「外だけ立派で中スカスカ」すずめの戸締まり vanquishさんの映画レビュー(感想・評価)
外だけ立派で中スカスカ
興行的には成功するだろうがこの映画に感動できるのは正直24時間TVと同じ感動層なのだ。
浅い感動層でしか感動出来ない人がいる。これをターゲットにしている敏腕プロデューサーが川村元気だ。深い感動層に生きている人は数々の疑問と違和感と矛盾点に苛まれる。注意して欲しいのは感動層の浅い深いに優劣はない。おそらく浅い感動層の人の方が人生を生き残る確率が高い。ただ、浅い感動層の人と深い感動層の人は残念ながら分断されていて分かり合えない。興行的には☆の分布率を観れば一目瞭然圧倒的多数が正義だ。新海誠監督の初期作品群は深感動層をメインにしていたが、今では浅い感動層をターゲットにしている。私は馬鹿だから過去の想い出に引きずられて公開初日に見てしまった。もしかしたら戻ってくるのではないかと期待してだが。残念だが彼はもう戻ってくることはない。
以下 本作品の所感
◆廃墟るるぶ?
ストーリーは凡庸です。骨格が凡庸なものに最高レベルのキレキッレの筋肉でマッチョにしましたが無駄です。ストーリーの凸凹を史上最高レベルの作画という高級パテで厚盛し綺麗にホワイトニングした作品。
全国廃墟るるぶトラベルといったロードムービーなので、映画早送りで観ない層の私には全てセリフで説明してしまう怠惰で楽ちんでたまにはこういうのもいいのかも思ってしまった。
映画マニアはターゲットにはしていないので、マーケティングの勝利だよなと自分をだます。
新海誠監督は映画マニア的には悪い方向へ進化、間を潰して絶妙な川村元気チューニングで浅い感動層へ受けがいいかもしれませんが、ひねりが欲しいストーリーなのだ。
映画見た後あなたの心に何が残りましたか。
漂白された廃墟るるぶトラベル、綺麗な景色と躍動する女子高生とイス
うおぉんキチィ!思わずうなってしまう出来、悪くはないが良くもない。
なぜ失敗してしまうのか。映画の難しさと面白さの不思議。
◆イケメンの呪いとは?
本当はみんな気づいているだろうな。イケメンの功罪を。
想像してみてください。あなたの大っ嫌いな同性の、顔がいい男バージョンがイケメンの正体であることを。
心ある優しい正直な男性は「私、イケメン大好きなの」という女の子には分不相応だと反省して自然と離れていく心理と真理を。
そうです。開始数分で私の心はヒロインから離れました・・・
新海誠監督よキャラクターのキャラ嗜好が古いよ、そして男のやっかみですよ「イケメン」発言は多くの非モテの暗い青春を想起させるため長年の新海誠監督の弱点です。
暗い青春を送ったこの非モテの恨み辛みがイケメンをイスに変え、荒ぶる神シシ神となったのです。
ココから面白くするには宮崎駿監督でも無理です。
◆セカイ系の限界?
選ばれた男女によるセカイ救世主論という言わばセカイ系の独善性にはついていけない面がある。
セカイの命運と選ばれた男女の色恋は別の世界線で等価ではない。別の関係ない色恋沙汰があたかも関係していて、結局いつも被害を受けるのは我々なのだ。
頼むから別の小世界で色恋をやってくれと云いたい。私なぞはタンスに押しつぶされて死ぬモブキャラなのだ。
ちっぽけな人生であるが、どうせ死ぬなら抗いがたい圧倒的大自然のパワーとメカニズムによって葬られるべきだろう。
死を覚悟している人間に災害トリガーの恋心は不要である。モブキャラとして他人の恋心に巻き込まれて死ぬのはごめなんなのだ。
本当はみんな思っている。もう世界を巻き込むな、世界を救うために色恋禁止でお願いします。
ここら辺がセカイ系の限界なのだ。
廃墟になった景色にはモブな人々の生活が横たわり、自分は選ばれた男女の外側、モブ人間なのだという感覚がある。
だから、ある種の反感がこの映画についてまわる。私は開始数分でモブで殺される側の人間だという実感がある。
この実感、他の映画で学びました。
例えるなら、養豚場のブタが食肉加工工場で豚肉が見事に加工されている過程を観て感動している状態なのだ。いつか我々も被災するかもしれないのに安全な位置でファンタジーとして感動していていいのだろうか?
◆この映画の本質とは?マッチポンプと人的要因
この映画の本質はマッチポンプ巫女ロードムービーといってもいいと思います。岩戸鈴芽の岩戸姓が九州宮崎県の天岩戸神話がモチーフだろう。
現代では天鈿女命(あめのうずめのみこと)の「うずめ」が「すずめ」に変換されているようだ。元来「うずめ」は舞踊をつかさどった巫女(みこ)の意とされるから、「君の名は」や「天気の子」に続く巫女三部作だろう。
巫女が誤って封印を解いて全国封印行脚という身も蓋もないストーリーだ。戸締りの原因はすずめの知識不足による過失により引き起こされ「後始末」をしたに過ぎない。これは壮大なマッチポンプだろう。
また、そもそもの大地震のはじまりの原因は「過去の巫女または閉じ師が戸締りに失敗した人為要因」であったということになってしまう。
天災は天災であった方がいいのでは?
ここら辺の疑問が常についてまわります。失われた命は天運、神の領域であったほうがいいと思います。
この考えがあるため私はなんともいえない気持ちになった。遺族の心情を慮るとまだ数十年しか経っていない。
もはや災害系ファンタジーを描くのは限界がある。
我々は災害大国の国民であり、まっさきに災害難民モブキャラになるのを分かってしまった。
それでも生き残っている側は明日を生きていかなければいけない。死人に口はないからモブキャラは養分となって支えろと悪魔的な冷徹な経営判断がされている。サイコパスでない限りこの興行は行えないのだ。叩かれ慣れている経営者としては一流だろうし、狂気の表現者なのだ。
つまり、新海誠監督のサイコパスな面が見えてくる映画だった。大人の事情かすごいスポンサーの数だな。
自己弁護のように劇場配布された新海誠本に「観客の中にも、この映画を観ても震災を連想しない方が1/3から半分くらいはいるんじゃないでしょうか」とインタビューで答えているが2/3以上は震災を連想せずに感動できる層だと思う。この見通しは正しいと思われる。
君の名は以降の新海作品は中空構造であり、中身は何もない。あるのは感動できる空間を提供することで中身は何もないゆえの自由がある。あるのは綺麗な空間という側だけで、物語も左大臣と右大臣がいて中心は「ない」のである。「ない」ことの強みは観客の感動したいという気持ちが置けるのである。だから、感動したい気持ちがあれば感動できるという非常に高効率な映画なのだ。異性に惹かれる心理面の描写が「ない」から、その証拠に「イケメン」という外側重視の言葉がたびたび登場する。あれだけ動き回っていたすずめも性格がよく分からない子になるのは中身が「ない」のだ。その中身は鑑賞者に委ねられている。実は震災も空間という構造物だけで「ない」のである。だから、当事者感がなく観れるのである。すずめの母親の死も「ない」ものとして扱い、イスを作った母の想いを描かなくてよくなったのである。深い感動層に生きる者はイスは母の思い出の象徴であるのに、イケメンにすり替わる理由は震災を「ない」ものとしたい制作者の企みに気づく。中空構造の物語は現世に生きる観客の気持ちを中心に据えなければ空中分解してしまう。母親の過去、亡くなった原因、亡くなった描写、幼いわが子を遺して逝く母の気持ちをノイズとして処理してしまう恐ろしい企みなのだ。震災を描いているようで描いていない欺瞞に気づく。すずめの母は看護師で亡くなったのは病院の患者を最期まで守るためだろう。容易に想像がつくのに中身が空っぽなイケメンにすり替えたのは冒涜と取られても仕方がない。
このように中心にあるのは現世に生きる移り気な観客の気持ちであり、浅い感動層に生きる人はこの映画という入れ物が耐えられる。反対に深い感動層に生きる人はこの映画という入れ物が耐えられないし、中空構造に気がついてしまう。評価が低い人のレビューが読ませてしまうのは中空構造の欠点を種明かししているからだ。ここまで「ない」ことの魅力をみせてくれる作品はそうそうない。しかも、上記のように円環構造にもなっていて奇抜な中空円環構造物語といえる。
例えるなら、ドーナッツ構造の物語は浅い海に住む人たち浮き輪となって楽しませるだろうが、深い海に住む人たちに届く前に水圧で圧壊してしまう。繰り返しになるが感動層の浅い深いに優劣はない。しかし、浅い感動層にいた方が圧倒的にコストパフォーマンスがいい。また、すぐに感動出来る方が生き残る確率が高くなる。深い感動層にいる人は浅い感動層にいる人がうらやましいのだ。だから、新海作品に苛立ちを覚える。その苛立ちも「ない」構造の新海作品には意味がないことが分かるだろう。あるのは移り気な観客の気持ちであるのだから夢や幻と同じだ。鑑賞後に奇妙な空しさを覚えるのは対象年齢を過ぎた幼児用おもちゃに似すぎた構造の種明かしから覚める感覚がその正体だ。それはもっと複雑な映画(おもちゃ)にステップアップするサインだ。
>この映画に感動できるのは正直24時間TVと同じ感動層なのだ。
なんとなくモヤモヤ思っていたことを一言で表現。
別の表現でいうと
砂糖やメイプルシロップがたっぷりかかったパンケーキを食べて「甘い!!おいしい!!」って素直に言う層