、と解釈し直しても、驚くべきことにこの映画は同じストーリー展開で成り立ってしまうのです。
すずめが、ミミズを復活させて災害被害を再び周りに浴びせて母を亡くした自分と同じ傷を震災を忘却している周りにも負わせて共感させたかったと潜在的に思っていたのならば、なぜ要石だったダイジンがすずめによって外されて、そのダイジンがすずめのことが「好き」なのか良く理解できます。
そしてすずめが潜在的にミミズを復活させたかったと解釈すれば、ダイジンがすずめにさらに好まれるため行く先々で後ろ戸を開けてミミズを復活させていた、というダイジンの行動の理由もはっきりします。
すずめは東京に行った時に、100万人の死者を出すか宗像草太を要石にしてミミズ(災害)を食い止めるかの選択を迫られます。
そしてすずめは迷った末に宗像草太を要石にして100万人の死者を出す災害の方を食い止めます。
この選択も、(実際はそうしませんでしたが)潜在的には100万人の死者を出しても大切な1人の方を救った方が良いのでは、とのすずめの潜在意識が見え隠れします。
事実、新海誠監督の前作の映画『天気の子』では、たとえ東京が水没しても、主人公の森嶋帆高(声:醍醐虎汰朗さん)にとって大切な1人の天野陽菜(声:森七菜さん)が助かった方が良いのだとのラストでした。
この映画『すずめの戸締まり』はものすごくイジワルな解釈をすれば、潜在的にはテロリズムの無意識が根底に流れています。
そして、その潜在意識を否定するために、人々と出会うロードムービーなのだ(ミミズを封じる閉じ師である宗像草太との出会いなのだ)と考えても全く成り立つストーリーなのです。
その解釈に従えば、すずめにとって震災の傷を忘却しているその他大勢の人々は、自分と同じ傷を浴びせられれば良いとの潜在意識の解釈になります。
そして、そのテロリズム的な潜在意識は実際は間違いなんだと、ミミズを封じる閉じ師である宗像草太との出会いや、ダイジンを追う旅の途中で出会った、具体的に生活を営んでいる様々な人々との交流によって、すずめに対しロードムービーとして示されるストーリーになっています。
こう考えるとゾッともする1段深い映画になっていると思われます。
しかし、これは潜在的にそう解釈できるというだけで、実際はこのように映画『すずめの戸締まり』は描かれてはいません。
あくまですずめは気持ちの良い瑞々しい人物として描かれ、要石のダイジンがなぜすずめによって外されたのかの理由も示されません。
このことが、
結局これ何の映画だったの?
良く考えたら要石を外したのはすずめで、それを元に戻すだけの、1人相撲で大騒ぎになってる映画にしか観客にとってはなってないんじゃないの?
という釈然としない感想も残る映画にさせていると思われています。
それは、この映画で表現されてしまっている暗い潜在意識から、新海監督が目を逸らせてしまっているのが理由だと、個人的には思われてはいます。
私個人は、いまだにセカイと私(あるいは大切な1人)とを単純に分けてしまう世界描写に大きな違和感を感じています。
初めから周りにいる具体的な人々の重層された心の深層を踏まえ、さらにそこから関係性を深める必要があると思われています。
人は表層で一見侮れる部分が見えたとしても、その背後に抱える矛盾は複雑で、どんな人も侮ってはいけないと思われます。
そして現実では、ミミズはちゃんとほとんどの人々には本当は深層では見えているのです。
そこへの眼差しを忘れてはいけないのだとこの映画を見て逆に思われました。
映画自体は、そこまで要求しなければ、映像と音楽の質の高さだけでも見る価値がある素晴らしさある映画だとは、一方では個人的にも思われました。