「すずめさん、日本を救う」すずめの戸締まり 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
すずめさん、日本を救う
冒頭、九州弁が行き交う教室の中でただ一人標準語を操る少女。山と海に囲まれた宮崎の田舎町で、なぜ彼女だけが標準語なのか?この些細で丁寧でなおかつ巧妙な違和感を種火に、物語は地理の横軸と歴史の縦軸を繊細かつダイナミックに往還する壮大無比なファンタジック・ロードムービーへと展開されていく。
草太や鈴芽が行う「みみず」の封印作業(=「戸締まり」)は、言うまでもなく地理からも歴史からも忘れ去られた人々の鎮魂に他ならない。草太と鈴芽は「みみず」の噴出する扉に身体を預け、そこにあったはずの無数の声を聴く。そうすることによって声たちは美しい雨粒へと浄化され、街一帯に降り注ぐ。ここで破壊や抑圧といった暴力的手段に訴え出ないのが偉い。
さて、「みみず」を地震のメタファーとして用いる作品といえば、新海が敬愛してやまない村上春樹の『かえるくん、東京を救う』が真っ先に想起される。『かえるくん』もまた阪神・淡路大震災への鎮魂という射程を明確に持って執筆された作品だ。本作は「かえるくん」が「閉じ師」に、「阪神・淡路大震災」が「東日本大震災」にそれぞれスライドした「みみず」鎮魂物語の再演だといえる。
本作では今までのように村上の滑らかで感傷的な語り口だけを体裁よく取り込んでいた新海作品(『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』など)とは異なり、村上春樹の抱いていた文学的使命がダイレクトに継承されている。身が引き裂かれるような惨事に直面したとき、文芸にはいったい何ができるのか?文芸を成す者として何をすべきなのか?阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件を契機にデタッチメントからコミットメントへと作風を大きく転換した村上春樹の懊悩と決意を、本作において新海はきわめて実直に受け継いでいる。
たとえば彼は劇中で幾度となくあの忌々しい災害アラートを鳴り響かせた。人によっては二度と聴きたくないであろうあの音を。しかしそれは物語をとりとめもない空想として雲散霧消させないためだ。大地震を「みみず」に置き換えたうえ、その接近を知らせる警鐘までもをメタファーに置き換えてしまえば、物語は単なる観念の遊戯以上の射程を持ち得ない。それゆえ、空想の遠心力に現実の求心力を吊り合わせるためにも、実際の災害アラートを繰り返し鳴り響かせたことには大きな意義と必然性があると私は考える。
ただ、そうはいっても当事者でない一介のクリエイターや我々観客が、東日本大震災とその被災者というセンシティビティに留保なくコミットすることはできない。新海もその辺りはよく理解しており、それゆえに芹澤という不思議なキャラクターが存在する。芹澤は劇中でしつこいくらい良心的人物であることが強調されるが、そんな彼が東北のかつて市街だった東北の草原を見て「このあたりってこんなに綺麗だったんだな」というグロテスクな所感を漏らす。どれだけ良心があっても、どれだけ細心の注意を払っても、当事者の心の深淵に直接触れることは決してできないのだという新海自身の自戒にも似た線引きが、芹澤というキャラクターを介して行われている。
さて、空想世界から現実世界への転向という点に関連して、彼は今や完全にセカイ系の呪縛を脱したと考えてよいと思った。新海誠といえば『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』と並び立つセカイ系の代表作『ほしのこえ』の制作者であり、それ以降も「ぼく-君」の閉ざされた関係の中で成り立つ自涜的な作品を乱発していた。しかし『君の名は。』を境に、彼は明らかにセカイ系の不健全な自閉性から逃れ出ようもがきはじめる。セカイ系の元牽引者である彼にとっては、それは自分自身を真っ向から否定する絶望的営為に他ならない。それでも彼は苦闘を続け、『天気の子』では遂に「セカイ」側による「ぼく-君」的自閉性の無効化を達成した。
帆高と陽菜が自分たちの愛を優先したことで東京は永遠に雨の止まない街(=ある種の終末世界)に変貌してしまった。しかしそこには絶えず無数の人々がいて、無数の生活を営み続けていた。過度な感傷に浸る「ぼく」と「君」に対して、「お前らの愛がなんだ?お前らなんかいてもいなくても俺たちの人生は続いていくんだぜ」と冷静に諭してやった。それが『天気の子』という映画だ。
そして本作ではさらにその先の倫理が描かれている。物語終盤、鈴芽は鎮魂の最終段階として、自らも母親を喪った東日本の故郷へと向かう。鈴芽は帆高と同様に、世界の命運or個人的な愛のトレードオフに直面させられ、最終的に後者を選択する。それによって要石を解かれた「みみず」は常世を抜けて現世に現れようとするが、鈴芽と草太がこれを食い止める。このときの草太の叫びはきわめてクリティカルだ。
いつか死ぬとわかっていても、それでも一分一秒でも長く生きていたい。生き続けていたい…
無念と後悔の中で命を断たれた無数の声に耳を傾け続けてきた彼だからこそ、自分自身も「要石化」という形で死を経験した彼だからこそ、その願いはことさら痛切な響きを帯びる。どちらを選ぶべきかというアポリアを、ただ生きたい、生き続けていたいという強い願いが圧倒する。それは「草太の死」か「世界の破滅」かという二者択一そのものを貫通し、一切合切を躍動的な生へと突き上げる。「みみず」は鎮魂され、鈴芽と草太は現実世界に帰還を遂げる。
留意すべきはこの「生きたい」が、「(誰もが)生きていてほしい」という外向きのベクトルを併せ持っているということだ。「戸締まり」と日本縦断の旅を経て、二人は他者というものの重みを知った。そして他ならぬ他者によって自己の存在が定立されているということも。鈴芽は東日本大震災によって母を喪ったトラウマを今なお根強く抱いているし、草太は鈴芽がいたからこそ「要石化」=死の呪縛から逃れ出ることができた。あるいは二人が「みみず」の内側で聴いた無数の「行ってきます」と「行ってらっしゃい」。それらは「おかえり」「ただいま」という応答を迎えられないまま途絶し、ゆえに「みみず」に姿を変えて暴れ回っている。したがって彼らの「生きたい」には「生きていてほしい」という他者への祈りが不可避に含まれているといえる。
自己を開き、他者世界と積極的に関わっていくこと。それはちょうどセカイ系の「ぼく」と「君」が閉じられた世界の中で己の自意識に終始していることの裏返しだ。
新海誠のこうした自己反省のダイナミズムは、我々に以下のようなことを示唆してくれる。それは、自分の過ちや後悔を振り返り、見つめ直し、再練する機会は万人に平等に開かれているということだ。そういった意味では本作の鈴芽と新海誠には少なからず重なる部分がある。鈴芽は事情を知らないとはいえ他ならぬ自分の手によって「扉」を開いてしまい、それによって現世に「みみず」が解き放たれた。鈴芽は自分の過ちを深く後悔する。しかしそんな彼女の後悔に対し、物語は「戸締まり」の旅という反省の道筋を優しく示す。
近年では加害者と被害者の関係性において加害者を極端に矮小化する言説をよく見かける。要するに「いじめた側には何も言う権利はない」みたいなやつだ。ただ、そうやって反省の契機さえ奪われた加害者が向かうのは自罰の究極形としての死か、あるいは逆ギレ的な憎悪の発散しかない。それゆえ新海は問う。「それが本当に正しいことなのか?」と。これはともすれば「いじめられる奴にも原因がある(だから加害者を許せ)」的な傲慢にも取られかねない危ういものだ。しかし他ならぬ新海自身がセカイ系から他者との関係へと真摯な更生劇を演じた元罪人だったからこそ、この言説は信用に足る処方箋として我々を治癒してくれる。
さて、新海誠の反省の旅はいったいどこまで続くのだろうか?次は何を相手取って乗り越えてくれるのか。彼の創作的葛藤の痕跡をこれからも辿り続けたいと思う。
あささん
コメントありがとうございます。
「かえるくん」が収録されている『神の子供たちはみな踊る』とオウム事件のインタビュー集『アンダーグラウンド』を通じて村上春樹が果たした思想的転換を、新海誠もまたなぞっているんじゃないかな〜と思いました。
というか「俺は今からなぞるぞ!見てろ!」という決意表明、みたいな感じでしょうか笑